はてなキーワード: タツとは
なるほど、連載は実力で評価されるけど、読み切りはネームバリューで評価される、というのがおまえの主張なんだ。
ルックバックはそれを漫画という手法を使ってやったけど、全く同じテーマを被してきたってことはタツキって人が今相当書きたいテーマなんじゃないかな?(それかルックバックであーだこーだ言われて腹立ったからリベンジしたのかもしれんが)
ルックバックでは漫画が過去を遡ることで、友人が助かったかもしれない世界に思いを馳せることで主人公は友の死を受容し、超克した(ぶっちゃけあんま覚えてないけど)
今回は映画的手法やパロディを用いることで、映画の中の絵梨に吸血鬼という設定をつけて永遠の命を授けた。
絵梨が映画の中で生き続けてる存在になることで主人公は絵梨の死を超克した。
たぶん、絵梨もそれにより自分の死を受け容れることができた。
ただ、それは現実逃避でもあるので、ちゃんと主人公にとっての餞別であり、これがファンタジーだと目を覚ますことができるひとつまみのファンタジーである爆破という表現を最後に加え死を受け容れ、ちゃんと彼なりのさよならを告げた。
(あ、これは絵梨のラストシーンは親父さんを使ってあらかじめ撮影していた説を適用してます)
パロディに拘っていたのも映画によって死を克服するというテーマだったからだと思う。
世間ではよくわからんとか放り出しとか爆破wwwとか言われてるけど、そんな難しいことや謎はなく、長いけど無駄は少なくちゃんと筋道を立てた物語だな、って気がしたよ、ワイの脳内では。
なんかここまでネームバリューで評価されるようになってくると、次あたり
最初は3Dモデルで絵が書けなくても漫画が作れるツールとかで漫画を作成して誰の作品か
分からなくした版を別名義で公開しといて、1ヶ月くらい寝かせた後で
個人的にルックバックより凄いと思ったけど、多分こんなに普遍的な喜ばれ方する作品じゃないとは思った。
だし、集英社あげてどかーんと広告打つよりも、個人HPに上げてジワジワ口コミ広がっていく様な作品とも思った。
ストーリー単体で見た時には、例えば吸血鬼設定するなら「長生き」だけじゃなく色々な所で肉付けしていった方がよかったと思うし、卒業以降の苦悩の描写もあるべきだった。と思う。(読み切りでページ数が、オマージュ作品が、というのは分かるけど)
さよなら絵梨のすごいところは、
・かつ、映画の下位互換じゃなくて漫画でしか表現し得ないところに昇華している
・漫画だからこそ、1人称→3人称の切り替えに違和感が出ない(ことに気付いて取り入れてる)
・一定のコマ割りをベースに物語の大小を表現する為に大きさを変えている
みたいな、いわゆる超絶技巧の披露が主だと思う。失礼だけど読者全員がこの凄さに気付ける訳ないし、殆どの人は「タツキ作品」で、もしくは作中のオマージュが、みたいな点で絶賛してるわな。
「あえての爆発オチすっげえっす!w」も的外れだと思ってる。漫画太郎のトラックオチと同系列で感想言ってる人いるけど、この漫画の爆発は複数の感情の消化先としての爆発であって、「オチにちょけて見ましたw」じゃないと感じた。
ごめん、うそ。
よく言うダウンタウン以前以後は、
タツキ氏は、
ツイやハテブでは天下取ったかのようだが、
てか、多分行かないね。
ここってポイントはできなさそう。
(現役なので覆される可能性高し)
作中で10回ぐらい「劇中に描き出されているのは制作者たちの一部分だけであり、故意に切り出されて誇張、もしくは削除されている部分が多数あります」って話してたよな?
その話読んだ感想が「つまりこの作者は~~~」になるのはおかしいだろ????
作品を見て感じ取った制作者の印象は、制作者が相手にそう思わせるように故意に抜き出したもの、もしくは意図してはいなかったがそうやって伝わってしまったものだって話をずっとしてたよな?
それ読んだ直後の感想でなんで「この作品によると作者の人となりは~~~」になるんだよ?????
