はてなキーワード: 分断統治とは
弱者男性論を唱えてる奴にクズが多いことをまず認めた上で言うけどさあ、
これフェミニストは被差別者属性の男性との連帯なんてまっぴらごめんだって話にしかみえないけど。
だいたいアカデミシャンすらミサンドリーもフェミニズムと肯定してきたのを実際何度も見てきたけど、
その結果トランス女性にフェミニストたちがどういう仕打ちをした?
男性児童を去勢しろという言説に対しフェミニストは何をしてきた?
構造的問題と言いながらヘラヘラと宗教という差別の構造そのものと戦うどころかプロテスタントと連帯し、
女性の美少女系ジャンルの作家の作品どころかセクシャリティすら否定してきたのはどこの誰だよ?
ずっと批判されてるのはフェミニズムというよりもフェミニストが構造的差別に加担してることなんだけど
いつまで自分たちが無謬であることを前提とした物言いし続けるの?
死ぬまでやめないの?
バカみたいだよね
なんでお互い弱者だねと労りあえないの?ごくごく単純に、手を取り合った方が幸せじゃない?
構造課題なり巨悪のラスボスにどうアプローチするかを考えたほうがマシでしょ?
すごく分断統治されてるみたい。なんで悲しみの再生産を進んでやるの?
ひょっとしてさ、差別という深刻な問題があるというより「見識の狭い・度量の小さいやつらの周りにはいつも問題が起こる」てことなのかな?
コミュニケーションがこじれて、互いに苛立って、小さな傷でも負えば看過できなくて、相手の攻撃を最後に事を収めるなんて我慢できなくて、そして疲弊するまで潰し合うんでしょう?
それをやっている自分は、とても醜いと自分自身で思わない?「でもでもだって相手が悪いんだもん」ってか?
そんなふうに幼稚で未成熟なのに、飛び交う語彙が思想的で漢語的だったり横文字だったりして、自制を欠いて知性を伴わないのに聞きかじりの語彙で徒手空拳に抽象的な概念に挑戦してるように見えるの
分断統治って知ってるか?
その2後編
俺はこの数年間の映像ソフト業界(円盤屋)とツタヤ・ゲオ双方大元が自己満足でやってきた事にもう完全な怒りが収まらないレベルなんですよ。
日本は戦後に内輪で固まって馴れ合うようなことを学校や家庭の教育で叩き込まれ、
それで外部の事を卑しみ、内輪の受けを尊ぶような事になってしまいましたよ。
そんなこと4年も続けてきたら
俺が腐夢コンテンツ関連を弱小どころか有力者タイトルにすら嫌悪感を抱き、
シリアス関連新規でメイアビ・宝石・VEG・盾の勇者について心を本格的に開くのが遅くなる様な考えになるのも当たり前なんですよ。
この汎人類史が間違えた歩みをしている、ということ考えるのも当然の事だよ。
事実上腐夢なろうどころか全部の日本製エンタメを敵に回してるよう組織になったんだぞ?
ジャンルの枠を超えてこの様な脅威に立ち向かうために結託しなければならない、
けどね、あなた達円盤屋が4年間にやってきたアニメレンタル作品チョイスは分断統治同然のものですよ…
ARPやオカルト公務員等弱小どころかヒプマイ等有力クラスの腐夢コンテンツにも憎しみを植え付けるような事をしてきたのですよ…
地方のレンタル屋踏み台にして何がアニメ業界の繁栄なのですか?ばかばかしいですよ。
だが俺にとって友好コンテンツ側にあるまんがタイムきらら関連でも雲行きが怪しく感じられます。
特に無印きららはスロウスタート最終回以降新規のアニメ化原作が一つも出てないのですよ?
