はてなキーワード: 命綱とは
「ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです。
たくさんのコメント、ブックマークありがとうございます。
もうちょっと書きたいことがあるので書きます。
ぼくらはけっこう慎重なもんで、
「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると
という考え方に持っていこうとする。
じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。
なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。
もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで
あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。
そういうのをなんて言う?構造主義的?
現在属している共同体の文化や価値観に従って決定することを避けられないから、
ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。
慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。
しかし、ぼくはもう待てない。
というコメントを頂いた。
ぼくは長期的な幸せを望む。
間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、
ぼくたちはおそらくみんながみんな、
なるべく誤魔化しや、
その場しのぎでない、
恒久的、
永続的な幸せを望んでいると思う。
もしかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアやアフリカの話)は
「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。
よく考えてみてほしい。
ナチスのユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?
9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?
こういう例は枚挙にいとまがない。
うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。
基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。
このシールを大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、
慎重に慎重を重ねてものを言うなら、
「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかないかもしれないし、
「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。
そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。
ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)
「戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。
そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。
戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、
少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。
そう考えることしかできないと思う。
さて、間違った部分とはなにか?
ネガティブな発言を減らしていくということは、
間違った部分を正していく行為なのかもしれない。
それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。
ぼくが言いたいのは、
「ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、
「ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、
実際に人が死んでいるかもしれないということだ。
もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。
ネガティブな発言をみんながやめられるということが
少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。
しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば
話は別だ。
ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。
いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。
死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。
それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?
考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?
そうであるならばそれが一番いい。
ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。
がんばらなければいけない社会、
他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて
自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。
かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである。
民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。
最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。
弱い人が、
虐げられた人が、
ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。
その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。
「はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。
しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも
世界は止まることがない。
つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。
切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。
もう待てない。
ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、
いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。
弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。
もう待てない。
長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。
がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。
地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。
ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?
蛇足かもしれないけど、
資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)
なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。
まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、
資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。
それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、
解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、
考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。
まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。
ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから。
その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、
それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。
理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、
ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」からだ
(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。
ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。
強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。
ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。
クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。
すいません。言い方を変えます。
ぼくを殺さないでください。
上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。
ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。
このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから、
あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。
死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?
でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。
「ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。
もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、
「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」
と言われて、
ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。
後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。
まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。
これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。
こういう反論を待っていました。
なお俺は自称中立を気取るつもりはありません。書き手のバイアスは当然あるわけで、主観が強い場所については意図的に「俺」という一人称を書き足して明示をしたつもりです。
そもそもPIXIVが注目されたのは
同時に同内容の通報してみたところ
この2つのアカウントについて語るのであれば、「誰か」のアカウントが本当にカオスラウンジのものと同等なのか、運営に悪質だと即座に消されるような問題を抱えたものだったのではないか?という点まで触れなければ話にならない。
発端となった2つのアカウントの通報を行ったのは誰なのかを調べると、多くのまとめではみかん理事の通報ということになっている。
だがそのみかん理事は「僕が通報したのはどっちもスルーされましたよ。 見てないタイミングで一時停止→復活があったかどうかはわからないですけど。」と発言しており、またtwitterではもう一つのアカウントがどこなのかは触れていない。
さてどういうことだろうか?
単純に考えただけで上の三つの可能性が考えられる。そしてどれが正解なのかは、複数のまとめを参照しても知りえることはできない情報だった。
みかん理事の言動を見ていると、彼がカオスラウンジメンバーとは無関係なアカウントを意味もなく晒しあげるとは思えなかった。
ゆえにこの件については何らかの誤りを含む可能性も十分考えられるため、デマの再拡散には慎重な立場からあえて触れていない。
カオスラウンジと同じこと、同手法の作品をPIXIVに投稿してみた人達がいたんだけど
手法が問題視されたわけではなく、運営に対する害意があったから消されたのではないだろうか。
害意があったことを意図的に隠蔽して、手法のみの問題に擦り変えるのは、俺はそれこそが「嘘」だと思う。
カオスラウンジと同じやり方をすることで、削除されるはずのない、運営やコミュニティが望まない画像を大量投稿する、そういう反撃方法を面白がるメンタルは理解できるが、賛同はしない。
さて、やがて運営の削除基準はひどく曖昧になり、規約上削除されるはずのない手描きの絵までもが、運営への害意の一点で削除されるようになった。
その恣意性は問題視されて然るべきだが、「俺が描いた絵をpixiv運営は残さなければならない」というお客様幻想もまた問題視されるべきではないのだろうか?
