はてなキーワード: シチューとは
このたとえ話、変なんだよな。
料理で例えるなら、知る必要があるのは、材料構成と工程、それに概念(肉じゃがとシチューとカレーを分ける要素は何?みたいな)。
問題が解けないってのは、いきなり何の予備知識もなく、ボルシチ作ってくれって言われるようなもんなんだよ。
机の上に、テーブルビートとタマネギ、ニンジン、キャベツ、牛肉がそろってて、調理する人は選択で悩まない。
調理法も最後まで指示されていて、準備された材料で指示通りに作れば、典型的なボルシチが作れるようになってる。
学校では使い方も教える。
一から丁寧に素材別の調理法、効率的な調理順、隠し味まで教えるはず。
当然生徒は、それをそのまま自分で作ってみるだろう。その場では美味しくできるのではないかな。
これが次に生かせない場合、いくつかの段階が考えられる。
1.材料を覚えていない
2.工程を覚えていない
勉強ができないと思ってる奴は、圧倒的に「1や2の欠如」で、そりゃできないだろうとしか言えない。
勉強ができるつもりで応用が利かない奴は、材料や工程をボルシチ専用に覚えてしまうタイプや、概念で認識できないタイプ。
これはジャガイモの扱い方という認識ではなく、ボルシチ料理専用の一工程として覚えるために、カレーやコロッケのときジャガイモを扱えないとか、
ボルシチという料理の概念を覚えないために、典型的なボルシチしか料理できない。
ジャガイモの扱い方は、あくまでジャガイモの扱い方であって、ボルシチ専用の一工程ではない。
出来る奴は、それらの要素が集まったものがボルシチの料理法であると認識できるし、「テーブルビートとタマネギ、ニンジン、キャベツ」のほかは鳥や魚でも良いと認識できる。
初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想を外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。
なお原文のurlは以下の通り。
http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth
+++++以下無断翻訳+++++
メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメ・エキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画[シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンのほとんど遺伝的に接続された精神[小説『あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界のデジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスのノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線から、ケミカルライトやネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。
いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要なリトマス試験紙だ。このショーを準備する時間がほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入の製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。
既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルにケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンのハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオとシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ、鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。
こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシング・パーソンズやトーマス・ドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的なものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートとアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。
なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワーク、デペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフト・セルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽の自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューターと故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間の努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来の音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギターの黒田晃年、ベースの田中晋吾、ドラムの折田新、キーボードの安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。
誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。
さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本のアイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽のスーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想的シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。
考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソンの言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔いで仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンドが彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。
そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。
イヴ、シャロン、レイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……
+++++無断翻訳終了+++++
言うまでもないがシャロンはマクロスプラスのシャロン・アップル、レイはギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル、投影麗(Rei Toei)である。
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
それもそうだねー。部族によっちゃあ蛆虫でさえ料理なんだしねえ。
でもさ、言い訳臭いけど、自分にとってみればそう言ったものは料理としてカウントされないんだよ。
ゲテモノだよ。まあ要は自分の料理というカテゴリーの狭さを披露してるに過ぎないんだけどねー。
でも、料理って一体どこからどこまでを指すんだろうね。自分みたいに孵化直前のガチョウの卵を茹でたものをゲテモノと言ってしまう人間と、それを料理だと言える人間がいるんだもの。
例えばそれを料理だと認める人が一人でもいるならば料理が成立すると仮定してみるとさ、人間だって料理になり得るわけじゃない。
どっかのシリアルキラーは肝臓シチューを作ったらしいさ。そうなると、一般的な料理の枠組みと、全一的な料理の枠組みとで分ける必要があるんじゃないかなあ。
あと、孵化直前のガチョウの卵って、どういう風になってるんだろう。孵化直前ってことは、当然もう肉体が形成されているんだよね。
羽が生えているんだよね。血とか臓器は、まあいいけどさ。羽とか骨とか食べにくそうだよね。ぽろって口から吐き出すのかしらん。スプーンで掬って食べるのかしらん。
政府統計 平成22年食中毒統計調査 第17表食中毒患者・摂取者数・発病率,病因物質・原因食品別
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_xlsDownload_&fileId=000004030063&releaseCount=1
肉及びその加工品においてもっとも多いのはカンピロバクターによるもの。
表には書いていないが、一般的に鶏肉が原因となる場合が多い。
肉及びその加工品においてカンピロバクターの次に多いのはウェルシュ菌によるもの。
これはシチューなど肉の煮込みで多い。
理屈バカの俺がまったくの初心者がとっつきやすい本を紹介するぞ。
調理に入る前に気分を高める本
現存する料理の原型から考察することで、個々の調理工程の化学的な本質が見えてくる。
たとえばシチューやカレーの"ルー"とはどういう必要性で、どういう技術革新によって、どういう世界で生まれどう発展したのか、という感じの書き方。
これは文化論的なエッセイ。日本人にとって、という視点が強い。
右手に包丁はほとんど読み物だが、これはずいぶんと理屈っぽい。
・大使閣下の料理人 (モーニングKC)西村 ミツル, かわすみ ひろし
技術編
家庭科の実習書あたり。
食品成分表をあわせて読むこと。
応用編
・割合で覚える和の基本 村田 吉弘
割合で味付けを決めてしまうからかなり乱暴だが、味見しなくともそこそこ美味しい味付けになる。
・大好きな炒めもの ウー ウェン
じゃがいも、たまねぎ、にんじんをダシなしで大量に茹でておいて、小鍋に分けて使うとか。
もちろん、毎日火をとおしたり、冷蔵庫に入れたりとかの配慮は必要だけど…
じゃがいもだけ引き上げて、鍋をゆすりながら水分を蒸発させる→粉吹き芋
お湯だけ小鍋にとってインスタントラーメンでもイイ。
こんな最小構成に慣れてきたら、どうせ長時間煮込む(3日とか使い続ける)という意識から、ガラ(豚とか鶏とかの骨)とかスジとか試すようになるw
楽で失敗も洗い物が少なくて済むのがスープ。
野菜を適当に切ってことこと茹でるだけ。焦げたりもしないし、味が薄ければすぐ濃くできるし温野菜のほうが栄養が取れるし
いいことずくめ。
材料が人参とキャベツと鶏肉だけでも、調味料を変えれば飽きないよ。
調味料は顆粒のトリガラスープの素・顆粒のスープストック・パックのだし・味噌をそろえる。
それとトマト缶とホワイトソース缶をいつも買い置きしておくといい。(仕事に差し支えなければニンニクがあると味にぐっと奥行きが出る。ショウガもいいね)
そうすると、同じ材料を使っても、中華スープ・洋風スープ・味噌汁・トマト缶+スープストックでミネストローネと四種類に増える。
辛いのが好きなら中華スープ+キムチで辛いスープにできるし、ホワイトソース缶を使えばシチューにもなる。
全部作るのは大変だから、メインのおかずは総菜を買ってくるとかして、ちょっとずつちょっとずつやればいいじゃないかな。
これからの季節は鍋物もラクでいいよ!
