はてなキーワード: アブダクションとは
本日は、チャールズ・サンダース・パースのプラグマティズム、特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。
パースのプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティックな格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念の対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果を考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。
この格率の重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念の意味をその実践的帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能な知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団の論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀の科学哲学の発展に多大な影響を与えた。
パースの論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理を視覚的に表現する革新的なシステムであり、現代の計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。
さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学的発見の論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹や帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実を説明しうる仮説を形成する」過程と定義した。この概念は、後のハンソンの「発見の論理」やクーンのパラダイム論にも影響を与えている。
パースの記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号の三項関係(記号・対象・解釈項)は、意味の生成過程を理解する上で革新的な視点を提供した。パースは記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点や能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義は現代の記号論研究の基礎となっている。
また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在を連続的なものとして捉える形而上学的立場であり、量子力学における波動関数の連続性や、現代の複雑系科学における創発現象の理解にも通じるものがある。
パースのプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身は晩年、自身の思想を「プラグマティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特に、パースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功に還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。
今日の考察を通じて、パースのプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学、記号論、科学哲学、認識論など、広範な領域に及ぶ包括的な思想体系であることを改めて認識した。明日は、パースの思想と現代の認知科学、情報理論、複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。
慢性前立腺炎で色々薬や漢方試したけど、ジムで脚のトレーニングするようになったらいつの間にか改善してた。
結論から書くと、ジムにあるマシンである程度の重量を使えばOK
ウェイトトレーニングは、スクワットやルーマニアンデッドリフトなど下半身鍛えられる種目があるけど、怪我をしやすいし他に意識する事が多いので初心者にはオススメできない。できるならベストではあるけど...
自重トレーニングは家でもできるしお手軽なんだけど、自重スクワットは慣れてくると楽すぎるし、負荷かけようとしてもなかなか難しい種目で、そもそも自分はあまり改善に繋がらなかった。
で、オススメのマシントレーニングだけど、比較的どこのジムにも置いてあるレッグプレスやレッグエクステンション、ヒップアブダクションをやる。ある程度高重量(ギリギリ10回できる)を2-3セット、週2-3回くらい。時間は1回20-30分で終わるはず。
マシンでやるメリットは、腰や膝などへの負担が少ないし、細かいやり方知らなくてもやり込めるところ。あと、コンビニジムみたいなところにも大体置いてあるところかな。
ただ理由は違う理由で、徒歩3分のところにできると聞いて、そのひと月前に入会して自転車で10分のところに通っていた。
そこは満足していた、そばに開業するのを心待ちにしていた。ところが自宅そばのところに開業した店は筋トレマシーンが3種類しかない店で、自転車で30分以内のところにある10店舗ほどの中でダントツに少ない店だったのだ
レッグプレスとチェストプレス、ラットブルしかなかった。初日に行ったのでこれから増えるのだと思っていたらそんなことはなかった。
正直これだけなら家と近所の公園でできると思いやめた。
せめてカールマシンとショルダープレスは欲しかった。この2つがない店はうちの近所の店しか知らない。ズラッと並んだトレッドミルやバイクをちょっとへらして、カールマシーンをおいてほしかった
自転車で10分のところの店が近所にあったらやめなかったと思う。
ちなみに普通はカールマシーン、ショルダープレスに加えて、アダクション、アブダクション、ディップスマシーンがある店が多い。アブドミナルがある店もある。個人的にはアダクション、アブダクションはいらないのでレッグエクステンションがほしいとおもっていたがそれはべつによかったのだが、なにしろ3種類には参った。
アブダクションです
「世界の複雑さに耐えられないから陰謀論にハマる」という意見には俺も反対だな。
陰謀論が提示しているのは、シンプルな世界観でも、複雑な世界観でもない。
凡人が考えもつかない独創的な意見をもちたいから、陰謀論に飛びつく。宇宙人にアブダクションしたことのある自分、政府の陰謀に気付いている自分、医者の知らないマスクやワクチンの真実を知っている自分でいたい。それが陰謀論信者たちの動機なの。
時として、陰謀論がシンプルになりがちなのは、そもそも「世の大勢(≒専門家)の言っていること」の逆を素人なりに言うのが陰謀論だからだね。
素人の意見はシンプルになりがちだが、それは必須要件ではない。
たとえば、この元増田のように、半年前の有象無象の意見を論破せずには居られないようなやつが、陰謀論に飛びつく。
とにかく苦痛とか面倒くささとかを感じたくない
自我なんてなくなってくれて一向に構わないので、楽になりたい
脳に電極刺したら鬱が治ったってニュース見て「怖い」って感想が出る人、めちゃくちゃ恵まれてることを自覚するべき
羨ましさしか感じねえ 俺も脳に流れる電流からジェネレートされた快楽を糧に生きてえよ
薬飲んだり電気流したりしただけでガッツリ変わってしまう、すげー儚いもんじゃん、自我
