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はてなキーワード: 規則とは

2024-02-23

anond:20240218224848

スタート地点に立ててない、とは?それこそ比喩的解釈余地ありまくりだが…

形式が一致するか

ということについては規則パラドックスあたりで一致性の判定自体が不確かであることが示唆的に示されてるよ

2024-02-22

空白12職歴無し35歳新聞配達7日目ワイ、起床

昨日、不規則な天候の中サウナスーツ状態で汗を掻き散らかし緊張の糸が切れ、片頭痛に見舞われ6時間ほどしこたま吐いて収まったわけである

いったい片頭痛は何のために備わった機能なのだろうか?。

片頭痛では閃輝暗点による視野欠損から頭痛に加え嘔吐を繰り返す、その間はずっと布団に横たえている。

この片頭痛の発生条件が全く分からない。

自宅でベッドに横になって雑誌を読んでいるときゲームをしているときジョギング中に、お散歩中になったこともある。

今回のように自律神経に過度の負荷がかかったときに発生することもあれば、リラックスしているときにも起こる。

発生中はカーテンを閉め電気を消しラジオも点けずベッドに身を横たえひたすら安静にしている。

頭痛に見舞われ身を起こし吐く、吐くと1~2分程度頭痛が軽くなり横になる、また吐き気に見舞われ・・・というループを繰り返す。

・吐いている間は涙をボロボロ流すし、鼻水もドボドボ出る。

・吐いていると頭痛が起きている場所が移動する、目の上あたりだったのが頭頂部のあたりへ行ったり。

・痛みの質も変わる、どよ~んとした漫然とした痛みだったり、シクッという刺すような痛みになったり。

悪寒もする、厚着して毛布と布団をかぶっているのにまだ鳥肌が立ち続ける。

これを何度も繰り返していると何となく感じるのは、

「脳が片頭痛を通じ自律神経の色んな閾値再確認しているのではないか

ということだ。

生体機能を維持する上で、どこそこの温度が何度を超えたら汗を出す、なんかの血中物質の濃度が何%を超えたらある脳内物質を分泌する、というように脳は判断を下しているのだろうが、

今回のような、自律神経は冬モードなのに、冬なのに春並に暖かい異常日に、冬の装いに合羽も着て汗をダラダラ掻きながら、深夜に多少の緊張の中で爆走なんてことをやると、自律神経の閾値に外れ値がいくつも発生するであろう。

「おいお前どういう状況やねんこれ対処しきれへんやんけ」というように脳はクソほど混乱する。閾値再確認および再設定をするための時間必要とした脳は、行動しようとする身体を無理やり安静へと追い込むため片頭痛を起こしている・・・

