はてなキーワード: 鳥の巣とは
お前らも気をつけろよ
カッコウの専門家らでつくる全日本カッコウ協会は2日、カッコウの動態についてまとめた2018年版の『カッコウ年鑑』を公開した。他の鳥の巣に卵を産んで託す托卵(たくらん)件数が、調査開始以降初めて3万件を超えるなど、カッコウの子育て事情の厳しさを反映した内容になっている。
『年鑑』では、カッコウの生息数や生息地について「猛暑による影響が多少変化見られるものの、ほぼ例年通り」とした一方、托卵件数は昨年より2281件多い3万904件と、1976年の調査開始以来過去最高を記録した。
カッコウの托卵件数は2000年代初頭は2万件台で推移していたが、13年ごろから増加傾向にある。主な理由として、『年鑑』では「オスメス共働き世帯の増加」「保育所不足」「非正規雇用の増加」など、育児を難しくしている社会状況の変化を挙げている。
また、来年以降も托卵が増加する可能性が高いことから、国や自治体に対して「公営カッコウの巣建設」「巣から落とされた他の鳥の卵を守るセーフティーネットの構築」など5項目を提言。「子育て世帯を経済・精神の両面で支える、実効性ある早急な支援が求められる」としている。
政府は15年、托卵問題解消のため、パンフレットや映像などを通して啓発活動を行う「たくらんセンター」を全国47カ所に設けたが、年間50億円を投じているにもかかわらず利用者数は低迷。現在も閑古鳥が鳴いている状況だ。
街の本屋さんで、本を買った帰りでした。
まわりはうす暗く、おおきな建物が並んでいるのが、ぼんやり見えます。
いつもとおっている道なのに、なんだかはじめての道のようでした。
ごおおおおおおっ
とつぜん、すごい音とともに、怒った虎のような風が吹いてきました。
レラはおどろいて、持っていた本を手放してしまいました。
本は風にのって、空たかく飛んでいくと、あっという間に見えなくなりました。
風が通りすぎると、辺りはきゅうに しん と静まりかえりました。
やっと買えた、大好きな本だったのに。
おやおや、どうして泣いているんだい。
大切な本が飛んでいってしまったよ。
泣くのはおよしよ。よし、さがしに行こう。
だれの声だろう。
レラがきょろきょろ見まわすと、東の空からおおきな、おおきな鳥が飛んできました。
こんなおおきな鳥は見たことがありません。その鳥は賢者の美しさも持っていました。
さあ、のるんだ。
おおきな鳥は、レラにやさしい眼でいいました。
レラがのると、鳥はひと鳴き、おおきなつばさを羽ばたかせました。
どれほど飛んだのでしょう。
下には真っ白なじゅうたん。雲のうえに出たのです。
鳥さん、本はどこにあるの?
待つんだ…そうかわかったぞ。さあ、つかまってなさいな。
空からの光を浴びながら、鳥は雲に飛びこみました。
なんてひろい街でしょう!
いろんな色の景色をこえて、鳥とレラはひときわ高い塔の屋根に着きました。
そこには、おおきくてがさがさした鳥の巣がありました。そばには真っ青な鳥がいます。
巣の中には、レラの本がひろげてありました。
よくみると、雛たちは本を広げて布団にして寝ていました。
寒そうな巣の中で、レラの本はとてもあたたかそうでした。
いたずら好きの鳥でな。よくひとの物を盗むのさ。
鳥さんやめて。おちびちゃんがかわいそう。
でもこの本を探してたのじゃないのかね。
ううん、この本はあげる。どうかだいじに使ってね。
レラはそういうと、おおきな鳥の背中に乗りました。
鳥さん、ありがとう。
もとの道にレラをおろすと、おおきな鳥はひと鳴き、東の空へかえって行きました。
レラは思いました。
きょうあったことを、本にしよう。きっとすてきなおはなしになる。
はれやかな笑顔で、レラはお家へ帰りました。
それでも昔よりはマシにはなってるんだろうけど、それもデフレで安い服のレベルが上がったからってだけだ。
単なる地域差だよ。
デフレが原因なら、それは地域差よりも時代の差のほうが大きいのでは?
