はてなキーワード: 春秋時代とは
ハッピーエンドにしにくかったり、情報不足だったり、どの人物も一長一短?
国家の未来まで考えると秦以外は最終的に滅びるし、春秋時代の秦だと穆公以外のイメージが弱いな。
だいたい宮城谷昌光氏が書いている(というか自分の情報源なので他が思いつかない?)。
よさそうな宮城谷昌光作品をどこかがメディア展開してブレイクさせてくれたら、もしかしたら春秋時代ブームの夢が見れるかもね。
鄭荘公:情報不足?周からみたら戦場で追討軍を討ち破るほどの逆臣。
斉桓公:末路が惨め過ぎる。
楚荘王:「俺はまだ本気出してないだけ」要素もあり、後継者も有能(短命だが)で良いと思うんだが、時代と社会を代表する人物とするには極端に言うと「蛮族の王」なので文句が出るのかな?
秦穆公:同時代人(晋文公)が強い。現代的価値観では殉死がバッドエンドに感じられてしまう。
宋襄公:宋襄の仁()と現代日本の勝てば官軍な世相では受けない。
呉王闔閭:綺麗に終わらない。
呉王夫差:完全にバッドエンド。
越王勾践:范蠡に砂を掛けられる。
家臣
華元:テラワロス
伍子胥:主人公の作品はけっこう多くて、既にアイスバーン。最期が悲惨。
養由基:バトル中心で行く?
祭足(祭仲):鄭荘公の出てくる作品で見たはずだが記憶に残っていなかった。Wikipediaを読むとちょいワル系。死に方は悪くない。
孫武:エピソード膨らませる必要がある。最期も不明なので、大抵は伍子胥に食われる。
孔子:浮沈の順番が逆なら良かった?
老子:謎。完全ファンタジー(不老不死・テレポートあり)にして、春秋時代の有名人物つまみ食いにしたらいけるかも?
夏姫:悲劇系
あとは詳しい人に任せた
楚の荘王(3年間愚かなフリをして周囲を油断させたという中国春秋時代の名君)
斉の威王(9年間愚かなフリをして周囲を油断させたという中国戦国時代の名君)
韓信(若い頃は馬鹿にされており仕官しても出世しなかったが漢の大将軍に抜擢されると大活躍した)
陸遜(無名のため侮られていたが夷陵の戦いで劉備の大軍を撃破した)
織田信長(うつけと言われていたが桶狭間の戦いで今川の大軍を撃破した)
長宗我部元親(姫若子と呼ばれていたが初陣で活躍して鬼若子と呼ばれるようになった)
大石内蔵助(平時は凡庸で昼行燈と渾名されていたが赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを成功させた)
もう思いつかん。
神話とか故事の由来をみてると謎の動きした結果、痛い目みたりしてて、「いや、そんなことしたら そりゃそうなるでしょ……」って事例が多いなと思った。
以下みたいな謎の動きをしてしまったせいで失敗する話があればもっと知りたい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9D%E3%83%B3/]
崩れるに決まってるだろうに。。。
臼を積み上げる建築技術はあるのに、1番下の臼を抜いたら崩れるという物理法則を知らないのはなんなの?アホなの?
天空神であるオニャンコポンは、昔は人間たちに近い位置に居た。しかしあるとき、一人の老女がヤムイモを臼と杵で搗いていた拍子に、杵をオニャンコポンにぶつけてしまった。それ以来、オニャンコポンは遠く離れてしまったという[1][8](天地分離神話)。老女はオニャンコポンに到達しようと、多くの人に臼を集めさせ、高く積み上げさせた。しかしすべて積み上げても、一つ足りなかった。そこで老女は、積んだ臼の一番下の一つを抜いて上に積むように言った。そのようにしたところ、臼の塔は崩れ、多くの人が死んでしまったという
刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書
見つかるわけないだろうに。。。
落とした瞬間はとても焦っていて舟に傷をつけて判断できると思ってしまったところまでは1億歩譲って理解しよう。だがなぜ向こう岸に着くまでにいったん一息付いてるはずなのに水中に入るの?アホなの?