感想って基本的にどんな内容でも自由だと思うんだが、文盲がランダムにキーボード打っただけみたいな戯言だけは流石に勘弁してくれ
まあ確かに人気米だけ見ると気持ち悪いのが多いなと思っちゃうな。
別にタツキだからじゃなくて面白いからついつい最後まで読んじゃうだけだろ?それともお前はマジでタツキが空前絶後の凄いオチを持ってきていて、それをブコメで面白おかしく語ってあわよくばスターが欲しいからと読んだの?
本当に気持ち悪いよ。初見で読むときに面白いかつまらないか以外のこと考えてる時点でお前は負け犬だよ。意味不明な価値観に縛られて自分で人生の台無しにしてるクソ馬鹿だよ。
たとえばこれを新人が描いたら「とんでもねえ新人が現れたな」って話題になるのがありありと目に浮かぶんだけど……マジでもうお前らただの有名作者アンチじゃん……嫉妬マンかよ……きっつ……
勝手に妄想して人を蔑んでるんじゃねえっつー話だわ。ツイフェミが「これを読んで性犯罪者のようなことを妄想してる男性が怖いです」と言ってるのと変わらね―だろコレ。
いちいち面白くないパロディを使わないと言いたいことも言語化できないのか?
・タツキがどういう人間か知っているか→過去作や人となりを踏まえた上でふざけた展開に対応する心構えが事前にできているか
・タツキがオマージュする作品(主に洋画)や現実の出来事を既に知っているか→作者の意図を受け取り引っかかりを感じずに読めるかどうか
・ツイッターに二次創作漫画を投稿しているなど「創作者側」に身を置いているか→共感・感動できるかどうか
ツイッターオタクカーストの高い「プロの漫画家」「大手二次創作作家」「言語化が上手く軽妙な喋りで頻繁にバズツイを量産する界隈」はそれらの条件をクリアしているから(というかそうなるように仕掛けてあるんだと思う)絶賛の声はかなり大きくなる
タツキはこれからもきっとああいう短編をたくさん描いてその度に大バズりするんだろう
小中学校で運動できる奴がカースト上位だったようにタツキを絶賛できる奴がオタクカーストの人気者だからそうじゃない俺らは石の下でだんごむしやっとくしかないんだ
弊社の4月入職一年目研修医の先生達、4/1に皆で飲み行ってクラスター発生して休んでる…
🤱🏻限界ST🤱🏿さんはTwitterを使っています: 「弊社の4月入職一年目研修医の先生達、4/1に皆で飲み行ってクラスター発生して休んでる… 入職早々怒られ案件で可哀想だな…」 / Twitter
https://twitter.com/Panopticon_pmdl/status/1512264583242661888
おい、会社でクラスター疑惑でて、研修中止で全員PCRは非常にだるい
在宅でええやんか!
ポムチ・ヨウゲツさんはTwitterを使っています: 「おい、会社でクラスター疑惑でて、研修中止で全員PCRは非常にだるい 在宅でええやんか!」 / Twitter
https://twitter.com/oppai_osekoro/status/1513318315477049349
個人的にクラスター出てる気がするんだけど、会社側は責任を負いたくないらしく、何事もないように研修をやっていた〜これが社会??毎日検温してた意味とは…
たえ子さんはTwitterを使っています: 「個人的にクラスター出てる気がするんだけど、会社側は責任を負いたくないらしく、何事もないように研修をやっていた〜これが社会??毎日検温してた意味とは…」 / Twitter
https://twitter.com/somi_shanshan/status/1513161754636783617
ちょっぴり寂しいです。
タツさんはTwitterを使っています: 「えーと、研修先でクラスター発生して研修中止です笑笑 ちょっぴり寂しいです。」 / Twitter
この読み切りが、というよりタツキの作品がなんかもう感想述べたら負け、言及した時点で負け。とは言わないけどそうなりつつある。
一定の信者を獲得してるのもあるけど、ルックバックにしてもこれ大丈夫?みたいな表現も本人の人気と画力というか技術力?と人気でうやむやにされてる気もする。(これはタツキに限った話ではない)
なんだろう、民度が低い、ではないけど読解力の足りない、流行りものに飛びついたりする、そういう広く大衆への見下しみたいなのも感じてじんわり嫌だなあという気持ちにもなった。
なんか、タコピーもそうだけどセンシティブなテーマを扱う割に描き手はそのテーマに距離取ってるというか、客観視できてると言ってしまえばそうだけど、テーマとしてこういうの使われると読者はびっくりして湧くやろな、みたいに思われてるのが透けて見える気がする。
>どこまでが劇中映画?どこまでが作中キャストにとっての現実?