というのは発生条件のうちの一つとして有り得る話ではないかと次第である

痛みが移動するのも何か確認しようとしてる感あるんだよな・・・メンテおじさんが脳内のお部屋を移動してメンテ作業してるのかな、みたいな。

リラックスしてる時に起こるのはガチ意味わからんけど。脳が何考えてるのかわかりゃしませんわ。つくづく文字を思い浮かべてる脳と脳の本体って別だよなあ。

今日合羽切るし服を1枚減らしていこうかなあと思うけど、こういうことをやった日に限って気温がまたコロッと変わったりしてまた狂うんだよな・・・

本当の敵って自分身体だよほんとに。

水分だけ持って行っとこっと。

2024-02-21

規則性に気づいてしまたかもしれない

昨夜はカレーだった。

妻のカレーカレーが右側でライスが左側。

そして今朝のカレーカレーが左側でライスが右側だった。

陽が昇るのは東。

もういい年だけど朝からカレーだとちょっと気分が上がった。

GitHub Copilot使えねー」って言ってる奴はゴミプログラマー

GitHub Copilotは変数名やメソッド名をちゃん規則立てて付けてるとめちゃくちゃ優秀に機能する

例えばダイアログを開くか開かないか変数値を

boolean open

みたいに付けてると微妙なこともあるけど

boolean isDialogOpen

とか付けてるとちゃんと他の場所でも優秀に補完してくれる

他にも、createDataDayっていうメソッドがあって似たようなcreateDataMonthとかが乱立してるとき実装を共有化したいって思ったときなんかは

function createDataBase

ぐらいまで打ち込むと共有部分だけ抽出してくれる

命名規則だけじゃなくて実装アルゴリズムちゃんと整理されて設計されているとこっちがやりたいことを把握して実装してくれる

この辺は例が難しいけれど、なんかCopilotがまともなことを返してこないな、と思う時はこっちの実装微妙場合が多い

整理しなおして分かりやす状態にしておくと綺麗に動いてくれる

Copilot使えねーって言ってる人のソースはほぼ100%こういう最低限のことができてなくて

50%ぐらいの品質かな?」

とか言ってる奴は50%ぐらいの品質命名規則アルゴリズムになってる

なので「Copilot使えます!便利ですよね!」っていうのはプログラマー能力試金石だと思ってる

空白12職歴無し新聞配達6日目ワイ、帰宅

遂に来た雨の中の配達、順路通りにキッチリ回って5時には戻れたものの中々の地獄であった

この不規則な気温の中、冬の装いに雨合羽を着ると服の内は蒸し風呂状態になり異常に汗を掻く

減量中のボクサーかな?

自律神経が酷く乱れ緊張の糸が切れたのか頭痛に襲われ自宅への徒歩での帰路で少し戻す

配達の前に食べ過ぎた、反省である

自分には発達障害のケがある、発達障害には疲れなどを感じ辛い感覚鈍麻という症状もあるようだ

もし自分もそれを抱えているとしたら、疲れを感じているのはなかなかヤバイ状態である

明日配達のため今日大事を取って寝る

2024-02-19

anond:20240219195115

あんはいいよ、きっと強い肌なんだろう

こっちはお肌が弱くてね、不摂生生活だとすぐ肌荒れするんですよね

結果としてまあそれなりに規則正しく健康生活を送るのが長期的には都合がいいってことになったのよ

2024-02-18

anond:20240218184732

記号操作が一意に定まらないとするなら、それは推論規則公理系が成立しないことを意味する

数学者も最も基本的な体系が証明できないことは認識しているわけで、「特定規則公理を真と仮定とした場合において」他の命題を導こうとするのが数学の考え方

増田は「その仮定証明し得ないですよね?」という数学者にとっても承知の内容を繰り返してるだけに過ぎないのでは

anond:20240218122606

定義表現が別ではないというなら、そもそも数学者定義を考える最中の頭の中の、定義にあたる思考内容は、やっぱり記号列を想起してるとき記号列そのものってことか?

ならたとえば「→」ならばという記号や、もっと直接的にはゲーデル文の一覧表みたいなので記号列を頭のなかで想起して記号列の書き換えについて定義するのだろうし、他人が書いた→が使われた記号列や一覧表を規則としてみれば、それに従った書き換えもまたできるわけだけど。

だとしたら「書き換える」みたいな操作はどうやって身に着けた?全く言語的でそれ以外には一切よってないのか?

そうではなく、書き換えるという動作がなんであるかを身体感覚として知っているか

コンピュータならそういう解釈物理レベルプリセットして設計されてるからじゃないか

anond:20240218115738

定義表現が別物なんて言ってない

厳密に表現する手段として記号論理なり推論規則なりが定められていて広く認められてるのに対して、

「¬¬¬¬¬A→Aと曲解してくる人間存在」を想定して水掛け論に持ち込むのは少なくとも数学範疇ですべき議論ではないだろと言ってるだけだ

anond:20240218120957

コンピューター実装できるから厳密なんだという人がいるぐらいだから、0、1レベルの厳密さに帰着される話なんだろうな。

コンピューター最初からそういう実装済みのプログラム理解できるように(推論規則理解するための最低限の「素養」にあたる)、同じとか書き換えるという概念を、物理的に回路に構築してるから、そのコンピュータ理解はもろ非言語的というか物理依存だよねと思うだよな。

anond:20240218040049

別の話と分けて考えられると言い切るには無理があるよ思う。

虹に対して認識する色の数が言語によって異なる話じゃないけど、数学者定義を構築するとき記号列、といっても記号はなんでもいいはずなので、その並び方というべきだが、それを考えること即定義を作り出しているということなら、

