2013年01月16日の日記

2013-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20130116162729

あー

どーせおまえみたいなクソは何言っても無駄なんだろうけど

一応消極的義務感みたいなもので年長者として言っておくけど

その歳ならまだどうとでもなるし

そのまま無為に5年過ごせばかなりどうもならなくなるぜ

勉強したいけど1人でやる気が出ない(ほとんどの人間はそうだぞ)ということなら

金払って学校とか勉強会とか行くといい

学校はなるべく業界トップみたいなとこがいい

ってPG業界学校勉強するもんなのかしらねーけど

http://blog.tatsuru.com/2013/01/16_1207.php

もう「とにかく橋下を叩きたい」という意図が見え見えで、実際この人体罰とかその被害者なんてどうでもいいんだろうな、叩くネタにしたいだけなんだなって感じ。

まさにhttp://anond.hatelabo.jp/20130115200436がぴったり当てはまるような御仁だと思いました。

人生消化試合

男。26歳。年収300万。底辺PG

貯金は800万。

会社の寮だから出費少ない+無駄遣いもしないというか趣味ネットみたいなもんだから貯まった。

休日洗濯とか掃除とか布団干しとかしてあとはゴロゴロしてる。

服も趣味のものほとんど買わない。たいていネットしてるだけ。

友達は少ない。結婚する予定もない。

昔の知り合いも、ほとんど連絡こないしこちらからも連絡しない。

一人が気楽。

もう少しで会社の寮を出ないといけない。首都圏だし、こんなペースではもう貯まらなくなるだろう。

同期はお金ナイナイ言ってる。自分適当に合わせて、貯金の話するときお金ナイナイ言ってる。

オタで雀の涙ほどのボーナスコミケで吹っ飛ばしたりギャンブルしてたらそりゃそうだろうなあ。。。

自分場合貯金趣味みたいになってるのかもしれない。

昇給もないに等しいし、転職のためになんか勉強しないとなーとか思って何もせず。

毎日を漫然と無気力に過ごしてる。

引越を機に何か変わったり・・・しないか

転職しないと、今の若い人間使い捨てPG業界にはずっといられないのもわかってるんだけれど。

結婚催促とかめんどくさい年頃になってきてしまたか実家にはもうずっと帰ってない。

とりあえず会社をやめてしばらく引きこもれるくらいのお金があるのは保険のような感じがして安心している。

親不孝だなーとか不幸でもないけどめちゃくちゃ幸せでもないなーとか思うけど、めんどくさいからもう仕方ないよねと思っている。

http://anond.hatelabo.jp/20130116160402

それだと、恐らく膨大と思われる「意識の低い人」の言う、「僕らは体罰なんか必要としなかった」も等価になる。

体罰あっても成功できない集団は、ゴマンとあった訳で。(うちの昔の中学含めて)


体罰必要とされるような集団から成功できないんだ」なら分かるのだが。

この場合も、体罰の「有効性」に自ら疑問符を付けることになる。


桑田の発言は、「一応有名人もこう言ってますよ」というキャンペーンで、本質的には時流に乗ったオマケ。

桑田だったか体罰なくても成功できたんだ」は、体罰の成績に与える正の相関が立証できないと難しい論法

かつてエロコミュニケーションツールでもあった

かつてエロインターネットを救っていた - 研究室先生と話していたこと。

http://anond.hatelabo.jp/20130116002354

エロはかつてコミュニケーションツールでもありました。

アダルトビデオの貸し借り、ダビング。エロ本の貸し借り。

入手場所のやりとり。あそこなら買えるぜ。拾えるんだぜ。

裏ビデオというとっておきの秘密の共有。ラベルの剥がしてある生々しさ。意味ありげ記号けが書かれた背表紙。これどういう意味だと思う?

エロいことに明るいことはステータスですらありました。人間関係において他に面白みも何もない人間が輝けるツールでした。

コミュ障でデュフフフwwとか言っててもエロければよかったのです。

公園に集まってやることがDSというような時代なので、コミュニケーションのあり方自体がエロを含めて変わっていっているだけというのが正しいとは思いますが、それでもあのドキドキ、興奮は特別なものでした。

今ではクリックひとつ画像洪水です。友達エロについての情報交換をすることなんてまず減ったでしょう。

あの頃を味わったというある種の優越感と、味わわざるをえなかっただけという敗北感、エロバーゲンセール状態への嫉妬と、あの興奮を味わえない現代若者へのある種の不憫さを頭の片隅に押しやりながら、おじさんは今日も息子を握ります

http://anond.hatelabo.jp/20130116140154

俺の見たかぎりでは「科学的な妥当性に欠け、かつ倫理的な問題を含んだ話を、何の説明もないまま、消化しやすい形で読者に食べさせている」点を批判している人が多いように思える。

妥当性に欠けているだけだったり、倫理的に問題があるだけだったり、多少なりとも批判精神を持っていたり、読みやす台本形式でなかったりすれば、ここまで批判されなかったのではないか

あと「小説としての巧遅の問題」というのが意味わからん。巧拙の誤り?

http://anond.hatelabo.jp/20130116154048

2005年より古ければ何でもいいんだから、1980-90年代なら十分では?

