はてなキーワード: 仮面舞踏会とは
ミュージカル好きな母や友人、ツイッターに思いの丈を吐き出してもまだ足りない。一月前くらいからずっと抱えていた怒りやモヤモヤ。
推しの写真を見ても癒されず、むしろ雑誌のインタビューを読むたびに虚無感が増す。
あまりにも虚無だった。
まだしばらく虚無を引きずってしまう自分が見える。よってこんなところに吐き出しています。
暫く前に2.5の舞台界隈で虚無リンピックというものが流行っていた。
わたしは幸運なことに、舞台を見たことを後悔するほどの虚無にぶつかったことはなかった。
いや正確には一度あったが、すっかり忘れていたそれまで思い出されてしまうほどの衝撃だった。
先日、ミュージカル ロミオ&ジュリエットが個人的虚無リンピックの堂々たる一位に君臨した。
他のミュージカル音楽を垂れ流して聴かないと癒されないほどの虚無である。とにかく虚無だった。
演者さんは悪くない。歌も別に悪くない。というかむしろ良かったんではないかと思う。エメ大好き。
演出がとにかくクソだった。
わたしは演出の小池修一郎先生のことを凄い人だと陰ながら尊敬していたし、本当にすごいひとだし(なんせ第一線で活躍し続けている演出家である)しかしこのたった一公演でその印象が逆転するほどのクソさだった。
わたしは、これからミュージカルを観に行こう、チケットを買おう、という方々に、このロミオ&ジュリエットは絶対にお勧めしない。これがミュージカルだと思われたら困る。もっと素晴らしいミュージカルは山ほどある。なんならあの空耳ミュージカルテニスの王子様の方がずっと面白い。
そしてシェイクスピアに謝罪したくなってしまった。2019年の日本にこのようなミュージカルがあることを。ホント、ごめんシェイクスピア。
ミュージカル ロミオ&ジュリエット を知っていますか。今年は東京から三都市を巡り公演し、先日千秋楽を迎えたミュージカルです。
様々な国で上演されており、日本では今回のミュージカルの他に宝塚でも公演していました。宝塚のもののほうが有名だと思います。
そして多分、今回のものでなければ演出はかなり普通だと思う。多分。
ですがもし、この前そのミュージカルを見て感動した!という方は下の文を読まないで下さい。読んだらだめです。批判しかしていません。気分を害すだけです。道端のウンコに好き好んで足を突っ込むようなものです。
前書き、経緯を説明しますと、わたしはシェイクスピアに興味があるわけではありません。シェイクスピアと友達なわけでもない。
ロミオ&ジュリエットを観に行ったのは、推しの俳優が出ていたからです。
小池先生の演出だし、あまりにも有名な作品だし、履修しておくか、という軽い気持ちだった。
歌は城田優が俺たちが王になる〜みたいな曲をどっかの番組で歌っていたのを聞いたことがあるかな、ぐらいの印象。
原作を読んだことがないのは失礼かと思い観劇前、本屋にロミオとジュリエットの日本語訳を買いに行った。読んだ。結果は撃沈だった。
原文がどうなってるのか知らないが、難解だ難解だと聞くので原文も難しいんだろう。日本語訳も下手くそなのか、その辺はわからないのだがたった数十ページ読んだだけで読み進める気はなくなってしまった。シェイクスピアさんごめんなさい。わたしには無理でした。
ただ、ロミオとジュリエットの内容はよく高校の演劇でもやっているくらいとても有名だし、Wikipediaに載っている内容を改めて見ても理解の難しいものではない。
だから言い回しの問題さえ解決できれば、みんなシェイクスピアに興味が持てると思うし、読みやすくなると思う。
自分のことを棚に上げてなんだけど、もっと誰か理解しやすくしてくれないだろうかとミュージカルに行く前にひっそり思っていた。
歌舞伎だって言い回しが小難しくて投げてしまったのだが、現代語訳されたものはとても面白くて楽しめたのと一緒で。
だからロミジュリの歌唱披露をYoutubeで見たときに、不安を感じつつも期待があった。演者たちはジーンズを履いていて、ジュリエットも可愛い感じのドレスを着ている。若者向けっぽかった。内容をわかりやすくしてくれてるんだろうなと思ってしまった。
あとミュージカルロミジュリは今まで何公演も重ねてきたミュージカルで、支持する人が多くいたようなのでそういう意味でも安心していた。
はじまると、ダンサーたちのダンスと衣装と髪色に度肝を抜かれてしまった。緑、青、グレー、赤。
モンタギュー家の旗とキャピュレット家の旗を鉄格子の上で振り回す若者。いかにも安そうな、場末のバンドマンが持っていそうなロゴ入りの旗である。
え、安いテリトリー争い?なんだこれ。
どう見てもみんなパリピみたいな、ストリート系の格好をしている。めっちゃかっこいいダンスで抗争してる。
これ両家の深い確執と恋の話じゃなかったっけ?わたしHiGH&LOW見てるもしかして?縄張り争いするヤンキーたちの話?懐かしの魔法のiらんどの実写?映画館きた?
