はてなキーワード: タピオカとは
新しいiPhoneをロボットとかタピオカに例えるのすげえセンスないと思うのね。何々に見えるシリーズの中ではすげぇレベル低いと思う。
ロボットの方は絵を見てあーそだねーとか思ったけど、タピオカにはちょっと見えない・・・
あと、AirPodが出た時の「耳からうどん」ね。信者も面白がって言ってたけど、白くて棒状のものがチョロっと出てるのがうどんっぽい事を揶揄してたんだけど、自分には全然うどんっぽくは見えなくて、傍目から見てて気持ち悪かった。
面白いとか面白くないとかは主観だけど、自分にはなんか、分かるー感がなくて全然乗れない。テレビとかバラエティを叩いている人の気持ちがなんか少し分かった気がするわ
ウイグルのノートとか、虐待死のアレとかについての意見を読み漁っていて
同情や共感というワンクッションを挟まずに、誰が悪いせいでそうなったか話し始めるから○性は怖いと思った
とはいえ、同情や共感が具体的な解決策になることは殆どなくて、「解決」という一点にのみおいてはクソの役にも立たないので
つべこべ言わずに再発防止策について話し始めるのはとても大事なことで
可哀想だねー、大変だねー、辛かったねよしよし、の一連の動作からのタピオカ一服で悲しい事は全忘れ、とかは全く解決には繋がらない
しかし、実際に被害者の立場に立つと、まず求めるのは「誰が真犯人か」という議論よりも「手を取り共感してくれる相手」だろう
犯人がわかったところで、取り返しのつかないことが戻る事はないが、先の人生自分の味方が少なからずいるという事実は大きな助けになる
結局どちらも重要なことで、どちらがより大事かなどという議論こそ、パンティーの役にも立たないのであるし、
それを取り沙汰して異性叩きに使うことになんの生産性もない(と思ったので伏せ字にしてみた)
男性に「共感」が薄く、女性に「解決」が薄い傾向を、どちらが冷酷でどちらが劣っているというような話に繋げてしまうのは軽率で残念な行為だ。
そんなことよりも、どちらかしか持っていなくとも、我々はそれを補いあえるという素晴らしい事実に注目できると良い。
そうして考えてみると、男性が解決し、女性がケアをするという補い合いの構図はよくみられるものだと気づく。男性医師が病を治し、看護婦が看病する。警察の取り調べでは、男性は事実を聞き出す事、女性は相手の心情に寄り添う事、に長けていると考えられている。「女性弁護士が丁寧にお聞きします」のような広告も根底にこの考えを持つだろう。
女性の社会進出によって、解決脳で作られた世界に「共感」という慰めが増えている。被害者にはカウンセリングと自助会を、という動きはこれだ。一方で男性は今まで通りに頼もしく物事を解決に導いてくれている。
このようなジェンダーロールの再評価こそ、フェミニスト、アンチフェミニスト、ミソジニスト、ミサンドリストに必要な慰めであるのだと思う。
のだが
「共感脳男性」「解決脳女性」も世の中には沢山いるし、ステレオタイプな解決型男性や共感型女性にとってもジェンダーロールの押し付けが負担になる。
傾向としては確かに、どちらがどちらに長けているかという事実はある。それを認め合えればマジョリティにとっては幸せなことだ。
だが、現代では「男性はこれが得意でいいよね」「女性はそれが上手で素敵だね」という認め合いが、「男性なら得意でしょ」「女性のくせにそんなこともできないのか」という殴り合いになる。
難しい。
ジェンダーロールは我々の祖先が長い歴史のうちに身につけた生存戦略である。巣作り、狩り、出産、子育て、という一連の生存を分担しあって生きてきた。ジェンダーロールはこうすれば大体上手くいくという生活の知恵だった。
しかし、「大体」上手くいって「大体」のひとが幸せになれればいい社会は終わってしまった。マイノリティの幸せのために、ジェンダーロールはじきに差別として捨て去られるだろう。その良否はともかく、時代の流れとしてはそうなっている。
これからは男性女性ではなく、個人として補い合わなくてはいけない。
難しい。
でもその内適応できるだろう。今はその過渡期に差し掛かっているのだ。旧来のものを捨て、新しいあり方を模索しなくてはいけない。変化は苦しい。けれど「その場所にとどまるためには、 絶えず全力で走り続けなければならない」
人間も社会のあり方も変わるが、それは必要な変化であり必要な痛みであるように思う。ジェンダーロールを捨てることが人類にとって吉と出るか凶と出るか、今の我々にはわからない(少なくとも少子高齢化という凶は出したが)。ただもう変化は始まってしまっているのだ。
今日もまたジャニーズの話になってしまって、無言でお茶を飲んでいた
ああこの人たちがジャニーズの話なんかしなきゃいいのに、と思うが
他人が思い通りにならないことに苛立ちを感じることは、一体何歳になれば卒業できるのか
(この歳までダメだったのだ。生涯このままの可能性の方がが高い)
悲しいことに未だ苛立ちという感情を封殺することが出来ないので、せめて隠し通そうと2人が話している間私は疲れたふりをして無言でいたのだ。(本当のところ拗ねていただけだ)
コントローラブルからは程遠い人生に翻弄され、他人が思い通りにならないことを赤ん坊のように苛立っている自分にも、この無力な人生にもうんざりするし
