はてなキーワード: 名目賃金とは
マネーとは何か?っていうのは喧々諤々のうんぬんかんぬんでいろんな観点からいろいろ語られてるので、なにか言ってもすぐにそれは違うって突っ込まれるからなー。
ここでは、マネーを決済を行うための道具として見た観点で説明する。
決済てのはあれな。物やサービスの取引な。
例えば、飴玉欲しかったら20円払うだろ。来月、飴玉一個30円になるなら、今月のうちに飴玉買っておかないともったいないってなるはずだよな。
しかし、小学生のころならいざしらず社会人になって飴玉欲しいかっていわれるとカロリー増えるしいらんよなって考える人もいる。
つまり、貨幣の価値が毀損したところで、いそいであめ玉確保する気にはならないと、決済は行われない。
この喩え話に沿えば、金融緩和だけしても総需要があがらないとインフレにはならないって話。
だから、総需要に密接に関係する個人消費を懲罰的に扱う消費増税を、金融緩和時にしたのは馬鹿って言ってる人がネットには多い。
そして、名目賃金も実質賃金落ち込んでたら、誰も消費を増進しないから、インフレにはならないっていうことらしい。
ちなみにこういう話をすると、個人消費なんて誤差、総需要が足りないのは消費より投資だから、企業が投資しやすいように法人税減税しろ消費税増税しろっていう人が湧くことがおおい。
そういうモデルのほうが政策決定においては需要があるらしいよ。ポジショントークでもそっちのほうを決める奴らの力が強いよ。なんというか働いたら負けの気持ちがわかるね。
ブコメにもあるけどイギリスなんかはとうとう名目賃金までが減るくらい恐ろしい速度で実質賃金が落ち続けているけど消費はものすごく堅調だよな。
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKBN0GD0RJ20140813
英国立統計局(ONS)が発表した、4─6月期の英国の週間平均賃金(ボーナスを含む)は、前年同期比で0.2%減少し、2009年3─5月以来初めての減少となった。
消費の指標の実績だけでなく見通しも強い。
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NEIF6S6VDKIR01.html
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
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本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
金融緩和、ウォン安政策は一般的にはその前の時期を指すでしょう。2010年の後半からは
金融引き締めに転じた結果、韓国労働市場は踊り場を抑えて、名目賃金の伸びが大幅に低下
(2010年の名目賃金伸び率は+6.8%だったのに、2011年にはわずか+1.0%に落ち込んだ)
したことから実質賃金がマイナスになった。金融引き締めをすれば景気や賃金が弱含み、
インフレも抑えられるという教科書通りのことが実演されたわけだ。インフレは引き締めに
転じてから約一年後の2011年8月にピークをつけて以降、2013年6月には1.0%まで低下した。
昨年から始めた金融緩和がこれまた一年たってインフレに影響が及び始めたのか7月には
1.4%となっている。
大幅な金融緩和、自国通貨安政策をとったところでインフレがコントロール不能になって
ハイパーインフレが起きるなんてことはなく、引き締めに転じれば簡単にインフレを抑え
られた事例であり、また、金融引き締めに転じた後の一時期を除いて、大きな金融危機の後でも
金融緩和のもとで実質賃金がだた下がりになることなどなく、堅実な伸びに転じられることを
示した事例でもある。
企業の生産関数をY=F(A, K, L)=A・f(L)として期待利潤πe=Pe・Y-rK-wLの最大化を目指すと、
Lで微分してPe・A・f '(L) -w=0 よってf '(L) = w / (Pe・A) となるところまでLを需要する。
f '(L) が単調減少ならw / (Pe・A) が小さい程、需要されるLは大きくなる。
名目賃金wが硬直的で一定である場合、期待物価水準Peや中立的技術水準Aが上昇するほど、需要される労働量Lは増加することになる。
また中立的な技術でなくても、労働の限界生産性を上昇させるのであれば(たとえ資本使用的で労働節約的な技術進歩であっても)、技術水準が上昇するほど需要される労働量Lは増加する。
→たとえば失業率と賃金の関係を考える時には、名目賃金wでも、実質賃金w / Pでも、期待実質賃金w / Peでもなく、最低限でも中立的技術水準Aまで考慮する必要がある。
フィリップス曲線を出す理由がなく、実質金利と投資活動の関係を見ればよい。
コストである金利負担が大きければ企業にとって設備投資の純利益は低下する、という流れは十分に説得的であろう。すると金利負担が大きければ企業の投資意欲は低下する。
この考え方をもとにデータで確認すると、実質金利が高まれば投資が圧迫される(≠実質金利が高い時期に投資が少ない)ことが確認されている。
あとは
を前提としているのであるから、デフレが続いてデフレ予想が形成されていれば、名目金利-期待インフレ率からなる実質金利はインフレ期待がある場合より高どまりする可能性がある。
少なくとも、名目金利が負になれないので市場による調整に限界が生じる。
つまり、デフレにより投資がインフレの場合より過小になってしまっている可能性があり、それは日本の投資の推移などを見る限り蓋然性が高い。
これがデフレ=悪として、日銀を含めた世界の中央銀行がデフレにならないようにしたいと述べている理由の一つ。
2 フィリップス曲線
に関する諸条件は使っていないので、それらを前提としても上記の説明は成立する。
この他にも、賃金の下方硬直性+デフレによって、既雇用者の実質賃金が低下せずに新規雇用が抑制され失業が増えやすくなるということや、