もともと上杉謙信女性説は、ヲタ業界では謙信ちゃん結構有名だからな。

 

織田信長でもパクったとか、そういうことではないと思うけど。あまりにも、織田信奈と近すぎる。もうちょっと離せなかったのかと。そんだけじゃね。

体罰やらライフハックやら

最近、生徒の自殺に絡んで、為末やら桑田が「体罰不要」って言ってて、みんなでありがたがってるわけだけど。


単に指導ととらまえた場合、「意識の高い人」が感じた「僕らは体罰なんか必要としなかった」と、

意識の低い人」が感じた「体罰や規律の有難さ」は本来等価だよね。

ところが、「意識が高い」方は、名だたる面子(為末や桑田)が理路整然と【自身の成功を土台に】語るものから

後者は「間違い」と思われがち。

(まぁ、文系には体育会系脳筋思考が馬鹿に見えるってのもあろうが)


似たような話題で、「AppleGoogleインターン出来る」ような人が、半年くらい遊んで、それでも成功して、

結果論として「遊びも大事」とか言っちゃうライフハック記事もあるんだけど、根は一緒。

成功する才と意思を持つ人が、それによって成功したと言うだけの話。

http://anond.hatelabo.jp/20130116144525

そら、メジャーメジャーの2番煎じつーかなんつーかをやったら気が付かれて怒られるからな。

織田信奈ならいいだろう。ってのが、みんなが怒ってる理由では?

メジャーマイナーの真似するなよと言うのはマイナーとしては当然の気持ちだろう。

SNS疲れ

数年前にとあるSNSを始めた。

まだテレビなんで取り上げられる前。ユーザーほとんど物好きそうな人ばっかりだった。

自分も小規模ながら趣味をやってる人間。同じような趣味を持つ人の会話を何気なく聴いたり、

たまにそこに参加して過ごすのは、現実世界では味わえない楽しい時間だった。

 

しばらくするとユーザーも増え、自分と同世代で同じような趣味を持った人間を見かけることも増えた。

当然、趣味の話以外にも同世代ならではの共通の話題で盛り上がるようになった。

SNS内でのつながりもも増え、複数人で会話をすることも少なくなかった。

 

テレビ雑誌で取り上げられるようになると、身の回り人間もそのSNS存在を知るようになった。

オフラインの友人とも、SNSで繋がるようになった。互いの趣味垣間見え、

普段は口にすることが無いような趣味の話を聴くことができるのも楽しかった。

 

気がつくとオフラインの友人とオンラインの友人がSNSで繋がっていた。

特に不都合は感じなかったし、むしろ自分が友人関係の橋渡しをできたような気分になっていた。

 

生活の都合で大都市を行き来することが増えた頃、オフ会をすることになった。

普段オンラインで話してる彼と実際に会って会話してもいいだろう。

趣味の話を、現物のグッズを持ちあって話せたら楽しいじゃないか。そう思った。

 

そうやっていくつかのオフ会に参加した。

複数人が集まることもあった。

そうやって恋人ができた。

 

出会いの場が違ってもプロセスは一緒。きっかけが違うだけだった。

なんの問題も無いと思っていた。

 

問題はオンライン上の友人の存在だった。

恋人は私のオンラインの友人とも親しくなった。

もちろんその中には私のオフラインの友人のアカウントも含まれていた。

対人関係は個人が好きに創り上げるものだし、そこに何か制限を設けるのはおかしいと思い、

そのことには疑問や特別な感情を抱くことはなかった。

 

恋人喧嘩をした。

恋人SNS愚痴を書いた。

私も反論を書いた。

やりとりを不快に思ったオンラインの友人は私から遠ざかった。

オンライン恋人と親しくしている私のオフラインの友人に、

接することが面倒に感じた。喧嘩について言及してくるからだ。

 