収入の格差は広がってても、小奇麗に見えるようにするノウハウ、情報の格差自体はファストファッションとネットで小さくなっているとは言えるしな。
単純に、昔に比べて「普通の人」として見られるために求められる身だしなみの水準が上がってるんじゃないの?
同じくアラフォーだけど、うちの母親は服は子供服含めて常にデパートで買ってて美容院も定期的に行ってたし
周りも鳥の巣みたいな母親だの鼻水たらしてボロいお古来ている子供だのはいなかったよ。
勿論当時の服は(今の基準で言えば)ダサいし美容技術も発達していなかったから、今よりはダサいけども。
でも田舎に行けば、今でも鳥の巣は居ないがプリン頭ならいるし、安っぽくどう見てもお下がりな服来てる子もいる。
それでも昔よりはマシにはなってるんだろうけど、それもデフレで安い服のレベルが上がったからってだけだ。
単なる地域差だよ。
綺麗な服を着てお化粧も綺麗にしてて髪の毛もクルクル巻いたりして綺麗にしてる。
自分(アラフォー)が子供のころ、髪の毛を綺麗にする余裕がなくて鳥の巣みたいな頭のお母さんがちらほらいた。
子供は子供で袖口のあたりにべったり鼻水とか涎がついていたし、上の子のきったないお古を着させられている子供はあちこちにいた。
子供の数は今より3倍くらい多かったから、子供だけでワイワイ遊んでた。
若くて綺麗にしてるお母さんは、いろいろなことを悟ってるからそうなってる。
・結婚するなら稼ぎのいい男がいい
・稼ぎのいい男じゃないと子供は産めない
・稼ぎのいい男なら専業主婦ができる
自分が子供のころはまだまだバブルでもなくて貧乏な家もちらほらあった。
団地に住んでいたので、貧乏なお母さんが子供を抱えてるのもちょこちょこ見た。
今は違う。
結婚できる経済力がある男は選べる。若くて綺麗な女から選ばれて行く。
かくして、若くて綺麗なママと美しい子供、経済的に恵まれた家庭ができあがる。
すごい!
何十年かしたら日本人はめちゃくちゃ数が減ると思うけど、綺麗な日本人ばかりになると思う。
あの鳥の巣みたいな頭をしたお母さんはどこかへ消えた。
あのお母さんたちは頑張ってた
おのお母さんたちどこへ消えた
(追記)
平日昼間に見かける綺麗なママがすごく増えたなと思うので、専業主婦or育休中かなと。
ここで書きたかったのは、昔は頭がぼさぼさなお母さんがいても「子育てってしんどいよね…」という感覚が
皆にあったのではということなんです。
今は子育て中であってもネイルを綺麗にしていたり、すごく綺麗なママが目にとまる。
「子育てでしんどいから」というのは言い訳として通用しないくらい
そうできないお母さんは隅に小さくなるようになった。
そんなことを思いました。
妊娠前は深夜帰宅のそこそこ激務なIT系ブラック企業に務めていて
学生時代にはスポーツをしていたから、心身の健康にはまあまあ自信があった。
私は健康優良妊婦だった。つわりは人並みにあったものの、血液検査の結果も尿検査の結果も毎回良好、血圧も正常。
陣痛は、予定日を3日過ぎた日の夜中にはじまった。
陣痛は、私のちんけな想像をはるかに凌ぐ、ものすごい激痛だった。
痛みの感じ方には個人差があるというが、私にとっては鋭いナイフで下腹部をえぐられているかのような痛みだった。
はじめは軽い腹痛みないなものなのだが、時間経過とともにどんどん痛みが増してくる。
脂汗が全身から吹き出し、痛さからなんとか逃れようと、体が勝手にのたうちまわる。
陣痛のピーク時には、あまりの痛みに気絶し、また痛みで覚醒する、というのが数十秒〜数分ごとに数時間続く。
本当に地獄だった。
見ていた実母が言うには、私は白目をむいていたらしい。
あとから見たら自分の腕が傷だらけだった。こぶしを握っていた手のひらからは、血が滲んでいた。
永遠に続くかと思われた陣痛を超えて、分娩台に移動し、死ぬ思いで我が子を産み落とした。