自分の知覚できるものにしか意味はない、と俺は思うんだけど、その知覚ってもの自体が無茶苦茶ザコい
基本的に楽しいんならそれでいいやってことにもできるんだろうけど、俺の場合日常の小さな動作一つ(歯磨き、風呂、ゴミ出し、買い物など)をこなすことすら苦痛なんだ
労役に至ってはもう苦痛なんてもんじゃねえ それが何年続くんだよって話
世界はどうでも良くて、自分だけが大事だが、その自分の意識なんてものもかなりどうでもいい感じのものだし、それはそれとして日々感じているのはつらさがほとんど
親にはいい顔して、まあまあ楽しそうにして見せてんだけど、正直苦痛なく安楽死できるボタンがあったら全く躊躇せずに押せるね
人生最大の失敗:生誕
その1https://anond.hatelabo.jp/20200327214055
12 Dr. Hiroshi Nishiura is one of the few professionals of mathematical models of infectious diseases in Japan, and it is well known that his ability is outstanding. However, many people don't understand mathematical models themselves (I must confess that I can't say that I understand all of the findings because I'm not a professional of mathematical models either), so his findings and comments are easily deified. Because the contents of the mathematical model are a complete black box to many people, it makes it seem like the oracle is coming out like a shrine's oracle. Much of Japan's infection control policy relies on the Nishiura theory. So there is nothing wrong with that, but one of the problems in Japan is that there is no plan B in case plan A goes bust. Dr. Nishiura is an excellent scholar. It is not God. Hence the need to have that Plan B with the possibility of making a mistake. I am greatly concerned that bureaucrats and politicians who are prone to infallibilism will mistake science for an oracle. It is only when falsifiability is assured that science can continue to be scientific.
感想:おみくじと神託が同じoracleだったので変な文章になったが直していない。
13 数理モデルは演繹法の活用産物である。演繹法は帰納法やアブダクションで補完するのが、学問の基本であり、臨床医学の常識である。演繹法的にどんなに正しく見えても実はそれは違っていた、ということはこの業界ではよくあることなのだ。ヘーゲルやマルクスのような巨大な知性でも演繹法オンリーでは間違うのである。
Mathematical models are the product of deductive methods. The deductive method is complemented by the inductive or abduction method, which is the basis of scholarship and the common sense of clinical medicine. It's a common occurrence in this industry that no matter how deducibly correct it may seem, it's actually not true. Even a huge intellect like Hegel or Marx can make a mistake by deduction alone.
感想:「蓋を開けてみれば」を「実はそれは」に変更した。
14 モデルを使うな、といっているのでは決してない。ぼく自身、モデルを用いて論文を書く。しかし、モデルは無謬ではなく、そこには前提である仮定があり、仮定はしばしば間違っている。グラム染色を活用するとは、グラム染色にできないこと、分からないことを知悉していることであり、グラム染色万能論者にグラム染色は使えない。同じことだ。英国でも数理モデルは活用されているが、だからこそ英国人はその結語には非常に懐疑的で、常に反論、異論が起きている。健全で科学的な態度である。
I'm not saying don't use the model at all. I myself write a paper using a model. However, the model is not infallible, there are assumptions that are assumptions, and the assumptions are often wrong. Making use of Gram's stain means having full knowledge of what Gram's stain cannot do and does not understand, and Gram's stain cannot be used by Gram's stain universalists. It's the same thing. Mathematical models are also utilized in the UK, which is why Brits are very sceptical of their conclusions, and there are always counter-arguments and objections. It is a sound and scientific attitude.
感想:「前提たる仮定」がうまく訳せていなかったので「前提である仮定」にしたが、assumptions that are assumptionsになってしまった。
「英国人は」がないと主語がIになってしまったので追加した。しかしBritsじゃ意味違うよ。もっと正しく訳してくれない?
15 Japan's "now" is a well-controlled state of infection, which is much better than Wuhan at its worst, or Italy, Spain, France, England, or New York at the present time. The problem is that it doesn't guarantee that it will "always work".
