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はてなキーワード: エマ・ワトソンとは

2021-11-29

男性から降りるって結局何から降りるの?

女性役割から降りるってのは、エマ・ワトソンの話からすると、

女だからって男の為に愛想ふりまいたり、頭が悪い振りしたり、お茶くみしたり、衣服や化粧等を強制されたりせずに、好きにふるまうって意味だと認識してる。

まり男に気を遣うのやめようぜ!って事だけど、

その反対の、男性から降りるって事が、

男は強くあるべきだ、成功すべきだ、男は積極的女性リードすべきだ…

って考えから降りるって感じの内容だったけれど、

女性から降りるって内容と全然対称性が無くて、社会競争から降りる事になってる様に思うんだけど。

もしくは、モテ(性欲)を捨てろとか、役割から解放どころか、新たな足かせ追加していない?

男性から降りるを正しく対称に考えるなら、女に気を遣うのやめようぜ!

まり、もしかしたらセクハラになるかも…とか小難しい事考えずに、好きにアプローチする、

もしくは、女性に興味ないなら、身だしなみとか気を遣わずに、好きな格好で過ごすとか

周りの目を気にせず。温泉娘だろうが、宇崎ちゃんだろうが、萌えキャラに打ち込むとかにならない?

2021-11-21

anond:20211121131755

そう。その言えない状態が良くないと思うわ。エマ・ワトソンが素晴らしいってわけじゃないけど、ハリウッド役者とかだと「あの役を演じたけど、こういう点には違和感があって監督交渉した」とか平気で言ってるから健全だな、と感じることがある。たぶん役者労働組合的なものがしっかりしていて、そうした発言でクビにならない状況があるんだろうけれども。

2021-07-03

anond:20210703141538

エマ・ワトソンをご存じでない?

フォーブスの表紙でおっぱい出して別派閥フェミからバッシング受けて「フェミニズムは自由のためのもんで、他人を殴る棍棒じゃねえぞ」と反論したエマ・ワトソンをご存じでない?

HeForSheで男性ステレオタイプ抑圧を論じて、男性もまた被害者なのだとおっしゃったエマ・ワトソンをご存じでない?

あなたの猫の額ほどの観測範囲に生息する木っ端フェミニストが束になっても及ばない影響力を持つ超大物フェミニストのエマ・ワトソンをご存じでない?

いや別にエマ・ワトソンに限らず、フェミニストなんて世界中に山ほどいて、主義主張千差万別なら、国ごとの状況に応じて活動内容も千差万別

そんな中、どうして自分観測範囲が全てだと思えるのか。これがわからない。

しろよく「SNSで見かけた」程度の観測範囲フェミニストなんていう糞デカ主語を語れるもんですね。「Twitterで僕が見かけたオタクは全部ミソジニストだったから、オタクミソジニスト」なんて抜かすやつがいたらフルボッコだろうに。

インド名誉殺人ブライド・バーニングへの抗議や撲滅運動をしてるフェミニストは「ツイフェミミサンドリーかその両方」ですか?

児童婚に反対しているフェミニストたちは?

レイプシェルターDVシェルターを建てて被害者保護しているフェミニストたちは?

サウジアラビア女性が車を運転できるように抗議し続けたフェミニストたちは?

彼・彼女らは皆「ツイフェミミサンドリーかその両方」ですか?バカらしい。こんなもんは氷山の一角にも満たないごくごく一部です。世界は圧倒的に多様です。

「我々が実際に目にする」だなんて、勝手に"我々"で括らないでください。あなた観測範囲が狭くてあなた特別不勉強なだけです。

2021-05-13

弱者男性論はループしている

4年前のこの記事とほぼ同じ流れを繰り返しているだけじゃん。

http://miurayoshitaka.hatenablog.com/entry/2017/07/28/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%BC%94%E8%AA%AC%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%BC%B1%E8%80%85%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%80%8D%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84

2021-05-06

anond:20210506014128

女性ロールから降りていいんだぞ?

エマ・ワトソン喧嘩売る気か?

顔は男女無関係の身だしなみとしてしょうがないにしても、それ以外の無駄毛なんて無視しろ

2021-05-01

エマ・ワトソン男性も男らしさにこだわる生き方から開放されよう」 ← これってさぁ

たまたま富豪の家に生まれボンボン令嬢が

自分なら到底耐えられないような困窮した生活を送ってる貧困層に向かって

お金にこだわるような価値観から開放されましょう」って豪遊しながら言ってるようなもんだよな

そらなんか頭にくるわって

2021-04-14

なぜ女性差別が一番取り上げられるか

なぜなら人類の半数は女だから!!!!!


