はてなキーワード: 十倍とは
センテンススプリングの推せる/推せないのやつ、俳優オタと2足のわらじを履く人間としては愚痴垢アンケートと何が違うんだという感じ。
書いてる内容もいわゆる「厄介」のツイートの内容と大差ない。
昔は1作だけトップやってすぐ退団、みたいなひどいジェンヌさんの使い方もあったけど今は長くやられる方もいても大体5作は平均してトップをやるので不遇なトップというのは見えにくい。
「○○さんの良さが分からない」みたいなアンケートもあったけどあなたがその人のことそもそも好きじゃないなら良いところが見えるわけもないわけで…
私は各組チケットが取れれば欠かさず観に行くタイプですが、観る前はこの演目面白いのか?とか○○さんって歌/ダンス苦手だった気が…とか思っていても終わってみればだの演目やスターさんにも良いところはあるし、楽しかったという気持ちで帰ることが出来ている。そんな時はいいところを今まで見つけようとしなかった自分が恥ずかしいとすら思う。
SNSをやられないジェンヌさんだからああいう記事はむしろ目に入ってしまうかもしれない。
何十倍の倍率をくぐり抜けて入団している人ばかりなのだからそんなことではへこたれない精神の持ち主だと思いたいけど、この記事を読んでモチベーションが落ちてしまうことがあったら私は本当に悲しい。
芸能界は好き嫌いより無関心が1番本人にとってのダメージとは言うけれど、こういうのは流石に辛いと思うかもしれない。
ファンのほとんどはちゃんと演目と本人の資質をみているし、少なくとも私はそうでありたい。
皆さんは日本国内トップクラスの満足度を誇る舞台を作り上げている劇団の一員であることを誇りに思っていてほしいです。皆さんこれからも頑張ってください。
出産も育児もなーんも自信もない。まぁよくあるマタニティブルーなんだろうなとは思うけど、辛いものは辛いのでぶちまけることにする。
そもそも凄く子供が欲しかったわけじゃないんだよなあ。できればいいよね~くらいの軽い気持ち。妊娠したって知った時は嬉しい気持ちや楽しみな気持ちもあったけど、不安や心配の方が何十倍も大きかった。つわりも、大きくなって重くて息苦しいお腹もなんで私がこんなつらい思いしなきゃいけないの?って思っちゃう。育児も自信ない。そもそもお腹の子の為に自分の時間や人生犠牲にしたくないと考えちゃう。母子手帳だって必要最低限のことしか書いてない。結局行けって言われた歯科検診も両親学級も行けてないし子の保険とかのこともなんも考えてなけりゃ~お金の算段とかもろくにしてない。これから産まれた時に発生する書類の手続きとか全部めんどくさいしもう何もしたくない。
毎日仕事に行って帰ってたまに贅沢する生活の方がよっぽど良かったんじゃないかなあ。。子供いてもいいかも~なんて軽い気持ちで考えるんじゃなかったなあ。それでも私がこんな不謹慎で情けないのにお腹の中で胎動ドンドコしてるのすげ~な~。
マジでこんなクソみたいな親ですまんな~。。
もう難しいこといわないでっておもう。
N=1,Big
さまざまな会社相手に、さまざまな案件で、さまざまなトラブルが起きて意見交換をする。
ソートを例にして
N=1,Big
をあつかって、アルゴリズムには地域と変域などさまざまな環境要因により特殊解が存在してその調整が
理想的な常用の数倍、コンシュマーとなると数十倍となることがある。
この実装コストは、さらにさまざまなアルゴリズムがあり、それこそ実装コストがN*Nになるようなやりかたもあって、デスマーチと呼ばれる。(ふつうそんなのやらねーよ)
うまくやったひとは億単位の金を45までに(自分の力だろうと、下請けだろうと)稼いで 45歳定年説というものがうまれた。
50以後はきっつい。
吸われないようにするというのは、よく言われる。
ここまで、まtめあげるの、本当に大変だった。15-20年かかった。
最近のインターネットコミュニティは東京一極集中ならぬツイッター一極集中と化した状態だと言って誰も異論はないと思う。