pixivはお客様の為に運営しているわけではなく、表現の自由を守るために活動しているわけでもなく、「絵描きのコミュニティを構築する」という一点についてpixivの営利目的とユーザーの思惑が合致しているに過ぎない、ということは留意する必要がある。
これはpixivに限った話ではなく、webサービスを利用する際の当然の心構えであると思う。
梅ラボの著作権侵害作品が問題ならば、最初から無断使用された著作権者に働きかけてルールに則った削除申請を行うべきだったし、自分の作品が残されるべきだというならそう運営を説き伏せて残される権利を勝ち取るべきだと思う。
pixiv運営がコミュニティを守るため、大多数のために少数を切り捨てたのは、実は今に始まったわけではない。
例えば現代アート用のコラージュ素材を用意した高橋けんじは、かつて初音ミクのデザインで有名なKEIがランキング1位を取るのを妨害する意図から、ラピュタパンの絵を投稿し圧倒的支持を得たにも関わらず、健全な絵ながら理由もなくグロテスク表現のレーティングに強制移動させられた、という過去がある。
例えばpixiv批判の絵を複数投稿しているK田は、かつて東方のファンアートがランキングを賑わせた際に、それを快く思わずアンチ東方のイラストを投稿し、運営から強制削除処分を受けた一人だ。
彼らの行為はコミュニティの大多数を不愉快にさせたのかもしれない。だが問題ある一部のユーザーを切り捨てることは、多数派を優遇するということだ。その優遇された多数派にとっては、運営の行為は居心地の良いコミュニティを保護した正義だったのかもしれないが、切り捨てられたユーザーにとっては到底容認できたものではなかったはずだ。
本来中立平等が望まれる運営が独善的に削除基準を振りかざすことには議論の余地はあるだろう。まして、そこに「(pixivにとって都合の良い)絵描きのコミュニティを構築する」というpixivの営利企業としてのエゴがあったことは疑いないのだから。
もっとも俺には万人を納得させる解決手段があったとは思えないが…。。
ともあれこの騒動はpixivがカオスラウンジの著作権侵害作品の後ろ盾とみなされたことだけではなく、運営の優遇政策により、「抑圧されてきたマイノリティ」たちの不満が爆発したという側面もあるのだろう。
現代アートの投稿による運営やコミュニティへの攻撃が、解決の道しるべだとは思わないが、運営はその裏にある「意図」を単純な「荒らし」だと切り捨てるべきではないという指摘も正しい。
既に書いたことの繰り返しになるが。
カオスラウンジが活動すること自体は罪ではなく、カオスラウンジがその活動の中で著作権者の心証を無視したコラージュ作品を展開したことが罪なのではないだろうか。
pixivを立脚地とするカオスラウンジのメンバーが、pixiv社長とプライベートな付き合いを持ち、人脈のきっかけとなったり、交流を深めることまで責めるべきだとは思わない。
pixivがカオスラウンジに対して受賞作品を素材として提供するなど、企業としての立場・権限を悪用して著作権侵害を幇助した事実があれば批判されるべきだろう。現時点でpixivはそうした事実はないと否定している。
ただ近づきすぎたpixivとカオスラウンジが襟を正さなかったから、癒着関係と見なされて批判されるのだ、という指摘は正しく、近しい距離感のユーザーならばこそ厳しい対処に当るべきだったと思う。
pixivにおける場とユーザーはの関係は、商業イラストレーターのそれよりも、90年代の投稿雑誌文化のメンタリティに近いように思う。
雑誌という場に対してハガキ職人が無償で投稿し、採用されれば金一封で応じる。編集は雑誌のカラーに合わない投稿に対しては冷徹に切り落とす。
雑誌文化はハガキ職人を食い物にしていたのか?そうではなくハガキ職人がその雑誌に対する愛を、場に対する愛着を持っていたからこそ成立した文化だろう。
だが運営の優遇政策は、愛され続ける場を作るために、切り捨てられた場を憎む人をも作り上げ、それがコミュニティに歪みをもたらし、今の混沌とした状況を作り上げた。
pixivにおける場は今や崩壊の分岐路にあり、運営の手腕が試されている。命綱である場への信頼を取り戻すことができるのか、或いは憎まれる場として生きながらえるのか、滅びるのか。
言葉を発し、行動を起こし、正しい選択へと導くことは、ユーザーにとっても運営にとっても利益があるだろう。
ならばこそ、事実に基づく批判は歓迎されるべきだが、解釈による非難の扇動に対しては慎重になるべきだと思う。
ネット上で伺える事実は、「pixivがカオスラウンジと癒着し支援していた」ともそうではなく「pixivの平常運転が招いた事態だ」とも解釈することができる。
それは所詮ネットを通じて得られる情報でしかなく、いずれも解釈であって真実ではないし、なおも癒着を批判するならば相応の証拠を示すべきだろう。
俺はカオスラウンジ憎さに活動の内面(問題の本質である著作権侵害)に直接関与したわけではない人々まで焙り出して魔女狩りする風潮が正しいとは思わない。
ただpixivがカオスラウンジの活動を間接的に支援したことで、彼らの行為を助長したのは事実であり、身内であったことも踏まえて癒着と見なされないためにも、通常よりも厳しい処罰に臨むべきだったと思う。
そういう「見せ方」の拙さ、信頼を失うやり方を続けていけば、何者かが擁護を書いたとしても、いずれ自滅するだろう。
人は広大なネットに自分が望む結論を探し、そこに落ち着くだけで、何者かも分からない俺が、何か書き残したからといってそれで誰かの結論を変えられるなどとは考えていない。
pixivに対してこれだけ非難が集中するということは、それが多くの人にとって「望む結論」だったというだけだろう。そしてその種を蒔いたのは他ならぬpixiv自身である。
Togetter - 「PIXIVから送付されたというメールについてまとめ」
感想としては大体同じだと思う。やはりpixivはユーザーとの距離の測り方に完全に失敗しているという印象。