以上!!!!!!!!

となるわけで、結局同調する人数の多さは力に直結するわけよ。

そんでその中には高学歴高収入の女もいる訳で、そういう強者女性が旗振り役を担えるわけよ。エマ・ワトソンとか。

少なくとも「頭が良く発信力がある」旗振り役がその被差別属性の中に存在することは、差別可視化には必須条件なわけ。

高学歴身体障害者高学歴同性愛者が多数いることに比べ、弱者男性にはそれがない。それが致命的。

2021-04-08

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

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弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

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弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの

経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

2021-04-03

増田及びはてブコメに送る解像度高めのアンチフェミ弱者男性(KKO)

https://anond.hatelabo.jp/20210403004144

 

丁度良いタイミングはてブにこんな記事トピックに入っていたので追記的なものをば。

 

フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81804

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804

  

まずはっきり言っておきたいのは「アンチフェミ非モテ」ではないということ。

 

どちらもフェミニズムフェミニスト)を批判すると言う部分があるので同一視されがちではあるけれども、前者は前回述べた通りフェミニズムフェミニスト)による保守的な抑圧行動に対する批判であるのに対して後者自分に獲得されることを許さな女性及びそれを肯定するフェミニズムへの批判なのだ

 

何年か前にエマ・ワトソンが男らしさというジェンダーロールに押しつぶされる弱者男性ジェンダーロールに囚われないでという言及したことがあった。それに対してそんな事言っておまえはイケメンと付合ってるじゃねえかという批判をしていた人達が居た。私もこの件をまとめたTogetter記事コメ欄でそういう輩とさんざんやり合ったのだけれども今にして思えばアレが弱者男性KKO)論者だったのだろう(当時から弱者男性KKOと言う言葉流通していたかは覚えがないけれども)。

  

当時何故彼らはそんなにも女性を獲得することを自己命題としているのだろうと思ったものだけれども、昨今の弱者男性論の盛り上がりを見るにうっすらと理解できるようになった。彼らは強者男性というジェンダーによってフェミニズム的に批判されるにもかかわらず実際に強者男性としての利益(女、金)を得ていない、つまり強者男性という枠組みの中で人並みに満たないものであるという自認があるから殊更それに拘り追い求めるのだ。

 

そして自分男性利益を得ていない自分達を強者男性として糺弾するフェミニズムを憎みそれに同調して利益を得ている女性をも憎むのである

2021-03-16

anond:20210315231209

ここ増田KKOの話が出てくるのは大抵隙を見てKKOは救わないんですよねみたいな嫌みを言うだけの場合だし、「職場学校差別により排除されること」といっても具体例が乏しく社会問題に出来るような要素が見当たらなかったりするわけで。

 

それにエマ・ワトソンに対してイケメンじゃない男を選ばないんだから同類だといってた阿呆実在している。

2021-03-15

anond:20210315112940

KKO自体は何年も前にあったエマ・ワトソンフェミニズム批判的な弱者男性への言及話でやりあった連中の中に見かけた(言葉自体あったか覚えてないけれども一応同種の存在)けども、彼らは折角男性というジェンダーに苦しんでいる男性も居るというエマ言及をでもお前イケメンと付合ってるじゃねえかという謎の理論で切って捨ててたからなあ。あの辺を見ると女性から価値があるとは認められていない属性を持っていても女性関係を持てるようになるのが正しいというのがKKOの根幹にあるんじゃないか邪推してしまう。

2021-03-13

anond:20210313122228

エマ・ワトソンは別として、大半のフェミニストは下層とは付き合えないで。

俺がエマ・ワトソンと付き合うぐらい難しいと思うで。フェミニストより下層の男がまず存在しない。

 

楽天モバイルユーザーが、楽天モバイルより繋がりずらい通信サービス求めるようなもんだ。

2020-11-05

anond:20201105101651

これはそのとおり。だからエマ・ワトソンあたりが言ってるような「男が男らしくなくてもいい」

みたいなのを真に受けても人生好転するわけではないんだよね

2020-09-20

anond:20200920202714

エマ・ワトソンが言ってたのは「モテなくてつらいなら男らしさから降りたら」ってことじゃないの

まり

『男らしさから降りたらモテない』なんて心配してる人はいない

議論されてるのは『モテいから男らしさから降りる』かどうかだけ

でもそれをやっても負け犬の遠吠えしか思われないからやる奴がいないだけ

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