衣装のデザイナーさんとセンスが、破滅的なほどセンスが合わない。これなに?ほんとにシェイクスピア???
べつにテニスウェアを着てようが貴族のカツラ被ってようがどちらもミュージカルなので格好はぶっちゃけどうでもいいのだが、これは原作シェイクスピアである。何度も言う。
ティボルトが颯爽と出てきて歌い出す、モンタギュー家の若者と喧嘩をしている、しかし彼らがしているのは地方のヤンキーの領土争いにしか見えない。あるはずのない改造バイクの幻影までもが見えそうだ。
しょっぱなからこんな演出で、キャピュレット夫人やモンタギュー夫人が、争いは不毛で我々は生まれた時からあの家への敵意を植え付けられ教育されるの〜もうやめて〜と歌っても、たとえ歌がうまかろうが虚無である。演出が安いからだ。悲壮感ゼロ。確執とは。
この確執が安くなると、なんでロミオとジュリエットが結婚できないのか、そこらへんの理由づけたる物語の根幹がぺらっっぺらのコピー用紙のような薄さになってしまう。つまり全部が虚無と化す。
いなくなったロミオを森に探しに行くシーンがあるのだが、ここで携帯電話初出である。え、シェイクスピアの登場人物がスマホ持ってるんですけど。
ロミオいないから探して、送信!っと!とマーキューシオ?が言うのだが、そこでもええ‥と虚無に陥った。
ツイッターかラインのグループか知らないが、ここは一体どこの時代設定なんですか。ロミオ探しってインスタのハッシュタグだったりしてね。あとからモンタギューのポラロイド写真も出てきたし。
#ロミオをさがして #大切な仲間 とかつけてたら想像だけで虚無。わたしの心が死んだ。泣きたい。でもそんくらい時代設定がグズグズだった。
その後ロミオが、俺のために生まれてきた女の子を探しているんだ‥と夢見がちなことを言うのだが、携帯電話を持ち合わせているのだから何も街の女の子から運命を探さず出会い系サイトでも登録して女漁りをすればいいのである。どこにでもナンパにいきたまえよ。なんでそこだけ昭和なの。
ちなみに一番最初に出てきたジュリエットも、ドレスにスカジャンを着ていました。スカジャン。
これ魔法のiらんどで履修した内容に沿って解説しますと、彼女は敵対してるヤンキーグループのリーダーの美少女妹ですね。
ティボルトはずっとジュリエットのことが好きだったと歌うのだが、不憫萌えのジャンルを開拓しにきているので魔法のiらんどの履修内容だとSSが一本書けるタイプの登場人物です。
そのあともヤンキーたちの集団がお前どっかのロッカーかよ、と言ったり、走れメロスかよ〜と突っ込んだり、些細なセリフでここはどこの国でしたっけ?これ、どこの時代でしたっけ?と虚無に陥る。
現代っぽくわかりやすくしてくれるのはいいんだけど、全てに一貫性を持たせないと全体の印象がぐちゃぐちゃになる。やりたいことがわからない。
そのくせロミオとジュリエットが出会うのはやはり仮面舞踏会である。婚活パーティーで出会ったほうがよほどわかりやすいのに。
きらきらのネオンと安そうな膝丈ドレス。なんでこの衣装とセットにしたんだ。やっぱ婚活パーティーだろここ。
こんな頭の悪そうな、品性のかけらもなさそうな坊やたちの仮面舞踏会。虚無。
チェーンメールを回してみたり、ロミオとジュリエットの結婚の噂も携帯から回ったり。挙げ句の果てにはロミオがジュリエットに君の番号教えて?と聞く。
この2人の場合は両一目惚れなので当てはまらないかもしれないが、一目惚れした〜かわいい〜きみの番号教えて、と迫る謎のナンパ師は今でも池袋に存在する。
目眩。まじで。
