はてなキーワード: 芸術家とは
http://anond.hatelabo.jp/20120103131444
http://anond.hatelabo.jp/20120103132230
しかも、博士課程+学振+育英会/JASSOの話題まで触れてもらえたのでうれしいです。
イヤミ抜きで、
音大・芸大に行って、高い楽器や衣装を用意して、師弟制度の中で頑張っても、将来が約束されない芸術家の卵や、
10代・20代で師弟制度に揉まれながら、借金を背負いながらも独立してる土木業や飲食業の人や、
不条理な文句に社内からも社外からもた叩かれて逃げ場のない企業人や、
そんな方々に比べて、
いろいろ借金を背負っているとはいえ、広義のサラリーマン職への就職を狙えるし、
あのさ。情報の価値は「言った人間が誰か」というところには無いんだよ。
「話された内容に価値があるかどうか」なんだよ?
でも「体験からのみ真理を得られる」みたいな教えだけは、当然ながら、
言ってる人にその教えの実践と実績が求められるよね。
言ってる人が「ボクは童貞です」とか「ボク自身は小説のヒット経験なんかないです」じゃ話にならないw
偉そうって? 元増田は小説を書くための勉強なんか、かけらもしたことないの?
元増田にはあるの?
無いのに「小説書ければいいんだ」なんて言ってるの?
ええ?
俺はとっくに大学出てるし元増田みたいなナイーブちゃんでもねえし普通に働いてるよw
何より小説なんて書いてねーーーーよ!
だいたいノリも文体も話の立場も俺と元増田じゃ全然ちげーだろw
私は芝居をやっていたことがあって、300人の観客の前で踊ったことがある。
私の動きを見てお客さんが笑う。私の動作を見て、お客さんがため息をつく。そういう体験がある。
わあすごい!
それがお前の精一杯の、人に誇れる「体験」なんだ!
2年目は評判呼んでお前の踊りよりたくさん入ったよw
そんなショボい思い出今の今まで忘れてたけどwww
発達障害は怖いなぁ。
発達障害の人って、周り中がシャーロック・ホームズとマイクロフトばかりの世界に紛れ込んだトロいワトスン君みたいな気分?
「遠回しな表現を理解できません」「否定的な言葉かけに過剰反応します」” こんな人が職場に来たら… 迷惑。迷惑。
発達障害者恐るべし
「誰か、あるいは何かに対して、強い恨みを持っていることはありませんか?」の問いには、「ある」と答えた人は112人。全体の33.9%に上った" 恐るべし。
「俺は発達障害だった」... だって。近年は単にちょっと頭が悪い程度の事にまで病名っぽい大仰な名前が付くのか。
福祉大国スウェーデンにおいては、発達障害含む精神病患者は、犯罪を犯す前から全員政府の監視下に置かれていると聞く。
教え子に乱暴、「嫌がらないと思った」と元教諭 - MSN産経... "奥田哲也裁判長は、被告に広汎性発達障害の傾向があるとする弁護側の犯罪心理鑑定書などを証拠採用した。" 広汎性発達障害者恐るべし
知障は幼女への性犯罪多いそうだしな。予備拘束すべきかもな。発達障害もヤバげじゃね?予備拘束だな。
広範性発達障害人間というのは刑務所に入れた方が治るのか少年院に入れた方が治るのか、どっちなんだろう。
出生前の脳の異常である故、改心の見込みは皆無、我々健常者に出来る事は、力関係に応じて逃げるか追い出すのみ。
町田・高1殺害事件、元同級生の少年に2審も懲役11年 : ... 発達障害は怖いなぁ。
所詮は知障の一種に過ぎぬと。
只の我侭で能無し嫌な奴。
異常者恐るべし。
ところで健常者の事を定型発達者と表記すると、あたかもこれは機能不全ではなく只単にタイプが違うだけの互角並列同格の関係であるかのような誤解を与えかねない。
アスペルガー症候群とハッカー:中年での診断が増加 | WIRED... こんなのが我々健常者の間に何食わぬ顔で紛れ込んでいるのか…
おいおいIT業界も他人の気持ちを推し量るの結構重要。偏見の助長は如何なものか。向いてるのは「芸術家」とかにしといて。ちなみに特定の分野に於いても秀でた能力を持っていない人の方が多いんじゃね?
頭脳労働は向かない奴だったなぁ。思い出すだに腹立たしいあの薄馬鹿は。
アスペルガー社会人のBlog : 何故こんなことしたの? ← 馬鹿と働かざるを得ない上司は大変だなぁ。常人なら1分の説明で判る事を30分説明させられたり。しかも往々にして判ってなかったり。/いや、原因が何であれ馬鹿は馬鹿。
広がりを見せる自閉症者ソフトウェアテスター育成プログラム... ”現在、同社の収入の60%は寄付によるもので、売り上げは40%に過ぎない” ← やっぱ使いものにならない模様。
お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 今般のトラブルについて... ← 自閉症は怖いなぁ。絶対に関わりあいにならないようにしないと。
常時ゼッケンつけるのはどうだろう。黄色地に黒で「単鬱」「統失」「自閉」とか。私なら見かけたら道を譲る等の配慮をする。10m離れて
楽しそうに仕事をしている男や仕事を生きがいにしてるような男、それなりに地位があったり高給取りの男は主夫なんてやってくれなさそうだから
仕事に疲れてる感じの男、仕事にやりがいを感じてない男、あとは非正規雇用とか派遣社員、アルバイト、低賃金の男あたりに狙いを定めればいいんじゃないかね。
Twitterで仕事の愚痴や将来の不安をよくつぶやいてる男とかさ。
(そんな男に魅力があると感じるかどうかは微妙だが)
あとは、夢追い人を養うかわりに家事をやってもらうとか?
