はてなキーワード: 育メンとは
育メンとか話題になるけど要するにいまは「男は働くな」ということなんだよな。
そして「女はもっと働け」という世の中になってきている。
どうも育休の間は給料全額出ることになるらしいけど、さすがに育休中に仕事をやってなかった事は昇進・昇給に影響がある。
育休中のキャリアの中断は将来的な年収のダウンというか年収が上がらない、という形でツケが回ってくる。
じゃあどうするか?というと女が男並みに働くということになる。
昔のように結婚・出産を機に退職してそのあとはずっとパートタイマーとして働く という選択肢が無くなる。
出産育休が終わったらフルタイム正社員として責任のある仕事が待っているという幸せな状況で旦那と二人三脚で働いて稼ぐ。
ツイートではなくて、こうちゃんとした一つの感想文?としてまとめようとすると前置きとかいい感じのまとめとか必要で、いきなり書きたいところだけ書くわけにはいかず大変だった。あと携帯で長文書くの疲れる。みんなどうやって長い文書いてんだ。そんなわけで構成が雑で尻切れトンボ気味ですが許してください。ほんとひどい文章なのでいたたまれなくなったら消します
東大全共闘と三島の討論のドキュメンタリーを見て三島に強く共感したという話をする。内容の細かい解説はしない。プライムビデオにあったんで見てください。youtubeにTBSが上げてるやつはもっとコンパクト。
まず、三島が議論の冒頭からいきなり始める「エロティシズム」について共有しておきたい。これはサルトルのいう「猥褻」という概念から引っ張ってきたもので、いわゆる一般的な性的衝動というよりも衰弱したもの、無気力なものを指している。他者をオブジェとして捉え、他者が予測不可能であること、操作不可能であること、転じて「人間であること」を認めない態度。
文脈的に良いか悪いかといえば今回は悪いものとして使われてる言葉。
「他者を物体視するエロティシズムというのは、自と他が関係している状態とは違う。関係に入るということはすなわちそこに対立があり闘いがあるということ」と、三島はこの猥褻さを批判しており、暴力にはむしろ人間的な関係性がある、と学生に共感のポーズを見せる。議論の出だしにこう語ることで私は君らを頭ごなしに批判しにきたんじゃないよと言いたいのだ。
つづけて、そのようにエロティシズムを批判しつつも三島は「かつては小説家としてただエロティックにのみ世界と関わろうと願っていた」と言う。
この部分を聞いて、それがまさにいま自分(筆者)がいる次元なのだと気づいた。
振り返ってみるとどうも自分は人と関係するということにいい思い出がなく、関係が強いものであればあるほどその相手といるときの自分が「本来の自分」でない気がしてしまう。(実際、関係から開放されると安らぎを感じる) そして世界がコントロール不可能であることも常にストレスだ。電車はダイヤじゃなくて自分の都合に合わせて走ってほしい、映画も自分の見たい時間に始まってほしい、人の生活音が鳴るときはまず断りを入れてほしい。自分のこうしたストレスの根底にあるのは「自分が世界にフィットしていない」ことを見せつけられることへの恐怖だ。
エロティシズムとは違う気がするが、似たような傾向自覚されてないだけで多くの人間が共有するものだ。(エロティシズム以外の名前を当てようとしばらく考えたけど思いつかなかった)
インターネットを見ていると昨今は「思想のトレンド化」が激しく、日々流行りの服を着替えるように思想のトレンドを着替えて「遅れたことを言っている人」にならないよう皆必死こいている(一年前まで「男女間に友情はありえない」としたり顔で言っていた人間が今年はしれっとLGBTQを擁護するツイートをリツイートしている、みたいなのを何回も見た。もう少し意地張れよ、そんなんだから差別主義者に思想の借り物感を見抜かれるんだよ、と思う)。
つまるところこれは自分の「主観」に落ち着くことへの恐れであり、世界を三人称で見たいという欲求とも言い換えられる。たった数年前までもてはやされた育メンという言葉はもはや一種の差別用語、下手にフラットな思想の持ち主を気取りそんな単語を口に出そうものなら冷ややかな目を向けられる。このスピード感の中で誰が自分の主観にこだわりたいと思うだろうか。人の思想を借りて乗り換える、主観は持たず三人称だけを持つ、それが一番楽なのだ。こうして人々はエロティシズムに走る。