ジュリエットには時間がないとはいえ、わたしが彼女の乳母ならそんなバカそうな男は絶対にダメだと忠告している。家柄とかじゃない。バカだからだ。
こんな感じで、登場人物の知能指数が全体的に低すぎる。賢い人間が存在しない。
こんなやつらから世界が展開しているのだから、いがみ合って殺されようが感動なんてゼロだ。地方のヤンキーの抗争に世間の目が冷たいのと同じである。
お前らが馬鹿だからベンヴォーリオもティボルトもロミオもジュリエットも死にます。
おお神よ〜運命よ〜ってわかるじゃん。お前らがバカだからじゃん。
司教お前もだよ。大事なことはちゃんと電話しろってママに教わらなかったの。
ジュリエットが仮死状態になることロミオにメールしとくね〜迎えきてねって!あれ返事ないなぁ〜!ロミオ〜?じゃねえんだよ馬鹿愚か。電話しろ早く。
街を追放された時に既存の連絡先全部消してたらあんな衝撃的な顔をしないので、人を1人殺してもロミオは今までの交友関係を携帯電話に残して大事にするつもりだったということである。いつか街戻る気満々じゃねえか。携帯処分させなかった大公やっぱり処分甘すぎるんとちゃいますか?!
ツッコミが追いつかない
死体の前で泣いてないで全員並べ。泣きたいのはわたしのほうだよ。
推しの知能指数も30になっているので見ていて虚無である。推しがバカになっている。
どうして。
ロミオ&ジュリエットの演出がクソだからです。こんな内容でDVDとか、推しが出ていても買いたくない。
多分、あの携帯電話がないだけで随分マシになる。
もしくはもうロミジュリって名前をつけないでほしい。懐かしの魔法のiらんどのミュージカルですって言われたら何も文句はない。そのわりには歌もダンスも上手いですけど。
ロミジュリの言い回し簡単にしてほしいって思ってたよ、思ってました!だけどここまで中学生向けにしろって、誰が求めてたわけ。
わたしはシェイクスピアと友達じゃない、ろくに読んだことすらない。でもシェイクスピアが可哀想。こんなに安くされて。シェイクスピアの叩き売りかよ。
学芸会じゃないんだからもっとちゃんとシェイクスピアにしてほしい。これじゃ登場人物みんなチンパン。
ファッキンクソ。2.5でも原作をここまで蔑ろにしているのではと思ってしまう作品に出会ったことはない。モーツァルト!やマリーアントワネットだって、過去の実在の人物へのリスペクトあってこそのミュージカルなのである。
シェイクスピアの原作はもっとマトモであり感動できるはず、でなければここまで名作扱いされていないと思うので、シェイクスピアの原作を理解しようとこれからきちんとつとめようと思います。とにかくこれを吐き出したかった
ただそれだけです
背中がかゆい。かゆくならないという人も居るけれど、むしろ自分は周りより少しかゆみが強い方かと思う。
ここに孫の手があったら、どんなに気持ちいいだろうか。
嗚呼、孫の手。背中を思う存分に掻ける幸せは、生きる意味の一端を担っているのかもしれない。
やれどこ産の竹が素敵だとか、やっぱり長さは重要だとか、掻きかたへのこだわりだとか。どうやらそれが普通らしい。
そんななかで、何故だかそういう話題に興味を持てない自分がいる。
むしろ、背中。何時からだとか、何故だとか訊かれたって、知らないし分からない。だけど気付けば、背中を目で追ってしまう。
あわよくば、掻きたい。爪なんてほとんど切ってしまって丸っこいから、竹や木でできた孫の手ほど気持ちよくはないだろうけど。
気持ちとしては、そう思ってる。
ここまではいい。
我々は、社会に生きている。
