はてなキーワード: 権威とは
いわく専門外の人の見聞を広めるためにわかりやすい表現にしたーーーー・・・
いやいやまず君が専門外の人じゃん?それ大学も編集も出版社も知ってるよね???
そしてそんな本を無批判に有り難がる自称読書家の意識高い()方々や
呆れて専門家を信じなくなる(酷い場合は反知性主義になる)方々
うーーーん地獄ですわ
日本だけじゃなくて海外の本でもそういう本が売れたりするからもうなんだかねって気持ちになる
もちろんこういった本が完全に無価値ではないけどね?
本というまとまった情報があれば前提の共有が出来るし、正しくない情報や偏った見識が含まれていてもプロの手が入った読み物なので読みやすい
けど本来、権威(アカデミア)をありがたがるのは、研究や試験や論文の評価の作業(数字やまとめに妥当性があるかなど)を省略出来るからなんだよね
売るために専門外の領分に踏み込んで雑なこと(正しくないこと)書いても許されるなら
保育園生の増田さん(6歳)や自宅警備員の増田さん(28歳)が書いても全然かわらなくないっすかね?って言うお気持ち
敵(非論理的な価値観の遅れた奴)「心がこもってない。やり直し」
専門家(僕の意見を支持する権威)「僕君の言う通り。僕君が全て正しい」
一同(僕の味方):拍手
元増田ですけど、そういうのはまだ、「信じるならちゃんとした専門家にしようね」と権威で押さえ込めるからまだいいんだよ
でも、「こっちの専門家はこう言ってる」と言われたときに非専門家として困っちゃうんだよね
専門家同士に議論やりあってくれればいいんだけど、それがないから、本来は「どちらが論理的に妥当か」を示せるはずの話が「どちらを信じるか」という信仰の問題にすり替わっちゃうのがすげー嫌だ、というのが今回言いたかったことです
この増田のおかげで「正しく恐れる」という言葉の胡散臭さの正体が分かった気がするので、自分も昔興味のあったことに合わせて参考までに報告しておく。
ペルクゼンというドイツの言語学者がいる。有能だけどそれほど有名にならなかったこの学者の本は、日本語版に限って学術図書の豊富な大型図書館の片隅に、ポツンと埃も積もりかけた一冊が所蔵されているに過ぎない。だが、唯一の日本版のタイトルでもあるこの『プラスチック・ワード』という言葉はなかなか示唆に富んでいる。この言葉の定義は、ざっくり言って次のようなものだ。
いかようにも成形可能でコンテキストも中心的意味も持たず、歴史と切り離されている。にもかかわらず権威があって他人を精神的に拘束する作用がある。
ペルクゼンは現代世界はこのプラスチックワードに汚染されつつあると考えていた(ちなみに超うろ覚えだが、当時いっしょに仕事をしていたイバン・イリイチは「最大のプラスチックワードを見つけたよ。生命だ」と言ってペルクゼンをブチ切れさせたらしい)。
「正しく恐れる」という言葉の持つ性質は、プラスチックワードにそっくりだ。状況を限定せず、何故か精神的な態度を強制する。暗に命令しておきながら具体性がないので、主張自体には後で責任をとる必要もない(検査抑制論に与した医クラの姑息な言い逃れ体質を思い出してほしい)。
時間的には前後するが、プラスチックワードを作家の直観で体系化したものがニュースピークだと言ってよいと思う。なぜ、ただ単純化された言語がそれほど恐ろしいのか、理解に苦しんだ人もいると思うが、その理由はここにある。具体的意味を漂白した語彙群は結局のところ、権威を内面化することに最大の威力を発揮し、ある主張を別の側面から批判的に検討したり、ただの間違いを指摘することでさえほとんど不可能になってしまう。政治的な堕落を促進するわけだ。
ということでこれを用いることは精神的には権威、制度上は権力にとってとても都合の良い、という類の言葉なのだな。
全く具体的意味を持っていないのに独り歩きする、押しつけがましい言葉を見つけたら、努々注意、警戒してほしい。この言葉の恐ろしさは思考能力を奪うこと以前に、思考領域を制限することにあるのだから。
じゃ、反論しとくわ。
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