三島曰くこうした猥褻な世界観に欠けているのは他者との関わりであり、それを生むのが「意地」である。
「(エロティシズム的な世界との関わりを捨て)どうしても一つの関係に入りたくなっていった。それが当然対立を生むことになって、対立が他者というもののイリュージョンを作っていかざるを得ない。それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたのです」
三島はここではっきりと「敵にすることに決めた」と言っている。
そう、三島にとって共産主義は敵にしないこともできた存在だったし、事実かつてはそうしてきたのだ。しかし三島は自分で選ぶことによって共産主義という敵を作り、それにより世界と関係を持った。
ここを踏まえれば三島がこの討論の間ずっと楽しそうなのも頷ける。立場の違いは本質的なものではないということをあの場で三島だけが知っていたからだ。三島は自分の思想を作品として表現するだけではなく、生の対立の中に身を置かないと気が済まなかったのだ。このへんをよくわかってない全共闘の芥は「作品は自立空間だ。三島がこんなところにデマゴーゴスを披露しに来てるのは三島が敗北している証だ」と言い返しているが、三島に言わせれば作品を発表するだけ、一瞬しか続かない解放区を作るだけで満足しているのはエロティシズムに過ぎない。(が、三島は彼を論破しに来たわけではないので強いてそこを芥に認めさせようとはしない。)
右翼だ左翼だに結局「論理的着地点」などありえないし、あり得たところでそれは本当に世界と関わっているのか?と言われるだろう。少なくとも机をバリケードにしたことが実際に世界になんの革命をもたらしたのかといえば、机が汚れただけである。内容が即形態であり形態が即内容である活動は他者を必要としないので自己完結で終わる。
脱線するが、途中で芥にヤジを飛ばしてちょろっと喋りに来る学生が「現実的な実在的社会的諸関係が先行する、それをお前は無視している」とめちゃくちゃセンスのない言い回しで(全体的にこのときの全共闘の言葉選びはセンスがない)芥の論を批判するが、これが「その関係を切れっつってんだよ!」という芥だけでなく、三島にも苦笑で流されてるのは「関係が現実にあり、それが自らに先行する」というかなりナイーブな決めつけをしてしまっているからではないかと思う。三島の考える関係とはあくまで自らが選んで作る「イリュージョン」だから。
右翼と左翼に本質的な違いはないし論理的な決着もつかないという話に戻る。
これは三島が言っていることではないのだが、つまるところ論理も「意地」の道具でしかないのだと思う。
論理が無力だとは決して言わない、しかし論理は使い手に媚びる性質があるのだ。
三島は途中、珍しく自分のノスタルジー全開で天皇に腕時計を授与されたエピソードを話す。その時の天皇の姿が自分にいかに立派に見えたかを三島は強調しており、またそれが個人的な経験であることも認めている。
三島はこの経験が彼の愛国主義、つまり「意地」の原点なのだと考えていた。
それは自分の個人的な体験や世界と繋がりたいという欲求の唯一無二の現れ方なのである、だから変えられない、と。
その意地>論理という三島のイデオロギーがはっきりと現れたのが以下の箇所。
「僕は論理の通りに行動しようと思ってない。つまり意地だ。もうね、ここまで来たらもう意地だ。」
このとき、東大の学生の間には「論理捨てるって宣言しやがったよこいつ笑 もう負けたなw」というニュアンスと思われる笑いが起きている。
ここで東大の学生はこの日の討論における自分たちの勝利、三島の完全な敗北を確信したのだろう。そして三島は翌年に切腹した。
しかし、あれから50年経った今日、やはり正しかったのは三島だったのではないかという気がしてくるのだ。