ただなんの意味もない気がする
きっともっと人間に近い人間に生まれられれば、こんな風に自分から一歩引かずに「どうして私が興味ないってわかってるのにジャニーズの話するの!💢」とか言って不機嫌になれてたかもしれない
そうすれば優しい友人のことだから、私に気を使って別の話題に移ってくれただろう
結局のところ、言うべきことを言わないことで人生が思い通りにいかないのだ
しかし、他人が思い通りに動かないことには苛立つが、思い通りにしたいとは思わないし
幼稚な事を言えば、後から幼稚な発言をした自分にも嫌気がさすことは目に見えている
他者と関わる事で自分を感じるとは言うが、この臆病で陰険で幼稚な人間性を感じたくないから、人付き合いは嫌いだ
人間自体は好きなのだ。話すのは好きだ。人肌も好きだ。副次的に発生する自己の認知が嫌いだ。それは特に、自分と他者が違えば違うほどはっきりと感じられる。
ああなぜ私は私なのだろう。友人すら他者と呼ぶほど他人との距離が遠い。人に心を開かない。パーソナルスペースは広くとりたい。近づいてこないでほしい。肉親の葬式でも泣かなかった。泣くべきだったのに。大事なのだが、大事分の執着がもてない。他人に興味がもてない。そして一応アスペではないのだが、軽度にその傾向が入っているのは確かで、興味のあるフリすらできない。
人は色々なものに執着していられるので羨ましい。好きなものがたくさんあったら幸せだろう。どうして好きでいられないのだろう。その辺のオスを運命の相手だと信じ込んでヒロインになれる動物的に正しい人生があってもいいじゃないか。
羨ましい。他人のことが好きで、興味を持てて、人間と常に過ごすのが苦でなく、同族と群れを作り生きる人々が。
一方で彼らのようになりたいとも思わず、彼らを嫌い嫌悪している自分もいる。
人とは仲良くしたいが、距離を置きたい。でも都合がいい時はそばにいてほしいと思うのだから傲慢だ。自分自身の傲慢さを許容できればよかったのだが、残念なことに健全な精神の育成に失敗した半生のせいで理想には程遠い自分を許すことができない。こんな傲慢な自分を人に見せるわけにはいかないので、他人とは取り繕えるだけの短期間しか会いたくない。
自己の中で色々なことが相反し、それを処理しきれない。処理しないまま傍若無人に生きている人もいて、そうなりたい気持ちと、別にどうでもいいような気持ちと、ああはならないようにしなくてはという強迫観念から逃げきれずにいる。
それはジャニーズを好きになりたい気持ちと(人間の女に迎合したい)、別にどうでもいいような気持ちと(生来興味がないのだと思う)、あんな馬鹿っぽい奴らを(と母がいつも言っていた)奴らを好きになってはいけないのだという観念によく似ていると思う。
どうなってはいけないか、どうしたらダメか、といつも考えるのだが、肝心の自分が「どうしたいか」ということはよくわからない、というかあまりその欲求がない
どうにもなりたくない。
苦しまなければそれで良いのだが、幸せを勝ち取ろうとしない限り+1どころかマイナスに陥るのが人生だろう。(下方婚増田系の増田はその辺を理解していないのではないかと思う)
人生が0に近づければそれでいいのに、漸近線で永遠に0には近づかない。プラスを望む人間は少なくともマイナスにはいないように見える。
生きていくのはよくわからない。あと10分生きること、あと10年生きること、何が違うのだろう。終いには全てなくなる。自分が死ぬことを私は観測できない。よくわからない。この溺れ続けるような人生の意味が。
上へ、水面へと、もがかなければ沈み続ける。
しかし、どれだけもがき続けようと最終的には沈む。早く沈んだほうが楽ではないか。
しかし、それは間違った考えで、世の中というのは皆が正しいということの方が大抵正しい。私だって昔は多くの間違った考えを持ち、それを正しいと信じていたいたが、成長するにつれて自分の間違いのほうが圧倒的に多いと気づいた。
つまりこの死生観は間違いである。少なくとも、幸せな人生を送るためにはニヒリズムを捨て去る必要がある。
だが、ニヒリズムとの付き合いは遡ること幼稚園の頃からのことであり、エラーのように生まれてくるニヒリストの1人が私であった不幸はもう取り返しがつかない。
意味がない人生に、「意味を見出すことが幸せである」と信じながら、見出せずに生きていくのだろう。
世の中に馴染みたい。だがそれにもなんの意味もない気がする。このような思考こそが全く意味がないことであり、今は明治時代のように人生の意味など考えている暇があったらタピオカの列に並ぶのが正義である時代だ。ああつまらない。人など皆死ねばいい。
せめてこの世に絶望することぐらいは否定しない世だったらよかった。しかし、嘆きは文句と取られつべこべ言わずに幸せになるなり死ぬならしろというのが今の世だ。
黒板の上に学級目標の「ポジティブに」の文字に押し潰されそうな気持ちでいた頃から何も変わっていない。
ただ私だけ禅問答のドツボにはまり人生を嘆いている間に、人は実態の幸せを手に入れたり捨てたりしているのだ。取り残されていくように思うが、初めから私は同じところにいなかったようにも思う。