近年は結婚したてで幸せを感じ、日常的に思っていた「あー死にたいな−」という思いがかなり無くなってきて、ああこれが幸せなのかと思う一方で、今までの家庭環境がどれだけ悲惨なものだったのかをだんだん理解してきた。
こんなに世界って明度と彩度が高いものだったっけ?というか、そういう意味で人生に光が差してきた感じなのだけど、一方、自分の過去がどれだけ無残なことになっていたのかということが、人生に差し込んできた希望の光によって在り在りと分かるようでなんかあれ。
妹曰く「おまえの心はボロボロ過ぎるから少し休め」という事なので、今まで自分に何度となく投げかけてきた「色々人生なんてこんなものだしみんな大変なのだし」という言葉では特に心というものは救われないらしいのだと、そういうことらしい。
確かに25年間悩みに悩み抜いたあげく、「この問題が解決するのは母親が死んだときしかないのだな」という結論にたどり着き、「今後一生罪悪感で夢見が悪くなるだろうけど、それでも早めに母親には亡くなって欲しい」という結論にたどり着き、いわゆるメンヘラ的な母親の人生まで責任を負えると思い続けて来た結果がこれだよ!みたいな、なんというか分からないけど配偶者がこの話を聞くととても泣いてしまう。本当に申し訳ない。一方で僕はもう「母親が亡くなるしか解決手段がない」と結論づけてしまった時点で、月並みな表現だが涙みたいなものは枯れ果ててしまったので泣けない。もちろん泣く資格もないし。
それに比べれば父親もだいぶマシだなと思っていたのだけど、配偶者に言わせるとどうやら父親もやっぱりまともではないらしく、それは「デリカシーがない」の一言では片付けられない領域にまでなっているらしい。そういう意味では、配偶者は両親に感謝した方がいいと思いましたしそう伝えましたし、僕は僕で配偶者の両親みたいな親の元に生まれたかったかもしれないかもしれないけど、そればっかりはもう、あまりに今更すぎることで、別に僕は今の自分があまり嫌いではないし、自分を好きだといってくれる配偶者もいることだしねと。ただ母親には「おまえを産んだことで芸術家になれたかもしれなかった私の人生は台無しになったんだ」と言われ続けたけれども。それでも産んでもらったことには感謝できるようにはなった。
生きつづければ生まれたことに感謝ができる日も来るのだなと思う。今まで日々日々死にたいなと思いながらも、未だ自分の命みたいなものを投げ出せず、生き抜けていることに感謝をしようかと思う。
ただ、自分の母親のメンヘラ問題、というかなり大きめな問題については、25年間かけて結局投げ出した人間が、今更何を言うかという話ではあるが。
そういう意味で、「母が自殺した」http://anond.hatelabo.jp/20111004053417 はとても人ごととは思えなかった。
事実は小説より奇なりというが、この言葉は小説の方が奇で当たり前なのに、現実が奇な場合がある時に、使われる言葉だと思う。小説の方が奇とは誰が決めたんだろう?そんな決め付け、現実を売り込みやすく調理しているメディアの方々の思い込みではなかろうか?
決め付けが世の中に横行しているのは、そういうマスゴミの姿勢にも責任の一端はあるのではないだろうか?
マスゴミ側からしたら、逆だ、多くの人に受ける為にやっているだけだ!というのかもしれないが。
内容は悪くないとしても、本のタイトルでも○○○○マンに明日はない、とか○○○○の危険性を指摘するのはいいけど、それは言い過ぎなんじゃないか?と思うようなのをよく付けたがるようだ。(○○にしたのは、そんなような意図で付けられたタイトルだったがはっきりした言葉はうろ覚えだったから)
地震が起きてから2~3ヶ月の比較的早い時期だったかに、元アナウンサーの女の人が、親切な情報とそうでない情報とについて、書いていた。
自分も関わってきてわからないでもないが、というニュアンスもあったような気もするが、ついつい煽ってしまうマスコミの体質と、自分が親切だと思った情報というのは、自分が身内や身近な人に伝えたいと思う情報だ、というような事だった。煽りに煽ればどこまでも煽れるようなショッキングな内容ばかりバレて、不祥事に次ぐ不祥事で、どうしようも無い出来事ばかり続いて、みんな不安なのに、不安に乗じたかのような情報や特集が組まれたり、いや伝えないといけない事だという意見もあるだろうし、中には伝えないといけない情報やそう思って伝えたものもあったのかもしれないけど、何だか入り乱れていて、悲惨な被災地の様子をずっと流していたのを見た被災地の人が、ああいうのより安否確認情報をやってほしいとネットで書いていたりもしたのも見た。
さらに最近ではマスコミではなく不安に付け込む商魂逞しい人も居たりするのか、今日新しくツイッタで私をフォローしてた人のプロフを見たら、HPが載せてあり、水素が体に良いとか水素水がどうたらと・・・、というのと放射能にも効く!とか載せてて、いくら疑似科学っぽくても、見ただけで似非だ!ニセだ!と叩くのもどうかと思ったので、何も言わなかったが、複雑な気持ちになった。
ソースの提示を求めたり、どういう作用でそうなるのかどこかで証明されてるのか、学会に論文は提出されてるのかなどの質問はしても良いのかもしれない。
ちょうど疑似科学の事に触れてしまったが、疑似科学似非科学というものについても、それらを一つ一つ精査して、どこがどういうふうにおかしいのか、科学的でないのか、言及していくのは結構骨が折れる作業だと思う。
科学的でない証明を科学はやる必要はないから、何と言って良いのか、正確にはわからないけど
普通は、棲み分けできていて、害が無いものであれば、いわしの頭も何とやらみたいに、わざわざ権威や本物の科学者が出張ってくる必要も無いのだが、たまに物凄い事が起きていて、何でそんな事になったのか全く理解できないけど、詐欺師的な人に教育機関が引っ掛けられて、冗談のようなビデオが学校で流されていたりする現象もあったりして、さすがに専門家が批判をしていたが、それも色々物議を醸し出していたようだった。
その事は疑似科学という捉え方で良いと自分は思うが、その事だけじゃなくて色んな疑似科学に対して、疑似科学を叩く人たちについての疑問を述べる人や、専門家の中でも頭ごなしに叩くのは如何なものか、という意見もあった。
この辺もパラドックスで、科学的というならきちんと説明すべきだが、そもそも科学は科学的でないものを、科学的でないと証明しなくてはいけない義理は無いのだw 義理と言うか義務と言うか。 そうなんだけど、一般の人の事を本当に思って科学的な考え方を浸透させたいと思っている知に対する深い愛情を持つ人ならそうするかもしれないけど、それは別にしなくても良いことなので、特に権威主義的な人たちは、わざわざしないだろうなと思う。権威を愛する人たちはしないだろうと言った方がいいのかなw
科学に、非科学的なものを科学だと言う疑似科学を、科学的に非科学だと証明しなくてはいけない義務は無いが、ネットでよくある疑似科学を取り上げている時の取り上げ方が、科学的ではないものもあると思う。これらの人たちが口にするのが、「科学には疑似科学を科学的に擬似だと証明しなくてはいけない義務は無い」なんだと思う。しかし、それを見た人への影響を考えると、なぜ科学ではないのかをわかるように説明した方が、良いのではないだろうか?と思わない事も無いが、まあ表現は自由なので何とも言えないとも思う。
疑似科学一つとっても、ここまで入り乱れている。
疑似科学じゃなく、弁護士でも精神病院でも、何でも圧倒的な力の差ができてしまう状態で人と人とが接すると、色々と問題が起こるようで、それについて、また言及する事を仕事にしている人たちが、出張ってきたりして、ますます儲けて自分は大学教授になったりしているという例もあるが、こういう事についても、一面的な捉え方や批判や非難だけでは、どうしようも無い問題もたくさんあると思う。
ジャーナリストたちは、如何にして批判をうまく書く事ができるのか?という事に心を砕くのか、昔から一面的な捉え方が好きなようで、善悪の図式を作ってしまう。
という言葉もあるように、善意だからと言って、必ずしも良い結果が出るとは限らないし、何か問題があるのは悪意があるからとも限らない。
