はてなキーワード: 愛国教育とは
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「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。
「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。
保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。
国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。
グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。
ナショナリズムはいつどこで芽生えるか →戦争で負けている側である。
あるいは学歴を誇る人間はいつ登場するか。→落ちぶれてそこしか砦がなくなった時である
東大卒のりょーすけさんなどは、もう道具として使う。ふつうはそういうものだ。
東大生かくあるべし、みたいなことを言い出すのはかなり痛い
今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かるしかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化している
「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。
1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。
→とはいえ、当初の「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめた
→君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではない
また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。
もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。
追加修正
西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。
1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された
この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。
結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。
1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ
「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。
朝鮮学校は普通の日本の学校とは違って明らかに北朝鮮の意向による教育がなされていて、そのような教育機関が日本に存在していいとは思わない。すぐに潰すべきだと考えているというのを前提としてですね。(そうでない朝鮮学校もあるのかな?)
ただ、日本はさまざまな大和民族を初めとする多くの民族がいることは確かで、さまざまな文化を知る事が重要である事に異論はないだろう。
まずこの文章を読んで感じた事は、民族教育以前になんというか無理に朝鮮人になりたいという、文中で「コンプレックス」という言葉を使っているけれども、その意識を捨て去るべきだと思う。それは、我を持たないという事ではなく、むしろ自分を肯定する事だ。貴方自身が仰っている、母語が日本語であろうと朝鮮人だという思い自体は何も間違っていない。その思いが自分で保てるのであれば、なぜ民族教育と言うものが必要なのかが理解できない。民族教育がなければアイデンティティーが保てないというのであればそんなものアイデンティティーでも何でもないただの糞だ。
全ての朝鮮人の子供が、朝鮮語を勉強できる環境は何故いるのか。それが無いと朝鮮人ではないのか、そうではない。それは貴方自身が否定している。コンプレックスを持つからか、それならば解決方法は民族教育を整備する必要はない。そいつに自信を持ってもらえるように先生が頑張るのだ。それは民族教育ではなく、道徳みたいなものだ。
朝鮮学校っていう、(在日)朝鮮語を使う日常が、自分の悩みを多少軽減したと
作中で結論としてあらゆる民族に民族教育を施すべきだという結論になっていますが、民族教育ってそもそも何を指しているのでしょう。
私はこの文章における民族教育とは愛国心教育と同じ性質を持っているのではないかと考えました。民族教育とは文化などをともにする集団である民族に対して、愛着であったり忠誠を抱かせる教育でありますが、愛国心教育は民族を国民に、文化を国に変えただけのものである。
愛国心という物自体は否定するものではない。それでも民族教育とか愛国教育というのはなくすべきだ。上からの押し付けで愛国心だの民族意識を植え付けるべきではない。
