という言葉を河瀨直美監督の東大入学式の祝辞を読んで思い出した。ナチスの将校にも、大日本帝国の兵士にも、自分たちの行為を正当化する「内在的論理」があった。
だからこそ、それを悪魔化して切り捨てることなく、真摯に分析して、過ちを繰り返さないために再び社会に包摂していくというプロセスが必要になる。
ロシアという国もいずれは国際社会に復帰し、そのようにして再統合される日が来るだろう。
しかし、彼らの主張を他の正義と同じ水準に並べることには慎重でなければならない。なぜならそれは彼らの蛮行を正当化する主張に力を与える行為に他ならないからだ。
河瀨監督の真意はともかく、その語りの重心が「悪魔化された対象の包摂」よりも「ロシアの蛮行の不用意な相対化」に傾いていることは否定しがたい。
ひとりの宗教家の「あれらの国の名前を言わへんようにしとんや」という遠回しな言葉を引用するとき、「ロシア」「ウクライナ」という具体的な国名があえて補われている。
そして「その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら」と相対化を試み、「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」とダメ押しが加えられている。
が、「ものの本質」が何なのかという具体的な説明はなされないまま、語りは「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです」という一般論的な自省へと流れていく。
ここで分かるのは、「ロシア」と「ウクライナ」は一見するとまったく具体的な固有名詞のようだが、このテキストでは単に「同じ水準で対立する2つの正義」という抽象化されたアイコンにすぎないということだ。そしてそのような使われ方によって、両者の「正義」の対立が同水準であることが暗示されてしまっている。
また、ロシア悪玉論を揺さぶるオルタナティブな視座として提示されているらしい「それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」という問いかけは、実のところは開戦当初から繰り返しメディアに登場してきたものだ。
これもまた「ロシアを悪とする議論はこのような基本的な問いかけすら踏まえていない」という誤った矮小化を導きかねないものだと思う。
河瀨監督がミスリーディングを意図したとは思わない。だが、このウクライナ問題の扱われ方は、同じ祝辞の中で語られる「たった一つの窓から見える光景を深く考察すれば、世界に通用する真理に到達できる」という世界観の限界をまざまざと示している。