だから、余計怖いと思う。
でも、昔からわかりやすいと思うからなのか、その方が売れると思うからなのか、水戸黄門の悪代官やないんやから~!!と言いたくなるようなキャラ設定がお好きなようで、イメージ戦略にも余念がない。
うつ病の薬と言うと、依存性があって嵌らせられる。医者や製薬会社は薬売りの悪代官!!! すごい人になると、うつ病の薬と自殺率の増加を結びつけてネットニュースの記事にしていて、データの読み方について、はてぶで突っ込まれていた。それを見たのは他のネットニュースの記者の人のツイッタだった。。。 その人に連絡したり相談する気も無くなった。。。
うつ病の薬については、本当に依存性はあると思うし、のまずに済んだらなるべくのまない方がいいと思うけど、正確な医学的知識を持つ医者が処方して、本人の状態をみて用法用量を守って出している場合もあるので、一概には言えない難しい問題だと思う。
自分としては、なるべくのみたくないので、今回の事で精神的にまいって神経内科に行った時も、漢方薬のうつ病の薬と同じ働きをするものを、処方してもらったりしていたが。。。
うつ病の薬については、依存性や危険性もあるが、統合失調症の陽性症状には、薬はかなり効果的だし、服用は必要なような事が、統合失調症の陽性症状について語っている掲示板からも、読み取れるし、統合失調症については薬を受け入れて病気の認識を持ってくれるかどうかが重要なようなので、薬は必要だと思った。
それで、ずっと前に、精神病院や精神科医を批判している人のブログをやっている人に、メールでやり取りしかけた時に、その事も併せてブログに載せた方が良いのではないか?サイトの性質上不安定な人も見るだろうから、薬=危ない!と刷り込まれてしまったら良くない場合もあるのではないか?と送ったら
返事が来なくなった。。。
ということもありました。。。。。
これだって、事実は小説より奇なりな事も、多々あり、入り乱れた世界が構築されていると思う。
弁護士に関しても、私がツイッタで、「弁護士憎けりゃ袈裟まで憎い」という造語で揶揄したような状態に陥っている人もいると思う。
でも、これも、どういう立場の人が言うかによっても違うと思う。
弁護士自らは、これを言う人たちに対して、揶揄したり鹹かったりは慎むべきではないかと思う。
むしろ謙虚に受け止め、これらの人たちの心のケアも含め取り組むべきではないかと思う。
しかし、さらに、入り乱れていて皮肉な意味で興味深いと思ったのは、これらの弁護士憎けりゃ袈裟まで憎いという幻の袈裟まで見てしまうような人たちが、力を入れている企画で、ラディフェミ叩きがあるのだが、ラディフェミ被害はあるにしても、ラディフェミに走る人たちの追い詰められた状況もあるのではないかと思うので、単純に叩いていいのかどうか難しい部分もある事なのに叩いている。
自分達の弁護士憎けりゃ袈裟まで憎い状態の状態が進んだのが、一部の事実の捏造まですると言われているラディフェミだとは思わないのだろうか?
男性でもこういうふうに言う人もいる。
http://twitter.com/denzirousann/status/125613385307013120
フェミニンな(特にラディフェミ)人達の抑圧性って彼女らが批判するマチズモをそのままひっくり返しただけに見えることも多いけど、そうなってしまうのにはそれなりの理由があって、だからと言って彼女達の思想主張をそのまま受け入れることは出来ないけど、アレな人扱いしてるだけじゃだめぽ
でも、私はこう思った。知らない人なので返信ではなく、自分で自分用覚えとして、つぶやいといただけだが
http://twitter.com/Tasmanian_good/status/126317550513553
もっともなご意見。でも、元男性で過激な発言「父親はタネとカネを出したにしぎない」をしDVでっちあげてるという疑いだか被害の声も挙がってる性同一性障害弁護士のような人場合は?^^;そんな倒錯的な昔の漫画みたいな人もいるw
そう、本当にそんな嘘のようなストップ何とか君!みたいな人もいるのだ。この弁護士の事を弁護士批判の一つとして行ってる人もいるが、こういう弁護士がいて迷惑した人もいた、というのは構わないと思うが、だから弁護士は~・・・という方向に持って行くには、極例すぎると思った。
このストップ○○○クン弁護士と名づけたくなってしまうほどの倒錯した弁護士さんは、不思議なんだけど、性同一性障害を言いつつ、恋愛対象は男性ではない状態なのだろうか?
あそこまで嫌っていては恋愛対象になどできないと思うのだが (そういう人達を男女どちらについても、今は毛嫌いする人たちとして、名称もできているそうだが、それなのだろうか?)
男のままで、「タネとカネ」という言い方をしていたら、どうなっただろうと想像してみたが、やっぱり変だと思う。責任を放棄して建設的な方向で物事に取り組む事をやめた姿勢とも、捉えられるから。芸術家とかアーチストと言われる人たちの感性に近いのかもしれないが、社会的に責任ある仕事に就くにはどうなのかな?と思わざるを得ないかんじ。。。
女になってしまった事に関しても、自分が女性性を持って生まれて、それによってラディカルなフェミニズムに走らなくてはいけないほどの社会的抑圧やトラウマがあったのではないので、女性性を持った者が受ける待遇--男性ほど社会的に優遇されてない事、経済的に自立しにくい事などの、社会的不公正や、そのくせ別なところでは、甘甘にしてあって、そのせいで更に経済力を手に入れにくくなっている事などの、社会的文化的構造的な歪み--を受けたわけではないのに、弁護士に幻の袈裟を見てしまう人たちのように、男憎けりゃ袈裟まで状態になっているかのごとき極論を振りかざし、人を煽動しているが、その責任の一端は元男であるのならば、自分にも還って来る事なのに、女に性転換したから、自分だけは免罪符を手に入れ、煽っている立場に行っているのは、矛盾を通り越していて、倒錯と言って良いと思う。
自分は男性性を持つ者として社会的には、優遇された立場に居たはずである。なんで、そんな人がラディフェミなのか?意味がわからない。
基本的にネットユーザーはコンテンツを消費するだけ。暇つぶしに、『今』面白いもの、刹那的に快感をえられるものしかほっしてないとおもう。
Pixivのアカウントのお気に入りなんてのは、せいぜい、そうした暇つぶしのナニカをみつける道しるべからブックマーク程度の感覚でしかとらえてないと思う。
注目される芸能人とか、芸術家とか、研究者とかは、まずもってコンテクストがはっきりしている。
それこそ「あの有名な〜」だけでもいいし、明示されていなくても、受容者が十分に『それが誰であるか』共通して認識できればいい。
単刀直入にいってしまえば、『あなたが誰であるか』を明快に表すコンテクストを実現する戦略を持たなくては、まぁ、あなたという人間として注目をあびることはできないと思う。
これね。
現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて。
原作へのリスペクトはなく、アフィブログに転載された時点で両者は「金稼ぎに使われた悪意のコラージュ」という点で極めて同一の存在になっているはず。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813025538は要するに「現代アートが美術作品として格式ある評価を得ることが気に食わない」ということか。
Bクラス女子のジャンクな曲が「国民的アイドルソングと呼ばれることが許せない」っていうアンチAKBに近い考え方で合ってるだろうか。
「俺が評価したくないものが、他人に美術作品として(あるいは国民的アイドルソングとして)評価されてるのが許せない」っていうのは浅ましくて穢れた考え方だなーとしか思わないなぁ。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813025958の考え方だと明らかにミクやこなたが素材になっていると、パロディ元が分かる現代アートならば許せるってこと?