SNSはやめた。

アカウントを消したりとあからさま過ぎる行動を取ると面倒を引き起こすので、

忙しくて覗くことも会話することができない旨を、たまに投稿する。

身を引くときも気を使い、しかも身を引ききることができていない。

 

単純に書けば以上だが、実際は文字通り目が出て花が咲いて枯れるくらいの期間の出来事だった。

振り返ってみれば、オフライン愚痴オンラインにぶつけていた自分が、

オフラインオンライン関係を混同したことが良くなかった。

 

恋人との関係は今も続いている。

オンラインの重圧でこの関係を切ることができなかったとも、

オンラインのおかげで今もこの関係続けていられるとも言える気がする。

 

SNSをやめるとき、一番気がかりだったのがオフラインの友人たちとの関係だった。

SNSで「明日暇だ」と言えば、誰かが遊びに誘ってくれた。

SNSを通して遠くに言ってしまった友人の恋愛事情仕事の話を聴くのも楽しかった。

まるで学生時代雑談の延長のようで。

 

幸い、今はLINEのようなオフラインでのつながりを前提とするサービスのおかげで、

オンラインの友人とオフラインの友人を隔離して会話することができている。

 

公私混同というこばがあるが、会社と私事以上に属するコミュニティが多数存在する現代では

私私混同に気をつけなければならないと痛感した。

http://anond.hatelabo.jp/20130116144618

自殺したのに強い言葉をまわりに振りまく事ができる人は想像力が欠如していると思いたい。

アンタには文章作成能力が欠如しているけどな。

 

文脈から考えるに、

 他人を自殺に追い込みながら、まだ強い言葉をまわりに振りまく事ができる人は、

 「我が子が自殺したらどんな気持ちになるか」を想像する力が足りないだけなのだと思いたい。

 なぜならば、子供自殺したときにどのような気持ちになるかを把握しているのに

 それでも強い言葉を吐き続ける人がいるとは思いたくないからだ。

……と言いたいのだろうか?

ある寒い1月の朝

ある寒い1月の朝、一人の男が青山一丁目の駅出口で座りながらオナニーしはじめました。彼は5分程勃起しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人その男の前を通りました。

3分後、ある男はオナニーしている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。

1分後、オナニストはやっと逮捕されました。ある女性青山一丁目交番から警察官を連れてきたのですが、彼女は止まることなく歩き続けました。

一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子オナニストを見ようと足を止めます。お母さんは男の子背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのオナニストを見ながら去って行きました。他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。

一つ結論として言えるのは、

もし私達は誰か知らない変態が、歴史上一番のオナニーを公開してさえ気付かないのであれば、私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか

もしあなたも足を止めてこの記事を読んでいただけたのなら、是非シェアなんかせず、外に出てオナニーしてください。

http://anond.hatelabo.jp/20130116125559

メジャーマイナー二番煎じをやるなんてのは、類挙に暇がない。

ドラマ女信長」を馬鹿にしてる連中が思ってるほど世間に「織田信奈」は知られてない。

http://anond.hatelabo.jp/20130116144105

じゃあ、それはそれで正しいよね。

結局階級闘争ということか。

http://anond.hatelabo.jp/20130116143215

から改善できない」と彼らは言わないんだよ。

改善できるなどと言った言説はネオリベ洗脳(=弱者搾取する自己責任論であり死ね)」といいだすわけさ。

http://anond.hatelabo.jp/20130116140154

別に改善できる」ということ自体には反対してないんじゃねーの?

初期スコア1000の奴が「努力によって自分人生は3000まで改善した!」とか言っても、

「いや俺の初期スコア-10000なんだけど。お前と同じくらい努力してまあ改善したけど-7000だわ」

ってだけじゃねーの?

インターネットがなかった時代は-7000でも改善したということ自体に希望が持てた(あの小説の設定もそういう時代だよね)わけだけど、

今の時代最初から+10000くらいの連中がヒャッハーしてる様子があらゆる方向から常に聞こえてくるわけで、

それで「改善希望を持て」って言われても無理あるよね。

秋葉原事件京都暴走事件から学んだこと

環境要因を理由に犯人に同情的な見方を示すと、犯人と似た境遇の人を貶める結果になる

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185

とか読んで。

まおゆうからまりまおゆうとは関係のない地平の話をする。

(だから、上の記事に対する直接的なレスとはとても言えないのだが)

まおゆうを取り巻く大きな断絶


まおゆうを取り巻くアンチの言説は、まおゆうという作品に対していろんなツッコミをする。それは、

1)内容の科学的もしくは専門的妥当

(たとえば、1年で農業改革なんて出来ねぇよ、とか)

2)内容の政治的、倫理的善悪

(個人にそこまでの自助を要求するのはいかがなものか?)