「舟ふねに刻きざみて剣けんを求もとむ」と読み下す。中国春秋時代、楚その人が舟で川を渡ったとき、剣を水中に落としてしまった。そこで後で探すために剣が落ちたところの船べりに印を刻み、向こう岸に着いてから、その印を刻んだところから水中に入って剣を探したが、見つからなかったという説話から。
だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。
?-前771 | 姫宮涅 | 西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。 |
259-307 | 司馬衷 | 西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉のときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。 |
335-357 | 苻生 | 前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。 |
463-477 | 劉昱 | 劉宋の第7代皇帝・後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍のクーデターにより14歳の若さで殺害された。 |
502-549 | 蕭衍 | 南梁の初代皇帝・武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金で国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手に出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛、幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。 |
1122-1161 | 完顔亮 | 金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人を後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝が擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。 |
1563-1620 | 朱翊鈞 | 明の第14代皇帝・万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相・張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身も酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮に引きこもり、上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。 |
161-192 | コンモドゥス | 第17代ローマ皇帝。暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレスの化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝が奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。 |
203-222 | ヘリオガバルス | 第23代ローマ皇帝。ローマの最高神を故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマの巫女と結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚と結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さらに宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。 |
937-964 | ヨハネス12世 | ローマ教皇。カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国のオットー1世にローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国が誕生したが、教皇の権威は低下することとなった。不道徳な人間で、ラテラノ宮殿を売春宿のようにしており、最期は人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。 |
1012-1056 | ベネディクトゥス9世 | ローマ教皇。父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず、姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。 |
1199–1216 | ジョン | イングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返り、ヘンリー2世は失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランス王フィリップ2世と敵対して惨敗、フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくにイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権の制限を受け入れた。 |
