はてなキーワード: 右から左とは
僕と彼の行っていた大学は近くに名のある寺があり、そこに文豪や歌舞伎役者や芸能人の墓があった。
彼は雪深いところから進学のために上京してきたが僕と幾人かの家にこもりがちな友人を作った他はその寺をうろうろとしていたようだ。
僕は何度か彼のうろうろに付き合って道道に彼の今日の訪問先の説明を聞き、かの有名な誰それがまでは面白く感じていた。
しかしいざこの墓石の下にその人の骨があると言われても大して楽しくはなかった。
野球選手やプロレスラーだか格闘家だかの墓となると僕はもうさっぱりわからないので、そうなんだ、へえ、そうか、はあん、などと相槌を打ちつつ右から左に流して歩いた。
彼はそこそこに稼げるアルバイトを見つけてから国外にも足を伸ばし、あちこちの墓の写真を撮っては内輪の会話にアップロードしていた。
四年になりめでたく内定ももらって日がなだらだらしていた頃、僕でも知っているような高名な哲学者の墓に行くと彼が言い出した。
しかしその墓のある国は少し思想や治安が日本と異なり、またその場所自体が割と政治的係争のあるところだった。
僕は友人と飲みに連れ出してやんわりと今回は危ないのではないかと言ったが、意に介してもらえなかった。
彼は日本人が物見遊山では行かないような国の名前を出して今までもあそこやどこそこに行って大丈夫だったと言う。
僕は彼の素気なさに、酒が入っていたせいか日頃の色々が積もっていたせいか苛立ち、怒りを爆発させてしまった。
店の中で大声を出して友人に雪の降る店外に連れ出され幼児のようにぶんむくれた僕はそのまま地下鉄に乗って帰った。
それが彼と会った最後だった。
スーツを着て内定式に出て多忙な日々を過ごし慣れた頃に結婚し程々に幸せを理解してきた頃、彼の訃報が舞い込んだ。
彼は雪深い故郷の病院でお母さんと従弟に見守られて息を引き取ったそうだ。
僕は物見遊山を口実にして妻を旅行に連れ出し、最終日に日帰り温泉に行かせてひとり彼の墓を参った。
彼の骨はその墓石の下にある。
しかし大して楽しくはなかった。
彼はまだあの哲学者の墓の前にいる、僕はそういうことにした。
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
本日はミクルマス、アルゼンチンではアルゼンチンで亡くなった発明家ピーローラースローの誕生日を由来とした発明家の日、日本では9と2と9で出来そうな語呂合わせでいろんな記念日が作られています。
犬の名前ばかり出してるから狗肉の日とか無いかなぁとは思ったんですけれど
まぁ元々いい意味では使われてないのでわざわざ作らないでしょうね。
そういえば苦肉の策って元々の意味合いとしては「自分自身を傷付けることで敵を欺く作戦」の『苦肉計』から来てるらしいですね。
だからつまり自分にとって大切な資本である時間を使ってこんな日記を書いてる私は常に苦肉の策を弄していると言えなくもないかもしれませんね。誰を騙すつもりだ?
苦し紛れです。
冷静に考えたら朝礼に見せかけて頭ごなしに苦し紛れな日記を書いてるのはまさに羊頭狗肉なのでは?
朝頭苦日記だわガハハとか言ってる場合じゃないな、でもまぁ朝礼で言ってたことの大半って右から左だからセーフだろガハハ
ということで本日は【配送場所の確認よいか】でいきたいと思います。
こういう話になると
「労働者はマニュアルに書かれてあることをその通りにやればそれで満点。
それで足りないならマニュアルが悪い!管理者が悪い!経営者が悪い!!