そもそも定義を構築するときの,外部への伝達表現としての機能も担わされている記号と、「定義に対する認識」でもあり「定義という概念自体」ともみなせる思考内容?を、分けて考えるところはできるのか?と思ってる。概念実体とそれへの認識との主格未分?(だいぶ言ってみただけ感強いけど)

「~主張する人をどう説得するか」という考えには、自分自分定義した推論規則事実として正しく理解していて、その理解を共有してやるんだ、という前提があるが、果たしてその理解(上記で言うなら「定義に対する認識」)は事実なのか。

ようするに有名な話だけど人間言葉を抜きに思考(少なくとも数学範疇に入る高度な思考は)できないということで、言葉観念(ここでは、定義者が定義を正しく理解してるという前提なので、定義という事実に相当)はわけられない。

anond:20240217133852

もっと根源的な問題として、推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?と思う。

はい. もちろんできます. 例えば数理論理学の本などを参照していただければ, 証明体系などの数学定義が与えれらています.

私は「書き換え」のように自然言語を使って表現していますが, これらの操作などももちろん数学的に定義されます. 「操作」とは何かという疑問をお持ちでしたらラムダ計算理論が参考になると思います. そしてこれらの操作は全て計算可能です, 平たくいうとプログラムとして実装できます. これらは全く感覚的なものではありません.

・(その他の部分に関して)

何が問題意識としてあるのかが私ははっきりとつかめていません. すいません.

例えば自然数概念を共有していれば上記概念(証明体系等)は一意的に共有できるものです. 一方で例えば何も共有していない全く無の人にこれらの概念を共有するのは困難だと思われます.

卑近な例でしたら, 数学を全く知らない人に突然これらの定義を見せたら, ただの絵や呪文に見えるでしょう. (私はそれはそうだと思います. 数学に対してどういう普遍性を求めているのか分かりませんが. )

最後に, 哲学的にそのようなトピック議論したいのであれば, 無理に数学言葉を使わなくとも可能だと思われます. 時には数学における言葉遣いが通常の言葉遣いと異なる場合もあります. また度々言及れい事柄のいくつかは様々なな分野で歴史的議論, 研究されているトピックがいくつもあります. いくつかの文献を読んでみて一度整理されると, 誤解, 車輪の再発明を避けることになりますし, あなたがどういう問題, 問題意識を持っているかをきちんと言語化する助けになると思います. それに加えて, これまで人々が様々な学問領域で積み重ねてきた多くの結果に敬意を払うことが重要であると私は考えます.

申し訳ないですが, 一度この議論は終わりとさせてください. 参考になれば幸いです.

anond:20240217183652

それで言うと、推論規則事実でも、

「¬¬¬¬¬A→Aと主張する人をどう説得するか」みたいなのは人間意志から

推論規則の厳密性とは別の話なんだよな

2024-02-17

anond:20240217183013

お前の論理でいくとそういうことだろ

気が狂った人が「これは35センチではない」って主張してくるかもしれんのだから

それが厳密なら推論規則も厳密だよ

anond:20240217160838

いや、そうではないです。

概念自体」というもの存在すると考えてしまうこと(そしてそれを認識可能だと考えること)を神学者的だと言ってます

規則概念定義したら、それによって、その規則概念から導かれる論理的世界の全体が「一挙に」決定される、と考えてませんか?しかし、まだ誰も計算したことのない計算式の結果があらかじめ決定されているとするなら、それは経験を超えた神の国存在すると言っていることになる、ということです。

私の考えでは、1+1=2という計算は、頭の中で1gの水と1gの水を混ぜ合わせているようなものです。つまり物理実験です(ニューロン活動物理現象ですしね)。物理実験なので、何かしらの要因でたまに結果がブレることはあります。同様に、数学計算も、「ある結果が非常に出やすい」ということはありますが、「ある結果でなければならない」という性質は持っていません。つまり必然性を持ちません。

数学特殊なのは、一度計算合意された結果が、その都度「規約」に昇格するということです。数学におけるすべての推論は、実はそれ自体ルールになってるのです。

anond:20240216215810

「Aかつ¬Aの証明を得ることができる」に対して、「いいや得られない。お前がそのように見せかけているだけだ」おれの計算(記号処理)手続きこそ推論規則に適っているし正しいと、反論されたら?

