虹に対して認識する色の数が言語によって異なる話じゃないけど、数学者が定義を構築するとき記号列、といっても記号はなんでもいいはずなので、その並び方というべきだが、それを考えること即定義を作り出しているということなら、
そもそも定義を構築するときの,外部への伝達表現としての機能も担わされている記号と、「定義に対する認識」でもあり「定義という概念自体」ともみなせる思考内容?を、わけて考えるところはできるのか?と思ってる。概念的実体とそれへの認識との主格未分?(だいぶ言ってみただけ感強いけど)
そこを無証明にわけて考えているのが神学者的というところなのかな?
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