テン年代では没落していたひろゆきが今、ネットの神様から論破の神様として転生している現象にそれが現れている。ひろゆきは「善」という概念を持ち出さない。善は常に主観的だからだ。倫理的にいいかどうかは置いといて論理的にはこうでしょ?、というのがひろゆきの基本スタイル。
この「判断の放棄」はまさに三島が再三述べてきた「他者の物体化」「エロティシズム」にほかならない。
彼を崇拝する現代のネットは、かつてないほどにエロティシズムな世界観を求めているのだ。
ひろゆきが曖昧だと一笑に付す善には、ただし、こんな側面もある。
「善、っていうのは、突き詰めれば『ある何かの価値観を持続させる』ための意志なんだよ」
ちなみに小説ではこの「善」は人間の本性に反する歪な概念として批判的に扱われていた。人間とは本来気まぐれな有限の存在であると。
しかし三島はこの本性に逆らうこと、持続させようという意志にこそ真の人間らしさがあると考えた。
ひろゆきに批判的な態度を保ちつつも彼の動画を見た多くの人はこう言う。
この「だけど…」という違和感を生んでいるのが聞き手の「意地」であり「善を持続させようとする意志」なのだ。それは正しいかもしれない、だけど認めたくはない。そう、「正しい」からと言って認めなければいけないわけではないのだ。先程も言ったように論理は使い手に媚びる(論理学の人にめちゃくちゃ怒られそうな仮定ですが…論理とは一つの信仰体系なのです)。とすれば数十年後には真逆のことを論理的に説明する人間がいてもおかしくない。
多くの人が誤解しているが、論理は常に偏見という土台の上に立っていて、論理を積み上げることよりもその土台を見直すことのほうがよほど難しいのだ。
ひろゆきみたいなタイプは「人を言い負かしたい」という「意地=土台」が最初にあり、その上に論理を積み立てていくから「論破」において強く見えるんだと思う。しかし論破が目的化してその先がないのだ。
ひろゆきは人の欠点は指摘できるが、自分の考える「理想の世界」の話は絶対にしない。そんな意地を持った途端にそれは自分の論の弱点になるから。
ただし、そうして「論破」だけを繰り返した先に何がある?もちろん何もない。仮にひろゆきが提案する通りに世界を運営してみたら、きっとそこに残るのは論理に服従した人間たちの何もない荒野だろう。
「今のは一つの詭弁的な誘いでありまして非常に誘惑的であったけれども、私は共闘を拒否します」
イデオロギーの違いを超えて人間として認め合う、平田オリザが説く「シンパシー(同情)からエンパシー(共感)」という思想がその時、三島と学生たちの間にはあったのだと思う。
三島個人は昭和という時代に生まれ、天皇制に基づいた美しい日本を信奉したためその衰退に殉ずる結果となった。しかしそのイデオロギーと、そこに三島を導いた彼の考え方は別であり、それは単に「敗北した破滅の思想」だとは思えないのだ。
若くて顔よしスタイルよしの家事上手でそこそこ稼げる女or高収入高学歴高身長イケメン育メン
を捕まえるっていうのが結婚において最高にマウントとれる成果だと思いがちだが
どんなにスペックを積んでも「愛し合っている」マウントのパワーには勝てないんだよな
ハイスペ異性と結婚するためにATM・ダッチワイフになった人間のマウント力なんてたかが知れてる
生活レベルマウントでは夫の年収で勝てるかもしれないが、結婚それ自体のマウントでは勝てない
となると、見下されない程度のスペックがあって愛し合える相手を選ぶのが正解である
ゲロブスゲロブサイクに愛されている、という肩書は誰も羨ましがらないどころか、嘲笑されるだけだ
うちの職場は育メンだかなんだかしらないが、男まで小梨女に仕事と責任を押し付けてくるよ。
「〇〇君は子供が生まれたばかりだから海外出張には行かせられない」「〇〇君は子供が1歳と2歳で、奥さん一人では手が回らないから残業が多い仕事はさせられない」
心の中で毒づきながら今日も元気にやっているよ。
42歳で色々諦めた人間から増田にひとつアドバイス。社会人としての責任なんて糞食らえだ。産めるなら産んでしまえ。それで会社がどうなろうと知ったことじゃない。このままなら増田が定年退職した後、夫に先立たれた後、増田は一人ぼっちだよ。歳をとって仕事もなくなったあとの一人ぼっちのお正月を想像してごらん。そんな時、そこまで尽くした会社は穴埋めをしてくれるか?退職金は弾んでくれるかもしれないけれど金じゃ家族は買えない。まあ、子供がいても一人ぼっちになる親もたくさんいるけど、自分の選択とやらに後悔するのよりはいいだろ。