でも想像してほしい。8時間もの間、一昼夜を越して不眠不休だ。
食べ物は一切口にせず、激痛に体をこわばらせ、死に物狂いでお腹から3キロの塊を出すのだ。
産んだあとは骨という骨がきしみ、体中が鉛のように重く、分娩台から上半身を起こすことさえできなかった。
どこにも力が入らないのだ。
助産師の手を借りて体を起こすと、頭がふらふらとする。
自力ではとても歩けなかったので、分娩台から長い時間をかけて車椅子に乗せてもらった。
その後、入院する部屋のベッドに寝るまでの間、トイレで二度倒れた。
猛烈に体が疲れていた。こんなに疲れたのは生まれて初めてだと思う。指一本だって動かすのがおっくうだ。
体中が汗と血でベトベト、身をよじりまくっていたおかげで、髪の毛は鳥の巣のようだった。
股間は麻酔が効いていたが、鈍い痛みが続いていて、姿勢をかえることすら一苦労だった。
前日から何も食べてないし一睡もしてないし、とにかく疲れきっていて、ゆっくり寝たかった。
だけど、産んだ直後から、母子同室で3時間おきの授乳が始まった。
分娩台で1時間休んだあとは、すぐ個室で赤ちゃんと二人きりにされた。
ゆっくり寝ることも体を休めることもできないまま、ハードな育児の始まりだ。
こんなにボロボロに疲れているのに、すぐとなりに、かよわく、自分で首一つ動かせることもできない赤ちゃんがいる。
「私はゆっくり休んではいけないんだ」という暗い事実は、くたくたの私にとって絶望だった。
この体中の疲労に身を任せた瞬間、赤ちゃんに何かがあったら。この子の命は、この精魂尽き果てた自分次第なんだ。
体中の疲労とともに、ヒリヒリするような緊張感と責任感が重くのしかかった。
産んですぐに母乳がでるお母さんは、実は少ない。
赤ちゃんに吸われることで、それが刺激となって脳内ホルモンが乳房に働きかけ、母乳が出るようになるという。
だから、でなくてもとにかく3時間おきに赤ちゃんに乳首をくわえさせなくてはいけない。
でも、産まれてすぐの赤ちゃんは吸いつく力も弱く、「吸う」こと自体がとても下手くそだ。
赤ちゃんの位置、乳首との高さの調整、手の置所、クッションや座布団をいくつも使って、位置を調整しながら、汗だくで吸わせる。
まごまごしながら右の乳首をどうにかくわえさせる。吸い付いたと思うとすぐに口から外れてしまう。またくわえさせる。また外れる。
そのうち疲れて赤ちゃんが寝るので、起こす。
今度は左右逆のおっぱいだ。
左を吸わせて、おしめを替えて…これでもう一時間だ。
体中が悲鳴をあげていて、眠たくて眠たくて頭が割れそうに痛くて、貧血でふらふらするのに、寝る時間は二時間しかない。
横になる。
すぐには寝付けない。
三十分ほどでようやく眠りにおちる。これで一時間半。
さあ、もう一時間半たった。睡眠時間一時間半で、赤ちゃんが泣く時間だ。
これが朝まで繰り返された。
初日の夜を超えた時点で私の疲労はマックスをとっくに超えてた。
授乳の合間の2時間以下の細切れ睡眠しかとっていないまま、迎えた朝。
翌朝は6時に検温があり、9時に朝食があり、合間に授乳をする。
何をするにも体中が痛くて、だるくて、眠くてたまらず、すごく時間がかかる。
12時にお昼があり、見舞いにきた実母に子を見てもらってる間に急いでシャワーを浴びて歯を磨く。また授乳。
たまった洗濯物をランドリーで洗う。戻ると検診がある。担当の看護師が交代したとかで挨拶がある。また授乳。
赤ちゃんの顔を見に見舞い客がある。相手をする。帰る。洗濯物をとりに行く。
また授乳。
昼はまとめて寝るどころか、横になる時間もろくにとれない。
ねむい、ねむい、ねむい、ねむい…
横になりたい。ゆっくり、ぐっすり寝たい。お願いだから起こさないで。辛い。辛い。辛い。
横になれない。眠れないし休めない。
