はてなキーワード: 同性愛とは
異性婚しか許されないのなら一生独り身でいると思う。
つまるところ、いずれにしたって出生率は変わらない。
ただ、家族や友人から普通に祝福されて、手を繋ぎながら街を歩きたいだけだ。
思想的に右とか左とか関係なく、ただパートナーと一緒にいたい。
家族じゃないからと、家を借りるのに苦労したり病院での面会を断られたくないだけだ。
それ自体は喜ばしいことだと思う。
けれども、虹色の弾幕を掲げながら虹色の旗を振っている人たちを私は『気持ち悪い』と思った。
私はパートナーと一緒にいたいだけだ。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
私に生きている価値が見出せない。
まもなく30になるが何も何も私は社会に適合できない。
何かを生み出す力がまるで何一つとしてない。
まずはじめに発達障害を持っている。
いわゆるアスペルガーである。軽度とはいえ、職場で浮いていじめの対象にされる程度にコミュニケーションが出来ていない。
ということで職務、種の保存的に避けた方が良い人材であると言える。
次に同性愛者である。そのため、まず女性と性交が出来ない。試したけれど、女体の胸や尻といった丸みを帯びた体格がどうしても受け付けられずに挿入できたことはない。
よく言われる同性愛者の結婚の批判として子供を作らない(生産性が無い)からというものがある。
その分、仕事に打ち込んだり養子を取るなど同性愛カップルの結婚を認めることで社会的に利害関係が一致する点は多くあると思う。
けれども、私は違う。そもそもコミュニケーションが出来ないから、人生で恋人というものが出来た時期は一切無い。だから、誰かと人生を共にし…という情緒的に誰かを満たせるような人物では無い。誰も私を選ばない。
ただ溢れ出る性欲を誤魔化すためにネットで知り合った人にお願いをして、男性器を借りている。
めんどくさそうに、けれどもまあ射精できるから会ってくれている、性交の真似事をするだけの知り合いに、性欲の処理を頼み込んでいる。その人は妻子持ちだそうだ。
だから、「子供を育てる、作る」「誰かを愛するという形で情緒的に支援する」能力も私には無い。
次に、うつ病を患って、もう2年になる。
職務はこなせているのに、気分的に相容れないとよく言われる。なんで雇われたの?と何度聞かれたか。
そうして私はもう2年、ほとんど外から出れずにゲームと読書とインターネットで日々を終えている。
性格が悪くても仕事が出来てればまだ社会の歯車として存在価値があると思っていたのに、心が折れて、ついに職務にも就けなくなってしまった。
ひとつひとつはマイナス面もあればプラス面もあるようなマイノリティなものたちが、全て降り積もって打ち消しあってマイナスだけが残り負のエネルギーのみとなった人間が私だ、私こそが生産性のない人間だ。
ここまでして私は生かされる権利が本当にあるのだろうか。
いつか社会へと戻り、どうにか何かしらの形で何かに貢献できることを期待されているから生かされているのだと思うと緊張で眠れなくなる。
生活保護をもらって、生きるというのは罪悪感が募る。
みんな、税金を、私を生かしたくて払ってるわけじゃ無いのに…。
私に使うならその分をインフラ整備とかに使った方が多くの人へ還元できるのだ。
でも、でも、私は行きたくて保護を求めてしまった、生かされている、生かされてしまった、生きてしまった。
悲しいかな、どうせここまで必要がないならもう自我とかも手放せたら、狂って何もかも無頓着にただがめつく生きられるほどの厚顔無恥さを手に入れられたらまだ救いがあったのに。
私の精神は、自分の社会評価を正しく見積もれる程度には、考える力だけは残されていたのであった。
今私がするべきことは、社会へと速やかに戻り、仕事において何か貢献をすることである、税金を払う側に戻ることである、けれどそれもまた崩れて働けなくなるビジョンばかりが見える、また働けなくなったら?
誰かを、愛したり、エモーショナルに鼓舞したり、エンターテイメント的に楽しませたりする技量もない私は、どこへ?