ゴールデンウイーク谷間の30日、東京・太田市場の野菜取引ではニンジンがキロ単価前日比マイナス2円など、軒並み価格下落か維持と1ヶ月半ぶりに高騰路線にブレーキがかかった。先月来の長雨にはじまった今回の野菜高値は消費者のふところに大ダメージを与えたが、ようやくホッと一息つけそうだ。この朗報の裏に、実はとある愛国少年による献身的な奮闘があった。
この少年は世田谷区在住の小学生・たかしくん(11)。たかしくんは4月初めから野菜の高騰に悩むお母さんの姿を見ては心を痛めていたとのこと。「何かできることはないか」と考えたたかしくんが始めたのが
だった。
以来、たかしくんは給食で出た野菜をすべて残すという地道な努力を続けた。サラダの葉もの野菜はもちろん、シチューやカレーに混ぜられた小さなニンジンも見逃さず残したという。途中、モンスターティーチャーの妨害に遭ったものの「よし子先生がやおい同人誌を描いていることを教育委員会にバラすぞ」と脅すなどして、うまくやりすごした。
こうして野菜をしっかり残したことが功を奏し、市場での需給バランスが崩れたことで今回の野菜高騰に歯止めがかかった。「単純な古典経済学ですよ」と、たかしくんは語る。おかげでお母さんにも笑顔が戻ったが、まだ野菜ボイコットの手を緩める気はないと言う。「これからは家でも野菜を残して価格をもっと下落させたい」とのこと。母を想う少年の愛は、野菜農家を全滅させるまでとどまることを知らないようだ。
あるところに赤ずきんちゃんがいました。
学校に行くときも、ちょっと近所を散歩する時も、いつも赤いずきんをかぶっていたので、彼女を知る人たちはみんなそう呼んでいました。
もちろん、家の中でもお風呂の入る時と赤いずきんを洗濯している時以外はずっとその赤いずきんをかぶっていました。
「なんであんたはそんな赤いずきんをかぶってんのよ、みっともない。」
赤ずきんちゃんのお母さんは、彼女の頭を見るたびにグチグチ言いましたが、無理に止めさせようとはしませんでした。
「ママー! ずきんのここ、ほつれちゃったよ。縫って! お願い!」
「どれ? あー、そうねえ。ずっとかぶってるからよ。ほら、やってあげるから脱ぎなさい。お風呂沸いてるから入ってらっしゃいね。」
「うん! わかったー! よろしく!」
むしろお母さんは赤ずきんちゃんに協力的でした。
赤ずきんちゃんの赤いずきんの洗濯も修理も、全部お母さんがやってあげていました。予備の赤ずきんもたくさん作ってあげました。
赤ずきんちゃんの家にはお父さんがいませんでしたが、お母さんが赤ずきんちゃんをとてもかわいがっていたので、赤ずきんちゃんはとても素直な女の子に育ちました。
「この間は黄色いワンピースだったわよねぇ……。赤と黄色で、私やめなさいって言ったのに、あなたったら聞かなかったじゃない。」
「それでケンジに笑われたのよ。だから、今度はお母さんの意見を聞こうと思ったの!」
「赤いずきんのせいで、何着ても台無しなのよねぇ。この白いブラウスはどう? これに赤いスカートを合わせて……。」
「それじゃいつもと変わらないよー。それより、ねえ、お母さんのあの下着借りてもいい?」
「何言っての、この子は。ダメ。まだ早いわよ!」
「だって、もしもってこともあるじゃん。」
「ダメ! バカなこと言わないでよ。」
「わかったって。冗談だよ、冗談。でも、キスくらいならいいでしょ?」
「そうねえ。ケンジくん? 今度うちに連れてらっしゃいよ。」
「まあ、そのうちね。」
赤ずきんちゃんたちは、女二人、とても仲良く暮らしていました。
次の日、おろしたての真っ赤なずきんをかぶり笑顔で出かけていった赤ずきんちゃんは、目を腫らして帰ってきました。
「あら、どうしたのよ。ふられた?」
「……うん。」
「あらあら、気の毒にねえ。」
お母さんは笑いながら言いました。赤ずきんちゃんは、まったく気の毒そうな顔をしていないお母さんを恨めしそうに見返しました。
お母さんは意地悪そうに言いました。
「赤ずきんのこと言われたんでしょ。」
その通りでした。ケンジはデートの最中に赤ずきんちゃんの赤いずきんを脱がそうとしたのです。
「ケンジってば酷いんだよ。いつも私のこと可愛いって言ってくれるのに突然、そんな赤いずきんは脱いでもっと可愛い髪型にしたらどう? なんて言ったの!」
「女のオシャレに口を出す男なんて、ろくなもんじゃないわね。」
「私が嫌だって言ったら無理矢理取ろうとして……。私が本気で嫌がってるのがわかったら、このバカ女って! 突然怒鳴って! 置いてきぼりにしたの!」
お母さんは夕飯の支度を中断して、赤ずきんちゃんの話を聞いてあげていました。
「あーあ、どうして私、あんな男、好きだったのかな。」
「よしよし。そうねえ。なんでかしらねえ。」
いつの間にか赤ずきんちゃんは泣き止んでいました。
仕事嫌いだ!
