はてなキーワード: 広告屋とは
「炎上」についての否定的な意味(悪いことでバズるとか、損害を被るとか)が捨象された使い方がそのうち定着する
なぜか
YouTubeやまとめサイトでよく見られる低偏差値な広告でそういった用法がよく見られるからだ
最初は広告屋が敢えて「炎上」=バズ という価値を込めて用いているのかもしれないと思っていたが、どうも違う
というのはあれらの類の広告では、日本語教育の提示する規則から離れた、ゆらいだ言葉遣いがたくさん見られるからだ
おそらく既に「炎上」=単に大いにバズること という解像度で語を使う人間がいくらかいるのだろう、少なくとも、広告をつくる側にもそういった人間が出てくる程度には
インターネットを駆使している人間たちにとっては想像しづらいことだが、おそらく「炎上」という言葉を経験でもって理解する人口というのは実際のところそんなに多くないのだろう(時代が進んでも炎上する若年層が絶えないのはこのことに原因の一端があるだろう)
マジで!?ヒラリーって意見を求められると途端に口ごもる、おとなしい図書委員タイプの子だったん?歴代大統領とかもみんな?
意味分からなかったからもう一回読んでみたけど、なんか書き手の「言い切る」って言葉の定義が前段と後段でくるくるしてて何回読んでも意味不明なんだよ
曰く、
コンサルが意見表明するのもトランプが「メキシコの国境に壁を作ってやる」のも「言い切る」らしいんだよ
でも商人が「金さえあれば、誰でも取引しますよ」って言ったらそれは「言い切る」じゃないらしい
どういうこと?
でもね、ここで気付いたわけ
確かにこの前段部分を丸々なくせば最近の分断化する世界について書いた文章とも読めないことはない
言い切るっていうのは分断のこと
全く関係ないものや既存の概念に新しく〇〇力とか名前を付けてラベリングする商売なんだってね
そうかそうかなるほどね
だからホリエモンと公民権運動とかいう字面だけで笑える組み合わせも無理やり「言い切る」って言葉でまとめてるんだな
って納得してブコメを開いたわけ
そしたら絶賛の嵐
頭がおかしくなるかと思ったね
コンサ"る"(既存の単語に新しい意味を付け加えてバズワード化しどうとでも受け取れる中身のない言葉をクリエイトすること)みたいな記事書きたくなったよ
前から思ってたけどな。わかってたけどさあ、それにしてもあんまりなんじゃねえのって俺は思うわけよ、
パワハラで自殺なんて何十年も前から繰り返されてきたことで、あの広告屋でも自殺者が初めてってわけじゃないだろ?
なのに美形の東大新卒女子が死んだ、親が悲しんでるてなった途端にマスゴミ動いて、国会動いて、
広告屋は一応謝罪して、定時守ってるポーズくらいはしてるわけだ。でもそれ前のときにやってたら、あの子は
死ななくて良かったんじゃね?
子供の虐待死もそうだ。これまで何人も死んできた。で、可愛い女児が無惨にも実の親の手にかかってやっと色々動いた。
今回の誹謗中傷沙汰にしてもそうだ。美形の女格闘家が死んだ、親が悲しんでる。となってやっぱり国会が動いた。
なんでハゲックスが殺された時点でマスゴミや国会は動かなかったんだよ。荒らしとトラブルになったおっさんが
一人殺されても世間は無風、自己責任みたいな空気が流れただろ。あのときもっと強い規制を打ち出してりゃ
死ななくて済んだんじゃね?
もちろん結果論だな。わかってるよそんなこと。でもな、忘れないでほしいんだよ、可愛い女の子や子供が死ぬ前に
名前も年齢も公表されたけどほとんど誰の記憶にも残らないまま死を選んだおっさんや、
俺もパワハラで一時期すげえ病んで上司に殴りかかったとこでクビになって上司はお咎め無しだよ、
なんで俺のときに誰もあいつのパワハラ指摘しなかったんだって思うし、あのとき俺があいつをボコボコにしてたらって
ずっと後悔してもしきれない。俺があいつの腕くらい折ってりゃ嫁さん殴られずに済んでたかもしれない。
だからついこんなこと書くんだけどな、これからは理不尽な死に方するやつがいたら
性別も年齢も関係なくどうしてそんなことが起きたか調べてほしいんだよ。
これ以上は書かないと思いましたが、書くことにしました。
あなたは化学的に正しい方へ誘導するけど、そうじゃないんだと私は思っています。人の心に訴えかけるには化学的に正しいが正しくありません。それでは人が動かないからです。増田の他のエントリーで大切な誰かのために自粛なんてクソ食らえだというようなものがありました。そういう人へも訴えかける必要があるのです。そういう意味であなたの言う正しさは正しくありません。誰かのための自粛だからです。
頭のいい自分がスタートラインになっているから下々の人たちが何を考えているかなんてわかんないんじゃないか?って失礼ながら思います。化学的に正しい言葉が万人に伝わらないから広告屋がいて、コピーライターがいると思います。DVクソ野郎だった井上ひさしは「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」をモットーにしていました。でも、あなたの言葉は難しいことを難しくのままです。それで誰に伝わるんですか?誰に伝えたいんですか?