昼間はろくに眠れない。寝れなかったことに猛烈に焦る。そしてまた夜が来る。
深夜の授乳は鉛のように体が重い。
赤ちゃんは相変わらず上手に吸えないのに、乳首がめちゃめちゃ痛くなってくる。
例えるなら、尖った爪で皮膚をおもいっきりつねられているような痛み。
乳首が切れて血が出てくる。
それなのにそこを吸わせなくちゃいけない。
傷口に鋭い爪がたてられるよう。
授乳のたびに歯を食いしばって、息をのむ。叫びだしそうな痛さに耐える。
出がよくないからマッサージもされる。これがまたすごくすごく痛い。
赤ちゃんがゴクゴク、と美味しそうにおっぱいを飲んでるのが見える。
幸せそうに微笑んでそれを眺めているお母さん。
我が子はおっぱいを一滴も飲めず2日目。産まれてからまだ何一つ口にしていない。
何も飲まなくても3日は胎内にいたときの栄養が残っているから大丈夫だという。
でも、赤ちゃんは日々痩せてる。お腹がすいて泣いてる。まだ産まれてたった2日しかたってないのに、飢えて泣いてる。
大人だって2日くらい食べなくたって死なないけど、すごく辛いよね。
こんな小さな我が子が空腹に耐えてると思うと、切なくて切なくてたまらない。
隣の子はお腹いっぱいで満足して寝てるのに、私の子は空腹に泣き疲れて眠ってる。辛い。眠い。
体中がふらふらして頭がぼーっとする。見舞いに来た夫や実母にひどい態度をとって、ケンカをしてしまった。
看護師が心配して「何か悩み事があったら相談してくださいね」と言う。
「ただ寝たいんです。」
と言いたかった。でも他にもたくさんのお母さんが寝ずに赤ちゃんを見ていて、そんな情けないことどうして言えるだろう。
哺乳瓶でおそるおそるあげると、手をグーにして、目を大きく見開いて、必死に飲んでる。
飲んでる姿を見て涙がとまらない。
飢えさせてごめんねという気持ち。やっとお腹を満たしてあげられるという満足感。
おっぱいが出ない敗北感と屈辱と疲労と、いろんな気持ちがないまぜになる。
4日め、私はもうボロボロだった。見舞いにきた妹に顔を見て絶句された。
赤ちゃんにはミルクを与えることになったものの、母乳への刺激をなくしてはおっぱいが出なくなってしまうため、
つまりは今までのおっぱいとの格闘に、ミルク作りがプラスされて、授乳にもっと時間がかかるようになったのだ。
その分削られるのは眠る時間。ただでさえ1時間半しか眠れないのに、もっともっと眠れなくなる。
でもふらふらで、眠さとだるさは蓄積されて楽になるどころか、いっそう辛くなる一方だった。
とにかく体がしんどくて、ほとんど何も考えられなくなっていた。拷問みたい。
ただひとつ、「ねむい」という欲求だけが、こびりついて離れない。
鏡の中の自分は、真っ青で目の下にくっきりクマができて、10は老けたように見えた。
何もしてないのに、涙が出てとまらない。赤ちゃんがなんだか恐ろしい。かわいいのに、愛しいのに、何より恐ろしくてたまらない。
だって、まだたったの4日め。長く長くいつ続くともしれない育児の、たった4日めなのだ。
このしんどい日々が延々とこれから続く。こんなに疲れてるのに、ぐっすり眠ることの許されない日々が待ってる。
5日め。私は退院を迎え、自宅に戻った。
産後は実家で1ヶ月お世話になったが、こんな調子が2週間続いた。
むしろ、病院では哺乳瓶を洗ったり消毒したりするのは病院がやってくれたから、その分の仕事が増えてますます眠れなくなった。
赤ちゃんが泣く→起きてミルクの支度をする→ミルクを人肌に冷ます間におっぱいを吸わせる→
搾乳した母乳を与える→ミルクを与える→げっぷをさせる→寝かしつける→
たとえば寝かしつけに手こずったり、オムツからウンチが漏れて着替えさせたりなど
何かアクシデントが発生すれば、眠れずに次の授乳時間になることも珍しくなかった。