でもやめるの怖い!
やめるの怖いよう!
助けて
ほんとに、どうしたら、こんな生活から
抜け出せるんだろ。
そしたらよくなる保証なんかないってみんな言うのに
そうしないのはダメ人間なのはなんでだろ。
自分ができない蛮勇を人にさせて、
それで、人を落として、
陰で笑って、そんなん楽しいかな。
止めたいけど
止めるの怖い。
動き続けるの疲れた。
けど怖い。動けなくなる日が着て、
強制的に仕事止めざるをえなくなって
そしたらそこに真っ暗な世界があるのかなあ
意外と光に満ちてたりするのかなあ・
どっちでもなくて、
なんかウスぼんやりとした
どうしょーもない世界なのかなあ
なんかどれでもない気がする。
仕事いやだな。
恋人に会って、ソファでだらだらしたいな。
シチュー煮たいな。
洗濯したいな。
買い物のあとにすごい罪悪感しか残んないのにね。
どしてこうなっちゃったのかなあ
恋人に会って、ソファでだらだらしたいな。
どうしたら会えるかなあ
仕事やめても会えるかなあ
男だが、「男の料理」という言い回しが嫌いだ。炊事に女も男もあるものか。それだけのことである。あと舌の狂ったキッチンドランカーがめちゃめちゃな味付けを行ったり、食後の後片付けを誰かに押し付けたり、これを正当化する際のキーワードとしても用いられる。あと、世の男性の料理長たちは、男以外の何かなのか、という話でもある。
共働きならば、先に帰宅した方が台所に立つのが正しい。家事分担にこだわって、無駄に空腹の時間を過ごすのはアホの典型であるが、あるいは、そもそも分担がうまく機能してない証拠である。もっともこのことは、あらゆる家事に通用する。課題は見つけた方がやっつける。ただ、食後の皿洗いのようにスタートラインが同じ場合は、どちらが行なうか交渉できる。積極的に交渉を持ちかけることができる関係もまた良し。
また独り身でも、経済的栄養学的スキルアップ的に、炊事が有意義であることは言うまでもない。昨今金欠なのは一部を除けばどこも同じと推察するので、安い食材でもってうまいことやるのが、妥当な選択というものだろう。料理は愛情ではない。技術だ。
話はずれたがそろそろメシ時である。今日は何を作るか、などと考えながらレシピサイトを眺め、近所のスーパーに売ってないような食材を選択することは、アホである。もとより冷蔵庫の中身は、おおまかにでも常に把握しておくべきだし、把握を容易にするため、無駄に買い溜めしないことも重要である。それでまず最初に、冷蔵庫には何か残っていたかと、帰り際に考える。
次に帰り道の途中にあるスーパーに入る。このスーパーは、時々どうやって食うのかよくわからないものを仕入れてたり、予告もなしに特定食材の一斉放出をはじめる。少々ネジの外れた店である。よくわからないものを売ってた場合は、新しい調理法を知るチャンスとなり、かつ普通のおばちゃんたちは、よくわからないものは買わないので、自ずと安く出ている。先日は加熱用の牡蠣を大量放出していた。よくわからないものではないが、我が家として珍しいものであることは確かである。馬鹿に安いのが気になるが、ワケあり品を出して人死にでも出ては店が大変なので(ちなみに身内に牡蠣アナフィラキシーがいる)産地を見た上、その可能性を排除した。単に大量に仕入れたということなのだろう。恐らくこの日は、この町内のあらゆる家庭が牡蠣を食した。