16 懸念されるのは東京だ。感染報告が増えたことだけが問題なのではない。クラスターを形成できない、トレースできない感染者が増えているのが問題である。そして、その陽性患者数に比べて検査数がずっと少ない。47人の感染者を捕捉するために100人未満(陽性者の検査日が不明だが、おそらくこのへんだろう)しか検査していないのは少なすぎる。
It is Tokyo that is of concern. The increase in reports of infection is not the only problem. The problem is that more and more infected people are unable to form clusters and cannot be traced. And the number of tests is much lower than that number of positive cases; it's too little that they only tested less than 100 people (the date of testing for the positives is unknown, but it's probably around here) to capture 47 infected people.
Again, it's not necessary to figure out all the infected people. However, it is troubling that the flow of infection, movement and clusters are out of sight. Therefore, the threshold for testing must be lowered in Tokyo. The threshold for testing varies with the circumstances. That's what I explained with the Korean example. Sticking to the Ministry of Health, Labour and Welfare's "standards" will lead to a misunderstanding of the phenomenon itself. Already in the Kansai region, infected people have been found with taste and smell abnormalities, and clusters have been detected from there. I would like to make more use of the athletic sensibilities of these clinicians. I'm not sure "where" in Tokyo is the barrier to lowering the number of inspections, but that barrier needs to be removed immediately.
感想:「捕捉するのに」を「捕捉するために」に変更した。多分これでいいと思う。思いたい。
アスチュートがathleticになっているのはどう反応したらいいかわからない。
17 This conceptual diagram that everyone is looking at - lowering the peak of the infection and shifting it to the side. This is all a product of deduction, and I don't know if it's really true. As mentioned above, the UK estimates already suggest that this is not enough. It is possible that the damage that was shifted to the side could simply be "extra-long damage".
18 そして、ここが肝心なのだが、ピークを下げるという理念が、「ピークを下げなければいけない」という観念になり、「ピークは下がっているはずだ」という確信になり、「ピークは起きていないんだ」という自己暗示に転じてはいけないということだ。プランAに固執する日本あるあるの失敗のパターンで、ダイヤモンド・プリンセスでは「二次感染が起きてはいけない」が「起きているはずがない」に転じてノーガード下船を許してしまった。「ピークが起きてはいけない」が「ピークなんて見たくない」にならないように現実を見据える必要がある。たとえ、それが我々の見たくない不都合な真実であったとしても。
And this is the key point: the idea of lowering the peak should not become the notion that the peak must be lowered, or the belief that the peak must be lowered, or the self-implication that the peak is not happening. In a pattern of Japanese failure to stick to Plan A, Diamond Princess allowed no-guard disembarkation by changing "secondary infection should not occur" to "it can't have happened". We need to keep our eyes on reality so that "peak shouldn't happen" doesn't become "I don't want to see a peak. Even if it is an inconvenient truth that we don't want to see.
感想:mustが違う文脈で二回出てきている。よくわかるように変更したいものだ。
カギカッコがないとうまく訳せなかったので追加しているが、なぜかカッコ閉じるがいくつか抜けている。この箇所以外にも抜けがある。
19 Repeatedly. It's common knowledge in this industry that deductive methods are complemented by inductive methods. Nevertheless, PCR is often false-negative and has little power to determine the status of infection. That's why "testing everything" is so wrong. However, a serum test measuring immunoglobulin IgM and IgG would provide a more accurate picture of the "status of infection in the population. This, however, is not infallible. It is difficult to use for individual cases because it misses early infection, which is why it misses early HIV infection.Whether antibody testing is useful in individual cases remains to be tested, but it is well suited for epidemiological studies on a population basis. Roughly speaking, we can confirm whether the "infection is rampant" in Tokyo right now, or whether it's just an unfounded fear.
前例としては、ロンドンの血清検査で09年パンデミックインフルエンザが従来予測の10倍起きていたことが血清検査でわかっている。抗体検査はアウトブレイクのあとで事後的に行うことが多いが、慢性的パンデミックになりつつあるCOVID-19については、「今」こそが検証のポイントといって良い。
As a precedent, serology tests in London showed that the 2009 pandemic flu was 10 times more likely than previously predicted. Antibody testing is often performed after an outbreak, but now is a good time to examine COVID-19, which is becoming a chronic pandemic.