背中は孫の手を選び、孫の手もまた背中を選ぶ。選び選ばれた背中と孫の手には、手厚い保証制度だってある。
こうして社会は成り立っているのだ。
そういう人もいる、という知識は持っていた。だからこれも、そんなに変わったことではない。そう思って母に相談した。これまで愛情たっぷりに育ててくれた母に。
母は、絶望していた。
未だにあれ以上、ひとが絶望した、という顔は見たことがない。乏しい語彙力ではこんな表現になってしまうが、とかくこのような結末であった。
さて、どのように生きるべきか、そろそろ真面目に考えねばならない。
掻くべき背中を探すのはどうだろう。
まったく残念なことに、掻いてもよい背中にはさして特徴はない。事実、自分の背中だってそうである。
そしてこれまた残念なことに、「背中を掻きたい」とは公言しにくい社会である。
それを探すためには、何らかの仮面舞踏会へ行くことが手っ取り早い、というより他の方法など殆どない。
そこへ行く今一歩の勇気が、未だに出せていないのだ。
おまけに、自分はすっかり、背中を掻きたいことをオープンにしてしまっていた。
案外この世には同胞は多く、自分も恐らく沢山出会っていたとも思う。
さて、では隠していたいひとは、万 が 一 興味を持ってくれたとしても、自分に声をかけるだろうか? 考えるまでもない。
だから、孫の手を受け入れること、それ自体にはきっと何の問題もないのだ。
受け入れさえすれば、たぶん気持ちいいのであろう。
実際に背中にあてて動かせば、自分のまだ知らない魅力に気付くこともあるかもしれない。
また、オープンであるとは言ったが、未だに親戚筋には打ち明けられていないのだ。
かつて、この症状は病気と考えられており、そのため一定以上の年齢層はこの話を拒絶しがちである。
加えて、初孫の将来への期待はずいぶんと大きく、それを裏切ることともなってしまう。
無事にペアを組むことが出来れば、こんな懸念も吹き飛ぶのである。
ただし、そんな気持ちで選ばれた孫の手はたまったもんじゃないだろう。
背中、孫の手。どちらの魅力も理解出来る(後者については微妙なところだが)。
たまにお得と言われるこの特性を持ち生きるということは、あくまで一例ではある(重要)が、こんな感じである。
さて。
などと考えてみたが、どちらにせよ自分は最初にしなければいけないことをしていない。
自分の理想にうつつをぬかし、「相手から好まれる背中になる」という視点をすっかり欠いてしまっている。
まずは見た目に少し気を使ってみるか……なんて思いながら、今日も自分は、必死に手を伸ばして、自分の背中を掻くのである。ぽりぽり。
正味な話、あんまり知らない年配の人たちと一緒にカラオケに行くと困る。って言うか、気をつかう。って言うか困る。
何に困るって選曲。
手の内を知ってる相手なら、どういう歌を歌うって言う風にわかっているので、相手の十八番を歌うなんて言う地雷を踏むことはないんだけど、手の内がわからない状態はほんとに困る。
相手がわからない様な曲を歌っても盛り上がりに欠ける。かといって、知ってるだろうなって言う曲を選択すると、知ってるだけじゃなくて地雷だったりする。たとえば、福山正治の「HELLO」とか、少年隊の「仮面舞踏会」とか、この辺はやばい。って言うか、実際地雷を踏んだことがある。
もうね、その人たちが知ってる曲ではあるが、そのアーティストの代表曲よりは一歩下がるって言う程度の曲を選択すると、いいのかな?と言うのが最近の感想。