またこの時、牡蠣にはトマトだろう、という怪電波を受信。自分の記憶のどこを探してもこの組み合わせを食べた話も作った話もなかったが、恐らく深層に眠っているのだろう、ということで、その場で携帯から「カキ トマト レシピ」などとぐぐる。数多の事例が見つかったので、この組み合わせはアリということだが、この段階では何を作るか留保したまま、とりあえず激安牡蠣と激安トマト缶を買って帰る。ところで、食材の組み合わせにアイディアが欲しいとか、疑問がある場合はここなど参考になるかも知れない。どう料理するかはさておき、理論上の可能な組み合わせが列挙されている。牡蠣にトマトは言うまでもないらしく、言及なし。
帰宅後、再度レシピをぐぐるが、実は帰宅するまでにトマトシチューにするということで肚が決まってしまっていた。残念ながらそのものズバリのレシピは見つからない、というか時間もないし、そのものを作る気も一切なかったので、いくつかのサイトを流して、牡蠣の洗い方やら鍋に投入するタイミング、使用する調味料やハーブなどに関する大まかな傾向を把握する。ハーブはそのものが手持ちにないことも多々あるので、暇なときにwikipediaで共通成分を見たりしておくと代用が効く。
あとは実行しながらその都度工程を考える。鍋に火を入れ、加熱すべきと思われる順に野菜を切って投入すると、少々焦げが出てきたので、少しの酒を入れて焦げ付きを回避、かつ焦げ味を回し、進展が見られなくなったところで牡蠣とトマト缶をぶち込み、味が濃くなりすぎないようあれこれを少しずつ足し、タイマーを数分かけ、その隙に他の事を行い、タイマーが鳴ったら再び様子を見て、さらに手を下したり下さなかったりして、よきところで火を止め、あとはメシ時までフタして放置した。実技は適当なもんであるが、断じて「男の料理」とは言わない。
食べる時は、自分で作ったから自ずとそうなるが、単に美味いか不味いか、というよりは、個々の食材の味がどのように按分されたかを分析してみたりする。例えばこの時は、牡蠣を入れるタイミングがちょっと早かったかもしれない、などと思ったので、これを記憶しておくと、あとで使えるかもしれない。また同じような分析を、外食の際に行うことにも意味がある。料理の種類によってはかなり難しいが、タイ料理なんかでこれをやってみると、かなり色々なことがわかって面白いと思った。
増田は、火加減が弱すぎたり強すぎたりしないか?
テフロンのフライパンなら、基本は中火を少し弱いくらいでいいと思う。
火が強すぎる証拠。
「香りが立つ」のが目安なんだから、ちゃんとフライパンが暖まったら、
ジクジク中火以下の30秒で良いんじゃないか。
で、逆に鍋の水気を飛ばすときには、強い方がいいけれど、
それだって中火と強火の真ん中くらいじゃないと、鍋底で焦げついてしまうことがある。
業務用のコンロに、鉄鍋でも使えば、なんでも一度に放り込んで
強火で一気に火が通るんだろうが、家庭だとどうもそうはいかないよね。
俺は、カレーでも焼きそばでも何でも、具材はそれぞれ、別にいためてる。
フライパンに複数の素材、それも大量にモノが入ると、失敗のもとだから。
で、カレーなら順番にシチュー鍋に放り込んだり、焼きそばなら最後に一緒にする。
料理本だと、カレーはシチュー鍋で具材を全部いためて、そこに水を足す、というのが多い。
ルクルーゼみたいな厚手の鍋ならいいんだろうが、うちの薄手の鍋では絶対無理だ。
「煮込む」ということがあまりできないので、