重大な事態だろ。攻めて新企画としてキャラ全員ケモ耳で色気満載ギャグ満載で百合ゆりな漫画を新連載して欲しい。アニメ化・単品ゲーム化企画前提で。
わかってしまうのが辛い。だからこそ小児性愛者に味方したいとは思うけど、一方で、LGBT系の人々が「小児性愛者と一緒にされたくない」と言ってしまうことも責められないだろうとも思うんだよな。まあ歴史を見ると名誉白人とかカポーとか、そういう分断統治が虐待を悪化させた事例は少なくないが、LGBT系の人々が「他のマジョリティ以上に」小児性愛者を差別しているような実態は少なくとも今のところ見たことはない。マイノリティ同士で争ってる場合じゃないだろう。異性愛を批判しよう。成人性愛を批判しよう。
俺も小児性愛者が主人公の漫画描いた後に「まぁ俺は小児性愛者ではないですけどね」「え、普段ですか?オスの犬とかに欲情してますけど」「二次元ではロリいけますけど、いや小児性愛者ではないです」とエクスキューズ連発してたんで、小児性愛者と同一視されると社会的に困るって気持ちはわかります。— Naoya (@Naoya_Starlight) May 22, 2020
河野 真太郎氏の私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々
これが分断統治であるということの意味は、「教養対専門」の対立は、「大学改革」を押し進めるための人為的な対立だ、ということである
これは事実に反すると思う。「教養対専門」の対立は「大学改革」を押し進めるための人為的なものではなく、新制大学発足当初からある構造的なものである。そして、大学設置基準の大綱化を奇貨として大学側が旧教養部を解体したことで、むしろその対立が緩和されたと考えられる。
例えば、平成10年の大学審議会の議事録に以下の認識が残されている。
△ 教養部再編の時に各大学が積極的になったのは、教官グループ内の差別がなくなるということがインセンティブになったから。これから、大学院専任と学部専任という仕分けができてくるとすると、教養部の時に一度解決しているのに新たな差別を持ち込むこととなり、非常に強い抵抗があると思う。
また、旧教養部の成立から解体までを詳しく分析した第3章 教養部の形成と解体 一教員の配属の視点から 吉田文は、大綱化の背景を以下のように要約している。
P.61
一般教育に関わる規定が大学設置基準から消えた背後には、一般教育そのものに対する大学内外からの批判や不要論よりもむしろ、一般教育のみを担当する教員やその所属組織の存在に対する大学教員自身の卑下と格差解消の願望の歴史があったといってよいだろう。
もちろん河野氏も「とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった」と述べてはいるが、ではその対立とは一体どんなものだったのか。
P.65
民主化の旗手のようにいわれて新制大学に導入された一般教育であるが、専門教育しか行ってこなかったうえに、新制度下の組織編成も専門教育を行う学部が中心であった旧制度下の大学には、一般教育の根付く場がなかったのだといってよい。新制のもとでの教育がスタートしてわずか数年のうちに一般教育の座りごこちの悪さは、どのようなタイプの大学にとっても問題となって、それぞれの方式で解決策を見出そうとした。
で、一般教育の座りごこちの悪さはどのようなものだったかというと、
P.66
こうした(引用者注:教養部を法制化して学部と格差を埋める)要望が出されるに至った背景には、教養部が劣悪な教育・環境条件におかれていたことがある。名古屋大学の場合では「学部だと・・・文科系で教授三十二万五千円、助教授が十七万円。・・・理科系になると教授百二十三万円、」助教授でさえ七十五万円になる。それが、教養部となると、教授でも文科系が十三万五千円、理科系四十四万七千円。とても学部助教授諸君の足元にもよれない。」(名古屋大学、1989、p. 250)といった状況が記されている。こうした物質的な条件格差に加えて、「ごく最近のことだ。全学教授が顔をそろえた席上で『大学ではねぇー、こんな風にやっとるんだが、教養のはどうだね』と、・・・教養部の教授たちは、さぞくちびるをかみしめたことだろう」(名古屋大学、1989, p. 251)というような、条件格差を身分格差とみなすような日常が教員間には醸成されていたようだ。
このように、大綱化のはるか前から深刻な「教養対専門」の格差と対立が存在したのである。上記の名古屋大のエピソードは1950年代後半から60年代初頭の間のものと思われるが、そのエピソードをわざわざ1989年発行の大学史に載せるぐらいだから、大綱化直前の大学内の空気を推して知るべきだろう。そして、大綱化によってカリキュラム編成の裁量拡大が大学側に与えられ、このような格差を是正するために旧教養部を解体することを大学教員側が決断したのである。
ツイッター上には大学設置基準の大綱化によって旧文部省が大学の教養教育を破壊した、という言説が蔓延っている。しかし、教養教育を破壊したのは1990年代の当の大学教員側である。「教養対専門」対立に関する河野氏の主張も含めて、これらは大綱化を巡る歴史修正主義ではないか。