「退会」という運営否定の最強のカードを切るユーザーまで出てきている、その意味を甘く見積もり、この非難の高まりに対して、コミュニティへの影響は僅かだという言葉が沈静化になると考えるのは、コミュニティ志向なあまりユーザーに対する敬意が疎かとなっている証左と見える。
運営サイドの論理とユーザーの論理とでは別物なのだということが、恐らくは分かっていないのだろう。その危うさはいくらでも悪意でデコレーションできるし、単なる身内意識なのだと好意的に解釈することもできる。
もっとも私信を流出させる方法には賛同したくないので、あの内容に対して第三者である俺には文句を付ける権利はないと考える。
願わくならば、受け取った人間が、一言ガツンと文句を言って欲しい。「運営がそんな考え方でいて、俺たちが気持ちよくpixivを使えるとでも思ってるのか」と。
東北が「米どころ」の地位を確立したのは戦後だという歴史は、意外と知られていない。熱帯原産の商品作物であるコメは、東北では大正期まで収量が低かった。それが変わった背景は、農業技術の進歩もあるが、東京市場の膨張、戦中と敗戦後の食糧増産政策、戦前のコメ供給地だった朝鮮と台湾の分離などである。こうして東北は、米・野菜・水産物などの東京への供給地となった。
また東北は、東京への低廉な労働力の供給地だった。高度成長期の集団就職や出稼ぎだけでなく、高卒農村女性を始めとした低賃金の非正規労働者の存在が、下請け部品工場などを東北に誘致する力となった。
さらに東北は、東京への電力の供給地だった。コメが減反に転じ、過疎化が進んだ高度成長末期から、原発と交付金が誘致された。沖縄に基地が集中したように、福島と福井には東京と大阪に電力を供給する原発が集中し、他に産業のない地元の人びとが働いた。こうして穀倉地帯に原発が集中するリスクが生じた。
1990年代以後のグローバリゼーションの中で、一次産品と労働力の供給地としての東北は、アジアとの競争にさらされた。いっそうの過疎化と高齢化、小商店や公共交通機関の衰退が進んだ。点在する小集落から生活物資を買いに行くのも自動車に頼らざるをえなくなり、地域の命綱となったガソリンスタンドも過疎化による経営難で減少している。
今回の震災では、原発事故と電力危機、放射能による農水産物汚染、ガソリン不足と物流停滞、高齢被災者の多さ、部品工場の被災による部品供給網の寸断などが重なった。これらは上記のような地域で震災がおきれば、必然的に発生しうる事態である。これを想定外の複合災害のように東京のメディアが論じるなら、それは地震といえば関東大震災や阪神大震災のような都市型災害しか想定していなかった、無意識の東京中心主義の限界というほかない。
復興も、関東大震災や阪神大震災とは条件が違う。消費地である都市の復興と異なり、生産地の復興は、都市計画や防災を中心に論じても限界がある。また神戸は大阪に隣接して雇用もあり、経済活動の一時移転もできた。だが今回は、2030年までに人口3割減さえ予測されていた過疎地が生産基盤を失った。
復興に水をさしたくはないが、懸念されるのはいっそうの過疎化だ。グローバル資本とグローバルシティーにとって、食料と労働力の供給地は東北である必要はない。20世紀の国内分業で位置を定められてきた東北は、21世紀の国際分業競争の渦中で打撃をうけた。地震と電力供給のリスクがある東北から工場を海外へ移す動向も予想されている。町をまるごと失い、放射能におびえ、仕事と安全の未来もみえない状態が続けば、若者から先に東北を離れてゆく。この現実を直視し、日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有せずには、防災都市やエコタウンの構想も新築の過疎地と財政赤字を残すだけに終わりかねず、原発に頼らない地域社会も作れない。
復興の前提は、原発事故の大局的対策だ。放射能漏れを伴う綱渡りの冷却が数ヶ月は続く。放射能の放出は3月より減ったが、再度の大放出の恐れは残っている。政府は矛盾だらけの暫定措置(飲料水の放射能基準値が原発の排水の7倍など)のつぎはぎを超え、さらなる避難拡大や経済的・国際的影響など、あらゆる事態を想定した長期戦略を公表して国民を納得させてほしい。何もしらされずに非常事態になれば、かえってパニックがおきる。「最悪の事態になれば東日本がつぶれる」と発言した菅首相なら、そうした戦略を立てる意志はお持ちと思う。少なくとも「想定外だった」という言葉だけは、世界中の誰も聞きたがってはいない。
震災後には、「がんばれニッポン」という言葉が躍った。だが震災が浮き彫りにしたのは、「ニッポン」の一語で形容するにはあまりに分断されている、近代日本の姿である。
朝日新聞4月28日 あすを探る 思想・歴史 ( via http://twitpic.com/4u59mv )
そう。その通り。それと同じように、完全自由主義ならば値上げは正しい。
平時、ライフラインは法律の縛りを受けている。値上げもままならない。
規制緩和が叫ばれてはいるが、すべてにおいて真に完全自由化が求められているわけではない。
水(水道)は特に重要なライフラインとして民営化すらなされていないのが普通である。
そのような重要な物資の値上げへの非難は間違ったものではない。そもそも、完全な自由経済下におかれるべきものではないのだから。
元記事の理論であれば、電力の不足に対しては電気料金を値上げすれば良いことになる。
数倍や数十倍に値上げを行い、即時支払などを求めれば、多くの人は電気の使用を控え、使用電力は下がり、電力不足はおこらず、医療に限らず必要な人が必要な分だけ使用できる事になる。
しかし、実際にはそれが多くの問題を生むことは明らかであろう。
それは独占が云々と思う人もいるだろう。そう。それもある。
市場の寡占化に限らず、様々な不均衡が実際の市場には存在する。
交通(すなわち流通)や情報の制限された被災地では様々な不均衡が起こり、健全な市場形成は難しいだろう。
たまさか良い職場でいろいろと便宜を図ってくれたようだが、普通はそんなこと無いぜ。
どこにそんなことが書いてあった?
教師受験に色々と便宜を図ってくれた??
福利厚生充実???