いいか、生殖とか死に関するものは、常に計画の通りになんていかないんだよ。産まない/産む「選択をする」とか言っていないで、やってみて、計画通りにいかないものに思いっきり振り回されろ。それが生きるってことだろ。
一週間の帰省の間、「娘二人が里帰り出産したときのために子供部屋綺麗にしないと」と母が3、4回も言ってた。
積み上げられた雑誌や、もう使えない調味料が食卓に出しっぱなし、
何年も着ていない服や使わなくなった家電のために収納スペース増設するのを繰り返している実家に、彼氏も夫も連れてくる予定はないし、自分の子なんてなおさら嫌だ。
もう一つ。
父はともかく、母は私たち姉妹が幼かった頃、育児ノイローゼだったために、
蹴ったり殴ったりの体罰が酷かった。
育メンという言葉すらない当時、我が儘放題の子供二人のワンオペ育児は大変だったとわかるのだけど、あの頃を思いだすと身が竦む感覚が蘇ってくる。
第二子を産むとしても、イヤイヤ期であろう第一子の相手だって、父はできるだろうけど母には絶対に頼みたくない。
「実家に相手を連れて行きたくない」とお互いに思っていることが唯一の救い。
とある女性のツイートを読んで、世の男性のなんと哀れなことかと同情せざるを得ない。
>https://twitter.com/kourei_mama/status/1177371710875521024>
「俺も我慢してる」「仕事で仕方ない」とか言うけれど子供は大きくなったらあなたを求めないし子供が大きくなったら妻もあなたを求めないし年老いたら会社もあなたを求めない
今だけだよこんなに求められるの。それでも理由付けて自分優先して後悔しないようにね
と、夫に言ったら考え込んでる
>https://twitter.com/kourei_mama/status/1177696583380389888>
家庭にもよるけれどうちは共働きだし父親だけが稼ぎ役ではない。互いに支え合ってる。それでいつも自分を優先していたら妻も子も父が居なくてもドンドン歩んで行くから、後になって逆に求めても父不在で歩む力を既に妻子は持っているんですよ。
察するにこの男性は仕事人間なのだろう。子育てにはあまり関われていない。それを妻は諫めている。しかし、私にはこの男性の苦悩が良く分かる。ATMと父親という二つの責務を如何にして全うするか。喫緊の課題である父親の役割と、将来的なATMの強化をどう両立するか。
ATMたれ。これは男性にとって強力なプレッシャーである。最早呪いと言っていい。ATMとして家庭に金を提供する。まずこれが出来ない夫はクズであると評価される。平均以上で不自由のない生活が出来るだけの十分な量の金を提供できて、やっと一人前。妻も当然のように要求している。もしこれが不十分であるなら、父親の役割どころではない。最優先で注力すべき事項である。しかも、妻も働いている。おそらく「俺の稼ぎが不十分なために働かせてしまっている」と負い目を感じているであろう。余計に熱が入るというものだ。まずはATMを強化するのが俺の役目。そう信じているに違いない。しかし、これを自分優先と非難されるのだから哀れである。
運の悪いことに、社会において昇給が大きい時期と子供が育つ時期が重なっている。今仕事を頑張らなければ昇給は望めない。しかし今子育てしないと子供は大きくなってしまう。同時にこなせるだけの能力と時間はない。詰みである。この男性が考え込んでしまうのも納得だ。
もし今、この男性が仕事に重きを置くのを止め、子育てを選択したとしよう。一時的に妻の要求は満たされ、家庭に円満が戻ってくるかもしれない。しかし、その先はどうだろう?子供が大きくなれば、今度は教育費が最大の課題となってくる。さらにその先には年老いた両親の介護が待っている。そこで問題となるのは一にも二にも金だ。その時収入が伸びていないとすると、妻は何と言うだろうか?「あれだけ子供を放っておいて仕事したのに、ATMとしても役にたたないわ」最早哀れという言葉以外何が当てはまるだろうか。自らの趣味などかなぐり捨て、仕事と子供に全てを捧げて、この言われようである。