日に日に、赤ちゃんを見ても可愛いより何より、ただただ、怖い気持ちが蓄積されていく。
赤ちゃんが怖いのに、離れるのはもっと怖い。何かあったらどうしよう。
30分の睡眠は、いつも悪夢を見た。赤ちゃんを落とす夢、踏んでしまう夢、誰かに連れて行かれる夢。
今思うと完全な鬱状態だった。
生まれてから14日めの夕方。
赤ちゃんと二人きりになるのが恐ろしいと、実母の前で号泣した。
陣痛のあの夜から2時間以上眠っていないこと、眠くて眠くてたまらないこと、
夜になるとまた今晩も眠れないと思って焦りと不安で動悸がしてくること、
こんなに体中がふらふらなのに赤ちゃんに何かあったらどうしようかと想像すると恐ろしいこと、
かわいいより赤ちゃんがとてもとても怖い存在に思えること・・・・
泣いて訴えながら、睡眠不足がつらくて赤ちゃんが怖いなんて、自分は母親失格だと思った。
世間のお母さんがみんなできていることができないなんて。
母親なのに、情けなくて仕方がなかった。
その夜は両親が赤ちゃんを一晩みてくれ、私にゆっくり休むよう言ってくれた。
15日目の朝は、驚くほど気持ちが落ち着いていた。
その後の日々は、私の両親はもちろん、夫も毎晩仕事帰りに車を飛ばして会いにきてくれ、手伝ってくれた。
それから、母乳マッサージに通った結果、母乳が十分量出るようになって、
ミルクをあげなくてよくなったため、深夜に哺乳瓶を洗ったり、消毒したりということから開放された。
三ヶ月たった今でも、産後からの2週間のことを思い出すと、絶望感でいっぱいになる。
あのころ本当にただただ寝たくて、寝たくて、
それなのに「もしこの子に何かあったら」ときう緊張感で常に気が張っていて、目を離すのが恐ろしくてたまらなかった。
そのうち、「もしこの子に何かあったら」「病院に入院することになれば」
「そしたら眠れるな…」と考えたことがあって、ゾッとした。
もちろん、あくまでこれは個人的な体験だ。
でも、多かれ少なかれ多くのお母さんに共感できる部分も多いはずだと思う。
もし里帰りしなかったらどうなっていたことか。
私の出産は初産の平均時間12時間より短かったけれど、精も根も尽き果てた状態で育児がスタートしたのがよくなかったと思う。
病院によっては、出産したその日はナースステーションで赤ちゃんを預かってくれるそうだ。
私も、出産後1日でいいからゆっくり眠れていたら、その後に2週間は違ったものになっていただろう。
今は、子はあやすとニコニコ笑って、母乳も順調だ。夜は相変わらず3時間で起きるけど、体が慣れた。
やっと我が子がかわいく、愛おしく見える。
でも、我が子がとても恐ろしく見えた産後2週間のことが忘れられない。
女って、なんでAGE嬢みたいなのに憧れるんだろう。
もっさりつけまつげして
服はまさしく風俗嬢そのまんま。
本職ならそれはそれで別に気にしないんだけど
でもまあ、別に好きでやってんだからどうでもいいや
って他人事みたいに思ってた。
ちなみに嫁もそういうのが嫌いなタイプ。
が
俺、娘がいるんだ。
そういう家の子は幼稚園児でもブリーチしたりパーマかけたりしている。
運動会とかで実際に目の当たりにしたりしていた。
休日に近くのショッピングセンターでばったり会うと子供が化粧してたりして
ありえねぇ…って思ってた。
でも、それだって他人事だ。
嫁は子供がかわいそうだって言ってるけど、仕方ないだろって思ってた。
他人事だったんだ。
娘がXXちゃんみたいな可愛い格好したい!って言い出すまで。
一重で、ぱっちりした黒目がちの瞳で
黒くてまっすぐな長い髪。
それが、嫌だと言い出した。
遅かれ早かれ、こういう出来事は来るんだろうと思う。
娘の説得は嫁に任せてあるし、今の所はおかしな格好をしていない。
けれど、何時か娘も自分のしたいお洒落を通す時期がくるんだと思う。