多分君は許す気ないと思うからそんな理由で怒ってるんじゃないと思うよ。
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id:qadapの考え方だと現代アートや美味しんぼコラの改変の手法それ自体は問題なくて、芸術家の露出に対する嫌悪感がある、ということなのか。
手法自体を叩いている人が多いから的外れだと思うし、なぜ芸術家が嫌われるのかまでの説明がないと理解できないな。
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id:tyokorataの理屈というのは例えば社会的に見ればいじめ行為も、コントであればお笑いとして許容される、というような理屈か。
現代アートと美味しんぼコラは共に社会的には犯罪であるけれど、元ネタが誰もが理解できるもので、笑いが取れているから許されていると。
許すかどうかを決めるのは「大衆」かな。もし大衆がマンガや同人誌踏み付けで笑えるなら、踏みつけアートも許していいということ?仮定の話をしてもしょうがないか。
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id:temtexはアートの権威なの?やるべきこともやらないなら叩く、ってのは既にそれなりの実績を持った人間がいうならかっこいいけど素人が言ってもなぁ。
ただオリジナリティへの回帰の流れは来ると思うけど、もはやアナログの絵画はCGには勝てず、CGに芸術らしさを宿すことができるかどうかが課題だろうね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813100051は大して叩かれてないからそう思うわけで。みんなアフィブログ見て、おかげで彼らは推定月収100万近く稼いでるわけで。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813110155が今のところ一番納得できた意見。
美味しんぼはそこまで好きじゃないけどああいうコラはまず嫌悪感がくる。でもそういう人間が少数なら絶賛され、多数なら糾弾されると。
とするとそれは物の価値や論理や倫理ではなく、声の大きさが評価を決める、衆愚社会そのものだとも思うんだけどね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813141721、おぉこわいこわい。ミスってたよ。
本当に多数から叩かれたものは誰も見なくなって廃れる。アフィブログはうるさい少数派が叩いている一方で、物言わない多数派がアクセス源になっているから成立していると思うけど。
「多数派もきっと叩きながらアフィブログを見ているんだ」と考えているならそれは見解の相違だね。ゲハブログの一部を除けば現代アートほどアフィブログが嫌悪されている印象はないんだよ。
*
id:leveleとid:ululunの考え方は「ふたば(や2chやアフィブログ)はオレ達」で、アート界隈の人間は「オレ達じゃない」という文化の壁から、利用されたという敵意が生まれたという考え方で納得できる。
「オレ達」という曖昧ながら強固な連帯意識、文化意識がどこから生まれて何を拠り所にしているんだろう。そしてなにのためにあるんだろう。
*
現代アートに「オレ達」がブチぎれたように、美味しんぼの原作者は一連のコラ群にブチ切れてるかもしれない。(あまりネットが好きな作者じゃなかったから快く思っていないだろう)
またアフィブログは金稼ぎのために話題のネタを集めているだけかもしれないし、「オレ達」という保証はどこにもないわけで。
だから現代アートは「オレ達じゃない」から怒るが、美味しんぼコラをアフィブログに載せるのは「オレ達」だから許せるってのは、何を根拠にそう考えているのか理解できなくて、すごく違和感がある。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813145112。しっかりしたレスポンスを頂いてしまうと申し訳なく思えてくる。ありがとうございます。
「財産」に対する所有意識の根拠、が一番謎なのかもしれない。上手く説明する方法はないのかもしれない。
*
id:vidの、現代アートは「オレのもの」が可視化されているために敵意が生まれ、コラは「誰のものでもない」ように見えるために受け入れられるというのは一理ある。
でもそれは傍観者の主観でしかなくて、製作者にしてみれば匿名の人間に弄り回されていたら、「オレのもの」が勝手に「誰かのもの」にされたと考えて敵意が生まれるんじゃないかな?
コピーライトの有無は「オレのもの」にされたという事実自体は変えないと思う。
けれど一定のネットの不文律を守れば、「誰のものでもない」と錯覚されて、大多数の空気に許容される、ということか。
*
「オレのものだと主張する」「金稼ぎに利用する」を両方満たすとネットの多数派の怒りが爆発する、というのは現象から逆算するとかなり正解に近いようで、決定的な何かが欠けているという感じ。
*
いくつかまとめて。
id:himajin774 心理的に直接金銭のやり取りがあるか、というのが重要なのはわかる。
ではアフィブログが金稼ぎの為に無断転載を繰り返して運営している、と踏まえた上でコラを見たら評価が変わるか?というと恐らく変わらないと思うので、そこは本質ではないと思う。
他のポイントと総合して、怒りを感じる閾値を超えた、ということは考えられるけど。
id:md2tak も同様で作成者と販売者が別だったら、水濡れアートや踏み付けアートを許せたか?というとそんなことはないと思うので、そこは本質ではないと思う。
金稼ぎまでしていなければ、水濡れアートや踏み付けアートを展示するだけだったら、怒りは爆発しなかったのかもしれない、という可能性はあるかも。
id:lefu はあえて書いていないけど、コラ画像作成の場となっているふたばが広告収入を得ているという視点が抜けている。「アフィブログ」の方が設定としてわかりやすいから省いただけで、最初から金稼ぎの道具になっていると思う。
「広告収入」が金稼ぎの手段として認知されているのは、アフィブログに対してよい感情が抱かれていないことから自明だと思うけど、もちろん「直接商品を販売していないからOK」という人も一定数いるんだろう。
id:guldeen のような指摘のために、両者の労力がほぼ変わらないコラージュで、また原作へのリスペクトが感じられない題材を選んでみたんだけど、それでも両者に違いを感じる、ということだろうか。
*
本題と関係ない部分。
id:nagaichi 「カオスラウンジ、カオスラと呼ぶやつは擁護か身内、カスラジ、カスウジと呼ばないやつは敵だ」みたいな面倒臭い考え方の人がいるから敢えてボカしたけど、結局認定ラッシュ食らったから意味がなかった。
「カオスラウンジはネットの総意として敵であり、叩かない人間は擁護工作だから黙らせろ」と考えてしまう人は、いちいち突っかかってこなくていいからお互いに不干渉でいましょう。
大分話がでつくしてきたようなんですが、ここ4、5年日本の現代思想やコンテンポラリー・アートの業界にうとかったので、色々、わからないこと疑問になっていることでてきました。
無尽蔵に、彼ら的な言葉でいえば機械的に、作品(前芸術てきなものも含めた)が創造されていくネットをアートにすると。「ネット」と「アート」の分断を克服すると。
ただネットというのは結局現象ですよね。ファイン・アートの意味的に作品にはならない。
ある意味でその非・固定、永久に、automaticallyにつくりつづけられるシステムとしてのネット、を、どうしてピンで昆虫採集みたいに物理的に止めてしまうのか?そうしたらもうそれは『ネット→現象』でなくて『アート→作品(芸術としての)』への変換にすぎないんじゃないの?
