授業をするにあたって、
皮剥き器を買って、使い方を身につけろ!
どういうことかというと、
「授業ではわかるんだけど、自分で解いてみたら、解けなかった」
そういう経験あるでしょ?
授業を聞いて、先生の解き方を聞いて、
「たしかに解けた!」ってなっても、
たとえ話をすると、こういうことです。
「人参の皮剥きはめんどくさいわよねー」
という話から始まって、
あるところで、
「ちょっと奥さん!」
と、こうくるわけです。
「この皮剥き器を使えば、あっというま!」
ね、実演するわけ。
で、お客さん、「うわーすごーい。簡単に皮が剥けた!」となる。
で、お客さんは、皮剥き器を欲しくなって買うわけじゃないですか。
でね、でね、話し戻すよ。
授業で、先生が「こういうふうに考えると、解けます」となったときに、
あなたたちが「うわーすごーい。簡単に問題が解けた!」となったら、
「こういうふうに考えた」
「こういうやりかたがある」
「背景となっているのはこういう知識」
という部分ですよね?
問題を解くための道具ですよね?
その道具の使い方ですよね?
それを持って帰らないで、
ただ「簡単に問題が解けた!」っていう
結果だけ持って帰ったら、どうなりますか?
それってさっきのたとえ話でいうと、皮剥き器の通販なのに、
値札ついてるものが商品だもん。
値札もついてません。
授業の時にね、君たちは、
ついつい、結果の方に目を奪われて、
「解けた!」ということに満足しちゃったり、
あるいは
「うわー間違えてた、ショックー」
みたいな部分に囚われたりしてね、
「どうしてこういう考え方をしたのか」
というね、
皮剥き器を買って、使い方を身につけろ!
ってことです。
ちゃんと、自分で使ってみないと。
同じやり方で、自分で問題を解いてみる。
商品買っただけで満足しちゃうってのは、
ちゃんと、自分でやってみて、使い方も身につけてください。
でね、
もうちょっと広い視点の話をすると、
点数がすべてなんです。
どういうふうにやるのか?
どうしてこうするのか?
ね?
僕らが自分の意志でもって変えられるのは、
いやね、剥き終わった後の人参を買う、結果だけ手に入れる。
確かにね、例えばレストランで食事するってのは、
食事という結果だけ手に入れてるわけだし、
誰かにやってもらって、
その成果を自分が使って、
でもね、もう言わなくてもわかってるでしょ?
まさか、君たちはそういうことを望んでるわけじゃないでしょ?
「こういう知識が必要です」とか
「これこれこうなので、こういう方針で解いていきます」とか、
いいですか?
皮剥き器を買って、使い方を身につけろ!
これを意識して授業に望んでください。
このたとえ話、変なんだよな。 料理で例えるなら、知る必要があるのは、材料構成と工程、それに概念(肉じゃがとシチューとカレーを分ける要素は何?みたいな)。 問題が解けない...
生徒のレベルが高い教室では、 そっちのほうがいいと思います!