おもにこの2方向に集約されると思う。

(あとは、ファンや作者に対する人格批判なんだが、その話はこの文章後半に持ち越す)

上記の2点はたしかに疵である。結果物語は駄作になり得るレベルの疵かもしれない。

が、それは要するに、究極的には小説としての巧拙の問題なのだ

ここで言う巧拙っていうのはやれ台本形式がどうしたとか文章のレベルがどうのこうの言う最近ラノベ語りではなく、物語の展開から隙を取り除く程度の意味合いだ。

巧拙の話で言えば、ダメな作品が世の中にあるのは当たり前だし、むしろ良いことだ(母数的な意味で)。

それがメジャー化したところで別段何の問題だって有りはしない。「それ以外の選択肢」があふれた現代なのだから

しかし巧拙の程度の問題に対して、どうも、アンチの人は常軌を逸して過激なように思える。

Twitterでは焚書を促したりする人や、ファンにたいして自殺を勧めるような表現まで見えるわけで、それはどうにも違和感がぬぐえない。

上のURLも楽しんでいるだけのファンにガソリン放火をして自分燃えながらゲラゲラ笑っている絵面に見える。

ここにはなんかもっと、個人のアイデンティティを賭け金にしたなにかがあるのを感じてしまうのだ。

まおゆうにおいて経済がどうこうとかいうのはテクスチャであるというのは見れば判るわけだけど

そのテクスチャを通して、あるいは取り除いて、まおゆうという物語の言っていることはほぼ1点に集約される。

それは「人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る」ということ。これだけだ。

まおゆうに激しい拒絶反応を示す人々は、どうも、まさにこの部分が受け入れられないように見える。

人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る」という考えそのものが受け入れられない。

もっといえば「人間努力で何かが改善できる、何かが為せるだなどといった欺瞞を高所から語るな」と憤ってるように見える。

そしてその感情を、俺は、リアルな話ではあると感じる。

それが良いのか悪いのか、とくに、そんなもん世間様に開陳して良いのかどうかは横に置く。

彼らがそういう憤りを感じているのは、現代社会において、リアルだととても強く感じるのだ。

いま思えば、初期にまおゆうを礼賛した人々は「人間は自らの努力社会改善することが出来る」ということに感動を覚えていたようだ。

まおゆうがそれに値する作品か? という話に接続したいわけではない。

どう感じるかは個人の自由なのだからその感想自体はまったく間違っていない、という話だ。

しかしその一方で、「人間は自らの努力社会改善することが出来る」という作品や、それを無邪気に礼賛する人というのは、

ある視点から見たら、どうしようもなく無神経で、脳天気で、生かしておくわけにはいかないほどいらだたしさを持つと言うことも、理解出来る。

この問題はとても深く、大きい。それは圧倒的な断絶だ。

(こう書いてしまうと作品のコアファンや作者には申し訳ないけれど)もはや、まおゆうは、どうでもいい。

まおゆうに描かれている作中の問題提起であるとか、作品の疵であるとか、小説としての上手い下手であるとか、そんなものを越えた問題がここにある。

こう例えると卑近になってしまうかもしれないのだが、

それは、小中高とよい大学に入れば幸せになると言われ多くの時間苦痛勉強に費やし、大学に入っても就職のために歯車的なロールを強要され

しかし実際ふたを開けてみれば、終身雇用崩壊経済はガタガタになり、どんなに働いても給料高齢者年金で吸い上げられ自分はもらえないと知ったような。

いわば、洗脳に近い価値観インストールを受けたけど、それらはみんなうんこでした――みたいな人間が、

人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る!」なんて朗らかな事を言われたら殺意を覚えても仕方がない。

その殺意の前には、作中が中世に近いファンタジーで、いま実際の現実は21世紀なのだなんていう「歴史オタ」のいいざまはなんの意味を持たない。

まおゆうを認める派と認めない派の対立というのは、おそらく、すでにまおゆうとは関係ない次元にあるように思う。

その対立は、まおゆうのものよりもずっと現代的な問題だ。

この問題点接続したことが、まおゆうの最新の価値であるように思う。

2013/01/16:誤字なおしたよーごめんよ

http://anond.hatelabo.jp/20130116065001

増田は「東京へ出て行くべき」とも「東京へ出て行きたいと思わないのはおかしい」とも言ってないよ

「出て行きたいと思う人への制止圧力が強くなりそう」と言ってるだけ

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