私個人の意見としては全ての人間に母語による教育、それも民族教育、愛国心教育ではなく、基本教育を受けさせる事が理想と考えます。海外では母語による教育が受けられない所も多い。貴方の考える民族教育ではむしろ堕落をもたらすもjkのと考える。学校はアイデンティティーを育てる場所ではなく学ぶ場所である。他者に自分のアイデンティティーを作ってもらえる、あるいは認めてもらえるという考え方自体が駄目。
中国が目指しているのは海底石油資源、およびシーレーンの確保である。
日本人から見れば尖閣諸島の所有権が民間から民間に移ろうが、民間から国に移ろうが、大差ない。
しかし中国人にはその感覚が理解できず、日本「国」に脅迫されているように感じるのだろう。
全国大会を控えての共産党内での権力争いや、軍部・公安の暗躍を説く人もいるが、
私には文官でさえもこぞって(一枚岩で)反日に向かっているような気がする。
これは単純に日取りがまずかった。
つまり共産党にとって神経質にならざるを得ない時期に頭痛の種が増えたことにたいする癇癪である。
おそらく何の戦略も持たずに国有化の日取りを決定したのではないか。
20~30代が圧倒的に多い。
中国は愛国教育のおかけで、いつでも労せず反日デモを発生させることができる。
これからも共産党政権が続く限り、愛国教育と反日デモは繰り返される。
日本には巨大な内需があり、中国一国と経済戦争をしてもどうということはない。
おそらく対中投資を回収できていない方々がマスコミなどを通じて
しかし彼らは
不能者の脅しを真に受けて、
とにかく国際世論(韓国除く)を味方につけることが先決である。
領土紛争があることを正式に認めて(これが最大限の譲歩)
現状で日本を守ることができるのは自衛隊ではない。国際世論だ。
日本は、保守も革新も、右翼も左翼も、理解力が低くて頭の固い連中が多いように思うんだ。
最近になってようやく世代間格差とか就職氷河期世代の問題が少子高齢化問題の関連で注目されるようになってきたけど、2006年くらいまではそんな問題は存在しないと不可視化されてたんだよな。
貧困問題もそう、湯浅誠氏なんて長く貧困の現場で活動していたのに、派遣村の問題が無ければ未だに知る人ぞ知る、だっただろう。
ようやく左翼は貧困問題に真面目に取り組まなくちゃって考えるようになったみたいだけど、右翼、保守はまだ全然だよな。
金美齢氏は未だに日本人は恵まれているなんて言ってるし、誰だったか、世界には1日1ドルも稼げない人が大勢いる、絶対的貧困に比べれば日本の貧困は貧困ではない、なんて言ってる人もいるよね、奥…何とかって女性だったかな?
無能な味方は敵よりも恐ろしいってのが良く分かる。
彼らの言説を真に受けてたら日本の貧困は不可視化されたままになるよ。
90年代から2000年代初頭にかけて、保守論客が、日本は素晴らしい国だって言ってくれるのは確かに気持ち良かった。
でも、彼らはもっと素晴らしい国にするにはどうすれば良いかという問いに対し、愛国教育とか地域コミュニティの構築とか伝統尊重としか言わなかった。
国内にいる貧しい人を助けることですと言ってくれた人はいなかったと思う。
d:id:dj19さん、d:id:morimori_68さん、d:id:Wallersteinさん。ありがとうございます。
sorarisu0088氏の編集したキーワードについていくつか挙げておきます。
現在中国では「愛国無罪」のスローガンの下に偏向した愛国教育(反日ナショナリズムの醸成)が行われているため、中国人は日本人が「シナ」という言葉を使うことを極端に嫌う傾向がある。
「うるせーバカ」と書かれた画像を添付している。シナと呼ばれる人物あるいは団体、この場合は中国人への侮辱にあたると考えられる。
在日朝鮮・韓国人は戦後深くその根を日本に下ろしている反面、朝鮮学校などの偏狭かつ特殊な教育環境の下で反日教育を受けた為に、日本人と日本国を憎悪し、敵対し、破壊しようと無意識に考えるものが多いと言われている。実際、日本の公安関係者の間では、有事の際に国内の在日朝鮮・韓国人が利敵行為(原子力発電所や行政中枢へのテロなど)を行うことが懸念されている。また、平時においても反日プロパガンダ、文化侵略、騒擾事件の扇動、人権擁護や平和運動、労働運動を隠れ蓑にした反日工作などが心配されている。
左翼、共産主義者、同和、特定アジア寄り、民主党、社民党、共産党支持の姿勢が顕著である。
偏向報道の巣窟
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b9%a1%bc%a5%d1%a1%bc%a5%e2%a1%bc%a5%cb%a5%f3%a5%b0
また、パチンコ店のオーナーや社長の7割~8割が在日朝鮮・韓国人*3であるということ、一時期朝鮮総連を通じて北朝鮮に対する地下送金が行われ、この資金の大半がパチンコ産業から出ていたことと、北朝鮮がその資金を核開発や弾道ミサイル開発に使用して日本国の安全保障に非常な脅威となっている認識が広まるにつれ、パチンコそのものに対する日本国民の目も厳しくなったことなどが挙げられよう。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%d1%a5%c1%a5%f3%a5%ab%a5%b9