俺たちは悪くない!!!」
みたいな人が大量に湧き出てくるけど、
そもそもそんな完璧なマニュアルが存在すると思えちゃう時点で、
「物を右から左に動かすだけの単純作業しかしたことない人たちなのかな・・・」
という気分になる。
マニュアルに書かれてることってたいてい複数の前提条件の下でのマニュアルなわけで、
現実に起こり得る全ての状況への対応が書かれてるわけがないんですよね。
だから「いろんな状況あるけど、9割はこういう対応しておけば大丈夫」ってのがマニュアルとして採用されるんだけど、
その他の1割への対応だって、なぜマニュアルにこういう作業が書かれているのかを理解できてれば対応できるんですよ。
そんでそれを理解するのは別に難しくないわけ、ほとんどの人は経験積めば理解できるの。
でもそれを理解できない人たちがいて、そういう人たちは1割のイレギュラーな状況の中でもいつもどおりのマニュアル対応しちゃうわけ。
おれは新幹線に乗り、家へ帰る途中だ。
通路を挟んで隣の席のモンキー・ボーイ達は、乗り込んでからずっとしゃべりっぱなしだったが、話すことが無くなったのか、やっと静かになった。
やれやれ、とおれはトイレに立つ。あと1時間、席に座り続けるには、途中でトイレに行って、ついでに通路で少し足腰を伸ばす。これが一番だ。
男用のトイレには鍵が無く、ガラス越しに通路から背中が見える。少し不安なポジション。だが臆せず、おしっこの放物線をイメージする。アクション。初め、勢いがない日本のラインを描きながら、徐々に回転し、ついに一本の美しい弧を描くことに成功する。
トイレのライトは真上から、おしっこを照らす。そして気づく。おしっこの影。おしっこが便器に当たる直後、弾け飛び水滴が周りに散る。おしっこと水滴の影。まるで線香花火だ。形を変えながら弾け続ける、儚い夏の夢。美しい。
新幹線の外は激しい雨だ。窓の水滴は、真横に流されて尾を引く。右から左へ、時間の流れを表す直線、タイムライン。この夏は一度きり、過ぎ去った時間は戻らない。
単純に自分達に有利に働く力や、利益が自民党を支持していたら得られるんだから、そりゃ簡単に野党にはなびかないよなぁと感じる。
与党を覆すにはあまりにも日本は狭いし、野党の力が無い気がすると感じるれいわ、国民民主党支持者です。
この間妻の田舎に帰った時に義父に聞いた話だと、そこはとある自民党の議員が凄い力を持っていて、地元の人の要望に実際に応えている実績があった。
要は施設や建物の修復等、大規模な事業と呼べる内容で、それに関わる業者は利益があり、支持しているからこそ発注が来たと。
そして住民は喜ぶ。
義父も私も野党支持だが、果たしてこういう田舎で野党の議員が理想論を並べただけで票を獲得することができるのか?と。
2人して頭を抱えてしまった。
農家や漁師や地元の建築会社に「野党を支持するメリットはあるのか?」と聞かれた時に、例えば憲法を改憲を止めさせて、9条もそのまんまで、消費税は下げるもしくは0にする」と返しても、
「そんなもんうちらの得にならん」とそっけなくされるだけ。
田舎でLGBTや9条やそれ以外の問題を提起しても、「都会的」な問題として右から左。
極端だけど、100年後に達成される理想より、今に目を向けている人が多い。というかほとんど。
田舎であればある程そういう傾向にある。
夫がコンビニ店員にかなり入れ込んでいてやばい。その店員のXさんはお客さんに対してニコニコと愛想の良い若い人だ。
優しく世間話をしてくれる彼女に片思いというかかなり執着していてやばい。コンビニで客と店員として話すだけの接点しかないのに「アイツはオレの事が絶対好きだ」とか、「今日は話せた。Xちゃんと食事に行きたい」とか逐一私に報告する。非常にめんどくさい。
20歳も年上のオッサンに彼女はあくまでも[よく喋る常連さん]として接しているだけだから距離感を誤るなと私は夫に何度も諭しているけど、異常に彼女に踏み込みたがる。
コンビニでXさんにつれない態度を取られると帰って来て泥酔して毎日私に八つ当たりするようになってきた。
「オレの心に一方的に踏み込んで来た思わせぶりな態度を取るアイツが許せない」らしい。まじで怖い。酒の量も暴言暴力や被害妄想も悪化していてだいぶやばい。
夫は私がXさんに嫉妬しないのがおかしい、嫉妬しているならコンビニに怒鳴りこんでXさんに文句を言えとわめいて来る。
ただの客と店員の関係で一方的に執着して勝手に落ち込んでいるのは夫なのに、何故Xさんに私がそんな事をする必要があるのか。それが夫の言う誠意らしい。意味がわからない。
私は暴言は右から左なのでメンタルにあまり影響はない。身体のデカい子供が自分の思い通りにならなくて癇癪を起こしているようななものだ。力では勝てないから困るけど。
ものすごい形相でよだれ垂らしながら目の前で喚き散らす。もう人じゃない。
多分愛着障害とか発達とかそういうのだと思う。度の過ぎた構ってちゃんで夫への接し方がわからない。
憐れな人だなという目でしかもう見れない。
夫は自営の単独仕事で、社会との接点がそのコンビニくらい。完全に独りになったら無敵の人になって周りに危害を加えそうでそれだけは避けたいけど本当にもう手に負えない。
泥酔してさんざん暴言吐いて寝て夜中に起きて、コーヒー飲んで暗闇でスマホ見て自分から寝れない状況を作ってるのに寝れない!とか言って怒ってる。
病院に行こうと言っても、オレの心のケアを放棄するのか!とキレるのでなんかもうどうしようもない。