だから、なんで女(というか女向けのトレンド)は
風俗っぽいのが多いんだ、と思ってしまう。
他人がどんな格好をしていても構わないけど
身内は、しかも自分の娘は絶対に嫌だ。
だからといって、お父さんはそういう女の人を色々見てきたんだぞ
そういうのと同じ格好はやめてくれ
…ともいえないジレンマ。
娘を持った父親はどうやってこの気持ちと戦ってきたんだろう。
どっちも嫌なんだぜ…。
酒井法子が逮捕されてからこっち、高校時代を思い出さずにはいられなかった。出会ったのは一年生の春だった。まだ顔も名前もろくに覚えられていない同級生達の席の間を縫って歩いていると、一人の女の子が弾けるような笑顔で僕の事を見ていた。僕は不審でしょうがなかった。僕の顔に何か付いているのだろうか?それとも天パーの頭が鳥の巣みたいだったろうか?はたまた入学初日に上履きを忘れてただ一人スリッパで過ごした奴はこいつかなどと思っているのだろうか。さっぱりわからなかった。仕方なく僕は不思議そうな顔を隠す事無く、軽く会釈した。彼女も笑顔のまま会釈した。
さっぱりわからなかった。今までモテるとか顔を褒められるとかした事が無かったので、そういう意味の笑顔では無いだろう。だとしたらなんなの?やっぱり分からない。一つだけ分るのはの笑顔がすっげーかわいいという事だ。トリコになりました。次の日からは意識的、無意識的に目で追うようになった。でもそれじゃ飽き足らなくてやっぱり話がしたい。でも大した用も無いのに話しかけたら、口ごもるに決まってる。でも会話はしたい。できる事ったら朝な夕なに「おはよう」、「バイバイ」と確実に挨拶する事くらいだ。特に別れの挨拶は難しくて、朝というのは放っといても時間になれば皆教室に入って来るのでいつかは顔を合わせる事ができ、また女の子というのはどういうわけか何時であろうとその日初めて会った場合には「おはよう」、と言うのが常であるようなので、それは大して問題では無いのだが、帰りはそうはいかない。めいめいがそのまま帰る、教室廊下でだべる、部活、などそれぞれの都合で帰る時間が決定されるからである。なので帰るまでは教室廊下をうろつくのが常であった。
幸運だったのは僕の入った部活に彼女も入った事だった。「同じ」と言っても男女一緒に活動するわけでは無い。とはいえ、見渡せば姿は認められる位置関係だった。今気付いたが、1年生の時は学校にいる間中、見ていたという事か。これはいかんな。一時期は席替えの結果、僕は真後ろの席につくという僥倖を得た事があった。これは僥倖以外の何物でもなく、別に見ようとしなくても見れてしまうのである。その時、ショートカットの後ろ髪をかきあげる癖があると知った。それがあまりに頻繁だったので、僕は「○○君があたしのどたまを見ている!あたしの髪変じゃないかな。気になる!」という気持ちの表れだと思わずにはいられなかった。
休みの日は困った。姿が見られないから。しかも顔をうまく思い出せない。あれなんでなの?好きな人の顔を思い出せないのは。再現のレベルが低いと像を結ばないという事か?脳内に厳しい上司がいるのだろうか。何度も、ちょっと会わない的な誘いをしようとクラス名簿を見て家に電話をかけようかと思ったが、ご両親、ご兄弟が出たらと思うととてもじゃないけど、僕にはそんな事はできなかった。当時はやっていたポケベルすら持っていない僕に打つ手は無かった。
特に何も無いまま、冬休み。スキー教室みたいなイベントもあったりして、話すネタができた、というのと、冬休みは部活もろくに無いので、顔を見ることすらなく、悶々としていたといった理由から意を決して電話した。家には子機なんてこじゃれたものはなかったから、居間で、幸いにも夜の早い両親の寝静まった後、電話をかけた。でも寒い居間で勇気が出なかったから、ミッシェルガンエレファントのライブビデオを見て勇気を振り絞って電話して、男の人が出たので、これまた勇気を振り絞って、変わってもらった。実際に話した内容は他愛も無いもので、スキーがどうだった、部活がどうだとかその程度で、また冬休み明けたらよろしく的な、別段何かに誘うでもなく、大して後につながらない話に終始したが、僕はそれだけで残りの冬休みをうきうき過ごせた。