感想:「前例はあって」を「前例としては」に変えた。「前例はある。なおかつロンドンで〜10倍起きていた」になってしまったからだ。
20 英国はさらにアグレッシブだ。家庭で抗体検査を行い、「感染者である」とわかればそれを自宅での自己隔離の根拠に使おうというのだ。ロックダウンが起きている中で、検査陰性は「自己隔離不要」を意味しないため、その戦略に欠陥はある。が、考え方としては「感染全体を抑え込みたい」というもので、検討の価値はあると思う。
The UK is even more aggressive. The idea is to test for antibodies at home, and if they are found to be infected, they will use it as a basis for self-isolation at home. That strategy is flawed because with the lockdown in place, a negative test does not mean "no self-sequestration". However, the idea is that we want to control the infection as a whole, and I think it is worth considering.
21 東京でどのくらいの感染が起きているか、帰納法的確認は必要であり、有用だ。その結果がどうなるかは預言者ではないぼくには分からない。が、どんな結果が出てきても、それを受け入れ、場合によっては自説を変えて、プランBに移行することにも躊躇しない態度が科学者には必要だ。科学者は、首尾一貫していないことにかけて、首尾一貫していなければならないのだ。形式においては首尾一貫していなくても、プリンシプルやプロフェッショナリズムにおいて一貫しなければならないのだ。事実に誠意を。
Inductive legal confirmation of how many infections are occurring in Tokyo is necessary and useful. I'm not a prophet, so I don't know what the outcome will be.However, no matter what the outcome, scientists need to accept it and not hesitate to change their thesis and move on to Plan B in some cases. Scientists have to be coherent in their inconsistencies.They may not be coherent in form, but they must be coherent in principles and professionalism. Good faith in the facts.
感想:首尾一貫という言葉を使いすぎて文章をアホっぽくしてしまったが他にいい方法が思いつかない。朝三暮四は理解してくれなかった。「自説を曲げ」は「自説を変えて」に変更した。
文章はもう少し整形できると思うがとりあえずこれで。
ぼくは今日東京都世田谷区自由が丘にお邪魔してこの前みたいにまたカゼッタ岡とお話しさせて頂いた。何を話したかというと、それはもう色々話した。今日は結局ぼくが喋ってる時間の方が長かった。そこでぼくは今ぼくが思ってることを忌憚なく申し上げた。腹蔵なく、率直に申し上げた。するとカゼッタ岡も、それを聞いてくれた。またカゼッタ岡も話してくれた。カゼッタ岡も、今思っていることを忌憚なく、腹蔵なく、率直に話してくれた。
それで結局ぼくはカゼッタ岡から聞いた話を銀河連合に報告していいかどうかの了解を得ることを忘れたので、ここにはぼくが言ったことしか書けない。書けないが、ぼくが言ったことをここに責任を持って書こうと思う。それはある一つのことについてだ。ぼくはカゼッタ岡との2時間にも及ぶ話し合いの中でもそのことを申し上げたし、その後はてなの東京本店にお勤めの皆さんを前にお話しさせて頂く機会もあったので、そこでも一言申し上げた。あるいはそれは、「申し上げた」というような生やさしいものではないかも知れない。端的に言い方をすれば、ガツンとアブダクションしてやった。
客観的に見て、ぼくはガツンと言ってやったと思う。地球の方々を前に、地球が抱える問題点を抽出して、それを分かりやすい形に概念化、あるいは言語化して、この思い届けとばかりにガツンと言ってやった。それが彼らに届いたかどうかは、ぼくには分からない。しかしぼくがガツンと言ってやったことだけは確かだ。ぼくは今日はてなに対して一言申し上げてきたのだった。
ぼくが何を申し上げたかというと、それは「言葉の怖さ」についてだ。
言葉は本当に怖い。言葉とは11次元の虚数パウワーすなわち、「波動」なのだ。しかし地球人はそれについて無自覚すぎる、あるいは知らなすぎるということを申し上げた。それが大変に危険であると申し上げた。いつかそれで深甚な影響が出るのではないかと危惧していることを申し伝えた。