たった一人、私を諭して状況は変わりますか?先に書いた増田に貴方の思いは伝わりますか?私はより万人に伝わる方法で危機を伝えたいんです。誰かのための自粛なんてクソ食らえだそう言う人にも響かせたいのです。そこに化学的に正しい言葉ははっきり言っていらないと思っています。だからお互い噛み合わないからやめようと言ったのです。
あなたは、典型的な美大卒のデザイナーなのだろうなと思いました。
いわゆる、自身の作ってきたものや作るのもに自信を持つ職人気質であるように読み取れました。
広告が金儲けの仕組みとして、正々堂々とした道徳的な業界・仕事であると認識されたのは、30年前ぐらいという認識でいます。(これは2020年版の「不道徳な経済学」(早川書房)、訳者あとがきに記されていたことを元にしていますが、自分は実際は40年位前じゃないかって考えてます。理由は90年代において、既に広告屋が不道徳でないという認識が広まっていたという個人的見解に基づく物です。不道徳な経済学の原本がウォルターブロックという方でアメリカでの話をしている点も個人的見解に影響をあたえています。)
それ以前は、「広告は付加価値を生まないから不要である」と考えられていたようです。
つまり、ここで言いたいのは、あなたが考える広告文化とは30年から40年間でやっと道徳的な仕事であると認識されるようになったという経緯を前提にして考えてみると、道徳的な仕事であるという認識が元から浅かったのではないでしょうか。
また、「広告があるから製品がある」(広告→製品)ではなく「製品があるから広告がある」(製品→広告)という根本的なところについてはどうお考えでしょうか。
私は、広告は製品(ないしサービス)の金儲けを手助けするためのものと考えています。
つまり、金儲けをお助けするのが根本にあると考えており、金儲け(ビジネス)なのですから、お金さえ儲かればどうでもいいのです。
元来、広告とはそのような成り立ちがあったと考えます。つまるところ、広告業界とは表面的な変化は時代に沿って変わってきているが、根本的なところは何一つとして変わっていないと考えています。
さてさて、そもそも「文化」とはとても高尚な表現に聞こえますが、よく悪しき文化としてあがる政治的主張を暴力で解決する戦争だって人間の文化です。(戦争は文化で美しい!という思想をもっていましたら、ちょっと伝わらないかもしれないのですが...。)
デザイナーにありがちな、自信の仕事を高尚なものであると考える誤解はほどほどになさった方がよいかと思いまして、コメントさせていただきました。
今はそうならなければ広告がすべて淘汰されてしまうという意味合いが強い。
そういったものを「知らせる機能」を広告が多少担ってたのがweb普及前の時代。
ただ、もうみんなわかりきってるように
良いものは周りの評判になるし
無理矢理相手の視界に入れて押し売りするものでしかないわけだ。
邪魔なことこのうえない。
今の時代の広告屋なんて、世の中で最も必要とされてない職業だって自分では思ってる。
だからこそ、見た人が楽しめる、感動するものを死にものぐるいで生み出さないと存在価値自体がなくなってしまう。
そこで生み出された表現のひとかけらでも、文化として残っていくことになればせめてもの救いなんだが。
その結果、web広告のようなコスト極限まで抑えたゴミ一歩手前でレスポンスだけ取り続けるものと、
ブランディング文脈のメッセージ性またはエンタメ性の高いものとに二極化されてきてる。
なんとなくイメージつくと思うけど、IT系気取った勘違い野郎たちか、鼻持ちならない上級クリエイター気取りどものどっちかだ。
この表現にはやっかみも多少含んでるが、この業界にいる人たちならよく分かると思うけど、
年収1,000万オーバーの大手代理店のディレクターより、年収2〜300万しかない制作会社のディレクターのほうが優秀なんてざらにある。
元増田や自分のように、その中間で戦ってた多くのクリエイターたちは今後
その矜持を持ち続けてすり減っていくか、割り切って時代に適合するか、戦いの場を変えるかを選んでいかなきゃいけない。
かくいう自分も制作よりマーケティング系メインになってきてる。
そのうえで、なお古戦場に戻る戦友に幸あれ。