政治家や企業、識者や芸能人、萌えオタクやフェミニスト、児童ポルノなどのアングラまで
はてブのホッテントリはツイッターかtogetterが埋め尽くし、
5chではツイッターの話をソースに立てられたスレッドが多くを占めるようになった。
デマや憎悪を簡単に拡散できてしまうサイトがネット上で最大級の力を持ってしまった。
しかも、流行り始めてからけっこう経つのに全く廃れる兆しがない。
最近のバズりツイートは十数万いいねの数字を頻繁に見かけるようになった。
むしろ人口が何十倍何百倍に増えていることをひしひしと感じる。
「こんなひどい出来事があった」「これは間違っている」「あいつは愚かだ」など何かに憤ったり攻撃したりする話題ばかり。
もともと難読漢字だった「貶す」「晒す」「私怨」はみんな読めるようになった。
センテンススプリングの推せる/推せないのやつ、俳優オタと2足のわらじを履く人間としては愚痴垢アンケートと何が違うんだという感じ。
書いてる内容もいわゆる「厄介」のツイートの内容と大差ない。
昔は1作だけトップやってすぐ退団、みたいなひどいジェンヌさんの使い方もあったけど今は長くやられる方もいても大体5作は平均してトップをやるので不遇なトップというのは見えにくい。
「○○さんの良さが分からない」みたいなアンケートもあったけどあなたがその人のことそもそも好きじゃないなら良いところが見えるわけもないわけで…
私は各組チケットが取れれば欠かさず観に行くタイプですが、観る前はこの演目面白いのか?とか○○さんって歌/ダンス苦手だった気が…とか思っていても終わってみればだの演目やスターさんにも良いところはあるし、楽しかったという気持ちで帰ることが出来ている。そんな時はいいところを今まで見つけようとしなかった自分が恥ずかしいとすら思う。
SNSをやられないジェンヌさんだからああいう記事はむしろ目に入ってしまうかもしれない。
何十倍の倍率をくぐり抜けて入団している人ばかりなのだからそんなことではへこたれない精神の持ち主だと思いたいけど、この記事を読んでモチベーションが落ちてしまうことがあったら私は本当に悲しい。
芸能界は好き嫌いより無関心が1番本人にとってのダメージとは言うけれど、こういうのは流石に辛いと思うかもしれない。
ファンのほとんどはちゃんと演目と本人の資質をみているし、少なくとも私はそうでありたい。
皆さんは日本国内トップクラスの満足度を誇る舞台を作り上げている劇団の一員であることを誇りに思っていてほしいです。皆さんこれからも頑張ってください。
★
要素数が100,200と増えていくと
クイックソートのほうが何十倍もはやくおわるというのが教えてもらえる。
ただし、これには例外があってN=1のときは例外的にすべて1ないし0と考え等しくなることがある。
もしくは特別な処理をする。
こういう例外があるためNの要素が十分小さい場合、きわめて大きい場合は、物理で言うただし、空気抵抗は無視するの空気抵抗がある場合のように異なる理屈を使う
これはとても重要な話で一番最初のころにならっておかないときわめて危険。
『条件によって 今一般的に言われている方式と 異なる理屈になる場合がある。』
これはコンピュータープログラマーが始めのころに覚えてくれ。あたりまえといわれれば、あたりまえなんだけど、事故が大体このへんを原因とすることが多い。