1835-1909 | レオポルド2世 | ベルギー国王。アフリカのコンゴを私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴムの採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴの統治はベルギー政府に移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年は王妃や娘にまで白い目で見られたという。 |
1845-1886 | ルートヴィヒ2世 | バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身のメルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。 |
兄の荘公の夫人と密通し、その兄が死んだ後に自分を差し置いて魯公となった甥を殺した。
代わりに立てた閔公が、慶父の弟である季友を信頼する姿勢を見せると、これも殺してしまう。
自らが魯公とならんとするも、周囲の支持を失い追放され、後に送還されて季友から弾劾され、自害した。
始皇帝が亡くなると、丞相の李斯を唆して遺言を書き換え、本来の後継であった扶蘇を自害に追い込み、その弟である胡亥を即位させる。
功臣を殺し、圧政を敷き、それによって反乱を招くと、李斯や胡亥を弑して劉邦に内通しようとしたが、扶蘇の息子と言われる子嬰に殺された。
傀儡として立てた幼い皇帝に「跋扈将軍」と揶揄され、その聡明さを恐れて毒殺した。
桓帝の代になってようやく梁冀は粛清され、一族も悉く処刑された。
武力によって専横を極め、悪政暴虐の限りを尽くした。
密告を奨励した唐の則天武后の下、来俊臣は犯罪者を取り調べる役に抜擢された。
凄惨な拷問を編み出して、次々に無実の者を死刑台へと追いやった。
ついに来俊臣は、これまで自分がやってきたように密告され、斬罪に処された。
街に晒された死体は恨みに燃える民衆によってバラバラにされたという。
玄宗が気に入った者や、皇太子の周囲にいる者、自分の地位を脅かすような人物を次々に陥れて殺した。
温和な顔をして政敵を追い落とす様は「口に蜜あり腹に剣あり」「真綿に針を包むごとし」と評された。
南宋において宰相を務め、圧力を増す金との講和を唱えると共に、反対派を弾圧した。
後世、岳飛が忠臣の象徴とされると、秦檜の名は売国奴の代名詞となった。
岳飛廟の前には、秦檜夫婦が縄で繋がれた像が立てられ、訪れる者はそれに唾を吐きかけたという。
明の嘉靖帝は政治を顧みず道教に熱中し、道教の祭文に通じていた厳嵩は気に入られて高位に就いた。
賄賂が横行する悪政を二十年に渡って行ったが、やがて勢いを失った。
同じく権勢を振るった息子が処刑されると、家財を没収され、庶民に落とされた。
明の宦官。
東林派と反東林派の争いに乗じて権力を握り、大々的に東林派を弾圧した。
全国に間諜を放ち、自分を批判するものは全て投獄して処刑した。
周囲には「九千歳」と唱和させ、自らは「尭天舜徳至聖至神」とまで名乗った。
清の絶頂期を築いた乾隆帝も老いては耄碌し、和珅はその寵臣として長年に渡り政治を壟断した。
昔春秋時代の斉桓公の宰相だった管仲の至言「衣食足りて礼節を知る」にちなんで
貧乏人を豊かにして教養や栄辱を学んで国を下から豊かにさせていく方法が議論され、国家を安定させてきた。
先人が遺した偉大で理に適った経済手法を実践せずに目の前の景気不安だけを取り除こうと躍起になった挙句失敗してしまった。
来月以降には消費税10%だけでなく携帯電話や自動車などにも課税を行おうとしている。
過去、重税を行った国家は殆ど全てが国家機能を失い新しい王朝が立っている。
今安倍政権がやろうとしている事はこれを踏襲する事であり、目の前の経済を取り払う事しかやられない。
金持ちを厚遇した所で金持ちは会社でいう内部留保を行う、つまり貯蓄に励むから市場に金が出回らず結果、経済破綻が生じる事は明白である。
賃金上昇が急課題にあるにも拘らず何も成果が出ていない上に付け焼刃の経済安定予想から今度は低所得者向けの教育支援助成金を削減して法人税引き下げを
多分こういう話は忌避されるんだろうが
そんなことは考えないようにしよう
知りたい人はググってください
なぜか?
それは歴史を鑑みれば一目瞭然だと思う
徹底されている国であるからではなかろうか
士農工商が成立する以前に
その体制の地盤が既にあったから
受け入れられたわけで
ある日突然
「おまえは士で、おまえは農、商で工だ」
となったわけじゃないと思う
もしそうだとしたら何らかの反対行動が
歴史的にあったはず
(私の勉強不足かもしれないがそんなことは存じ上げない)
中国だって春秋時代、戦国時代ですら家系や地位でもって国を動かすという制度が成り立っていた
漢民族の統治下、唯一の例外の状元を目指して進士になり立身出世を目指すという形式ですらそれ相応の財力がなければ十分な教育を受けれない
そういった環境の中では
その原理を発揮できないと思う
一概に言うのはおこがましいが
選挙にもいかず
政治論議が闊達なのをみると
ちょっと待てと思いそんなことを考えた
春秋時代の斉の国の宰相で、晏子(? - 紀元前500年)という人が居ました。晏子は数十年にわたり斉に仕えたとても有能な宰相でしたので、時の王、斉景公は自分の娘を晏子に嫁がせたいと考えていました。
そんなある日、斉景公は晏子の家を訪れて宴会を催しましたが、その間ずっと晏子の妻が給仕の采配をしていました。
これを見た景公は言いました。「ああ、年老いて醜いな。それに比べて私の娘は若くて美しい。どうかね、私の娘を娶らないか?」
これに対して晏子は答えました。「私の妻にもかつては若くて美しい時期がありました。しかし人は誰でも年をとって醜くなるものです。私の妻は年老いた時のために、若くて美しい時期を私に捧げたのです。それを年老いて醜くなったからと言って、どうして捨てることが出来ましょうか。」