DeNAから306ページに渡る第三者委員会調査報告書が発表されたらしい。俺は面倒だから読んでないが、重要なことはたったひとつだ。
DeNAはこの二人のせいで50億円の損を出した。その金はそっくりそのまま二人のポケットに収まったままだ。
もっとひどいのは、これでエリート集団のイメージが完全に失墜したこと。一時期は東大からも大量採用できてたらしいが、もう無理だろう。
せっかく売れた不格好経営も台無しだ。スマホゲームで毎四半期に何十億も巻き上げてるDeNAにとって目先の50億なんて大したことない。
でも企業イメージの低下によって受ける将来損失を考えたら1000億ぐらいの損になったんじゃないか。
それだけのことをやったのに、こいつらは事実上なんの処分も受けなかった。
公の場で責任を追及されることも、謝罪を要求されることもなく、役員の地位も解任ではなく辞任で済んだ。
DeNAがどうしてここまで甘い対応を取るのか俺には不思議でしょうがない。
一説には社長の守安が村田にたぶらかされたんじゃないかって話もある。守安も自社株を1%も持ってないサラリーマン社長だから適当な判断を下したのかもしれない。
そいつらと一緒になってやってるうちに、スタートアップ村のモラルの低さが伝染したんだろうと思ってる。
とにかくあいつらと来たらひどい。金儲けできればなんでも良いと思ってる連中の集まりだ。
ベンチャーキャピタリストも起業家も口では良いことを言っているが、ほとんどはモテたい、儲けたい、目立ちたいのどれかで出来てる。
あの村でのヒエラルキーはとにかく金を集めた奴、Exitした奴が偉いってこと。
上場ゴールで袋叩きにあってたgumi國光も今じゃ平気な顔で次のホラを吹きまくってるし、赤字垂れ流しのクラウドワークス吉田も成功した起業家扱いで持ち上げられてる。
西麻布に行けば持ち株売って小金持ちになった起業家がヤンチャしてる姿なんてよく見るけど、そういう先輩の後ろ姿を見てるから、後から出てくる奴らも当然ろくでもないように育つんだ。
だから今回の村田マリの件だって、周辺の奴らは運が悪かったぐらいにしか思ってない。
なんだかんだいって50億で会社売ったんだからスゲエ、俺も成功してシンガポールで富裕層の仲間入りしてえとしか思ってないんだよな、ほとんどは。
こういうやったもん勝ちに対してちゃんと自己批判できないと、あんたらはいつまでも幼稚なジャパニーズスタートアップから抜け出せないままだと思うよ。
人間に生きる意味があるとしたら、家畜にも野生動物にも雑草にも生きている意味がある。
もちろん孵化する前に食べられる卵にも生きている意味がなければならないし、
あなたに生きている意味なんてなくても生きててもいい、生きているという事実があるだけで意味があろうとなかろうとその事実には変わりはない。
下手すると普通の男キャラより男性需要がないんじゃないか、男装の麗人系女子
すげえなあプリキュア
何かしらおじさん避け要素があるって言っても彼氏持ち設定にするとかそういう炎上要素はないキャラ
不可能かと思われていたことをセラムン以来の「男装の麗人」を登場させることによって成し得た
女の子は立ち上がって喜び男はスッと着席する
プリキュアに今までいなかったのはやっぱり原作者が女性のセラムンと違って
作り手に男が多いから萌えない娘は出したくない、出せないって思いがあったのが
何かしら公式に心境の変化があったんだろう
それにしても井浦新に変態を語らせてるNHKはずるいな。つまり女好きって事なんですよ、という結論を持った上で、画家にそのセリフを言わせてNHK製作陣としてはノーコメント、というのもずるい。NHKとしてメッセージを出さない、責任を持たないというのは嫌な感じだ。
日本語というか作文なんだけど、ちょいちょい変なところがある気がする。例えば1作目の1Pで…
僕は弱くて駄目な人間だ→この旅で人を殺すこともあると思うけど旅を愛してる
という独白がいきなり出てきて、ずいぶんサイコな主人公だなあ、作者が文章コントロール出来てないだけだよなあ笑と思った。