きょうの朝、父から電話が掛かってきた。 実家の愛犬が旅立ったという電話だ。 8時15分に旅立った、と。 もうみんな覚悟はできていたと思う。 12月の頭から、ほとんど歩けなかった。散歩も母に抱っこして連れてもらっていたとのこと。 そのうち1日のほとんどを寝て過ごすようになった。 わずかに起きている時間に、なんとかゴハンを食べさせようと大変だったようだ。 しかし3日ほど前、ついに咳がひどくなってしまい、寝ることもできなくなったようだ。 家族も寝ずに付き添ったが、一晩中苦しそうに咳込んでいたそうだ。 その様子を見て、家族は安楽させようと決意した。 私にも、「もう安楽死させるけん。連絡しとく」と電話があった。 彼女は私が実家を離れてから買い始めた雑種犬だ、 それまで実家では犬を飼ったことはなかったのだが、妹が飼いたいと言い出したらしい。 実家で犬を飼い始めて初めて帰省した日、迎えにきてくれた妹が道中で「あの子が喜ぶよ!」と言ったのを覚えている。 「喜ぶも何も、向こうは俺のこと知らんやろ」と言うと、「弟と同じ事言うとるね」と言って妹は笑った。 その言葉に私はなんとなく閉口してしまった。 実家に着くと、その子はその場でグルグル回ったり飛びかかってきたりした。 犬に詳しくない素人にも分かるはしゃぎ振りだった。 後に分かったことだが、その子は外の物音や知らない人には吠えまくる人見知りの子だった。 どうして一目も会ったったことのない自分が歓迎されたのか、不思議な気持ちだった。 それからはお盆と正月に帰った時だけ、この子と一緒に散歩に行くのが楽しみだった。 「病院の先生が何て言わすか分からんけど、安楽死させようと思う」と電話を描けてきた父は気丈だったが、言葉の端は声が震えていた。 私もただ「分かった」と言うしかなかった。 しかし数時間後、また父から電話が掛かってきた。 「先生が酸素室に入れて様子を見ましょうって。安楽死させようとか、言えんかった。」 なんとなくホッとしたような、バツの悪そうなその声に、ああ、これこそ自分の父だと思った。 それから3日、愛犬は頑張った。 幸いにも咳は止まって落ち着いていたらしい。 だが、もうゴハンは食べてくれなかったとのこと。 だからもうみんな分かっていた。 予想はできていた。 でも、悲しい。 最初に具合が良くないと聞いたとき、もう一回正月に帰るときに会いたいなと思った。 でも具合の経過を聞くうち、なるべく苦しまないで欲しいと思った。 安楽死させると聞いたとき、仕方ないと思う一方、家族の心は大丈夫なのかと心配になった。 自分の考えは常に浅はかで、常に付き添って面倒を見てきた家族は数十倍、数百倍の負担があったに違いない。 あの子が死んだのはとても悲しい。 でも家族に見守られながら、安楽死でなく、比較的安らかに旅立ったことには、 とても勝手ながら、ある意味で良かったと思っている。 もし安楽死をしていれば、家族は今後ずっと悩まされていただろう。 それは安楽死が死の権利として正しいという事とはまた別の話だ。決めた側には、必ず苦痛が伴うものだと思う。 年に2回会うだけの私が悲しいのだから、家族の苦しみはなおさらだ。 今日はクリスマスイブ。 みんな幸せに満ちあふれているような雰囲気だ。 でも実際には人の数だけ、喜びも悲しみもあるのだろう。 誰かの記念日は、誰かの命日でもある。 こんな気持ちはSNSには吐き出せなかったので、ここに吐いてみた。 それでもこういう日は、多くの人にとって幸せな日であってほしい。 とりわけ、子どもにとっては。 メリークリスマス。
8時15分に旅立った、と。>
12月の頭から、ほとんど歩けなかった。散歩も母に抱っこして連れてもらっていたとのこと。
そのうち1日のほとんどを寝て過ごすようになった。
わずかに起きている時間に、なんとかゴハンを食べさせようと大変だったようだ。>
<しかし3日ほど前、ついに咳がひどくなってしまい、寝ることもできなくなったようだ。
家族も寝ずに付き添ったが、一晩中苦しそうに咳込んでいたそうだ。
その様子を見て、家族は安楽させようと決意した。
私にも、「もう安楽死させるけん。連絡しとく」と電話があった。>
それまで実家では犬を飼ったことはなかったのだが、妹が飼いたいと言い出したらしい。>
<実家で犬を飼い始めて初めて帰省した日、迎えにきてくれた妹が道中で「あの子が喜ぶよ!」と言ったのを覚えている。
「喜ぶも何も、向こうは俺のこと知らんやろ」と言うと、「弟と同じ事言うとるね」と言って妹は笑った。