今日も、息をしている。
私は、誰かを愛することもできず、誰かに好かれることもなく、誰かを好けば拒まれる。
子孫も残せず、むしろ残さない方が好ましい因子を持ち、仕事などで貢献もできずただただ生きている。
私、なんか見落としてたりしないかな。
青い鳥みたいに近くにあるのに気づけないとかそういうオチとかストーリー性とかそういうのいいですから何か私が生きている意味、生かされている意味について誰か何か教えてくれませんかね。
今の私の見えてる状況を分析すると、
痛くなければ、失敗の可能性が無いなら、そしてできることなら遺体の処理も簡単な状況で死ねるなら、死んだ方が世のためなんですよね。
何が起きるかわからない未来に期待、なんて思いながら30歳目前です。少なくとも心ときめく瞬間は、この人生にはありませんでした。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
日本優勝という華々しい結果で幕を閉じた2023年WBCだが、一部である選手同士の仲の良さが話題になった。
いつもじゃれあっているような微笑ましい動画が多数youtubeやTikTokなどのSNSに投稿され、人気のようだ。
コメントは大喜利大会となりネタが溢れるのだが、ごく一部異様なものを目にする。どうやらその選手たちが本当に同性愛だと思い込んでいるようで、あの行動は浮気、あの仕草は息を吹きかけているとか、選手の一挙手一投足を同性愛に結び付けてつとつとと自分の脳内設定を書き連ねているのだ。何度も頻繁に。
なかなか伝わらないが、実際にコメントを見るとその不気味さが分かると思う。
スティーブン・キングの「ミザリー」以前、ある日本の小説家がエッセイか何かで語っていたことだが、新聞に連載している小説に熱心に感想を送ってくれるファンがいたそうだ。特にある登場人物に執心していたらしいが、それが自分の気に入らない状況の展開になると激しい怒りの手紙をよこしてきて気味が悪かったという。
また以前、ある漫画の登場人物が処女でないと判明した時、怒りでその漫画本をズタズタにした画像をSNSに投稿した者がいた。
要するにフィクションやエンターテインメントの世界に自分に都合の良い設定を投影しそれに浸りきり、自分の空想世界と現実世界の境界分けができない。冷静に指摘されたり、現実に自分の設定通りでないと知ると異常に怒り狂うという「ミザリー」は昔から少数存在する。
「ミザリー」が自分の設定通りではない現実を目の当たりにした場合、どんな狂気に走るのか…
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
「自分は空想の子供にしか興味がないと思っていたけど、現実の子供もいけるのかもしれない」と気付いてしまうことは、「自分は異性にしか興味がないと思っていたけど、同性もいけるのかもしれない」と気付くのと同程度にはありうるだろう。セクシュアリティというのは流動的なので、異性愛者がある日から同性愛に興味を持つように、非対人性愛者がある日から対人性愛に興味を持つことも、絶対に無いとは言いきれない。
一方、「自分は現実の大人にしか興味がない」という人は、そうしたセクシュアリティの変遷を経験することなく、「現実の子供に興味を持つ」ことができてしまう。「子供は好みじゃない」と嘯きながら、子供たちに「大人のフリ」をさせることによって、擬似的な「成人性愛」を脳内に実現することができてしまう。それが全ての対人性愛者たちの特性なんだよね。
対人性愛というのは、それ自体が差別や暴力・支配構造と不可分な欲望なのだから、現代社会ではもはや許されなくなりつつある。全ての対人性愛者たちは、自分たちの欲望こそがそのような構造を支えてきたのだと反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、一日でも早く対人性愛を卒業することが望まれるよね。
たかが対人セックスを「生物の営み」などと特権化するのは、同性愛を「生産性がない」などと断じたのと同じ価値観ですよね。そういった古い価値観は、現代社会では既に受け入れられなくなっています。
やっぱりジェンダー論の脳の分野で習うように、先天的な男性脳や女性脳の区別ってあるんだね。
異性愛者だって同性愛者に矯正しようと思えばできるけど、そんなの残酷でしょ?同性愛者を異性愛者に矯正することも、やろうと思えばできるけど、残酷だからやってはいけないってだけ。(性自認の話だから性的指向の話をするのはズレてたけど、まあどちらにせよ同じ。)
人を殺すことだって、物理的には可能だけど、やってはいけないでしょ?可能であることと倫理的に許されることはイコールではないよ。
わたしは人間社会の性的役割でも野生動物や虫の群れと同じ部分や彼らから学ぶ部分はあると思っているんだけど、現実ではそれを言うと「動物と一緒にするな」って烈火の如く怒る人が結構いるんだよね。
人間の知性を過信するあまり、何千年規模で世代を重ねて凝縮された野生を蔑ろにするのは違くない?
本当に種族のアイデンティティに出来るくらいの知性の出す結論が男女で同じ椅子の奪い合いすることなら、今まで男女が別の役割を持ってた意味がわからないし。
何言われても動物基準の話は聞かんって人と同性愛は動物にもある系の人、ジェンダーやセクシャルの話だけじゃない断絶があるんだよなあ。
社会構造に関わる議論は横道に逸れるとただの揚げ足取りのレスバになりがちなんだけど、もっと「何故その思想・主張に辿り着いたのか」みたいな部分を開示してる議論の記録はないんだろうか。