はてなキーワード: 体言とは
たぶんいろんな側面の話がまじりあっててこの話は面倒。
あと、初詣に行っても信仰心は芽生えない、ってのは必ずしも正しくないと思うよ。日本人の宗教観は柔軟だけど、信仰心がユビキタス(宗教用語としての)に存在するため見えづらいだけだと思う。内心どうでもいいと思ってるなら、初詣なんかいかないよ。
1が原因で騒いでる人はあんまりいないな
2が起こったことにより、新キャラ追加されたせいで旧キャラ削除されたって思いこんで、1をたたいてるって感じだな。
男キャラは既にDSでもう出てたし(男の娘アイドル、グラフィックがある男キャラ複数)。
バンナムにとって不幸だったのは、不人気4人をリストラしたのに、ほとんどのプレイヤーがその4人も好きだったことだろう(リサーチ不足とも言うが)
一番好きなキャラを一人選べと言われたらあの4人は不人気かもしれないが、好きな3人組を選べと言われたらあの4人のうちの一人でも入ってたような人が多かったんだろう。
「プロデュースできないという重要なことはちゃんと発表したかった」って言いながら
イベントでのあの口を滑らせたみたいな言い方。
あれはファンががっかりしてもしょうがない。
大体言っていることは同意できるのだけど二つだけ気になる点。
1.咲って言われているほど失敗してないよ。
咲-sakiって8000枚くらいは売れていますよ。そりゃけいおんに比べたら見劣りするけど、これだけ売れれば充分合格点。けいおんについては、私の直感だから、ソースを出せと言われたら困るのだけど、女性ファンについては高校生以上の人はほとんど居なくて、小中学生以上の若くて購買力のない女の子がファンになるケースが多い気がする。実際女性ファンが多い作品ってDVDが売れる傾向が強いんだけど、ほとんど売れていないし、当たらずとも遠からずな気がする。
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
元増田に書きたいなって思ってたことを大体言われてしまった…。
どうして保守的なんだろうか?(なぜ男女同権同負担を目指さないのか)」ってことだと思う。
男女雇用機会均等法から、数十年を経て女性側として残った感想は
そういった社会の状況ならば、「稼ぎのいい男と結婚するのがゴール」
「メシは男が奢るもの」みたいな価値観の方が生きやすいのは自然なことな気がする。
どうでもいいけど、平等の考え方として、
私(俺)というプライスレスな存在が側に居てあげてるんだからそれで平等!
みたいな考え方も両人が納得してるならいいんじゃないかなーって思う。
ほぇぇ、基本的に体言につける「お」は丁寧語、だと思ってたが、違うのねぇ
美化語? それっていつから?
年寄りはこれだからねぇ。
イマイチ「路線」が何を指すのかわからないけど、言いたいことのニュアンスはわかった。
絶望感の理由は、多分現代人の一般的な幸せの定義がその「路線」の先を走るものに左右されているからじゃないかな?
最近の人って何をしたいとか何になりたいとかって言う夢(所謂寝ない方の)が曖昧な気がします。
自分の中で自発的に得た目標がないから、雑誌やテレビの「スイーツ的なお姉さん」とか「株でちょっといい暮らし」に憧れたりして。
まぁ、捉え方次第だろ。
情弱でも旨い物食ってたくさん寝てりゃ「オッケェェェイ!」な奴もいるし。
ここまで考えて飽きたけど大体言いたいことまとまってた。
http://anond.hatelabo.jp/20090112230518
すでに
http://anond.hatelabo.jp/20090114175249
が言いたいこと大体言ってくれたんだけど。
・土日の食事は100%作成してる
・平日の嫁と娘の食事の「ストック」を土日で仕込む
・嫁の土日外出時は、娘の面倒見る
・土日は娘を風呂入れる。
・平日の家事が回らないって言うから、家政婦雇う。
(平日は週3日は、会社泊まり。
これって増田妻側から見たら
・月火水木金の食事は全部自分(ストックなんてスーパーの惣菜程度の役にしか立たない)
・平日は娘を風呂に入れて食事させて
・仕事もあって、家事が回らないのに、増田は家政婦でごまかす(本人が協力してくれない)
・平日週に3日は寝るまで一人で娘の面倒(むしろ平日ずっと?どうせ増田は泊りじゃなくても残業しまくりだろうし)
・毎日娘の送り迎え(推測。共働きなら昼間はどこかに預けてるんだろ?)