冬休みが明けるとなんかどうも先輩からアプローチをかけられたらしい事がわかった。その時、僕は前の席に座っていて、どうもその日先輩に呼び出されたということらしい。僕は聞いてられなくて、トイレに立った。トイレから出て、手を洗っていると、なんとも浮かない顔(に見えた)の彼女が出てきた。僕は「そんなの別に行かなくていいじゃん」て咄嗟に思ったけど、口からは何も出なかった。なぜ言えなかった!ただ聞き耳を立てていただけで、事情がよくわからないから、下手に口出しするのはちょっと・・・と思ったからか!HEたれ野郎が!先輩の申し出は断ったようだった。
2年生になった。クラスが変わった。主に見られるのは部活くらいになった。そんなでぼんやりしていたら、彼氏ができたという情報が耳に入った。マジか・・・。とうとうか・・・。なんせ誰に対しても明るく接する彼女に彼氏ができない理由を探すほうが難しかった。約半年後、別れたという話を聞いた。僕は彼女がその彼氏と一緒にいるところを一度も見た事が無かったので、付き合っていたこと自体、未だにに半信半疑なのだが。しかしタイミング的にはもうすぐ修学旅行という時期だ。「修学旅行前に彼女がいるのと修学旅行で彼女ができるのとではだいぶ違う」と友人が色めき立っていたのを聞き、僕はそういうもんかと思い、とうとう、やっと、遂に、いよいよ、ようやく、遅ればせながら、告白する意を決した。確か土曜日か日曜日の、よく晴れた部活前の時間だったと思う。自転車置場で、僕は緊張のあまりなかなか言い出せず、しかも「ずっと・・・・す、す、す、・・・・」みたいな調子で、我ながらベタなドラマか、アニメかよと思った。返答は芳しいものでは無かったが、終始笑顔でいてくれた事がせめてもの救いだった。というかリアクションとしては悪くないよなとすら思った。なので、まぁそうだよなーとかすっきりした思いで修学旅行は過ごした。
その後、また彼氏ができたとかいう話があったりして、その頃は3年生の夏頃になっていた。部活も引退し、受験勉強モードだったわけだが、何をとち狂ったか、前の彼氏と別れたという情報を聞きつけてしまったため、再度アタックをすることにしてしまった。タイミング的には誕生日が間近であった。またもや家に電話をかけ、なんとその日の約束を取り付けたのだ!するとプレゼントか。一緒に予備校に行ってる連中に相談した結果、香水が良いのでは無いかという事になった。一緒に百貨店に買いに行き、なんとなくenvyというのにした。envy、そら完全に僕の事では・・・などとよく分からない不安を覚えながらも約束の場所にいた。高3の夏休み中だったため、会うのは数週間ぶりだった。なんかいかにも今日切りましたみたいな髪形になっていて、僕はそれを言おうと思ったんだけど、具体的に何がどう違うのかよく分からない。長さを揃えた・・・んだろうけど、何か上のほうがふわふわした感じになっている。それをどう言葉で表現していいんだ。そんな感じでもじもじしていたら、彼女のほうから髪切ったんだと言ってきた。いや、すぐわかったよ!わかってたよ!ちくしょー!って思った。その後の会話もなんか弾むでもなく、ぼんやりしていてしまいには大して面白くもない自分の親父の話とかしてて、もうぐだぐだだった。別れ際、プレゼントを渡し、改めて告白した。断られた。流石に今度は困り顔だった。最後にせめて抱きしめたいと思ったが、そんな度胸もなく、両手を握る程度にとどまった。
そんな事があったのが、11年前の今日でした。