教師を志した時点での状況はどん底だよ
給料安くて拘束時間の少ない仕事を紹介してもらって身を削って勉強した、と言う意味だ
お前はもう明らかに
元増田の文章をちゃんと読めてないゆえに変なこと言ってるだけということがはっきりしたわけだが
この際よく聞いておいて欲しいこととして、
お前のかーちゃんでも先生でもない俺達は、
お前みたいなクソ低学歴のウンコみたいな読解力をチェックして添削して
大便みたいな価値しかない脳みそに修正入れるなんてことをしたくないんだよ
お前には今のところその資格がない
他の人の話に入ってくるな
中国がまたしても尖閣諸島に漁業監視船を送り込んでいるらしい。日中友好の為に、双方が努力をと言っているが、努力すべきは中国側であり、日本に対する侵略行為を直ちに止めることである。
日本に侵略行為を仕掛けている国家の代表を、賓客扱いで招く必要は無い。
APECに中国の参加を期待しているようであるが、中国の出席を断るべきである。
反日教育をしている朝鮮学校の授業料無償化といい、APECを成功させる為に中国の出席が必要という考え方といい、国際的な世論の流れに対して逆行しているのが、日本民主党の政策と言える。
北鮮も中国も、国際的なパブリックエネミーとして認定され、締め付けの対象となっているのに、なんで、金を出したり賓客扱いで招かなければならないのか。
授業料無償化にしても、北鮮が核を廃絶し、民主化して反日教育を止め、日本との間の諸問題を完全解決し、友好条約を結ぶまで施行を凍結というのが、ぎりぎりの判断となるであろう。外交問題でもあるのに、省庁の予算を増やしたい文部省に丸投げしたからこうなったので、主導すべき政治がマヌケだったというだけでしかない。
中国は、国際会議において自国の立場を釈明しなければならない状態であり、APECはその重要な機会の一つである。APECに出席したければ尖閣への侵略行為を止めろと強く言い、中国の出席を断るべきである。国際会議への出席を断られる事は、中国にとって、重大な損失となる。しかし、尖閣諸島に漁業監視船を出したまま、日本で行われるAPECへの出席ができれば、日本は尖閣の中国領有を認めたと既成事実化できるという目論見で、綱渡りを行っているのである。米軍を後ろ盾とする日本ですら認めたのだからという事で、その他のアジア諸国を黙らせるという目的において、これほど有効なギャンブルは存在しない。
中国にとって、日本は国際社会へと繋がる命綱となっているが、その価値を自ら貶めて安売りしているのが、民主党の売国政策である。
よく言われることだけれど、ロードとかクロスバイクとかを買ったときに、必要な付属品がある。
例えばライトとかだけど、こういうのを買うと本来の自転車の値段より高くなるのが若干曲者。
楽しく自転車を乗るために、必要なものと値段をあげてみる。
絶対に必要なもの以外は、ちょっとずつ欲しいなと思ったら買っていけばよい気がする。
登る前にはさあやるぞ、と意気込んでもいざ飛び降りる段になると脈拍が急激に上昇・口がカラカラ・足が竦んで進めない。
「命綱はついてるから大丈夫」と後ろから声をかけられてもそんなことはもはや関係ない。
風が吹くたびに「自分がなんでこんな不安定なところにいるんだろう」「こんな行為必要ないじゃないか」と言い訳が頭を駆け巡る。
近くの柱にしがみついた辺りで、周りが何をやってももう手遅れ。半ベソでその高い塔から降りることは決定だ。
周りは醒めた目で「安全なのに」「高所恐怖症なんじゃないの」といわれる。
でも違うんだ、普通に暮らしている分には問題ない、と言っても病気あつかい。
結局「あんなもので楽しんでいる奴の気がしれない、自分には必要ない」「馬鹿と煙は高いところが好きっていうよね(笑)」と価値を否定するか、
いやいや、若者に起業しろ海外にいけチャレンジしろとかほざき続ける、鉄骨渡りの観客の皆さんはまさに
としか言ってないと思うねぇ。少なくともそれをけしかけまくってる。
「安全な鉄骨渡りなら、カネをもらえる意味がない!カネが欲しかったらどんどん危険な鉄骨をわたれ!」
ってな感じで。
そもそも、若者に鉄骨渡りをけしかけてるような人たちが「セーフティネット」とやらをまともに論じてるのを見たことがないね。
「いかに鉄骨渡りが素晴らしいか」「鉄骨渡りに気軽に挑戦できる社会こそが重要だ」と、鉄骨渡りをやらせることだけに執心で、
命綱やセーフティネットの存在は「まあ、それがなきゃだめだよね。それは今後の課題だろう。」としか言わない。
鉄骨渡りの実現性や未来予想図に関しては色々な学問やら経済学(笑)やらを駆使してけしかけようとするのに、
命綱やセーフティネットの実現には全くといっていいほど興味を示さない。
鉄骨渡りの観客って概念は、二言目には「リスクをとれる社会を」「海外に出ろ」「起業が容易に出来る社会を」などという
経済に詳しいことを自称するようなネットの論客の皆さんすべてに当てはまると思うよ。
具体的に言うと、池田信夫とか、ちきりんとか。
んー、いやさ、そりゃ、失敗はするだろうし、
鉄骨から落ちる確率はきわめて高いと思うけれど、
鉄骨の落ち方にもいろいろあるだろう、という話は確かに十分されてないかもね。
自分の実力も踏まえずに、地上1000mの鉄骨をセーフティネットもなし、命綱もなしで渡れ、みたいな話だと「はぁ?氏ねカス」だけど
何も全員が全員、そんなわけのわからない鉄骨をわたらなくてもいいわけで。
地上5mぐらいで命綱、セーフティネットつきの鉄骨だとか、自分の能力にみあった鉄骨の渡り方はあるよね。
まあ、日本は失敗したときのリスクがでかい制度になっているので、セーフティネットの網、うすいからね。だから、ベーシックインカム云々とかいう話題になるわけだけど。
とりあえず、おれは今、鉄骨の上にいるけどね。
まあ、落ちたら数ヶ月ぐらいはニートかなぁ。
でも、まあたぶん周囲の人間が鉄骨渡りをやってることを理解してくれているから、
鉄骨から落ちても、たぶん、誰かが救急車ぐらいは呼んでくれるだろうと期待はしてる。
鉄骨から落ちて、叫んでも、誰も救急車も呼んでくれなかったら、
そのときになってから、愚痴ることにするよ。
愚痴なのかどうなのか。
ないのだけれど(化)、自分が悩んでいると感じ
誰かの声を聞きたく、書くことにしてみました。
付き合って6年の彼女がいます。
別れを視野にいれた検討が行われているそうです。
ケンカはなにも珍しいことでなく、
毎月1度はしているようなことなのですが、
何故か今回は“別れ”を考えるほどのことだったようです。
ケンカのきっかけとか、原因とか、そういうことはどうでも良い。
僕が分からないのは、別れの決定権の所在です。
今回の流れでいうと、彼女が一方的に別れの審議をスタートしています。
2人の相談の上、別れるべきか?と考えるのならばわかるのですが。
つまり、彼女は僕から別れを切り出すことはないと考えているわけで、
付き合いが続行か決別かの選択は、彼女にある。ようなのです。
惚れた方の負け、という言葉があるけども、
現在僕が惚れているということなんだろうか?
実際、僕は今別れる気はないし、
続行というなら続行だろう。
僕には選択権が無いように思える。
別れを検討するような、付き合いに対して希薄な方が
別れの選択権を持つものなのだろうか。
今回、続行となった場合でも、
それはそれで恐ろしいことだと思う。
命綱を常に握られているような、そんな窮屈さと恐れと不自由さを感じます。
率先して別れを考えない限り、この不安はなくならないのでしょうか?
