はてなキーワード: アボリジニとは
リュウゼツラン属のこと。この名称は、小型の鑑賞用のものにも用いられる。糖分を多く含み、甘味料としたり発酵させて酒にしたりした。プルケやメスカルがそれだ。テキーラはメスカルの一種。また、その繊維から縄を作ったり、燃料にしたり、屋根をふくのに用いたりもする。葉を絞った液体は石鹸としても使える。花茎は、剃刀の革砥代わりとなり、花茎は管楽器のディジュリドゥにも用いられ、高く評価されている。
ディジュリドゥとはアボリジニの金管楽器である。木製ではあるが発音原理から木管楽器ではなく金管楽器に分類される。シロアリに食われて筒状になったユーカリの木から作られ、それにまつわる複雑な儀礼がある。女性が触れると妊娠する、いや不妊になる、などといった信仰がある。その名を出したり、楽器を見ることさえ禁じられている、特殊な儀礼に使われる特殊なディジュリドゥもあるとのこと。ディジュリドゥはその音を聞いたヨーロッパ人がつけた擬音語の名前だ。ラッパのことを「ぷっぷくぷー」と名付ける感じか。先住民たちは様々な名前で呼んでいる。現代は、ポリ塩化ビニル製のものもあるとのこと。
ちなみに、何で金属じゃないのに金管楽器と呼ぶのかというと、演奏者の唇の振動によって発音する管楽器が金管楽器の定義だから。奏者の唇の振動によらない方法で発音するのが木管楽器。
従動で人を投げ飛ばしたら
死んじゃった
と誤った。
そう、この程度 そうね。
思った、思わなかった。
そうね。
2年間延々とそういう感じ。子の程度は良い。まぁ、そのひとにとっては、この程度。しょうが無い
従動で、投げ飛ばしっていい。
県道でぶっ叩いてい。
そりゃ、その程度。。訓練だからいい。
訓練だからいい。
しょうが無い。50年間、そうだった。
この程度。
オタクは異常S問Yがバウ、
えたひにん、アボリジニずっとやってきた。自分がやられたとして、しょうが無い。 これが 現実。
その人達の子供と、その人達さ、政権を取る。そうすると、たしかに、それが普通。
平成の30年より長い。すこしちがうけど、ことばがわからないから。
ありがおつ平成
一番ひどいのは最下段。
「そんな人々を座らせて次世代ゲームをやって見せたところ、わたしがコントローラーを渡すまで、彼らはカットシーンを見ているのだと思い込んでいた。私は『違うよ、欧米ではこれをプレイするんだ』と言ったんだ」
なんて書いてる。どんな層だろうこれは。
オーストラリアのアボリジニをシドニーに連れてきて説教でもしたのか?
日本人ゲーマーがいかに視野が狭く、世界のゲームをやってないかとかほざいてんの。
日本はまだ袴を履いていて、下手すれば烏帽子を頭に乗っけてるらしい。
NINTENDOのNESが世界を席巻してアタリやテンゲンは敗北し、後20年以上和ゲーの天下だったこともなかったことにしたいらしい。
お前ら白人の単調なFPSを数作何時間やったって何も変わりゃしない。全部同じだ。
荒々しいグラフィックと奇抜なアイディアとずさんなバランスしかない。
それが洋ゲーのくだらなさであり魅力だったんだろう?
それを捨てて美しさ一辺倒に陥ったお前らのゲームに何が残る?
今はウルルと呼ばれるあの巨大な岩。
今回の死亡事故で知ったよ。
で、今は登っちゃダメなの?
ダメじゃ無いよね?