・増田とは週に2日しか会えない(のに2週間に1回=4日に1回は求められる・・・身体目当て?ww)
フルタイム(9時-17時)の仕事でこれやってたら、増田妻の方が血反吐吐くだろ。
「社暦が相当違うので」ってことは、増田妻は社歴5年以上?
一人の裁量でも仕事が出来るようになってくる時期だし、責任ある仕事も任せられてるかもしれない。
それでも毎日定時で上がって育児を優先してるわけだろ?
それだけの力を育児に注いでる増田妻からしたら、育児放棄・家事放棄に見えても仕方ない。
少なくとも、増田は「家庭」と「妻」を守る努力をしてるようには見えないな。
業務に関する講義でさ。
で、事前に配布された案内には講義自体は13時半から開始って書いてあって、
だから13時20分ごろに講義室に入室したんだけど、
実は講義の前に「前座」ってのがあって、研修の趣旨を説明する講話が既に13時から始まっててさ。
私はひとりすごすごと席に着いたわけ。
で、部署には「午後一で研修なんで席外します」って言って、13時ちょっと前にデスクを去ったわけ。
13時半からなら13時20分にもデスクをたてば間に合うんだけど、
ちょっとさぼりたかったんで早めに出た。
13時10分ごろになっても私が講義室に来ないもので、
係りの同僚が心配になって部署に電話したらしい。
しかし「(私の名前)はもう向かったはずだ」と、上司が回答したという。
デスクで仕事をしているわけでもなしに、どこにいったか分からず行方不明、
となると相当印象悪くしたかな・・
「すべからく」の場合も、多くは「べし」と呼応するけれども全部がそうというわけでもないよう。
はたしてそうか?
とは
だから「べし」が無いから誤用とすべきというわけでも無い。
ひとつの文の中にいくつもの要点が入っているのは美しくない、というのは構造的な意味もあるし純粋に見た目の問題でもあり、つまりこんな風にだらだら文章を続けると読みにくい上に飽きられて読み飛ばされて結局何にも伝わらない可能性が大きくなるということで、それはせっかく時間を割いて書いたり読まれたりするからには避けたいことである。
ろくなことにならないのは分かりきっているので避けるべきなのだ、修辞技法の多用などは。特に気をつけたいのは反語と体言止め。反語を使っていて文字通りに受け取られる、なんてことはないと思いたいけどね。文章がぶつ切りになっちゃうのは体言止め。出ちゃうのね、投げやり感が。多用されやすいし。使いたいのはここぞというところだけ。
驚くべきことに、誇張表現というのは書いている人間が思う以上に読み手には大げさに見えるのだ!対面であれば冗談であると通じる物言いも、ディスプレイで読む文章として現れると、多大な侮辱表現に見えたりすることにも留意したい。これを気をつけてないがゆえにただの煽り合いとか炎上阿呆エントリになってるの見ると思わず茶を吹いちゃうよね。
なるべくなら前提の類は最初の方に書いておきたい。読み落とされたくないことは、読みやすいところに書いておくべきなのだ。
ちなみにこのエントリは、気をつけたいことであって、気をつけてることではないし、実のところは私的なラブレターでしかなかったりする。なんでラブレターかって言うのは内緒。
忌みが通じなくなるし、何より格好悪い。「以外」と「意外」とかは本当にいい加減に使う人が多い気がす。自分が間違っといて只しい表現を読み手が汲み取ってくれるのを期待するは虫がよすぎるね。
なぜかというと、
例えば車の話題で盛り上がっている中、「俺のが凄い」といったとき、厳密にはそれは「俺の(車の方が)凄い」なわけで、しかしこの「車の」は、何度も出ている話題で、わざわざ言わずとも皆分かるゆえに省略され、「俺の(プリン)がある」「彼女の(靴が)がある」等と遣われるようになった。その省略形が余りにも広まり、省略とも意識されなくなった昨今、更に「共通認識は省略してしまえばいい」(言語は基本的にこういうところがあるよね)とのことで、その体言に続く「の方が」も省略され始めたのではなかろうか。実際通じるから。「俺の」は省略できない。「凄い」も省略できない。(まあ、親しい友人同士ならその辺りすら省略可能なときもあるが)比べる時、どちらの事を言うのか、そしてどちらの方がどうなのか、は基本的に省略できない。しかし話題となっている「車が」や、「方が」は、ほとんどなくても大体分かる。大体分かるものは、省略されてゆくのは、言語として自然な流れ。特に日本語はその傾向が強い。古文の頃からそうだし。「方が」が省略されるようになったのは、「俺の」だけで「俺の○○」を代替するようになったのと同じ流れであって、一方だけとやかく言うのはなんだかおかしい気がする。