そこを曖昧にするのがタツキの常套手段っていうか、主要テーマなんだと思う。
ファイアパンチはモロにその話だし、
今回はそういうところをファイアパンチ後半以来、久々に前面に出してきたと思う。
俺は理解できねえ
まずここがわからない。
最初に断っておくがこれは「漫画なんだから全部フィクションだろwwww」で終わる話じゃない。
「作中のキャストが実際に体験したことを映像化した部分が何割含まれているか」という話であり、逆の言い方をすれば「両親や同級生も全部俳優で、中学生の主人公とオッサンの主人公は別の俳優がやっている」という解釈が正しい可能性も考慮するということだ。
ありがちなパターンで「4コマ漫画になっているページは映画」だと考えると母親の病院を爆破したのが現実になってしまう。
逆に「4コマじゃないページは映画」だと考えてもいいがこれだと現実部分がコリジョンを起こし始める。
全てのページが映画であり映画の中で映画を何回も作るという『カメラを止めるな』方式なのだと考えるとハッキリするが、その場合この話は「作中のキャストにとってもフィクション」となるのだろうか?
この入れ子構造は作中で何度もループがされており、主人公が文化祭でクソ映画を上映したことだけが真実だったり、逆に文化祭でクソ映画を上映することはなくいきなり泣かせる映画だけ上映していた可能性もあるのだ。
難しい。
とっかかりがない。
それこそ「あの世界には本当に吸血鬼がいて、主人公は吸血鬼を爆破して去っていった」という仮説さえもオッズこそ凄いことになってしまうが完全に死んでいないのではとさえ思えてくる。
「大きな嘘は作中に1つまで」という映画論もあるし、また「作中に1つだけ論理破綻を残して受けての考察を深める」という意味不明な理屈もある。
後者の理屈は往々にして映画か解説者のどちらかの頭が破綻しているのを必死になって誤魔化そうとする場合に使われがちだ。
たいていこの「1つだけ論理破綻が残されている」の理屈を安易に振り回す考察者はのちにスタッフインタビューが出てきたときに大恥をかいて「でも映画を見ただけだと読み取れなかったんだからしょうがないじゃん」と慌てふためくものである←最初から無理に決めつけて格好つけなければいいだけだったのに……という話であることは伝わってるよね?
さて今回もそこに気をつけていきたいのだが、気をつけようとすると一気に手詰まりに近くなる。
いや答えは見えてる。
「映画の完成にはファンタジーが1つ必要であり、吸血鬼というファンタジーを入れても映画は完成しなかった。爆発というファンタジーを入れて映画が完成した。つまり吸血鬼はファンタジーだった」
これでいいはずなんだ。
いいはずなんだが、誘導されている気がしてならない。
のちにタツキが編集者とインタビューをするときに畳をひっくり返されて顔を真赤にさせられる気がしてならないほどに誘導させられている。
だがそれを恐れて別の考察を始めさせようという悪意さえ感じる。
これがまず思いつく。
前作ルックバックを知っていれば思わずコレに飛びつきそうになる。
でも本当にそうなのか?
カメラは作り手が切り取りたいように世界を切り取ってくることが殊更に強調されていく作品の中で、カメラが切り取ってきたものをそのまま受け取って良いのか?
素直に受け取れという作品で良いのか?
「映画ってマジで面白いよな。映画好きの美少女吸血鬼とかいたら最高じゃね?ついでに失恋するときは相手が病死したら文学的で二重にいいね」とかそういう話でしかないのを必死に意味を見出している我々をタツキが掌に乗っけって笑ってるんじゃないのか?
「爆発オチは最低なのか」という映画にも思えるし「俳優って役作ってるだけなんだよな」って話なのかも知れないし、答えを一つに絞れるのか本当に?
分からねえ。
難しいぞ。
で?お前らこれが理解できたんだよな?
理解できてるからなんか偉そうに「いやー素晴らしい作品だった。これはこういう作品だったわけだが、なるほどなるほどだね」ってコメントしてるんだよな?
俺はもう「分かんねえ……むっず……ところでチッスはしてるけどエッチもしてるんすか?」ぐらいしか言えることねえぞ?
やっぱはてなーって頭いいんだな