<実家に着くと、その子はその場でグルグル回ったり飛びかかってきたりした。
犬に詳しくない素人にも分かるはしゃぎ振りだった。
後に分かったことだが、その子は外の物音や知らない人には吠えまくる人見知りの子だった。
どうして一目も会ったったことのない自分が歓迎されたのか、不思議な気持ちだった。
それからはお盆と正月に帰った時だけ、この子と一緒に散歩に行くのが楽しみだった。>
<「病院の先生が何て言わすか分からんけど、安楽死させようと思う」と電話を描けてきた父は気丈だったが、言葉の端は声が震えていた。
「先生が酸素室に入れて様子を見ましょうって。安楽死させようとか、言えんかった。」
なんとなくホッとしたような、バツの悪そうなその声に、ああ、これこそ自分の父だと思った。>
幸いにも咳は止まって落ち着いていたらしい。
予想はできていた。
でも、悲しい。>
最初に具合が良くないと聞いたとき、もう一回正月に帰るときに会いたいなと思った。
でも具合の経過を聞くうち、なるべく苦しまないで欲しいと思った。
安楽死させると聞いたとき、仕方ないと思う一方、家族の心は大丈夫なのかと心配になった。
自分の考えは常に浅はかで、常に付き添って面倒を見てきた家族は数十倍、数百倍の負担があったに違いない。
あの子が死んだのはとても悲しい。
でも家族に見守られながら、安楽死でなく、比較的安らかに旅立ったことには、
もし安楽死をしていれば、家族は今後ずっと悩まされていただろう。
それは安楽死が死の権利として正しいという事とはまた別の話だ。決めた側には、必ず苦痛が伴うものだと思う。
年に2回会うだけの私が悲しいのだから、家族の苦しみはなおさらだ。
でも実際には人の数だけ、喜びも悲しみもあるのだろう。
誰かの記念日は、誰かの命日でもある。
こんな気持ちはSNSには吐き出せなかったので、ここに吐いてみた。
それでもこういう日は、多くの人にとって幸せな日であってほしい。
とりわけ、子どもにとっては。
しかし3日ほど前、ついに咳がひどくなってしまい、寝ることもできなくなったようだ。
家族も寝ずに付き添ったが、一晩中苦しそうに咳込んでいたそうだ。
その様子を見て、家族は安楽させようと決意した。
私にも、「もう安楽死させるけん。連絡しとく」と電話があった。
それまで実家では犬を飼ったことはなかったのだが、妹が飼いたいと言い出したらしい。
実家で犬を飼い始めて初めて帰省した日、迎えにきてくれた妹が道中で「あの子が喜ぶよ!」と言ったのを覚えている。
「喜ぶも何も、向こうは俺のこと知らんやろ」と言うと、「弟と同じ事言うとるね」と言って妹は笑った。
実家に着くと、その子はその場でグルグル回ったり飛びかかってきたりした。
犬に詳しくない素人にも分かるはしゃぎ振りだった。
後に分かったことだが、その子は外の物音や知らない人には吠えまくる人見知りの子だった。
どうして一目も会ったったことのない自分が歓迎されたのか、不思議な気持ちだった。
それからはお盆と正月に帰った時だけ、この子と一緒に散歩に行くのが楽しみだった。
「病院の先生が何て言わすか分からんけど、安楽死させようと思う」と電話を描けてきた父は気丈だったが、言葉の端は声が震えていた。
私もただ「分かった」と言うしかなかった。
「先生が酸素室に入れて様子を見ましょうって。安楽死させようとか、言えんかった。」
なんとなくホッとしたような、バツの悪そうなその声に、ああ、これこそ自分の父だと思った。
それから3日、愛犬は頑張った。
幸いにも咳は止まって落ち着いていたらしい。
だが、もうゴハンは食べてくれなかったとのこと。
だからもうみんな分かっていた。
予想はできていた。
でも、悲しい。
最初に具合が良くないと聞いたとき、もう一回正月に帰るときに会いたいなと思った。
でも具合の経過を聞くうち、なるべく苦しまないで欲しいと思った。
安楽死させると聞いたとき、仕方ないと思う一方、家族の心は大丈夫なのかと心配になった。