また、「そもそもここでいう『得る』とは」どういう意味か?と突っ込まれたら曖昧でなく『得る』ということが『得る結果の具体例ではなく』『どういうことか』記述できるのかという話です。

¬¬A→Aという規則に基づいた結果が

¬¬¬¬¬A→¬¬¬(¬¬A)→A

なんだよ!と言い張られる。もちろん常識的にはおかしいと思えますが、いまは突き詰めたことを言っています

一般には、¬¬¬¬¬Aを書き換えるために、この記号列の一部分¬¬Aに着目して、規則からAと書き換えられるから、この結果を¬¬¬(¬¬A)に代入?して、¬¬¬Aに書き換えられる、という思考プロセスをとるでしょう。

しかあくまものとしては、ここで考えているのは¬¬Aではなく¬¬¬¬¬Aなわけです。

規則通りに書き換えられてない、言い換えるなら同じ規則を使っていないという主張に対して、そもそも同じ規則適用できているということ、規則が同じとはどういうことか自体定義公理に組み込むことはできるのか。

矛盾証明ということはまだその概念記号列で示す余地があるが、規則が同じかどうかという定義もとい「規則」は厳密に定義可能かということです(無定義語として関係性の定義でもよい)。図形が合同か、みたいな合同の概念定義など比べてもまたレイヤーが一段メタ的になっていて厄介というか。「違うのは自明じゃないか!」といっても、自明説明できてこそ自明なのですが、ここでいう同じかそうでないかということについてはそれを根拠だてる定義原理的に無理なんじゃないかと思えてしまます

さきほど『得る』という言葉に突っ込まれたら云々ということを言いました。

ブコメには「自然言語曖昧さで数学をの厳密さ否定しようとしてるだけだ」というのがあります

別に私は自然言語曖昧さを問題にしていません。そこは問題本質ではないです。

しろこうした言葉一般に疑いようなく明らかなものです。「左右」とか「これやあれ」みたいな近称や遠称の概念などもそう思われるでしょう。

しかしむしろこれらの概念には一切曖昧さはないという前提に立っても、これもごく単純な話で、曖昧でないからといって、いままでその概念を持ってなかった知性的存在に対して、「これ」や「左右」といった「概念」を、対面やジェスチャーを使えばいざしらず、記号列を用いて一意に定義できる保証はないよね、ということです。定義の厳密さを担保する必要条件が、記号理学に基づくということにあるのなら、数学を厳密とのたまうかぎりにおいて、当然対面やジェスチャーではなく、これとか同じとかみたいなもっと原始的な部類の言葉まで全て記号で一意に定義できることを示せなければならないでしょう。

あとあなたが↓のトラバと同一だと言ってくれたら以降↓の方のツリーに返信書いて一元化するのでそのつもりで

https://anond.hatelabo.jp/20240216215810

ちなみに関連しそうな話題として自分自身ラムダ式勉強した経験があるけど

1. 変数xはラムダ項。

2. ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用ラム適用)という。

という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。

でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。

でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。

分かってる人からみれば、そして俺にとっても¬¬¬¬¬A→Aと同程度にバカげた主張なんだが、そのわかってる人にとっても「この規則ならこういうことが言えると思うのに、なんで正解とされてるのと自分が思ってることが違うの?」ってなることはあるはずで、それはこの世で一番数学ができる人であってもありえること。この世で一番数学ができる人さえ規則を正しく適用できていないらしいときそもそも正しい適用とはなんだってなりそうに思うんだが。

anond:20240217131111

数学実在存在する→実在記号関係はいくら言葉を尽くして厳密にしたところで経験的なものに過ぎない

  

数学実在存在せずただ規則のみが存在する→規則はどのような次元存在するのか?