法律的に問題ないのであれば登ること自体は責められる理由はないわけだ。
アボリジニはオーストラリアの法と民族の法、いずれも尊重してベストな解を模索して来た。そんな中民族法だけを偏重し登る奴を叩くのはアボリジニに対して大変失礼である。
また、彼の年齢的に自重すべきという話だが、それは個々人の責任よりも、ロクに基準を設けず入場券を発行した公園の責任者にある。実際、「体調バッチリで登ってね👌」程度の警告があるだけで、年齢制限はおろか審査自体ない。
彼は今回不幸にも命を落としたわけだが、彼の行動自体は問題のないものとしてみるのが勝ち馬に乗れるというのが自分の見解である。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180131155044
もちろん、人間と動物は違うし、白人と黒人は違うし、男と女は違うし、わたしとあなたは別人です。では、わたしはあなたを差別してもいいのでしょうか? もちろんよくないですね。違っていることは差別の理由にはなりません……という話です。
1)他でもいっているが人間中心主義的なフェミニズムは十分にありえる 2)倫理的ヴィーガニズムは、「苦しみを感じる能力」を基盤とした能力差別主義といいえる 3)利己的遺伝子論の取扱 あたりをどう考えるか
「人間中心的なフェミニズムはありえない」って誰も言ってなくないです? 「人間には動物を支配し搾取する権利がある、なぜなら人間と動物は違うからだ」と「男には女を支配し搾取する権利がある、なぜなら男と女は違うからだ」って論理的にまるっきり同じですよね? その理屈を無邪気に肯定していいんですか? っていうのが大元の問いでは。
人間も動物も同じであるというのは「生物学的正しさ」ではあるが「政治的正しさ」ではないだろう。この2つの正しさを直結するのは危険な気がする。
「生物学的に男女は同種だけど女は政治に向かないから選挙権は男だけでいいよね」っていうのが政治的正しさだった時代もあったんですよ……
権利を持つべき存在が日々虐待され殺され店に並び、多くの人が喜びながらそれを消費し、彼らの権利を守ろうとする主張が反差別運動をやっている人からも冷笑・嘲笑される状況って、そりゃ実際の性暴力・性差別被害とは比べ物にならないとは思いますが、「混ぜっ返し」といわれるほど軽いものじゃないと思いますよ。それを軽いといわれたら、性暴力被害とは縁遠いけど性暴力被害者の話を聞いてなんて酷いんだって憤ってる人の義憤には立つ瀬がないです。
「僕は人種差別に反対だから黒人奴隷は使わないけど、君が黒人奴隷を使ってる分には構わないよ」なんてニコニコしながら言う「寛容な」人がいたら頭おかしいと思うでしょ? 「おれが肉を食うのは自由だろ?」って言われた時のヴィーガンの気持ちがそれだと思うんですよ。
その理屈だと重度の知的障害者は差別してもいいってことになっちゃうのでは……? あと、「アフリカ人の奴隷は何考えてるかわからん」って言ってる南部人たくさんいましたよね。
面白いし似たようなことを考えてもいた。でもね、どんな崇高な思想であっても、他人との差異を認められない人や思想を他人に押し付ける人が主張してるかぎりはどうでもいいもんなんですよ。
「黒人は奴隷にしていい」「女は好きに犯していい」という思想って、考え方の違いで認められるんですか? 「僕は女性に性暴力をふるうのは反対だけど、君がふるうのを尊重するよ。個人の自由だからね。僕の思想を押し付けることはしない」って言ってるやつかなりサイコパスみがありません? 賛同しろって言ってるんじゃなくて、ヴィーガンにとってはそれくらい切実な問題だって理解したらどうだ、って話です。
どうしてそうすぐに正しいだの敵だの言い切ってしまうのだろう。グレーでいいじゃないの、心に留めて無言でいてもいいじゃないの、日和見主義でいいじゃないの。
こんなのヴィーガニズムへの最大の侮辱ですよ。奴隷にされている黒人と奴隷主のあいだに立って、戦闘的奴隷解放論者は極端だなあ、日和見主義でいいじゃない、なんて言うのは奴隷制の肯定にほかならないでしょう。ヴィーガンの問題意識をちょっとでも想像したらこんな無神経なこと言えないですよ。正々堂々と、あなたたちはわれわれの敵だ、と言明するべきなんですよ。
その理屈に乗ると男性優位社会の信奉者が女性を差別するのもOKって話なわけで、まあ事実その主張って根絶できないわけだが、ええんかいなではある。
せめて「おれは男性優位主義者であり女は男と対等ではないと信じているので確信を持って女性を差別する。この差別は正しい」と堂々といえよっていう話ですね。そっちのほうが、別に差別じゃないしwwwwwとか苦しい言い訳をして差別とそれによる敵対を隠蔽しようとするより遥かに誠実な態度でしょう。
権利は社会を形作るもので、その社会という人間が無法から身を守るツールと、その外と内をどう分けるのかが、等価に思えてしまう人がこんなに多いのはなんでだろうか。そんなに引っかかることか?
その「人間社会」の内外をどう区分するか、って、自明じゃないですよね。アボリジニは人間以下だから追い散らしてハンティングしてやるぜ! アフリカ人は貨物だから船に詰め込むし伝染病が流行りそうになったら生きたまま海に放り込むぜ! っていう時代があって、その頃は「人間=キリスト教徒の白人」だったわけで、そういう時代には「あいつら『人間』じゃないから差別して搾取してよくね?」っていうのが「社会」を維持することだったんですよ。「社会の構成員」の権利を守るためにアボリジニを虐殺しインディアンを強制移住させアフリカ人を誘拐してきた歴史があるわけですよ。で、「ホモ・サピエンスのみに権利を与え、他の種は差別・搾取の対象としてもよい」というのはあくまで現在の社会におけるコンセンサスであって、自明でも自然でもないですよね? 未来にはその内外の線引きが動く可能性があって、ヴィーガンはそれを積極的に外に動かそうとしてるわけです。……これ、そんな引っかかることですかね。わたしには極めて明瞭な論理だと思うんですが。