いちばんよくわからないのが、東氏がいうところの、いわば郵便的可能性をネットがもっていると、そういうところを、まあアートでやると。
で、その郵便的な話をちゃんと喋れる東氏が理論的に助けててどうしてこんな単純なことに気付けなかったのか?????
素朴に疑問。
前段の疑問を百歩ゆずったとして、そもそもネットとアートを分断を克服するって?分断していたの?
このへんがよくわからない。
ふたばとかPixivが、機構としてコミュニケーションの速度と多様性を支援しているのはわかるんだけど、それってカフェや飲みや、パーティーなんかで芸術家が出会ってベラベラしゃべったり酔っぱらったり、その場でなんかやってみたりしてたのと、構造的に同じではないの?そーいう場にたまたまいた人が一緒にもりあがって、なんかになっていく感じも同じだし。創作の過程という意味では全然分断していない。
彼らは発表の機会が云々とかいっているのだろうけど、そういうカフェや飲みやで話したりドンチャンしたことが作品?Pixivではポートフォリオとして使っている人もいるけど、ポートフォリオは静的で、彼らいっているところの機械的につくりつづけられるネットの有り様ではない。
加えてもしここでいうところのアートを近代的な(ファイン・アートの伝統の延長線上にある)アートではなく、語源としてのアート、技術や創造そのものとしたら、ギャラリーとネットにある作品をわけることは始めからありえないんじゃないの????
これはどうしたいんだ??
■アーキテクチャ?
カオスラウンジ宣言に出てくるアーキテクチャという概念を東氏は引っ張っているようだけど、これってなに?
システムと力の話?ということはマルクスの疎外とフーコーの力と、構造主義・ポスト構造主義における社会への眼差しがやってきたことをまぜて焼き直しただけ?
浅田彰が「そんなことはもうやってきた」ってのはそのとおりじゃないの?
なにがしたいの?
最初はお祭り騒ぎなのかーっと自分も参加して面白かったけど、なんだか疑問ばかりになってきた…。
誰か説明してほしい…。モヤモヤ。
いやーほんとはねー
言葉は通じてるんだよ。
ビジネスもいくらでもあるし。
昔、絵画や芸術が担ってたものって今はオタク業界が担ってるからね。これはマジだよ。
だから現代って、芸術家なんてものは浮かばれない世の中なのよ。
「だから商業ベースの上で月ごとのお給料もらうデザイナーになりなさい」
って美大生なんかは何度も言われてる筈なのにそれでも芸術家を選ぶ以上、
自己責任だけどね。
彼等はー、
そう思ってるって言うだけなら別にカオスラウンジだけじゃないんだよ。
カオスラウンジはたまたまうまくいって、調子こいてやりすぎてただけで、ああいうのがあいつらだけなわけじゃない。
「我々はお前らより上層である。
我々のやってることに不満や嫌悪を抱くならそれはお前らが高尚な芸術を理解できていないからであり
お前らが我々を理解できるレベルになれば解決する。」
みたいな態度しか取れない。
「何でお前人の描いた絵持ってくの、自分で描けよ」
「いや俺あんま絵上手くないし、全部自力で描いた絵が注目されなかったんだよ」
なんて会話をしないといけなくなる。
だから、オタクと同じ言葉を喋れても、アート語だけを喋るわけ。
通じてしまったら
オタク界から盗んだものはオタク界のルールに従って返さなきゃいけないし
「たいした絵がかけない〇沢君」として、オタクの階層に(それも中間より下のほうに)組み込まれて終わりになってしまう。
それじゃ嫌なんだよ、
今私は、鬱状態で仕事を休んでいる。フリーランスのアーティストとして10年ほど。その半分以上を海外でくらし、今もヨーロッパの片隅にいる。
カオスラウンジというグループ、全く知らなかったが、なるほど、人々の怒りがよく分かる経緯だった。
面白いので、コラにはコラに対抗ということで、代表藤城嘘の作品や彼の写真をphotoshopで10分ほどやっつけでコラした絵をPixivに投稿。説明なしのアカウント削除→IPアドレス指定拒否→串刺しIPでの再UP→瞬殺アカウント死亡 などを繰り返して遊んだ。
http://www.rupan.net/uploader/download/1311933348.jpg
で、私の意見。
これ、日本の芸術にたいするマーケットのあり方や、芸大における教育とか、そういうことが根本にある。
まずマーケット。
これは日本だけでないけど、マーケットって、ようはお商売の世界。売れればいいの。芸術家も、批評家も、生活あるから、お金にしなくちゃいけない。
で、やっぱり、売れたものはみんな金魚のふんみたいについていくの。それは仕方ないこと、どこでも。
そのために役にたつのが権威(power)。カオスラウンジは村上隆と美術手帖がそのicon。
私は両方とも死ねと思っている。(殺害予告ではありません… 念のため) 正直。
村上隆は売れた。それはいい。オメデト。尊敬。でももともとサブ・カルなのに、権威的にふるまう?どうして?
本流に対してのalternativeなありかたとして出した、その経験の意味は?
美術手帖。いつも売れ線をおっかけ。責任おわない。コンテクストが脆弱(消極的な取材が透けて見える)。しょうがないけど。お商売だし。でももうちょっと、光を見せてよ、せっかく日本のマーケットで権威もっちゃったんだから。
僕は90年代に青春をすごしたから、今の日本の若い人とちょっと感覚ずれてるかもわからないけど、その時の感覚からすれば、分かる。
日本の人って、権威に弱い。テレビとか、どっかの大学の先生とか、批評家とか、マーケットとか、あとは身近な友人や家族なんかの意見にも。
もちろんどこでもそうだけど、日本はちょっと過剰だなーっておもう。
今自分が見てるもの、聴いているもの、食べているもの、感じているものを、どうやって、「いい」か「悪いか」判断できるだろう?