付き合いってなんなのでしょうと、悩む今日この頃です。
11/16 21時 追加
レスって言うのかな、いただいたメッセージへの返し方が分からないので、
追記という形で、ご返信します。
・(化)
→ 化物語口調を書きたくなってしまったもので、すいません。意味はないです。
・「審査を通りたい」という願望
→ 私はその願望をもっているから、悩むのでしょうかね。
私は付き合っていたいというよりも、付き合っていたいと思われたいのかもしれません。
・あんたが「別れ」を選択したら、終わりだろ。
→ 私から「別れ」を選択することはないと思います。
彼女もそれを知っていると思います。
・双方の努力が必要
→ 極論で言えばそうだと思います。
お互い努力していても、その努力が相手のもとめるものは違う場合もあります。
皆様のお声ありがたいです。
なんだか冷静になれます。
付き合いってのは、考えるほどややこしくなるだけで、
その元はいたってシンプルだと思います。
確かに「振られそうな男が、グチグチ言ってる」という感じなんだろうなとは思います。
まだ振られるかどうかは、わからないけど、答えが出る前だからこそ、
きちんと考えて置きたいというのが、僕の今の心境です。
僕の持つ選択肢は、別れたい・別れたくない、どちらかだと思います。
これがそもそもの問題なのではとも思います。
別れたくないだけで、「付き合っていたい」ではないのかもしれません。
恋愛正統派からすれば、それは別れるべきってことになるのだろうけども、
思い返すと僕の恋愛のスタンスは、「相手の意に沿う」だった気がします。
相手を求めるのではなく、求められたいというか。青臭いですねw
付き合う理由を相手に求めるのだと思う。
そいう付き合い方もあるんじゃないかなと思うのですよ。
だったらまぁ、相手の持ち札に左右されとけって話になっちゃいますね。
なにがなんだか。。。すいません。
(フィクションです)
大学院を修了後に上京して、大手の暗殺系企業で五年間勤務していた。エキサイティングな職場だった。厳しい先輩と、ハードな仕事を次々こなした。待遇は悪くなかった。三年目には年収が手取りで一千万円を越えた。ただし昼夜もなければ公私もなかった。殺しても殺しても依頼は尽きなかった。この激務は終わりのない日常なのだと気付いたちょうどそのとき、仲の良い同期が死んだ。ブレインストーミング中に流れ弾が頭部を撃ち抜いたのだ。桜散る春のことだった。
ゴールデンウィークも休みなく働き続けた僕は、翌週に四十度の熱を出した。近くの病院が出した診断結果は「ただの風邪」。それだけ体が弱っていたのだ。やりかけのプロジェクトがあったのでなんとか会社へ向かおうとしたが、体は動かなかった。動け、動いてよ、という言葉を自分に呟いた。動かない。結局、東京に来てはじめて自宅で時間を過ごすことになった。一日が長かった。ワンルームにはテレビも冷蔵庫もなく、ゴミ箱さえない。がらんと広い死んだような家で、死にかかっていた。
翌日も体調は戻らなかった。誰かと話をしたかったが、学生時代の友人とはもう長いあいだ連絡をとっていなかった。アドレス帳を開いてはみたものの大半の顔が思い出せない。仕方がないので、一日を布団にくるまって過ごした。誰の訪問もなければ、誰からの電話もなかった。恋人からの電話さえなかった。きっと僕は一日中働いていると思ったのだろう。ふだん彼女から着信があっても返事をしなかったのは僕なのだ。夜中にふと目が覚めて、さめざめと泣いた。ひとしきり泣いて、僕は退職を決意した。
一週間かけてなんとか体調を戻した僕は、どう退職を切り出すか迷いながら出社した。待っていたのは、リストラの宣告だった。「なぜかは君も分かっているだろう」とミシガン大卒の上司は言った。どうやら寝込んでいるあいだ会社からのメールに対応しなかったというのがその理由らしかった。「クライアントはおかんむりだ。責任はとってもらう」上司ははっきりとそう言った。パソコンは会社に置いたままだった、と言い訳する気にはなれなかった。外資系は違うな、と僕は妙に感心した。「暗殺者はともかく、外資系はやめておきなさい」と言った母の言葉を思い出した。
僕はそのとき二十九で、違う業種に足を踏み入れるにはすこし遅かった。そして同業他社へ進むには内情を知りすぎていた。残されていたのはフリーの暗殺者として独立する道だけ。僕はそうした。もちろん最初はうまくいかなかった。貯金を食い潰す毎日だった。サラリーマン時代はなぜ、あんなに高いスーツばかり買っていたのだろう。足にぴったりフィットするようオーダーしたストレートチップの革靴も。
ほどなく恋人にも捨てられた。馘首になったことを打ち明けたら「結婚する気はあるの」と聞かれ、返答に窮したらそれっきりだった。これまでに殺してきた人達の家族に明日殺されるかもしれないのに、それはそれとして「結婚しよう」と答えるのが誠実な態度だったのだろうか。僕にそんな自信はなかった。
その時期、前職の顧客からぽつぽつと頂く仕事が僕の命綱だった。貧乏はつらい。しかしそれ以上につらいのは、暇なことだ。仕事一筋だった自分には余暇の楽しみ方など分からなかった。暇を潰そうにも相変わらず我が家にはなにもないまま。だからと言って、これまでに買ってきた恨みを思うと街をぶらぶら歩く気分にもなれなかった。夜になるたび、実家に戻ろうかと真剣に悩んだ。母にはまだ退職の話さえしていなかった。
好転の契機は価格を見直したことだった。それまで用いていた大企業譲りの価格体系は、プラン、オプション、割引制度が複雑怪奇で、一般顧客には理解が難しい。そんな当たり前のことに気付くのに半年かかった。ゼロに近付いていく預金通帳を眺めて、ふと分かった。実際のところゴールド・プランだろうとプラチナ・プランだろうと、顧客にはどうでも良いのだと。殺して欲しいから暗殺者を頼む。それだけの話。そこで原則、一人につき二十万円と改めた。コンサルティング・フィーはなし。メンタル・サポート・オプションもなし。分割払い不可。にこにこ前金一括払い。失敗したら全額キャッシュバック。失敗などしたことなかったので、なんの問題もなかった。