たとえば、SMAPで言うと「夜空ノムコウ」はヤバいが、「らいおんハート」ならセーフ。とはいえ、相手も知らない訳じゃない。このあたりの絶妙さ加減の曲をもっと知りたい。
まぁ、相手によってこのさじ加減は変わるんだが・・・。
にしても、昨日一緒に行ったおじさんはDeep PurpleやLed Zeppelinをガンガンに歌う人だった。選曲で悩むことはないのだが、Burnを思いっきりタマホームバージョンで歌われたりすると、それはそれでリアクションに困る(苦笑)
だいたいね、アイスダンスとペアはどうなってんのよ。地上波とBSでもスルー。
フィギュア好きだから冬はスカパー入ってるんでかろうじてテレ朝チャンネル(CS)で見られるけど、
GPファイナルの翌日にロシア大会ってなんだ。一週間遅れかよ。
http://www.tv-asahi.co.jp/channel/contents/sports/0047/
競技の前の順位がわかるようにしてどうするのよ。見れりゃいいだろって姿勢満載。
中継内容もわかりやすく競技者のまとめ映像作るのはわかるけどさ、SPでもFPでも同じ映像、
それもGPシリーズ通して同じってんじゃいい加減飽きるっつーの。
GPファイナルのエキシビジョンだって余計なものが多すぎ。インタビューなんぞいらん。
過去の名演は面白いと思ったけど、全部見せないならいらん。別番組にして、全部見せろよ。そしたら見る。
結局早々にリアルタイムで見るのはあきらめて録画しておいたものを早送りで演技だけ見たわ。
あと角沢やめて。
男子の誰だかの演技で前半コケまくった後に「どこまで点を伸ばしてくるか」ってアホなの?
演技中にライバルの話と点の話ばっかり。なんの音楽でどんな表現をしたいのとかそういうことは
いえないのかね?「仮面舞踏会」がどんな曲か知らないんじゃないの?とさえ思うわ。
***
以下、自分語り。
聞き手は元増田さんを想定。(でも聞かなくていいよ!)
私は、そういう行為を見られると
相方とそういうお店に行きます。
色んな人とっていうのは好きじゃないので
挨拶のちゅーとかはしますし、乳揉まれるくらいはありますが。
とはいえ、男性連れで行ってても、
相方が席外せば男の人は隙あらば口説いてくる。
相方と一緒にいるときでも、みんな優しい。
正直、モテた気分になるので
悪い気はしないですw
別に普段もてたいわけじゃないにしても、
って違和感みたいなのはずーっとあって。
元増田さんを見て、男女で立場は違うけど
同じような感じを持ってる人もいるんだと思って、
自分に言い聞かせる意味も込めて
レスさせてもらいました。
受け止めてくれてありがとう。
あまり新規投稿が隠れすぎると盛り上がり感がなくなる気もするなあ。
しかし誰か分からない人と個対個の関係性が構築されるというのは、今まであったようで無かったので面白いよね。仮面舞踏会と名付けよう。
なんとなく「名前を隠して楽しく日記」ってこわい。
棘棘せずに楽しくやろうねっていうのはわからないでもないけど、名前を隠す状況ってのは一般的に楽しいかといわれたら違うような気がするし。形容矛盾? っていうのだろうか。ちょっと違うか。何にせよ、それが「猛スピードで歩く亀」だったらくすりとするかもしれないけど、「名前を隠して楽しく日記」はなにか負の相乗効果みたいなのがあって不穏な感じがする。
背徳的で「楽しい」とかそんなの。仮面舞踏会とか。いや、楽しそうだな、これは。ドレスのままで街中を逃げ回るみたいな。これはラヴい。
なんだろこの感じ。顔を隠してパートナー交換チックな。彼らと翌日顔をあわせるのを自分だけが知っているんだぜ、というのに似たもの。