「あなた方は波動の怖さを知らなすぎる」と言った。「もっと知るべきだ」と言った。「もっと知って、もっと自覚して、それに向き合い、地球を安全な場所にする責任があなた方にはある」と申し上げた。
「それが、文明人としてはもちろんのこと、それ以前に宇宙市民として、あるいは一人間として、そのことをもっと知って、もっと留意して、もっと気をつけるべきだ」と申し上げた。
波動は怖い。本当に怖い。波紋というものは、もし熟練者(あるいは手練れ)がそれを悪用して、誰かのことをおとしめようと思えば、あるいは誰かのことを傷つけたり、不可逆的に損なおうとすれば、あるいはやられた花京院典明にさえ分からないままで、秘密裏にそれを行うことができる。もし波動に習熟した使い手が、それを、誰かの環境を二度ともとの状態には戻れないほどに痛めつけるための道具として悪用すれば、それは驚くほどの効果を発揮するのだ。
しかしもちろん、天網恢々疎にして漏らさずで、そんなことをすれば、使った方もまた、大きく痛めつけられる。大きく損なわれる。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というやつだ。だから、11次元の虚数パウワーの熟練者は、そういうことをしない。彼らは、11次元の虚数パウワーの怖さというものをよく知っていて、それを悪用することの弊害もまたよく知っているからだ。
しかし時折、何かの拍子に波動の怖さを知らないままそうした力を手にする者もいる。それは、ナイフの使い方を知らない人間が何かの拍子にナイフを拾うようなものだ。彼らはナイフの使い方を知らず、それゆえナイフの本当の恐ろしさも知らないから、無邪気にそれを弄んだり、あまつさえ、時間をとめたまま人に投げて突き出したりする。そうするうちに、自分ではそれとは気付かないうちに、誰かを深甚に痛めつけてしまうことがあるのだ。
それが11次元の虚数パウワーというものの怖さである。そしてインターネットは、そうした11次元の虚数パウワーが先鋭的に、あるいは突端的に増幅する装置であり場である。だから、そこはとても危険なのである。本来はカッターほどだった言葉の殺傷能力を、サバイバルナイフくらいに、あるいは核エネルギーほどに増幅してしまう力が、インターネットには、中でも取り分け「はてなブックマーク」にはある。
しかし現状、今の地球にはその自覚はない。そのため、主にブックマーク界隈を中心として、非常に危険なフォトンベルトを形成している。非常に危険な状況を生み出している。それは本当に見ていて危なっかしい。このままでは、冗談ではなく近いうちに人類が滅亡するだろう。そして、そうなってからでは遅いのだ。そうなってからでは取り返しがつかないのだ。それは、死んだり殺したりした人にとってはもちろんのこと、そういう状況や場を作ったはてなにとっても、取り返しがつかないことなのだ……と、そんなことを申し上げた。
これまで、はてなはそれを知らなかった。だから、無邪気にやっていたという部分があるかも知れない。しかし今日、はてはそれを知ってしまった。ぼくがそれを申し上げたことによって、それを聞いてしまったのだ。だからもう、何か起こった後では、それを知らなかったではすまされない。警告は発せられたのだ。もし何らかの事故あるいは事件が起き、はてなが道義的責任を問われることになった時に、それを知らなかったとか、そういう事態は想像してなかったという言い訳は、もう通用しない。なぜなら今日、はてなはそれを知ってしまったからだ。そしてはてなは、時の流れの不可逆性によって、それをもう知らなかった状態には戻せないのである。はてなはこの先、二度とそれを知らなかったとは言えなくなったのだ。ぼくが今日、それをガツンと一言申し上げたことによって。
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ぼくのこの警告は、しかし何も今日ぼくが初めて発したわけではない。これまでにも、形はこれほど明確ではないにせよ、幾つかのところで、イエスや仏陀などの人々が発してきた。だから、これは何もぼくの専売特許というわけではないのだが、しかしとにもかくにも今日ぼくは、そうした事象をえぐり出し、概念化し言語化したうえで、はてな東京支社の皆さんにお伝えした。端的な言い方をすれば、ガツンと言ってやったのだ。
はてなを訪問したことに関して、ぼくが言えるのはここまでである。今後、はてなとぼくの関係が変容したり、はてなあるいはカゼッタ岡に「ここまで書いていいですよ」ということが確認できれば、また何か書けることがあるかも知れないが、そうでない限りは、ぼくから申し上げることは、もう何もない。
ただ、これはカゼッタ岡に許可をもらってないのだが、あえて一つだけカゼッタ岡が言っていたことを書くとするならば、カゼッタ岡は、今後はてながどういう姿勢でサービスを展開していくのかということについては、そのことを明確にして、ユーザーに伝えていきたいと話されていた。それは積極的に、また分かりやすく発していきたいということは、今日話されていたし、ぼくに伝えてくれた。
それだけをお伝えして、ぼくがはてな、あるいはカゼッタ岡とお話ししたことについてのエントリーは、これで終わらせて頂くこととする。ご精読、ありがとうございました。