ネット系の暗殺企業でCFOを勤める後輩の薦めに従い、なけなしのお金で簡単なネット広告も始めた。「これからは暗殺もネットで依頼する時代ですよ」と後輩は言っていた。正直に言って半信半疑だったが、ほどなく新規顧客を獲得できるようになった。暗殺系企業は大手顧客ばかりに目を向けていて、リテール向けのネット進出に出遅れていたのだ。ネット系の暗殺企業はいずれもベンチャーだが、急速に顧客の支持を集めている。僕はその波に乗った。
すこしづつではあったが、充実した忙しい毎日が戻ってきた。殺して、殺して、殺す毎日。正直に言って、サラリーマン時代は企業闘争に関わるプロジェクトばかりだったので、個人から依頼される仕事の大半が痴情のもつれであることには閉口した。それでも、大事なお客さんであることに変わりはない。ある時は依頼者の夫を殺し、ある時は依頼者の夫の浮気相手を殺し、ある時は依頼者の本妻を殺した。
独立して一年が過ぎた。流れは上向きだった。そこに不景気がやってきた。
仕事はもちろん減った。不景気で依頼人が減ったのはもちろんのこと。しかしそれ以上に、不景気で暗殺者になろうとする輩が大勢現れたのが問題だった。仕事が減るという結果は同じかもしれないが、なお受け入れがたかった。なんでもどこかの週刊誌が資格がなくてもできるフリーランス仕事として大々的に紹介したらしい。誰でも簡単、いますぐ暗殺者! というわけ。「一にも二にもコストカット。これからは自分で殺す時代」なんてことを言うコメンテーターまで現れた。
自分の腕は鈍っていなかった。一年を通して失敗は一度もなかった。評判だって悪くなかった。だからこそ仕事が減るのは堪えた。後輩が連絡をとってきたのはそんな時だった。場所は青山の隠れ家風フレンチレストラン。「安くないけど、いい店でしょう?」後輩は最初にそう言った。彼の働くベンチャー企業は今や暗殺系で一番の成長株。週刊誌にそそのかされて始めた素人暗殺者を大量に抱え、コミッションで稼ぐビジネスモデル。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
「それで、景気はどうですか?」後輩はそう続けた。もちろんこちらの景気を理解しての発言である。「今日はなんだい」と僕は言った。それから後輩は休みなく喋りまくった。要約すると:これからは暗殺にも無料の時代がやってくる。クリス・アンダーソンという人が「フリー」という本を書いているそうだ。「無料の暗殺が世界を変えるんです。嫌な人間のいない世界になりますよ」彼は言った。
「無料でどうやって生活するんだ」僕が言った。後輩は待ってましたとばかりに答える。「広告ですよ。殺害現場を広告にするんです。ちょうど三億円事件でカローラが有名になったみたいに」「面白い話だとは思うが、そんな広告を出稿するクライアントがいるか」「いますよ」後輩は笑った。「有名になれば勝ちなんです。有名になるためなら、どんな広告でも売る企業ばかりですよ。だいたい、クライアント以外はそれが広告であるかどうか分からないんですからね。たまたま殺人事件を通じてなにかの商品が有名になるだけです」
「無料で殺される人間は不憫だな」僕は言った。「殺されればなんだって同じですよ」後輩は答えた。「そうか」僕は頷き、彼の心臓にナイフを突き刺した。いつもどおりの手口。失敗するはずがなかった。入念にナイフをえぐると、後輩は一言も発さずに死んだ。僕は後輩をテーブルクロスに包み、店主に一言言い残して店を出た。景気が良かったときによく使った店だった。後輩はこの世界で生きるには目立ちすぎた。
翌日、コンビニのATMで二十万円を引き出した。趣味のひとつもないので、家賃と食費以外には使うあてもない。とりあえず向こう二ヶ月は暮らして行けそうだ。僕は家に戻り、布団にくるまって寝た。明日はなんの仕事もない。
(ブクマコメントなどありがとうございます。PCが故障中なので自分のサイトではなく増田に投稿しましたが、いつもより反響があって嬉しいやら切ないやらです。http://youkoseki.com/text/ にその他の短編小説をあれこれ掲載していますので、良ければどうぞ。また三十路から小説家デビューする方策や、いまどき短編私小説を募集している媒体情報などご存知でしたらご教授下さい)
今まで僕は仕事を最優先して生きてきた。
休みの日も、家での食事中も、入浴中も、常に仕事のことを考えてきた。
こんな僕だけど、結婚する機会に恵まれ。近々結婚することになった。
高校を卒業して東京に出てきた友人たちは続々と地方に帰り始める。
地方での暮らしを聞くと、本当に時間の流れが遅いらしい。
収入は少なくてもスローな暮らし。結婚したらそんな生活もいいんじゃないかと思った。
僕は6時に起きて、朝食を食べる。
もう世界の経済情勢なんて気にする必要はない。日経新聞の代わりに目覚ましテレビを見る。
もくもくと手を動かし、5時になった瞬間に定時ダッシュ。
5時半には家に着く。
さて、寝るまで何をしようか。
僕は数年前に買ったMacBookを広げ、Firefox3を立ち上げる。
最近Firefox5がリリースされたらしい。どちらにしろ僕のMacじゃ動かないだろう。
ITから離れたばかりの頃は理解できていた記事が今では暗号だ。
完全に僕はITの正解から遠ざかってしまったらしい。
あれほど興味のなかった野球が今ではとても面白い。
外出時の命綱だったスマートフォンも今では解約し、パケホーダイにすら入っていない携帯が一つ。
店長は僕らの若い頃からずっと同じだ。多少の無理も聞いてくれる。
帰りにコンビニ寄る。
バイトの子は友達の妹だ。
どこに行っても知り合い。
とてもゆっくりと平和な生活。
たぶん極端な例だけど、こういう生活をはたして受け入れられるだろうか。
