はてなキーワード: ゼロサムとは
https://note.com/wakari_te/n/n69664c2c07c1
これ、わざとこのタイトルにしたの?
誰だか知らないけど、現代非モテ男性についてここまでちゃんと論じられてるの初めてみた
粗はありそうだけど、無くない?
30歳という1990年世代だからってのもあるかも、この世代じゃないと現代の話は出来ない気がする
非モテに関してYoutubeやnoteでバズることはあるけど大体はてブ巻き込んだ口論で終わるよね、ちゃんと分析まで落ちてるのは稀
この内容、ぜひ色んな人に見て欲しい一方で
きちんと絶望を説明してしまっているので見て何かが解決するかと言うよりは
絶望へ至るまでの紆余曲折をすっ飛ばして絶望に叩き落とすだけなので、見て欲しくないとも思える
まあこれはマクロの話なのでミクロで頑張ろうよ、と思おうとしたらそこまで塞がれてるのはちょっと笑う、お前ひどいな
もはや結局ゼロサムな中で自分はどこのポジションを選ぶかという話でしか無いよね
まあ弱者は選べないんだけど
俺も選べない、心が弱い
そもそも多くの非モテにとって重大なのは、そこまでして改善した先に何か良いものがあるだろうという夢すら消えている点だろう
そこらへんは書かれていなかった
あとはそもそも出会う人数の問題とか、小さい猿山を複数作れば良いのではないかとか、もう少し語れそうなところはある気がする
羅生門思い出すね
その中の「4 性犯罪を理由に"男"を叩く人」に言及する意見は少ない。
そんなふうには思いたくない。
倫理道徳を語る人が、4をするケースはそれなりに見られ、何なら学者さんですらやってたりする。
4をやることはモラル的に問題ないとみなされてるのか、と悲しくなる。何かへの共感が他の何かへの非共感に繋がることが怖い。
こういった個人的感情を吐露すると、属性に絡め取られ、軽重を図られる。
「属性に左右されない」というのは広く共有される理念ではなかったのか。
実際のところ、「属性に左右されない」というのはとても難しいことなのだと思う。
自分と近い属性には共感的になるし、遠くなればそうでなくなる。
これに関して、「公正さ」には種類があるように感じる。
一番難しい「公正」は、「属性に左右されない」ことだ。
次に難しいのは、「属性に左右されることを自認する」ことだ。
実際のところ、みんなはどうあるべきだと思ってるんだろう?
世の中はリソースの奪い合いじゃない、ゼロサムゲームじゃない、みたいに言う人ちょいちょいいるけど、あれが納得できない。
そりゃ数十年単位とか、世代を越えた範囲で見れば人類全体の過ごしやすさは上がってるだろうけど、大体世の中の人はそんな話はしてなくて、一時間後とか来月とか五年後とかの、実生活と繋がってるスパンの話をしてるわけじゃん。
ほんで、そういう時間スパンや、ミクロな個人規模では、そりゃ基本的にリソースは奪い合いでしょ。
手術の順番待ちでどんな人間が優先されるかで生き死にが決まるのに、人類全体の医療レベルはあがって~とか言われても困るでしょ。
スーパーマーケットの棚にどんだけ並べてもらえるかで売り上げが全然変わるのに、棚スペースの奪い合いじゃないわけない。
人材も予算も時間も限りがあるんだから、誰を救って誰を後回しにするかで福祉の奪い合いだ。
テレビの局数も放映時間も番組数も限りがあるんだから、嫌いなコンテンツをどれだけ潰せて好きなコンテンツをどれだけ増やせるかは日々の楽しさに直結する。
まあゼロサムではないかもしれんよ。元の材料以上の価値を生み出せるからな。+15幸福ポイントを取り合うゲームかもしれんよ。+1、+5、-2、+9みたいなゲームかもしれんよ。
それで幸福ポイント+1とか-2とかの立場で満足できますか。私は無理だね。生きてるだけで寿命が減ってく損害を受けてんだから、できれば9点、せめて5点はかき集めたいね。
ある限られた関係においてはたまにwin-winが成立することもあるが、それは麻雀でコンビ打ちやトリオ打ちしたらそいつらは得、みたいな話で、誰かはカモにされてんのよ。
リソースの奪い合いじゃないよって人は、マジでどういうスタンスで言ってるんだ? 他人をカモにするつもりの悪党か、自分がカモと気づかずに仲間を増やそうとしてるしやわせな不幸者か? 好きな作家がろくに広告費かけてもらえず消えていった経験とかがないのか?
https://twitter.com/itoi_shigesato/status/1248078798798483457
https://twitter.com/itoi_shigesato/status/1248079489684267008
ttps://www.ongakunojouhou.com/entry/2020/04/11/185446
mi_ki_ri 糸井さんのツイに反応したものとしてこのエントリは受け止める必要があると思うが、彼は続きに「責めるな。じぶんのことをしろ」と書いておりこれを批判をするなと言う意味に取るのは仕方ないのでは / 2階も
aa_R_waiwai id:mi_ki_ri そうやって「僕たち悪くないもん」「紛らわしいコクミンが悪いんだもん」「自民党支持者が悪いんだもん」を続けてきた結果が「リベラルの敗北」なんだろうな。 政治
2F
mi_ki_ri id:aa_R_waiwai リベラルが勝とうが負けようがあまり興味ないな。そして批判しながら協力することも可能だろう。ゼロイチじゃない。で「責めるな」と「批判するな」はどう違うの?