その雇用の問題や上記の企業活動の低迷、あるいはそれによる資産価格下落を通じて家計の消費が減るという悪影響、
さらには投資が抑えられることによる技術革新の停滞から生産性が伸び悩むことなどといった問題がある。
基本的に上記の問題点は、名目金利が負になれないといったことや名目賃金の下方硬直性といった問題が、デフレの下では現実的な制約として働くという点からの指摘。
上述のようにデフレによって経済が悪化している可能性は高い。ただしそのことは、他の経済の悪化要因が働いていないことは意味しない。
日本以外の国もグローバル化で中国製品を輸入しているがデフレになっていないので安価な輸入品だけが要因でデフレになった可能性は低い。
人口要因だけでは均衡実質金利がゼロ未満にならないため、人口要因だけでデフレになったということはない。
サブプライム危機によってアメリカやイギリスでも大きなバランスシート問題を抱えているがデフレになっていないので、バブル崩壊やバランスシート問題などの経済悪化だけが要因でデフレになった可能性は低い。
なにか明らかに中途半端な聞き齧りの知識で「フィリップス曲線に関する誤解」を振りまいている人 http://anond.hatelabo.jp/20100802234031 がいると聞いたので、そういった誤解をしないようにしましょう、との意味を込めてまとめておきます。
フィリップス曲線そのものは失業率と賃金上昇率の観察から得られた発見でしかありませんが、その後にその理論的な背景がさまざまに考察されています。たとえば金融政策が背景にあるというもの。期待インフレ率が金融政策を受けて引き上がった場合、名目賃金には硬直性があることから実質賃金が低下して失業率が低下します。また、実際のインフレ率は期待インフレ率に引き摺られる形で上昇します。この因果関係やメカニズムが、失業率と賃金上昇率(物価上昇率)という二変数に顕れたものがフィリップス曲線です。この説明から、実質賃金が十分調整する以上に期待インフレ率を上げても長期的には無駄であることも分かります。ハイパーインフレ期待はフィリップス曲線を考えた時にも望ましいものとはなりません。なお、ここで重要となる名目賃金の硬直性ですが、これは別に労使交渉だけが原因になって生まれるものでもなく、また賃下げが一般化してきた現在の日本においてさえ、完全雇用に十分なまでは賃金が下がらないという形でまだまだ存在するものです。
フィリップス曲線は失業率と物価上昇率の関係を表した右下がりの曲線ですが、この曲線は期待インフレ率によって上下にシフトします。その結果、単純に失業率と物価上昇率の関係をプロットすると不安定に見えることがありますが、期待インフレによるシフトをコントロールすれば右下がりの関係が安定して得られます。これは、「失業率を下げようとすればより高めの物価上昇を受け入れる必要がある、すなわち失業率と物価上昇率にはトレードオフがある」ということが、少なくとも短期においてはかなり普遍的であることを意味します。
物価統制でもしているのではない限り、政策で直接に操作出来るのは物価上昇率そのものではありません。たとえば上記のように金融政策を受けて期待インフレが上昇し、それが失業率と物価上昇率に影響するという関係を考える場合、「期待インフレの上昇が本当に失業率を引き下げるか」などは重要となってきますが、失業率と物価上昇率に直接的な関係があるかは重要ではありません。物価上昇率は直接操作できないのですから。また、背景ロジックがしっかりあるため、「オランダの統計では赤ん坊の出生数とコウノトリの数に正の相関が見られる」といった擬似相関とはまったく異なります。
最近、フィリップス曲線に関する俄知識で不当な評価をする人が増えているようですが、せめて上記のようなことは理解して変な誤解を拡散しないようにして欲しいものです。フィリップス曲線は今でも経済を分析する上で非常に有益なツールなのですから。
http://krugman.blogs.nytimes.com/2012/04/08/unemployment-and-inflation/
デフレと貨幣価値が独立事象じゃなくて、デフレと実質賃金が独立事象の間違いでは?
貨幣価値は金融引き締めをすれば生産性が上がろうが下がろうが上がる。
生活が豊かになる=貨幣価値が上がるじゃなくて生活が豊かになる=実質賃金が上がる。
グローバル化で安いものが入ってくるというのは実質価格の話で名目価格で安いものということにはならない。つまり、貨幣価値が上がったんじゃなくて輸入国の実質賃金が上がったということ。その不均衡が是正される場合も実質賃金が下がればいいだけで名目賃金が下がる必要はない。実質賃金が下がる場合も金融が十分緩和されてれば名目賃金まで下がらない。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51333370.html
マイルドなインフレが望ましいのは、貨幣錯覚によって実質賃金や実質債務を切り下げて企業収益を上げる効果があるからだが、それは調整コストを節約するだけで大した問題ではない。
マイルドインフレ下の貨幣錯覚は少なくともプラスの効果をもたらすが、デフレ下の貨幣錯覚はどうだろうか。素人なりに考えてみた。
賃金について考えると実質賃金の維持のためには名目賃金の引き下げが必要ということになる。しかし貨幣錯覚がある以上、名目賃金の引き下げは従業員の不満を招くことになり困難。だとすると賃下げではなく新規採用の抑制に向かうと考えられる。つまりデフレ下の貨幣錯覚は失業率(特に若年者)の増大につながるわけで、これは日本の状況にも合致していると思う。
債務の場合には貨幣錯覚以前の問題で、物価連動債以外はデフレで実質債務負担が増えるため、新規の投資を抑制することになり経済にとっては明らかにマイナスになる。
これだけの問題がある以上、
デフレ自体は善でも悪でもなく、
などというのは誤りで、デフレ問題に全力で取り組むべきだろう。