日本の人は、まず周りをみる。周りの様子にノル人、ソル人…
僕が暮らしいるところの人たちは、まず自分のフィーリングを聴く。で、それから周りの人も見る。それから、どうするかと考える。
yap, subjectは結局おなじなんだけど、順番が違うんだよね。僕がくらしている人たちは、まず自分の意見が先にくるんだよ。
例えば、スーパーマーケットにいって、入り口に物ごいがいる。ああ、かわいそうだなって思ったら、こっちの人はお金渡す。
日本の人は、まず、お金わたす自分の姿が周りからみてカッコワルイ、アタマヲカシイ?、ってかんがえて、無視する。
全員がそうでないけど、そういう傾向が、ある。
この順番が、カオスラウンジの人たちの行動にもよく見える。
http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625
端的にいうと、ダサい。カッコワルイ。
同じ芸術家として、引用とかサンプリングについての立場はちょっと分かるよ。ちょっと。
でもさ、想像力って彼らは持っているんだろうか?
例えば満員電車の中で私が突然うんこしたら、みんな嫌がるだろーなーって、なんか創造できる、だから私はうんこしない。
やべぇ、うんこもれそう、もうしぬぅーーーーってなっても、みんな嫌がるだろーなーっておもうから、我慢して、次の駅までまって、でダッシュ。
ま、動機はカッコワルくなりたいってのもあるだろうけど、まぁおんなじように。
で、カオスラウンジの人たちは「ウンコしたい」で、すぐウンコしちゃってる。ブリブリ。
ネットのオタク文化いけてる、売れそう、俺好きやし、カッコええやん、よっしゃ、これで俺の作品つくったろ。
一方的。想像してない。それで誰が傷付くか。
みんな同じようなネタをずーっと話してたり、コラしてたり…。純粋だなーって思うのと、あと普通だなーって思う。
世の中の多くの人たちが、文化については保守的。日本をみたら、なんで演歌や歌謡曲が未だに紅白で重要な立ち位置を持っているかということ。
そういう人たち(=普通の人たち)の気持ちに思いを巡らすのが、やっぱり普通の人であるところの、普通の芸術家でないの?
少なくとも、私は自分自身芸術家としてそういうスタンスを譲らない。
あるいは、もし自覚的にそうした『普通』に対する反抗であるなら、最後までヤリきらないと。
炎上したから?ビジネス・パートナーが予定していた商品をキャンセルしたから?周りのエラい批評家にお説教されたから?
本当に反抗したいなら、まず梅沢ナントカという友達の作品を正当化して、ウルセェ、テメエラなんもわかっちゃいねぇんだよっていって、もっともっと同じ手法で作品を創らなくちゃ。で、その路線で別のパートナーをみつける、そこまでいかないと。
この謝罪、カッコワルイよ。
たぶん村上隆が翻ったのも、この日和見的なところ(態度)で、ア、コイツラ、シロウト。ってみやぶったんだと思う。
で、彼らがここまでやってこれたのが、日本の芸大etc.における芸術教育の影響だろうなぁと。
「売れる」ことを考えすぎ。たぶん、日本におけるfine artの伝統の不在が起因なんだろうけど。
自分が、一人の人間が、今思い、考え、感じていること、そしてそれによって目の前にある作品や起きている事象にたいする疑問を素直に「どうして?なぜ?」と問いかけること。こういう当たり前の姿勢がどうして求められないんだろう?
タマタマ自分がやっていることが売れ線だと。で、エラい批評かなり、curatorなりが、ヨイヨイ、といって、金だして、仕事なりコンタクトわたしたりして、ま、同業者として分かるっちゃ分かるけど、それで、自分がやっていることは全肯定できるのだろうか?
酔いが回ってきたので、またそのうち続きを書こう。
花をきれいだと思わない子どもたち
http://anond.hatelabo.jp/20110711193536
を読んで森博嗣のこれをおもいだした。
絵を描くことが好きで、自分一人で絵を描いて、誰にも見せない、ということが子供のときからよくあった。人に見せないのは、その絵が上手に描けたかどうかは、自分で判断ができたからだ。逆に、大人に見せても、ちゃんとした評価をしてくれない、という思いが強かった。小学校の低学年のときには、既にそうだった。たまに、ここが良い、ここが悪いとずばり的を射る指摘をしてくれる大人がいて、「あ、凄いな」とこちらが大人を評価する、という立場なのだ。思い上がった子供である。
しかし、ちゃんと見てくれる大人は、例外なく自分でも絵を描ける人だった。プロの絵描きのような人も多かった。小学校の担任は、国語も算数も教えてくれる先生で、でも絵を見てくれる先生ではない、ということは理解できた。どこにでもあるような、こじんまりまとまった、全然つまらない絵を褒めるのだ。無難な配色で、楽しそうにしている人たちを描いた絵だけが褒められる。明らかに大人が描いてほしい絵であって、子供にしか描けない絵ではない。それは作文でも同じだったし、音楽でも同じだった、と思う。たとえば、小学生がむちゃくちゃなパンクを歌っても、褒めてもらえないのである。
大人は、空が綺麗だ、森林が美しい、花が可愛い、といった既成の平凡な価値観を子供に押しつける。子供たちは、大人に認められたい、親に褒められたい、良い子になりたい、という一心で、持っていた個性と感性を捨てていく。
動物を見たら怖いと感じる。臭いと思う。それが自然である。「ほら、可愛いね」という大人のなにげない一言、その押しつけの繰り返しが、芸術家を少数にしているのではないか。
元増田は無関心の話をしていて、森博嗣は価値観の押し付けの話をしているので、別に意味はないです。思い出しただけ。
ただ、「評価する側」のついて最初にきちんと言及しているところが、この文章のすごいなぁと思うところ。
今回の震災で親戚を亡くした。
とはいっても遠い親戚。
そのことに関して涙を流すようなことは結局無かった。
あれからずっと胸の中でつっかえてることがあって、でも上手く口にできないことがある。
それはもうあれ以来ずっと増田でもどこでも散々言われてることなんだけど、この今の日本に漂う空を切る感じ。
みんな復興頑張ろうって言ってる。頑張れって言ってる。
当事者じゃない第三者もみんな口を揃えて頑張ろう頑張れって言ってて、その為に何ができるのか考えてる。
偽善でも愛でも義務でもいいんだけど、そうやって日本を一つにまとめようとするムーブメントを起こそうとしてる。
広告会社もTVもネットも、それぞれの価値観で風化させないように頑張ってくれてる。
ホントに素晴らしいことだと思うのだけれど、でもそこには何か血が通ってない感じがする。
なぜかどうしても心をうたれない。
私が今回の震災で一番心を打たれたメッセージはCMでもキャッチコピーでもデモでもツイートでもない。
あの時、何も無くなった大地に転がった、辛うじて原型を留めているような車のボンネットに真っ赤なスプレーで書かれたメッセージ。
「あけない夜はない」
こんなクサくて、ありふれてて、使い回された言葉を見たときに脳天からつま先までしびれて、その後しばらく呆然としてた。
気が付いたら私は泣いていた。
それは、どこかの社長でも、政治家の誰かでもなく、芸能人でもない。
ムーブメントは必ず、きっと必ずそのきっかけの中心から起こるはずなんだ。
どんなに周りが大きな風を送っても、中心が凪いでいれば、それは人の心を動かすような大きなムーブメントにはならないのではないかと思う。
あの地震の震源地に一番近い場所で、私はヒーローが産まれるのを待っている。
もう一度、今度はその声で、ものすごい震度で日本中の心を震えさせるのを待っている。
芸術家でもいい、バンドでもいい、漫画家でもスポーツ選手でもいい。
私はそういう人が声をあげるのを待っている。
下世話な話だが、そこからは新しいビジネスが生まれたりもするのだろう。
もしかしたらもう構想はあるのかもしれない。
「被災地が生んだ天才ピアニスト」みたいなことがきっと起こるだろう。
こぞってメディアはとりあげるのだろう。
すでに被災したお笑いコンビを周りがそうやって持ち上げようとしてるのを見かけたりもする。
それでも私はかまわない。
私はあの日、あの場所で見た、あのメッセージのように、その生の声が聞きたい。
そこに生きてる人間の力を感じたい。
いや、それ以外は見たくないのだろう。
私に関して言うなら、きっとそうだ。
それは自分もその血の通わない声と一緒だと思われてしまいそうだからだと思う。
自分で考えて動くよりも、自分で誰かのために何ができるか考えるよりも、ヒーローに喝采を送るほうがよっぽど楽だからだ。
戦闘機を飛ばして意味もない弾をばらまく存在になりたくないだけなんだ。
だから広告代理店やCM制作会社はつまんないキャッチコピーやCM作るヒマがあったら
もっともっと現場の声を伝えてください。
AKBをプロデュースする暇があったら、もっとプロデュースする対象があるでしょう?