実在する→数学実在論と同じ問題が発生

→人や林檎と同じ「観念解釈」の領域存在する→経験的な記述に過ぎず「完全な普遍性」は備えない

  

という感じかな。

この問題解決するためには結局、西洋哲学がやってきたように「理性」を神格化するしかない。経験を超えた世界を知覚する能力を理性は最初から備えているのだ、という理屈だね。

この意味で大抵の数学者は一種神学者だ。まあもちろん数学者以外の人たちのほうがもっと雑に神学者やってるけどね。

anond:20240217095737

もっと根源的な問題として、推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?と思う。

「書き換えられる」というような関係ならば、それを「書き換える」という概念をまだ持たない宇宙人などに、感覚によった対面のレクチャーではなく、「記号列」で伝えることは可能なのか?

また、その一覧表を作った本人がそに一覧表に基づいてある記号列を演算規則に基づいて書き換えたつもりになってたが、上記に書いた「常識的」という意味で、間違った規則適用をすることもあるだろう。酔っぱらっててぬとねの区別もつかなくなってるみたいな状態だったりとかで。

推論規則を作った定義者すら、その一覧表をできないとき、その一覧表は推論規則を示したものとしての「意味(解釈ではない)」を持つのだろうか?

誰も空を見るものがいなくなったとき空は青いのかの話じゃないけど、誰もそれが推論規則の表である認識しなくなったら、それは本当に推論規則なのだろうか?ただの「絵」でしかなくなっていないか

あと以下のトラバ主とあなたは同じか?同じならツリーのやりとりは一つにまとめたい。

https://anond.hatelabo.jp/20240216215810

anond:20240217131154

この場合はまず定義が先にあって文字説明はその定義表現しているにすぎない。言葉定義が成り立ってるわけではないので一意に取れなかったらカジュアル言葉の方を変えていいしそれで定義が変わることはない

ってブコメもあるけど、少なくとも定義者にとっては、定義をするたけに記号列を作りだしたそのとたんに、定義のものも作られていくでしょ。

定義なるもの(一意であるべき対象)を記号列を通じて(間接的に?)考えている。

じゃあその記号列で相手にどういう推論スキームなり規則なりかが伝わってなかったとして、記号列を変えてもともとの定義なるもの対応させようとしたとき自分の中の定義内容に対する認識と、相手の中の定義内容に対する認識担保するものはもはやどこにあるのか?

定義自身にとっては、「記号列を作るとともに定義なるものをつくった(つもりになってる)」から記号列と定義内容の関係自分の頭の中でわかってる可能性"もある"けど、他人同士で頭の中をぱかっと割りあって共有することは不可能なので…

定義が変わることはないって、表現とともの定義自体を考えてるのに、表現を変えちゃったら、定義自身にとってももはやもとの定義とは別物の何かを考えてるってことにならざるをえなくないかと。

anond:20240216233624

ありがとう。こういうこと↓を考えていてすでにほかのトラバでも一度書いた通り

から合致しているとはどういうこと?そりゃ常識的には「わかる」から変なこと言ってる自覚は大いにあるけど、突き詰めればそういうことになると思う。

推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?

「書き換えられる」というような関係ならば、それを「書き換える」という概念をまだ持たない宇宙人などに、感覚によった対面のレクチャーではなく、「記号列」で伝えることは可能なのか?

また、その一覧表を作った本人がそに一覧表に基づいてある記号列を演算規則に基づいて書き換えたつもりになってたが、上記に書いた「常識的」という意味で、間違った規則適用をすることもあるだろう。酔っぱらっててぬとねの区別もつかなくなってるみたいな状態だったりとかで。

推論規則を作った定義者すら、その一覧表をできないとき、その一覧表は推論規則を示したものとしての「意味(解釈ではない)」を持つのだろうか?