自分の考えは常に浅はかで、常に付き添って面倒を見てきた家族は数十倍、数百倍の負担があったに違いない。
あの子が死んだのはとても悲しい。
でも家族に見守られながら、安楽死でなく、比較的安らかに旅立ったことには、
もし安楽死をしていれば、家族は今後ずっと悩まされていただろう。
それは安楽死が死の権利として正しいという事とはまた別の話だ。決めた側には、必ず苦痛が伴うものだと思う。
年に2回会うだけの私が悲しいのだから、家族の苦しみはなおさらだ。
でも実際には人の数だけ、喜びも悲しみもあるのだろう。
誰かの記念日は、誰かの命日でもある。
こんな気持ちはSNSには吐き出せなかったので、ここに吐いてみた。
それでもこういう日は、多くの人にとって幸せな日であってほしい。
とりわけ、子どもにとっては。
8時15分に旅立った、と。
もうみんな覚悟はできていたと思う。
12月の頭から、ほとんど歩けなかった。散歩も母に抱っこして連れてもらっていたとのこと。
そのうち1日のほとんどを寝て過ごすようになった。
わずかに起きている時間に、なんとかゴハンを食べさせようと大変だったようだ。
しかし3日ほど前、ついに咳がひどくなってしまい、寝ることもできなくなったようだ。
家族も寝ずに付き添ったが、一晩中苦しそうに咳込んでいたそうだ。
その様子を見て、家族は安楽させようと決意した。
私にも、「もう安楽死させるけん。連絡しとく」と電話があった。
それまで実家では犬を飼ったことはなかったのだが、妹が飼いたいと言い出したらしい。
実家で犬を飼い始めて初めて帰省した日、迎えにきてくれた妹が道中で「あの子が喜ぶよ!」と言ったのを覚えている。
「喜ぶも何も、向こうは俺のこと知らんやろ」と言うと、「弟と同じ事言うとるね」と言って妹は笑った。
実家に着くと、その子はその場でグルグル回ったり飛びかかってきたりした。
犬に詳しくない素人にも分かるはしゃぎ振りだった。
後に分かったことだが、その子は外の物音や知らない人には吠えまくる人見知りの子だった。
どうして一目も会ったったことのない自分が歓迎されたのか、不思議な気持ちだった。
それからはお盆と正月に帰った時だけ、この子と一緒に散歩に行くのが楽しみだった。
「病院の先生が何て言わすか分からんけど、安楽死させようと思う」と電話を描けてきた父は気丈だったが、言葉の端は声が震えていた。
私もただ「分かった」と言うしかなかった。
「先生が酸素室に入れて様子を見ましょうって。安楽死させようとか、言えんかった。」
なんとなくホッとしたような、バツの悪そうなその声に、ああ、これこそ自分の父だと思った。
それから3日、愛犬は頑張った。
幸いにも咳は止まって落ち着いていたらしい。
だが、もうゴハンは食べてくれなかったとのこと。
だからもうみんな分かっていた。
予想はできていた。
でも、悲しい。
最初に具合が良くないと聞いたとき、もう一回正月に帰るときに会いたいなと思った。
でも具合の経過を聞くうち、なるべく苦しまないで欲しいと思った。
安楽死させると聞いたとき、仕方ないと思う一方、家族の心は大丈夫なのかと心配になった。
自分の考えは常に浅はかで、常に付き添って面倒を見てきた家族は数十倍、数百倍の負担があったに違いない。
あの子が死んだのはとても悲しい。
でも家族に見守られながら、安楽死でなく、比較的安らかに旅立ったことには、
もし安楽死をしていれば、家族は今後ずっと悩まされていただろう。
それは安楽死が死の権利として正しいという事とはまた別の話だ。決めた側には、必ず苦痛が伴うものだと思う。
年に2回会うだけの私が悲しいのだから、家族の苦しみはなおさらだ。
でも実際には人の数だけ、喜びも悲しみもあるのだろう。
誰かの記念日は、誰かの命日でもある。
こんな気持ちはSNSには吐き出せなかったので、ここに吐いてみた。
それでもこういう日は、多くの人にとって幸せな日であってほしい。
とりわけ、子どもにとっては。