本物のヒーローを私に見せてください。
コンセプチュアル・アート()だのレディメイド()だのファインアート()だのポップアート()だのコラージュ()だのパッチワーク()だの糞くだらないことしかできない世界の芸術家は総じて死ぬべき。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
煽りすぎwww
クリエイターっぽいだとか、才能がどうのだとか関係なく、
人に言わせりゃアート一家ってことになるだろうが
私は本当にアーティスト様って奴が嫌いだ。
だいたい世の中の非美術の人が良くないのだけど
とにかく作家と言うものに対して好意的な誤解や情状酌量の用意を持ちすぎている。
「芸術家気質」とさえ言えば、非常識や奇矯な振る舞いが許されるようになっている。
度を越して非社会的、生活態度が堕落的、約束を守れない、言うことが幼稚、
…のような欠点が、むしろ何か創作的な才能の証明として美点のように取り扱われてしまう。
いいですか。
すべてのクリエイターっぽい職業人や学生で、幼稚な人や変な人がいたら、
単に世間並みの経験や責任から逃げ続けたせいでそうなってるだけです。
だいたい「アマデウス」みたいなものが”アーティスト”像として一等に出てくるの状況が良くない。
アーティストに馴染みがない人にとってはああいうのがロールモデルになりますよねどうしても。
でも、”破綻した人格と飛びぬけた才能が先天的かつ不可分なセットになってる天才”なんていうのは
極端で面白いからこそ映画やマンガのキャラとして出てくるのであって
「さすが芸術家だな」じゃなくて、単に「いい加減な人生送ってきたんだな」と思えば合ってるんです。
また、もちろん、
その手の「アーティスト」の変なイメージには美術系の人間自身も冒されています。
私の場合は受験のために美術予備校に通うようになってから大量に遭遇して驚いたのですが、
みーんな、「逸脱者」の振る舞いをし始めるんです。予備校生の時点で。
ちょっと離れて見てると一人一人の区別がつかないようなそっくりのノリです。
これじゃあ単に、軍隊に入ったら軍人っぽくなるのと同じ現象でしかない。
みんなでそういうレディメイドの逸脱に袖を通しておいて、自分は個性的でーすって顔をしてる。
「私の絵がわからないで落とすような学校にはこっちからお断り!」とか言います。
関係ないんですよー、そんな表面上のポーズと製作するものの出来なんて。
どういう態度でも下手な人は下手です。
まああんまり下手だとそういう逸脱者ごっこに参加しないものですが、
予備校で上位のほうだったりするともう勘違いが酷いことになります。
同学年の上位クラスで逸脱ごっこの気風に染まってないのは私含めて3人しか居なかったですから。
「私はアーティストですので」「これは芸術ですから」という免罪符一本で、
社会の常識を踏み倒したり、世間に変な迷惑をかけたり、法律をぶち抜いたりしていいのは
アマデウスさんのようなモノホンの天才、1時代に1人いるかいないかというレベルの天才だけです。
これは割合的に言ったら身長230cmの人みたいなもので、
この人に会ったり理解したりできるのは220cmぐらいの人間だけで、
だから、現実的には「そんな人間は居ない」と思っていただいて結構です。
更に、230cmかつ、世間の誰にでも230cmだと気づいてもらえる人、となると
「アート」だ「アーティスト」だと言いながらなんだか意味不明なことやってる人や集団、
そういうのが人様に迷惑をかけていたり、法律に触れたりしていれば、
何の躊躇も容赦もせずに非難したりしょっ引いたりしてかまいません。確率的に言って。
単なる「美大なんか出たばっかりに自分に甘くて常識のないだらしない奴になってしまった人間以下人間」ですから。
「いい年になっても自分が天才じゃなかった事実に向き合えない臆病な嘘つき」ですから。
モノみたいに蹴っ飛ばして排除していいんですよ。
「自分には芸術わからないからなあ~」「ひょっとして価値あるのかなー」なんて優しい逡巡は必要ありません。
まっとうに生きてまっとうに働いてる一般人のあなたは、そんなのよりずっと偉いんですから。
どうか上下関係を間違えないでください。
戦争責任者の問題
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
2chに書こうと思ったがなんとなくこっちへ。
芸術が繰り返してきたのは「パクリパクられながら少しずつ新しいアイディアを取り入れ」ることであって、
別に「敬意を払う」必要は必ずしもあるわけではない。
大昔の時代には音楽も劇も似たようなアイディアしかなくてそこらじゅうに似ている曲が溢れてた。
それを少しずつ変えたり、他の民族の発見したアイディアを真似したり(ルネサンスや印象派の日本ブームなど)してここまできた。
そもそもアイディア自体がそんな高尚なものではなくて、誰かが先に思いついたのを「偉大だ」と言っているだけ。
これは言い換えれば「先に生まれた奴がエライ」とほぼ同義であり、
未来に生まれる人間ほど愚かだということになるんだけどそんなことを了承する人間は誰もいない。
過去の時代の人間が未来の俺たちを嗤うことなどありえない(彼らは既に死んでる)
パクったアイディアで作ったものをさも自分で作ったかのようにふるまったとしても、それは「先に生まれた奴がエライわけじゃない」んだから当然であり、
著作権法は自分が最初かどうか分からない(もしくは最初でないと明確に分かっている)アイディアを無理やりオリジナルに仕立てあげる醜悪極まりないもので、
芸術家が収入を得るためにというが、芸術で金を稼げる人間なんてほとんどいないだろうから副業程度でやるべきだと思う。
あと、芸術品自体は自由にダウンロードさせて寄付を募ったほうがいい。それで金が集まらないならその程度ということで、ネットが発達した現在ではCDの売り上げを見るよりよっぽど明らかな数字のはず。
もちろんまだネットでは流通させられない芸術品(壺とかフィギュアとか)はあるにはあるが、それらがネットでダウンロードできる日もそう遠くはないだろう(主に3Dプリンターとかの技術の発達で)
日本で中国のヒップホップなどを聴くことはあまりないので、何曲かまとめました。
中華ヒップホップ音楽【作業用BGM】 ‐ ニコニコ動画(原宿)