政府が保有する外貨の実弾は決して少なくはない。韓国の外貨準備高は世界6位だ。普段ならば外貨準備高は2400億ドル(約25兆2800億円)で十分だ。しかし、現在は平常時の計算は通じない。国際市場からのドル調達が断たれた状態で、国全体が外貨準備という唯一の命綱に依存しているからだ。
市場関係者は政府が外貨準備をどれだけ使ったかをチェックするため、毎日のように計算機をたたいている。政府が市場介入を行うたびに、何十億ドル使ったという計算がすぐに出る。政府は隠そうとしても隠せない。政府は財布を開けた状態でポーカーゲームをしているようなものだ。
これね、つまりウォンに実需がほとんど無い、ウォンを欲しがる人は誰もいない、ウォンを買うのは介入している韓銀だけってのがポイントなんだがなあ。ハゲタカしか見てないもんなあ。
通貨為替相場のハゲタカってファンダメンタルズ重視っすよ。ファンダメンタルズが悲惨なのに、介入したところで単にカモにされるだけなんだってーの。
アポロと違って、最初から中国はバイアスかかってるからな。俺も「臭ぇ、ゲロ以下のにおいがぷんぷんする」と思う。けど、一方で頭の中の冷静な俺が、叫ぶのは待てと言ってるんだよな。
ということで、俺は態度保留。
今までいろんな人間とつきあってきた。超人と呼んでいい人間も数名いた。
そのうちのひとりには、「これができたら1000円やるから」と言われ、建設中のマンションの鉄骨を命綱無しで一周したとされる、リアルカイジがいた。
リアルカイジは商才に長けていた。この点では、ベンツのエンブレムをパクって糊口をしのぐ、マンガのカイジとは異なる。
彼は中学生にして、中古ゲーム屋の買値と売値の中間の値段でゲームを売買するマーケットプレイスを構築した。当然ながらこのマーケットプレイスは、売り手と買い手にWin-Winの関係が成立するので、好評であった。
彼自身も、このマーケットプレイスを使って、ゲームを買っては売りを繰り返し、少ない投資で様々なゲームを満喫していた。
だが、僕が今でも一番忘れられないのは、アミラーゼ超人である。
中学の理科の実験で、唾液がデンプンを分解するための条件を調べるものがある。唾液に含まれる酵素のアミラーゼが、人肌程度の温度下でないとデンプンを分解出来ないという条件を実証するアレだ。
クラスのみんなの唾液は、当然ながら上記の条件に従った。しかし、アミラーゼ超人の唾液だけは、いかなる温度下においても、見事なまでにデンプンを分解したのである。いくら氷水に浸そうが、いくら熱湯に浸けようが、彼の唾液はデンプンを分解した。
これを不審に思った先生が追試をしても、やはり結果は同じであった。
この結果は、理科が好きだった我々の派閥に衝撃を与えた。なぜならこの結果は、アミラーゼ以上の性能を誇る酵素を持つ人間の存在、すなわち、超人の存在を示唆するものだったからだ。
我々は、彼をどこかの大学の研究室に送り、彼の唾液に含まれる酵素が何であるのか検証して貰おうとした。しかし、それは実現しなかった。
よって、「おそらく彼は、進化した人間なのだろう。つーか、そう思った方がロマンがあるし。」というのが、我々の結論となった。それから10余年が過ぎた今日でも、彼の唾液に含まれる酵素が何だったのかは、全く思いもつかない。
なので、僕の中で彼は今でも、進化した人間としか思えないのである。
彼はいわゆる今で言う「おバカ」であった。クラスのみんなは、おバカな彼に勉強を教えたり、受験での面接の模擬練習につきあって、何とか彼を高校に進学させようとした。
その甲斐あってか、彼は地元の高校の自動車整備科に入ることが出来た。風の噂では、彼はその高校で生徒会長になったという。このあたり、やはり彼は超人であったと思う次第だ。
今頃彼は、どこかの自動車会社の工場で、その超人ぶりを発揮しているのだろうか。あるいは、どこかの整備工場で、その腕を振るっているのだろうか。もしそうなら、ペーパードライバーを返上してでも、彼の作った or 整備した車を動かしてみたいと思う。
いや、単純にさ、人に会うのが怖い俺みたいな人間はどうすればいいんだろうね、って言う話。
ものすごく、とんでもなく人と会って話するのが苦手なんだよね。磁力で反発しあう関係とかあるじゃないですか?あれに極めて近い感じの状態なんですよね。ほんとのところ。対人恐怖症というわけでもないし、警戒心丸出しで話しているわけじゃない。会話が詰まると脂汗が出る、までは行かないけど、頻繁につまるし、それで気まずい感じを味わうことは多い。気の利いた一言でも言えたらいいんだけどって思うけど、面白い話題を用意してるわけじゃない。というか、そんな話題持ってたら苦労しないよね。大体さ、話してて、絶対つまんなく思われる事が事前に分かってるのに、誰かに会いに行きたいとは思わないよね?だから人に会わない。その前提たる、会う人がいないけどね。まったくもって喜劇だよ。
毎日家に帰る、というより、家に逃げる感覚。そういえば、ここ10年近く10分以上の会話をしてない。保って10分。というか1分が限界。仕事上必要なコミュニケーションは取れる。でもそれ以上を求められると本当に困ってしまう。精々話の腰を折らないように聞く事につとめるくらい。でもそれも気の利かない相槌程度しか打てないから、すぐ途切れちゃうんだよね。そういう事ばかりだから、最初は話かけられても、次第には空気扱いがいいところ。本当につまらない人間だから。読み返すと余計惨めに見えるな。
別に他人が悪魔に見えるわけじゃないし、実際話してみるといい人ばかりなんだけど、第一致命的とも言えるのが、名前を覚えるのが本当に苦手で。今の職場のまわりの人の名前も2ヶ月かけて、メモとか駆使してようやく覚えた位。分からない事を尋ねる時とか本当に苦労するから、それこそ必死になって覚えたけど、プライベートだとそんなことは無く。隣人に名前覚えられてるけど、全員名前知らないとかザラで、学生時代の同級生で名前覚えているやつなんて片手で足りるほどしかいない。元々ひきこもりだったと言うのもある。それでいてこの性格。これでもなんとかなるとか言う奴がいたら、俺は真っ先に、詐欺師か、危ない宗教か、マルチを疑うね。