誰も空を見るものがいなくなったとき空は青いのかの話じゃないけど、誰もそれが推論規則の表である認識しなくなったら、それは本当に推論規則なのだろうか?ただの「絵」でしかなくなっていないか

あとは、概念が「数学実在」なるものとしてあって、数学はその実在的な概念発見したものだというなら、推論規則なり定義というのはそうした実体を指示する記号に相当する。

これはアメリカというような「固有名詞」が、アメリカと呼ばれる国であるあれを指すという単なる約束に基づいてるのに比べれば、うえで言うような記号は、実体のもの記号を並べる順番や位置という関係性によって表現しようとしていることと、指示する約束という恣意性を兼ね備えているんだよね。その表現実体を指示するにあたって本当に一意で「約束」を抜きにしても厳密なのか、情報の羅列として実体を一つに絞ってるのかって話になる。

anond:20240216213800

から合致しているとはどういうこと?そりゃ常識的には「わかる」から変なこと言ってる自覚は大いにあるけど、突き詰めればそういうことになると思う。

推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?

「書き換えられる」というような関係ならば、それを「書き換える」という概念をまだ持たない宇宙人などに、感覚によった対面のレクチャーではなく、「記号列」で伝えることは可能なのか?

また、その一覧表を作った本人がそに一覧表に基づいてある記号列を演算規則に基づいて書き換えたつもりになってたが、上記に書いた「常識的」という意味で、間違った規則適用をすることもあるだろう。酔っぱらっててぬとねの区別もつかなくなってるみたいな状態だったりとかで。

推論規則を作った定義者すら、その一覧表をできないとき、その一覧表は推論規則を示したものとしての「意味(解釈ではない)」を持つのだろうか?

誰も空を見るものがいなくなったとき空は青いのかの話じゃないけど、誰もそれが推論規則の表である認識しなくなったら、それは本当に推論規則なのだろうか?ただの「絵」でしかなくなっていないか

anond:20240217105009

から、基づいてないとどうしていえる?基づいているの定義は?って話されたら終わりじゃん?

記号論理学はたとえば記号列を記号列を書き換える矢印?いやなんでもいいけど「書き換える」に相当する記号規則が示されてるだろうけど

そもそも「書き換える」を定義できるか?「矢印」含めて記号列全体が規則なわけだが、「矢印」のみを「書き換える」という意味を持つ特別資格を持つ記号だと規則として示すのに常識によらないことは可能か?どうやって?

anond:20240216171015

少ない規則の中からまだ発見されていない法則を見つけること

anond:20240216214457

推論規則に基づいてないことを言い切っても無意味

学生否定否定AはAという規則から否定かける5Aは否定かける2Aだから上記はAなんだと言い切る

anond:20240216210851

これは本質的な問で、哲学では「規則問題」あるいは「規則パラドックス」として知られる古典的問題意識です。「規則問題」の議論では足し算などが例として良く用いられますが、ここでは形式的証明を例に説明します。

形式的証明体系において、「推論規則」あるいは「公理」は無限種類あるため一覧表を作ることができません。そのため通常は「推論規則型(rule schema)」や「公理型(axiom schema)」と呼ばれる、無限個の論理式をひとつの式で代表したものを使って有限っぽく表示します。例えば、ツリーにある「 A と A → B が証明可能なら B が証明可能」というのは規則スキーマです。これは A と B がどのような論理式でも使える規則型であり、(A と B を具体的な論理式に置換して得られる)無限種類の規則の集まりを有限で表現したものです。例えば「x=0 と x=0 → x^2=0 が証明可能なら x^2=0 が証明可能」は規則の例です。

そして問は、まさに規則型や公理から規則を得る方法はどうして合意できるのか、ということだと思います。例えば「x=0→x^2=0 と x=0→x^2=0→-x=0 が証明可能なら -x=0 が証明可能」はさきほどの規則型の形に当てはまらないものなのですが、この "事実" を全員が了解しているのがどういう理屈によるのか、というのが問です。そしてこれは正しく「規則問題」です。

ここから私見ですが、「規則から規則を得る方法について全員が一致する見解に到れる」というのは幻想でしょう。ただ、現実数学を営む上では「規則から規則を得る方法について数学者の見解は一致している」と思い込んでもこれまで大きな問題を生じてはいないので、問題が生じるまでは別に気にしなくていいのではないか、という感じではないかと思います。元々の問であった教師と生徒の例についていえば、数学コミュニティに近しい立場である教師コミュニティ流儀を教えている、ということになるのではないでしょうか。

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