以下曲目。
01. 大丈夫 - YouTube
広東語・日本語・英語・普通語を操る日華の曲(でもこの曲では広東語でラップしてない)。
02. 台灣之子 - YouTube
台湾ヒップホップの草分け、L.A. Boyzの黃立成によって結成された麻吉。台湾語のラップ。
03. Hit the Rhyme - YouTube (Live ver.)
蛋堡 a.k.a Soft Lipa (台南)
收敛水 (2009)
2010年には日本のJABBERLOOPとアルバム「月光」(YT)を出した。同じく'10年の台湾ヒップホップダンス・ドキュメンタリー「街舞狂潮」主題歌(YT)も手がけてる。
04. Bring you da sky - YouTube
L.C.T (内モンゴル自治区フフホト)
トラックは「Resurrection」Common(YT)と同ネタで、「Dolphin Dance」Ahmad Jamal (YT)から。ミックステープ「龍咆」シリーズは無料でDLできる。
05. 風生水起 feat. 麥玲玲 師傅 - YouTube
風生水起 (2008)
'96年DMC世界2位のDJ Tommy(YT)に見出された、6WingとC君の二人組。フューチャリングの麥玲玲は香港一有名な風水師で、本当に曲中でラップしてる。
06. 雙截棍 - YouTube
この10年くらい中華圏で最も人気のミュージシャン、ジェイ・チョウの初期の曲。雙截棍はヌンチャクの意。
07. Used to love her - YouTube
同アルバムに収録されてる「巨蟒」(YT)は「大蛇は長くてカッコイイぜ」という歌。
08. 傻X II feat. 杨帆 - YouTube
呆宝静は広州のグループ「天王星 Uranus」所属。このアルバムは中国の女性ラッパーのコンピで、無料でDLできる(China Woman's Rights 2009 Mixtape)。
09. Dream Girl (Version C Kwan) - YouTube
陳冠希(エディソン・チャン)プロデュースのアルバム「O'Fama」収録。歌詞に「Facebook delete所有異性...」とでてくるのが香港っぽい。
10. 北京土著 - YouTube
張伯宏 (北京)
复生弥撒 (2007)
'88年生まれ、いわゆる80後(一人っ子政策以後の80年代に生まれた世代)の張伯宏、18歳の時の作品。
11. Learn Chinese - YouTube
アメリカ生まれの中国人ラッパー。アルバム「ABC」(American Born Chinese)は、2010年にアジア系で史上初の全米1位を取ったFar East Movement(YT)が全曲プロデュース。
12. 在梅邊 - YouTube
日本人っぽく「おうりき・ひろし」とも読める。前作「心中的日月 Shangri-La」からの西洋と中華音楽をミックスするChinked Outスタイルで、京劇などを取り入れている。
13. 在北京 - YouTube
中国人+カナダ華僑+アメリカ人*2の4人組、隠藏の一曲。メンバーの老郑XIVとSbazzoはソロでも色々と活躍している。
14. 激光中 - YouTube
2009
Roman Tam(羅文)のヒット曲「激光中」(YT)のリミックス。「廿四味YaSeiMei」は24種類の漢方が入っているお茶(廿=20)。
15. 含家玲 (Live ver.) - YouTube
LMF a.k.a. Lazy Mutha Fucka (香港)
大懶堂 (2000)
香港にヒップホップ・シーンを築いた伝説のグループLMFの問題作。含家玲は広東語のかなりキツイ罵倒語。
16. 韓流來襲 - YouTube (Live ver.)
テレビには韓国のセルアウトばっかりじゃねえかという曲。サビはFuck You的な放送禁止フレーズ。
17. 中国話 - YouTube
Play (2007)
台湾の人気女性アイドルグループの曲だが、「世界が中国語を学んでいる」みたいな歌詞が媚中(大陸に媚びてる)と一部から批判を浴びた。
18. 恭喜發財 - YouTube
2007
蛋堡 Soft Lipaの所属するレーベルの謹賀新年曲。「恭喜發財」は「おめでとう、今年も儲かりますように」という中国っぽい新年の決まり文句。
19. 咖哩辣椒 - YouTube
潘瑋柏 a.k.a. Wilber Pan (台湾/アメリカ)
我的麥克風 Pass Me The Mic (2003)
弦子との不得不愛(YT)がヒットして、NHK中国語講座の主題歌になったりした人。
20. 廣東菜 - YouTube
2009
講者は広州のグループ、MC仁はLMFのメンバー。サビで「ホウメイ」といっているのは広東語の「好味」。
21. 北京晚报 - YouTube
カメレオンの如く舌を「er」と巻く北京弁の感じがよく分かる。
22. 霞飞路87号 - YouTube
嘻哈第一棒 (2004)
23. 我是重慶崽儿 - YouTube
潤土 (重慶)
映画「瘋狂的石頭」エンディング曲。内容は「Snatch」のパクリみたいなもんですが、北京や上海にはない地方都市の雰囲気や、現代中国の笑いが詰まってて最高です。
頭悪いんじゃ無いのか。
さっきから君は他の馬鹿と比べても真剣に意味がわからないんだが、
君は一生懸命に論文なり作品なりをアウトプットして、まあ何十年かして死ぬ。
生きてる間に君自身が「いい人生だ」と思う、これが"自己の満足"だ。
仕事でうだつが上がろうが上がるまいが自分が満足してりゃ人生は勝ちだよな。
一方、赤の他人が君の業績を測って評価する。
研究がどれだけ革新的で学問を進歩させたか、作品がアートシーンにどれほど影響を与えたか。
これが客観的な君の"スコア"だ。
こんなもの、カンフル剤的な建て直しは幾らでもやれるだろうよ。
それこそ、独裁者が犠牲を強いて「その場だけ取り繕う」のはな。
で、それで満足なんだろ?
後のことは知らないんだろ?
俺独裁の政策は「後から取り返しがつかないもの」から優先してある。
さっきもそう書いたけどな。
独裁者を打倒して縛り首にしてももう元には戻らない。
独裁者は死後も墓にクソを掛けられるだろうが
日本を立て直すことには成功して死んだわけだ。