はてなキーワード: 公権力とは
【ネタばれあり】
半沢と大和田のイチャイチャが好きで観てた。作品自体は好きだ。
それは今も変わらないが、箕部に公衆の面前で土下座しろっていう罵声浴びせるのはちょっと無いなあと思った。
スクラム固めて囲って大人数で追い詰めて謝らせるっていうのが辛かった。
まあ政治家役だし、汚職してたし、ある程度は仕方ないのかもしれないが、
海外でタイヤネックレスしたり、石投げて私刑で死刑みたいな動画と変わらんやん。
黒崎という公権力も仲間にいるんだからきちんと法治国家として対処してほしかったなあ。(金融庁が何で汚職事件追ってるのかよく分からんかったが)
半沢の正義って何なんだろ。
第9回までも最後は声を荒げるって振る舞いは好きじゃなかったけど、まあドラマ歌舞伎だしと思って観ていたけど、やっぱ最後のあれはないよ。
割と有名なフェミニスト団体のサイトでTERFの主張が無批判に垂れ流されていてビックリしちゃった。
https://wan.or.jp/article/show/9075
トランスジェンダーの人たちに対する悪質な差別煽動だと思うけど、これって次の2つの理路のどちらかでしか正当化できないよね……
1を選んだ場合、まあ自殺だよね。お疲れ様です。今後WANやその周囲の人たちがどんなに女性差別を訴えようとも聞き入れる価値はゼロということですね。
2を選んだ場合、これはかなり強硬な表現の自由を主張しているということになるよね。
表現の自由を掲げてヘイトスピーチの法規制に反対する人は一定数いるけど、彼らの主流派は「ヘイトスピーチはけしからんかもしれないが公権力によって取り締まられるべきではない」と言っているのであって、ヘイトスピーチを積極的に議論の場に乗せてやろうと主張する人は、強烈な差別主義者以外はあんまりいない。
ところが、今回のWANは、ヘイトスピーチに積極的な議論の場を提供してあげたに等しい。これは、「表現の自由戦士」なんて揶揄される人たちとは比べ物にならないほど強硬な表現の自由主義だ。
当然、これを選んだ場合、WANおよびその周囲の人たちは、今後他人の表現に口を出す資格がなくなる。混じりっけなしの本物の差別主義に場を与えておいて、ジェンダーバイアスを強化する表現はいかがなものかとか空想上の性暴力コンテンツはけしからんとか他人に言う資格があるとはとても思えない。
WANはどちらの理路を貫き通すのだろうか。
1を選んで差別主義者であることを開き直るのか、2を選んで表現の自由戦士過激派に転向するのか。それともTERFの主張を肯定的に載せてごめんなさいと謝罪するのか。
どう転んでもフェミニズム界隈は大変なことになりそうですね。まあ頑張ってください。増田はWANのフェミニズム自爆活動を応援しています。
Not All Feministsってやつですよね、わかります。一部の変な人たちのせいで全体に悪い印象がつくのは不当なレッテル貼りですよね!
はてなでは表現の自由が金科玉条のように扱われているように思われる。
あいちトリエンナーレや、ネット上の発信、漫画の規制などの話題では同然にこの言葉が使われる。
しかしなぜ表現の自由はそれほどまでに大事にされているのだろうか?表現とはなんだろうか?
表現の自由は憲法学では精神的自由の中においても優越的地位にあると考えられている。
その根拠として、精神的自由は侵されやすく、また回復が困難である。
では表現の自由はどうであろうか?
まず表現とは人格の発露であり、人が人らしく生きる上で欠かせないものであるとの認識がある。
そのためただ思っているだけでは規制されない人の精神的活動が表現を伴うことで侵害されやすくなるのである。
次に表現内容について考えてみよう。
表現は多種多様であるが、その内容は多岐に及ぶ。そこでここでは政治的な意思と芸術の2つを考えてみよう。
この二つについては関連することも当然であるが、まずは切り分けてそれぞれの側面から見ることにしたい。
はじめに政治的な意思であるが、これが表現の自由において語られるのは、民主制との関連である。
人々は民主制で意思決定をしているが、そこでは人々が各々考え方を示して、それを戦わせることによって収斂させていく。
するとある事柄に対する政治的表現が失われてしまうと、そこから生じる決定からも失われてしまう。すると正しい決定ができない。
またそのような表現を規制することは他の考え方に基づく決定したい人にとっては規制したい誘引が大きく、侵される可能性も高い。
次に芸術的表現であるが、人々は自ら考えそれを外部に行為として表現する。これは人格の作用にとってかけがえのないものである。
こう考えると表現の自由にも内容に差があることがわかる。
これに即した考え方が必要であろう。
書いてて思ったが、今、ネットで語られてる表現規制はこの違いを明確に意識する必要がない気がする。
なぜなら多くが単に自分の気に入らないことを正当化根拠もなく、規制したい人ばかりだと捉えられるからである。
詳細に考えれば、あいちトリエンナーレなんかは芸術における政治的表現をする場について、公権力が表現され、議論されること自体の価値を中立的に支援することの必要性とかが語られるべきなのに、
誤解に基づく単なる気に入らない表現行為を正当化根拠もなく、ただ規制したい人々の話にしか感じられないな。
表現行為の価値と正当化根拠の詳細な検討が行われてるケースなんてどこにもないわ。
これなら単なる意見の相違でしかない(大半は正当化根拠すらない)から表現の自由から考えなくてもいいか。
書いたことで納得できた。
当たり前だけど、自由を重視する俺も、構造的弱者が存在するってことは公正な自由競争を行う条件が整ってないってことなんだから弱者救済には賛成だよ。でもそれは自由で公正な社会のための地ならしであって、弱者の救済そのものが目的じゃない。あくまでそれは手段で、最終的な目標は自由な社会の実現(この手段としての弱者救済を否定するリバタリアニズムには明確に反対)。だから弱者側の要求が自由や公正を脅かすのならそれに反対する。
リバタリアニズムは弱者救済を否定していない。公権力による強権的な弱者救済を否定している。
自分の意志で自分の財産を元に弱者を救済することは何も否定していないし、その行為を称賛する人や何なら賛同して寄付する人もいるだろう。
公権力による弱者救済を否定する根拠は、もちろん自己所有権の侵害(自分の意志に反して自分の財産を接収され、自分の意志に反する用途に使用される)だけど、
もう一つ、公権力による弱者救済のための規制や介入は、市場原理に任せるよりも不効率であるということも大きな理由だし、(何をもって「公正」とするかにもよるけど)リバタリアンにとっては不公正でもある。
また、"実際に"弱者の生活を良くするのは、資産を取り上げてばらまくことではなく、技術の革新である。
例えば、事故で障害をおった人々の生活を"実際に"良くするのは、車椅子や義手の機能改善やロボット技術の発展だろう。
公権力による強制的な財産移転は、資産の集積を元にした技術革新とそれによる生活の向上を阻害し、結局は弱者の生活を良くすることにはつながらない。
現代の富裕層と貧困層の格差は原始時代の格差よりも格段に大きいが、現代の貧困層は原始時代の貴族よりも良好な生活環境に有る。
弱者救済について問題とすべきは相対的な格差の解消(=富裕層から貧困層への資産移転)ではなく絶対的なレベルの改善(=技術革新、安価大量生産)ではないだろうか。
上記は無政府資本主義のようなかなりハードなリバタリアニズムの意見で書いたけど、
よりマイルドな古典的自由主義や最小国家主義では、例えば教育補助のための資産移転なども議論されている。