辛うじてなんとか今社会生活営んでるけど、何というか、周りの人間がレベル50位なのに、俺だけレベル3みたいな感じで、もはや絶望とか通して呆れ果てる。こっちだけ飛車角落としてプロ棋士相手に挑んでいるような状態で、学生時代なんてあってなかったようなものだし経験の差っていうのは天地ほどの差がある。ネットなら何とかなるかもしれないって思ってtwitterにも登録して、実質可動期間は半年位だけど、会話した相手も二桁いかない。どう考えてもここから大逆転なんて夢のまた夢の様に思える。はっきり言って宝くじで一等前後賞当てるようなものだ。継続は力なりっていうけどさ、こういう状態でああいうのを相手にすると、もうどうしようもない絶望を感じてしまうの。
例えばさ、何百メートルもある、グランドキャニオンみたいな断崖を命綱無しでロッククライミングしている人から、お前もやればできるとか上から言われたら、できるわけねーだろって思うでしょ?それに近い感覚。ああもう、俺はこういうくだらないオナニー文章を書いているのがお似合いって事なんだろうな・・・。もう何しても無理な気がする。こういう生活をおくってるとさ、中二病じゃないけど世界から必要とされてないってひしひしと感じられるもん。カフカの変身状態だよ。今更どうしろっていうんだよ?それでも人を巻き添えにするような事はしないって位のちっぽけな矜持は持ってるけど。
嘘、ああいう事はアキバ通り魔事件のような事は考えたことはある。ただ、それすらできぬチキンって事。チキンならチキンらしく、昔ばあさんから聞いた話みたいに、絞め殺されて晩飯にでもなればいいのに。文字通り飯の種。笑えるだろ?
賛同する人がいるかどうかわからないが、自分の人生観についてちょっと書いておきたい。
生まれてきたのも生きているのも全て偶然または必然の産物であり、時間が来たら必ず死ぬように運命付けられている。
だったらなぜ生きているのか?
自分の考えでは人が生きているのは、生きることに対して「価値」を見出しているからだ。
それは日常のささいなことだったり、音楽やゲーム・インターネットを楽しむことであったり、向上することであったり、友達や家族・恋人と会話することだったり、仕事で成功することであったり、自分の夢を追いかけることであったりする。
個々人の「価値観」によって、何に価値を見出すかという対象は変わってくるわけだが、ともかく人が生きているのは何かに価値を見出しているからだ。
「価値」を見出すということは、生きることに対しての命綱と言える。
ゆえに「価値」を見出せない、特に自分や他者の命に対して価値を見出せなくなることは危険なことだ。
心底そういう状態になったら生きることから退場せざるをえない。
自殺をする人もこの前の秋葉原の無差別殺人の犯人も、自分や自分を取り巻く全てのものに「価値」を見出せなくなかったから罪を犯してしまったのだと思う。
何のために生きているのだろうとか考えることもあっただろうが、これからはもう迷わなくていい。
生きている意味はないけれど、生きていることに対して自分は何かしらの「価値」を見出している。
だから生きている。
http://anond.hatelabo.jp/20080317105811
リスクの話ではない。
何なら浮き輪付きやら命綱付きでも良い。その「友人」は救難訓練のプロという設定でも良い。ほかにも、安全に関わるリスクは好きなだけ取り除ける要素考えてくれてかまわん。そうであってもこの比喩は全然意味を失わないから。つまりこの話のキモは、いきなり川に飛び込んで練習するのは練習法として下策であり、恥をかくだけ大損で、いいことは一つもないということだ。モテないのは、モテるための方法を知らないという単なる知識の問題だけであって、それ以上でも以下でもない。プログラミングで言えばFizzBuzzプログラムを書ける程度の陵力をかけて初歩をしっかり学べば、どの分野だってロングテールからは脱出できる。
自己啓発厨がいつまでも下流から逃れられないのは「努力すればなんとでもなる」と信じ込んでいるそのナイーブさが最大の元凶の一つといって良い。英語力を上げようとして「英語は腹筋だ!」なんてアジ文句を信じ込んで腹筋運動を始めるようなバカが世の中どれだけ多いことか。
よく言われることだが、たとえば東大なんて寝ないで勉強しないと入れないようなところではない。一つのプログラミング言語なんて一生かけなければ身に付かないような高度な「スキル」ではない。そんなことも理解してない奴が「努力」をエラそうに説くなよ。世間で言う「努力」がどんだけ甘っちょろいものなのか、それをまず実感してみろ。
結局お前らは、「努力しなかったから自分は成功してないんだ」と口だけ反省して、結局明日からまた努力しないんだろ?たとえば、Javaがレガシー化したら自分もCOBOLプログラマの二の舞だ、と戦々恐々してるだけで自分では何の対策も取らない。実際のところ、学部初年級の情報科学を少し学べばどんなプログラミング言語にだって対応できる程度の能力なんていつでも身に付くのに、それすらやらない。ちょっと本格的な本は「これはすごい」「あとで読む」とかブクマするだけで結局読まない。初等的なことをダンコーガイがさわりだけ紹介してくれるのを口空けて待ってるだけで、自分では何もしない。
アホか。努力が大事だなんてエラそうなこと言うなら、どういう努力が必要なのか、それをまず考えてから動け。努力する気がないなら、最初から努力なんてエラそうに言うな。本当に「だせえ」のは「自分に言い訳して動かない自分が悪い」と口だけ言って元気になって、実は何もしようとしないお前らだ。それぐらいなら最初からのんびり日々を楽しんでいる方がまだ痛々しくなくてよい。