うんちは腐敗してるだろ
「なんで今日パンツはいてないの?」「すみません、すぐパンツはきます!」「いえ、パンツをはいてほしいわけではなくて。どうしてパンツをはいていないのかが知りたいので、教えてもらえるとありがたいのですが」「本当にごめんなさい。大至急パンツをはきます」とはならないから、問題ない。
最近はツイッターで発信する人もいるけど、まだ認知度は低いね。難しい問題だから触れづらいって所もあるからなあ…
親族は儀式に従っていれば思想は押し付けてこないタイプの信者だったけど、強気な信者が身内だとキツいだろうと思う。
経済的損失はそれなりにあったよ。
毎月「感謝のお金」を払ってたのを覚えてる。霊力のある(らしい)ペンダントも月額契約されてた。
人に話したり書いたりすると客観視できて助かる。
私はアニメが好きだ。絵が動くのは見ていて楽しいし声優の声も良い。だが、最近のアニメは物語が恐ろしくつまらないため観る気がしない。物語の中にどこかで見たような量産型美少女とメンタルが弱い少年しか出てこないのはなぜか。一休さん、コブラ、シティハンターのようなアニメはもう観られないのか。
ここ2年くらいずっと水族館に行きたいと思っている。
だが、ずん飯尾のペコリーノ水族館回を見ていたら切ない気分になった。
上野動物園の常同行動をするシロクマや背中を向けて笹食ってるパンダを見るのも哀しい気持ちになる。
北極の氷が溶けて狩りをするのも苦労しているやせ細ったシロクマと、どっちが幸せなんだろう。
なんでなんだろう。
それでもコツメカワウソが差し出す手に魚を載せたり、連なって歩くペンギンを見たり、象が吹き掛ける水を浴びたりしたいなあと思う。
わがままだ。
50代の父親が末期がんで亡くなって1年が経った。
ホスピスに入院して最後の2週間は、自力でトイレも行けず、食事もできず、体力がもうほぼ無いのに胆液と胃液と血液が混ざったどす黒い物体を1時間おきに吐いてて、まとまった時間は眠れないようだった。
なかなか思ったように死ねないなあ、と呟いてた父の姿は多分一生忘れられないと思う。
そうしてるうちに、お医者さんから最期のタイミングまで睡眠薬で眠らせることもできると提案された。
ただ、人間は朝起きて夜眠る生き物ですから、あまりお勧めはしませんが奥様と娘さんの判断にお任せしますと言われた。
父の言葉を聞いていた私に迷いはなかった。
結局、父は睡眠薬で眠り続け、最期に少しだけ覚醒して、とても優しい響きの言葉にならない声を母と私にかけてから安らかに眠った。
苦しい思いはしたくないと言っていた父の希望を最大限汲み取れたとは思っているけど、それでもあのタイミングで睡眠薬を使うことが正しかったのかどうか、そもそも正しさなんてものさしで計ること自体間違ってるのか、
(じっくり廃人が出来上がりそう…)
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。
『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたとき、マジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネな意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。
『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノが監督した作品が、ドラマの1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。
なんてことをメモしていたら、タランティーノに子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二に子供が生まれたり、タランティーノに子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。
といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。
というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプなフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい。
書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたとき、ある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノがドラマシリーズを制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノが劇場用長編映画をデジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。
タランティーノがつくるNetflixのドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言が最近あった。自身の監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダ、アルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストーリーについての妄想を語っていた。
①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合のストーリーになるだろう。
②ビルはいかにして巨悪となったか。エステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔的人物のオリジンを描く物語。
③ハンス・ランダはナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件を解決してゆく物語。
④アルド・レインは戦後どうなったか。教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。
なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分の作品世界を相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノ・バース」だ。もちろんタランティーノの世界がMCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストーリーはすでにコミック化されていることだし、劇場用映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセント・ヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。
で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
話を元に戻そう。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画、タイトルからしてこの有り様なものだから、映画監督クエンティン・タランティーノのいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスターや予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からはほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。
タランティーノは、過去の映画や音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分の映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかにタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングなものとして消費された文化の「エキサイティングな感覚」自体をそのまま現在に再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノの映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からは郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端。
「くれぐれも勘違いしないでもらいたいのだが、これは決して不純な動機からではなく純粋な知的好奇心からの質問なのだが、なんで今日パンツはいてないの?」
相変わらず変態やんけ
徐々にノーオタクデーの回数を増やしていって体を慣らしていく。
はしの先に目立たない突起があるやつもあるから百均で探してみてはどうか。
たまにポロッと落ちてしまうストレスが無いことがこんなに快適なのかと感動して家の箸を滑り止めがあるタイプに全部買い替えたマンより。
「やめなきゃ…でも感じちゃう…!」
みたいのを読みたいのに、三話目になるとアヘ顔とか淫語とか腹ボテとか完落ちになってしまって俺のストライクゾーンを外れてしまう。
しかし続きモノを読まないのも気持ち悪いので買ってしまうのだった。展開は同じで良いのでどんどん別キャラでやってクレメンス。
怖い。どうしたら回避できる?
オタクであることが唯一のアイデンティティだった人が、オタク対象への熱が冷めるとかなり悲惨。
昇進や勉学、他の趣味、結婚・子育てなどポジティブな理由でやむなく、とかならめでたく真人間に戻れる良いチャンスだけど、
ブラック労働、低収入、親の介護、闘病、非モテ、加齢による体力や意欲の減退など出口の見えないネガティブな理由だとマジで廃人一歩手前。いわゆる燃え尽き症候群。
そして、オタク趣味無しの自分がいかに空虚な存在か、オタク趣味そのものが単に無益で野放図な消費行動に過ぎなかったか、という事に気付いてしまう。
こうなると時すでに遅し。年相応の精神的成長を獲得できなかった哀れなでくのぼうの完成。こいつらがセルフネグレクトで孤独死しちまうわけ。