2Fは現時点で返答なし
厳密に言えば時間という有限のリソースを批判に分けるか、自粛に分けるかという選択になる場合もあるかもしれない。
でも、だいたいの人は批判しながら自粛もすることができる程度のリソースの持ち主じゃないか?
批判するより自粛その他に神経を注げというのは、分からないでも無いが、
両立も可能な内容なんだから、対立するかのように挙げることに違和感を感じる。
政治的な意図があると確定していないのに、政治的な意図でツイートしたと邪推されているという主張が展開されている。
でも糸井さんのツイートを見てほしい。糸井さんが辛いのは一般的に誰かが誰かを責め立てていることであり、
政治批判も(糸井さんの意図がどの程度であれ)そこには含まれる。
「主語がない」言論は「主語がでかい」言論と同様、射程範囲が広すぎる。
意図せずかもしれないが、糸井さんのツイートには十分に政治批判を制限する「機能」があったと思われる。
引用は1番目だけで、2番めに含まれている「批判を制限する」部分を認識していないように見える。
俺がブコメでそこを書いたのも、1番目だけを見て判断されては公平ではないと思ったからである。
「僕たち悪くないもん」「紛らわしいコクミンが悪いんだもん」「自民党支持者が悪いんだもん」といった文章と俺のブコメが等価に扱われているが、
ちょっとショックなんですけど。
まず俺は「このエントリは受け止める必要があると思うが」と限定付きながら責任を負う意思を示している。
会話になっていない。
ブログ主の人が引用していたような誹謗中傷になる書き込みは俺も悪いと思う。
誰かが炎上して意地悪な誰かがひどいことを書くという、まあ見慣れた流れだ。
それをもって誹謗中傷勢の責任までリベラルが負うのはおかしくないか?
はてなブックマークで見るいわゆる「はてサ」の人たちはむしろ嫌いだし
たぶんリベラル側で俺を受け入れてはくれないと思う…
大学時代の特定のフォローしている男が、自殺を仄めかしていてクソクソムカついたのと、それに反応してか自分だったらこのときこうするだろうなということを考えたので、少しばかり文章にしてみることにする。他人の不幸は蜜の味とはこのようなことを言うのだなと思うところもあるが、そこは堪忍してほしい。
気の持ちようというもの究極的な形式は人それぞれなのだが、少なからず自分の場合は、外的要因としてはいい服や物を購入して、使用することで気分がよくなることがわかった。このことに気づいてからは気分転換や精神衛生のことも兼ねて、できるだけモノを購入する際には、良いモノを買うことにした。お金はかかるけれども、結果として、割と余裕を持った生活ができているし、良くも悪くも使用したり纏うものは心を支配するということを、社会人になって、かつ、同世代と比較して心の余裕が保てていることを考慮すると、できているのかなという思いがある。
内的要因はなし崩し的に崩壊していくものなので、特効薬はないのは事実である。そういうときは、時間が解決すると思ってとにかく耐えている。もし、どうしても耐えられないと思ったときは、周りに撒き散らせばよいということを、社会人になってから覚えた。私みたいな小僧でも戯言を聞いてくれる人はいるし、返し方はわからないのだけど、そういう人は大事にしたいと心から強く思っている。猫ちゃん、はるさめ、阿部嫁、阿部りょうちけは誰に紹介しても恥ずかしくない。加えて常山、まなりん、林毅、横町、輿くん、内定は辞退してしまったけれど早川、川上さんなどのLINEの同期たちと、範囲は変われど相談できる相手はたくさんいることに、どういうわけか社会人になってから気づくことはできた。社内でもNTTチームの皆様は、北川さんや加藤さんを筆頭に信頼できる人たちばかりである。
彼らには幸せな姿を見せることが恩義だと思うし、それは自分で手に入れなければならないことだなということも、強く思う。この人達のためにも、だめな自分でも幸せを手に入れたいと思っている箇所は幾ばくかある。ただ、ここで肝心なのは、幸せなフリをするのではなく、本当に幸せになることだと思っている。それができなければ、彼らに返す顔もないだろう。
畢竟大切なことは何かというと、とかく凹むときは凹んで、恢復してきたときに他のものに意識を向けることが冷静さを取り戻すことなのではないかと思う。前の彼女のことは今でも思い出すことはあるけれど、当時の自分だったら別れて当然だったのかな、という思いはある。そして、他のものに意識を向けるためには、物じゃなくて飯でも運動でも人でもいいし、正直なんでもいいと思っている。そして、大学院時代の恩師の一人から教わったことでもあるのだが、もし一つ詰まっても他の選択肢があると思える環境を作ることは、常々心がけている。何かがだめになったときにすべてが駄目になるわけではない。そういう心の余裕というものも、大事なことなのかなと思っている。
26年という短い人生経験のうえで語ることは烏滸がましいことであるが、人間、生きていれば駄目なときはあるし、幸せなときは幸せを思う存分享受すべきだと思っている。辛いときはなんで辛いのかもわからず、路上で泣き出してしまうときもあるが、生きてさえいればよいことはある。特に私はゼロサムで物事を測る傾向があるところがあるので、これまで辛かった分、これからの26年は幸せなことが待ちわびていると思いこむようにしている。外から見たら美人ではなくても心の底から愛せると思える女性に出会えると思っているし、仕事でもグローバルに大きな活躍ができる可能性がある環境にいる以上、絶対に成功できると思っている。辛いときは辛いし、楽しいときは楽しい。それだけは忘れずに、自殺なんてすることなく、天誅を全うしたいと、いまは強く思っている。