しくじり先生のソニンを観ていて、まるで自分を見ているようで苦しくなった。
彼女の10代の頃の映像は、自分がそこにいて、わたしがやっているような気持ちになった。隣で見ていた母親の、「あーあ」「倒れる倒れる」という煽る響きもあるつぶやきが、わたしの子供の頃を思い出させる。惨めさ、悔しさ、怒り、恐怖、隣で見ている母親をなぐりつけたい感情がカッとよみがえった。
大人になったわたしは、ふと別の感情に気付く。わたしもまた、煽る側として楽しんでいるのだ。一人の人間を自らの手でコントロールし、破壊し尽くすことの快感みたいなもの、そして目の前で破壊されているのもまた自分であり、自分が惨めで苦しんでいじめ抜いていることへの快感、そういう暗いよろこびを感じている。
わたしは子供がいないが、もしいたら、虐待するんだろうなと思う。子供は自分の分身だから、自分を惨めなめに合わせ徹底的に破壊して追い詰めるだけ追い詰めたいという欲が、絶対湧くだろうし、子供とわたし一対一の関係性、そこにストレスが加われば我慢することはできないだろう。虐待とは他人を傷付けて快感を得るものでなく、自分を傷付けて快感を得る種類のものだと思う。そういう発想がそもそもない人は、かわいい我が子をどうして、と思うだろうが、わたしはよく分かる。自分のことをかわいいと、大事だと思わない人間もいる。そんな人間が我が子をかわいい、大事だと思うわけがない。幸せになることは許さない。
結婚とは、これを解決する手段ではなく、問題を抱えたまま持ち込んで生活するということだと思っている。それも生きるということだし、大なり小なり幸せもあるだろう。しかしわたしはもう、あのようなことを子供を通して追体験したくない。
http://anond.hatelabo.jp/20170211181942
突然殴りかかってきて「俺は今そんな気分じゃない」って言ってるのに「お前にはなくてもこっちには理由があるんだ、さあやってもらうぞ」て
この文は私のために書いている。つまりはエゴである。少しでも共感してくれる人が世の中にいるのなら、私はきっと救われるのだろう。ただの自己満でしかないし、何の飾り気もない剥き出しの存在証明を残したいだけだ。
私はいつからか、自分が女である事が嫌いになっていた。それは学生時代から既にそうだった。
小学生の時から学校嫌いだった私は、中学生になって制服を着た時、さらに学校が嫌いになった。何で女子はスカートで、男子はズボンなのだろう。スラックスはあったものの、それは女子に見えないような、スポ根ボーイッシュ女子が着るためのものになっていて、つまりは周りの女子に馴染めない子、変わった子のためのものになっていた。当然、周りと同じことをしているのが安心だった私は、スラックスを履くという勇気も根性も無かったし、仕方なく似合わないスカートを履いていた。物心ついた頃から周りより細く、ガリガリ体型だったため、制服があまりにも似合わなかった。顔も田舎の垢抜けない、垢まみれの鈍臭い顔をしていたし、貧相な脚は寒さに弱く、スカートを履くと更に貧相さが強調された。中学生にもなると、女子は途端に色気づき、冬でもスカートを短くし、ブラジャーをわざと透けさせ、スクールカーストの中でポジションを守ることに必死になっていた。そんな中で私は、なぜスカートを短くするのか全く理解できなかったし、何しろ似合わない自分に腹が立ったし嫌気がさしていた。むしろ気持ち悪いと思っていた。スクールカースト上位の女子達は常にギャーギャー騒ぎ、下位の人間を卑しい目で見ていて、押し退けていた。なぜ学校はこんなにも楽しくないのだろう。「友達に会えるから学校が楽しい」なんて言う人が信じられなかった。友達になんて学校が無くったって会えるだろう、何故そこをごちゃ混ぜにするのか、意味が分からなかった。さらに、教師は誰にでも対等ではないし、依怙贔屓はするし、所詮はただの人間だった。私は大人に対してだいぶ絶望していた。(続く)
それは「すごーい!楽しいー!」
これですよ。
はてブ便利ー!スゴーい!