価値観の問題ではない。育メンなどともてはやされたところで、結局金を十分に稼げない男性は不要物の烙印を押される構造になっているのである。若き未婚の男性諸君、現状で十分な金を稼ぎ出していないのであれば、努々(ゆめゆめ)結婚して子供を持とうなど思うなかれ。
けど、いくら子どもの安全のためには通報されることは仕方ないと育メン側も覚悟しているとはいえ、警察官の側も困るんじゃないだろうか。
仕事とはいえ、何度も通報のたびに現場に行って無実の人をなだめる作業が生じれば、心身ともに疲れてしまう。
それに数名で運営している交番の場合、虚偽の通報に人員を割かれてしまえば、いざ大事件が交番で起きても一人でどうにかしなきゃいけなくなる。
子供が誘拐される事件と比べれば交番が襲撃される事件なんて統計上は無視できるほどの数しかないけど、少しでもリスクを考慮するならそんな問題もあるなと思った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190616/k10011954391000.html
脱サラしてノマドライターやってます。育メン在宅ライターです。自分の好きな事で生きてます。くっそキモい。ネットで調べた情報に改行挟んで「いかがでしたでしょうか?」「〜みたいですね」の駄文駄文駄文。ソースもねえ、リファレンスもねえ、再現性もねえ、役に立たねえ。その上読みにくい。ネットの海にノイズ放流してるだけのゴミ製造機。一瞬読まれて捨てられる使い捨てのゴミ。SEOだけはやたらしっかりしてるせいで検索結果では上位だが、中身は虚無。キュレーションサイトのライター()とか、肥溜めに飛び込んでくれた方がまだ使い道あるわ。
最近育メンというキーワードが流行るくらい夫の家事の分担をどうするかって話題多いよね。
なぜ男は家事をやらないのかってお怒りの女性が多いけど、多分女性と比べると男ってそこのところ気にしない人が多いんだよね。
一人暮らしの男で、家で料理しない、服も畳まないって奴結構多いもん。
で、結婚すると女性のレベルに合わせようと努力するけど、結構大変なんだよね。そもそも一人だと気にしないことを指摘されるから。
多少部屋が汚くても全然へいきだし、飯なんて適当に食えば問題ないからなぁ。
いっそ女性が男の家事のレベルに合わせてみるのもアリなんじゃないかって思うよ。
アメリカだと夫婦共に料理しない家庭結構多いもん。弁当も毎日りんごとピーナツバター塗ったサンドイッチで済ますしな。
日本人って真面目な人多いよね。
今、離婚を考えている。
①男の影(但し、肉体関係等はない模様)
この2点だ。
育メンなどが流行る直前くらいだったが、特にそう言った事を考える事も無く、
出来る限りの事をやってきたつもりだ。
ただ不器用な私の行動は、至らない点もあった事は自分でも理解している。
それが②のモラハラに通ずる。
「仕事帰りに炭酸水を買ってきて欲しい」と思っている嫁に対し、
・「何か買って帰るものはあるか」と聞く
・聞かないで炭酸水以外を買う
→無駄な買い物をするな
の様な感じで何をしても怒られるのだ。
ちなみに「何も聞かずに炭酸水を買って帰る」と、
「他にも買い物を頼みたかったのに」となるので、
世の女性は「何でこんな事も察せないの?」と思うであろうが、
これをほぼ毎日、問題なくこなせる人間はエスパーとか妖怪の類だと、一般人である私は思う。
余談だが、「何で察せないの?」に「察せない事を何で察してフォローしないの?」と返したら、
まぁそんな感じで、日々不満を募らせる妻だったが、それでもまだ可愛いものだった・・・…。
そして、子供が産まれても理不尽と思える妻の不満の貯まり方は続いた。
・おしりふきを2枚使う
→勿体無い
・おしりふきを1枚で何とかする
→汚いから止めろ
となるのだ。
もうどうしようもない。
そして彼女のママ友等が「夫がおむつすら変えてくれない」と愚痴る中、
「ウチは変えてはくれるけど…」と言う。
「けど…」とは何なのか?何が不満なのか?