この世はクソだ。つまらぬこと、腹の立つこと、つまらぬことばかり。
しかしながら、「すごーい!楽しいー!」とあえて口に出してみる。
思っていなくてもいい、心の片隅になくてもいい、真逆のことを考えていても、あえて口に出してみてる。
不思議なことにそっちに引っ張られるのだな、心が。
さっきまでくそ!と思っていたのに、なぜかどうでもよくなる。
思っていないことを口にすることに躊躇するかもしれない。
私もそうだった。
でも、あえてやってみる。
2秒くらいでできる、心を保つ方法。
バカみたいにやっていると、嫌な気分を引きずらないだけではなく、自分の気分の底が上がるのを次第に自覚した。私の場合は。
落ち込んだ時の底が今までよりマシになる。
時折 11年前 自殺したかった頃 姉の出産後 なぜか 立会いまして 赤ん坊を見たわけです 私は 赤ん坊を 収めることは せず たぶん カメラで 外の 風景を撮っていました 窓から見えた
今日 当日 駅のホームで 雛鳥を 濡れた 毛の 生えそろっていない 鳩 だろうか 見たわけです 目があうと 雛鳥は ピーキーに 何かを 呼ぶのでした
今日の 駅のホームは いつもより 汚くて 糞も たくさん フェンス沿い建物の隙間 石礫 の 間には 食品ガラが 散らばって おりましたが
踏み止まる 時が いくつも 交差して 変わっていくのだな 変わっていくのだな と
とりあえた納得を納豆食う?
友達、知人、職場の人、そういう人相手だとケンカになんてならないじゃん?
だけど、好きになって、良い感じの関係になって、一緒にいて、ケンカをする。
ケンカなんてしたくもないのにさ。疲れるし。自己嫌悪に陥るし。
怒りを受け止めるとか、叱るとか、言い合いをするとか、そういうの向いてないから、
結局1人でいいやーって思ってしまう。
なんで、恋人同士になったら怒ってきたりするんだろう。
「だから電車でケータイをつかってもよい(ケータイぽちー」←は?
DeNAキューレーション問題調査報告書読んで震えている。集団的サイコパスだと思う。本当に怖い。
書いてることが倫理とか善悪とかそういうレベルじゃない。法務も事業部も経営も全部おかしい。調査委員会はあまりの惨劇で善悪のラインがズレている。
まず始めにこれは作文ではない。ましてや作文に対する御大層な解説でもない。本来のはてな匿名ダイアリーの使い方だろうと思う。戯言だ。そして、作文をアップした私の逃げ道だ。
ここ数日で2つの作文をアップした。どちらもなんてことない日常だ。私は今までここ(どうやら増田というらしいですね、なんででしょう)の存在は知りつつもアップすることはなかった。なぜ作文したのか、する意義は何なのか、そして公開する意図は、おっさんの創作だろう、すべて分からないままだ。多分それがここの面白いところだと私は思っている。
1つ目の作文をアップした深夜、ここは全くと言っていいほど閑散としていて、URLを付けてナメクジと書かれ、まあねと思いながら寝た。翌々日、ナメクジの作文に300以上のブックマークが付いていた。ドキドキして困惑した。(このフレーズは追記した後ダサいなと思って消した)コメントも1つ1つ読んだ。引用しているブログも読んだ。ついでにツイッターのRT先まで回った。気持ち悪いでしょう。嬉しかったんだね。
その中のコメントでおっぱいと私との和解だと評されていた。確かに。シャツ問題など眠くなったのと飽きて仕上げきれなかった(コメントで見抜かれていた)分も含めて、おっぱいと私が折り合いをつける過程をタラタラと打ち込んだに過ぎなかった。私はこの客観的な意見に対して、正しさの違和感を勝手に持った。
私の中で、おっぱいとの雪解けはもっと後のことだったからだ。ここからは自己分析に過ぎないのだけれど、1つ目の作文は物理的問題に対する和解であったのだろう。精神的問題に対する和解は自分では良さの分からないおっぱいを、自分が好いとする人に良いとされるまでなかったのだと今更わかった。作文の言葉を借りるとすれば、物理的問題に対するサポートメンバーはブラジャーであり、精神的問題に対するサポートメンバーは彼であったんだと気づいた。
2つ目の作文をアップするときこれは読まれないだろうなと思った。2番煎じは好まれないし、自意識過剰に文を教科書的に作り上げたからだ。なぜかといえば、恋愛話をするのが好きではないからで、ダブルミーニングや状況で彼の変化、「この時の作者の気持ちを答えなさい」的文を入れ込んだためだ。
しかし、幸いにもどちらの作文もたくさんの人に読んでもらえたようで、こそばゆい感情をこそばゆく噛み締めている。正直もうネタはない。今冬、乳首に余ってるリップクリームを塗ったらモチモチになった話ぐらいしかない。そして今使ってしまった。オススメしよう。
おっぱいぶるんを越えるのは到底無理なので静かにアップすると思う。3つくらいコメントつくといいな。
今日は早めに寝よう。