風呂の入れ方も寝かせつけ方も全部そうだった。
達しないどころか、不満の種にしかならないのだ。
もう駄目だと思った。
あまりにも携帯を手放さない事を怪しく思った私は、夜中にこっそりと彼女の携帯をチェックした。
そこにはフォルダ分けされた男の名前を、延々と続くメールのやりとり。
そして私の留守中に電話での会話まで行っている。
調べて行くうちに、某SNSで知り合ったという事がわかったので、そちらも見てみたが、
彼女はそこまではの関係は望んでいなかったが、明らかにその男に依存をしていた。
その選択を選ぶことが出来なかった。
仕方なく、その男との事を問いただす事にしたが、
結局は彼女から嘘まみれの供述を頂き、その男とも関係を切る形で終わった。
その後も、色々な男に私の悪口を相談し続ける妻の姿が目に入った。
離婚を考えているという話も聞いた。
ただ、成長した子供は可愛く、この子の笑顔を壊したくない一心で、
そんな中、彼女はかつての飲み友達だという男と密会を繰り広げるようになる。
流石に「どういう事だ」と突っ込んだが、
彼女の嘘と開き直りの前に、何でこんな女の為に我慢をしているのか情けなくて涙がでた。
(彼女はそれを「嫉妬で泣いてたw」と相手の男に言っていたが…)
そして私に嘘をついてまで、その男と出かけようとし、
一緒に出掛けても、「早く旦那を帰すから会おう」と言うレベルにまで達していた。
そして、近日、私が社員旅行に行く瞬間を狙って、2人で会おうとしている。
誰よりも大事に思っているけど、これ以上はお父さんの心が壊れてしまう。
幸せになってください。
学問としてのフェミニズムは先進的すぎて難しいし実態や実用と解離している。
男女平等は、生物学的女性が従来の社会的男性になる権利だと考えれば解りやすい。
sex:femaleがgender:maleになる権利である。
それを促進するためには従来のgender:femaleの役割である家事と育児を産業化すればよい。
それで足りなかった分については、gender:maleの中性化(言葉は悪いがオカマ化)で補う。
そもそも我々エコノミックアニマルのgender:maleは働き過ぎだったので、
それがいわば育メンや草食化であって、現にこれらは進んでいる。
子どもとは仲がいいけど、奥さんとうまくいっていないという、自称育メンがいる。
自称育メン氏は、どうして妻に嫌われるようになったのか皆目見当がつかないようだ。
私も詳しい話は聞いていないが、私には思い当たるフシがある。
子どもとは仲がいいなんて、たんに子どもと遊んでいるだけなんじゃねぇのか?
子どものウンコのついたオムツを変えたり、面倒くさい離乳食つくったり、
夜泣きする赤ちゃんの寝かしつけとか、ちゃんとやった(やっている)のか?
子どもをお風呂に入れているっていっても、一緒に風呂はいるだけじゃねぇだろうな?
子どもの着替えとか歯磨きとか、ちゃんとやってんのか?
自称育メン氏は、自分を育メンだと行っているけど、こういう話は全く聞いたことがない。
むしろ奥さんに任せているみたいなことを言っていた。
そりゃ、奥さん嫌になるよ。
どの面下げて育メンだよ、バッカじゃねえの。