寒いから電気ストーブを点けているんだけど、ストーブの熱があたっていない左側が寒い。考えたら電気ストーブって部屋全体を暖める物じゃないから、本格的に寒くなってくると意味ないよな・・・
久々にニコ動ログインして、昔好きだったリトバスMADを見た。
泣ける。
たった数分のMADに切り取られた内容だけでも十分に眩しすぎる青春がそこにはあって、現実とのギャップに叩きのめされる。
ああ、たまにはkey point参加して胸焼けするぐらいリトバスを補給しようかなあああ。
それでまたリトバスやろうかなーって思ったんだけど、調べたらいろんなエディションがでてるのね。
内容に異論はないが、これだけ安楽死・尊厳死について議論され、また実際に合法化されている国もある中で、「そろそろ最低限の文化的な死に方についても考えていい時代なんじゃないだろうか」とは、ちょっと呑気すぎでは。
逆に「認めるか認めないか」の議論になる事がおかしい。元気な人が自ら命を断つのではなく、余命が短い人の決断だ。寿命通り4ヶ月後に死のうが今日死のうが死ぬことに関しては変わりがない。
だから宗教的にも自殺じゃないし、薬で命を断つのは「苦しみからの開放」とは捉えられないのがおかしい。
ましてや、アメリカの女性のように意識があるなら議論になってもいいが、痴呆症など本人が判断できない状態の人まで尊厳死を認められない。排尿垂らして周りに迷惑かけまくっても命が尽きるまで生きなければいけない。本人の意思とは関係なく。
その方がどう考えてもおかしいだろ。障害者団体が抗議してるから尊厳死を認められない現状だが、一部の人の声だけでなく大勢の声にも耳を傾けるべきだ。
だからそう書いてるじゃん。
なんで元々書いていることを、さも新しい感じで指摘しているのか。
こういう人いっぱいいるけど、どういう風にこの後の話続けたら良いのか分からない。
更新のお知らせが来て、前にそういう事が話題になったなと思いだした。
これマジなの?結局最初の契約書に更新料は払ってくださいね。みたいなのがあったらダメだろ?
どうせなら払いたくない。賃料一ヶ月分はかなりデカい。
ついさっき思いついたばかりの考えだから穴だらけの話しかもしれないけれど。と前置きした上で。
ここではシンプルにするため、末期の病気などで安楽死を願う人にそれを認めるかって話だけで考えたい。
まず、自殺はいけない事とはされているけれど実際は違法でもないので(これには諸説あるらしいけど実態として自殺後に罪状がついてる人はいない)ある意味みんな「自殺の自由」を持っていることになる。
でも病床で動けない人は、ビルの屋上や駅のホームに行くことはできないし、首を吊るために立ち上がることもできないかもしれない。これはアンフェアなんじゃないかとふと思ったのです。
死を願うような状況にある人ほど、その自由を行使することが難しくなってしまうってのは皮肉な感じがする。
まだ考え始めたばかりなので見落としやなんかもあるとは思うけど、現実として自殺することは自由なのにもかかわらず、まともな手段がないから自殺の格差は生まれるし、実行するときに社会に迷惑をかける手段がとられがちになる。
そうやってグダグダ言ってる間にいつの間にかその学生君に追い抜かれていて、俺はあんな奴よりずっとできるんだ…俺は…、とかブツブツ言いながらそいつの載ってるニュース記事を読む羽目になるんだぜ。
それ別の話ー。
もーそう言う話に転がらないように気をつけて書いたのに!
「最も気持ち悪い」ことだけをしない世の中を作りたいのか?お前は?
俺絶対やだー。
どっちがマシかなんてどうでも良いんだよ。
俺は気持ち悪いことは全部ない世の中が良いの。
世の中をただすことに気持ちよさとかさー。
なんかげんなり。
どうぞ並々つがせておくれ。どうぞ並々呑んどくれ。
親切に読み取りすぎだって。
http://anond.hatelabo.jp/20141101104245
言葉の定義がされてなくともある種の方向性が明らかで個々の合理性によってその幅が変わるだけなのが明らかなのにも関わらず、突然魚は定義がされることで価値が増す故に定義がされていないと価値が見出せない!と言い出すおっさん
色々突っ込みどころというか、、、それこそもっとちゃんと定義してほしいわ。「ある種の」「個々の」って何?とか。
後段に至っては「魚は定義がされることで価値が増す」って、前提関係無く明らかに頭おかしいこといってて、「本当にそんな人いたの?」って疑問呈したくなるよ。
職場うるせー
ブシュンブシュンコーホーコーホーうるせー
うるさい奴が休みの日は、他の奴が代わりにうるさくなるの何なの
当番制なの
なんでそんなことに完璧なローテーション組んでるの
ふざけんな最低限静かに仕事できねえのか
定義を明らかにしなくてもいいっていうのは、その議論の参加者がどこまでの話に落ち着けるかという目論見を含めて、空気で判断する部分が大きいこと。
「その反論はその前提に対して行われているもの」つまり元増田は「この前提が正しい」ことを証明しなければ「反論がおかしい」という事はできないって言ってるんですけど
「昨日、石破茂に似た人を見たんだけど~」から始める話に対して「それは本当に似てたのか?お前の勘違いじゃなくて?」みたいなことを言ってくる奴に付き合う必要がない。
似ているかどうかを、現場を見ていない俺たちには判断できないし、そもそも似ているかどうかということについても主観的判断になる。
元増田の話が詭弁、つまり論理的に成り立たないのは、「石破茂に似た人はこの世に存在しないと思われる場合」のみ。
元増田の例で言えば、「定義が必要のない場面で、定義定義と言い出す奴」が存在しない場合には、元増田の論理は破たんするが、
俺はこういう奴はいくらでも存在していると思うので、元増田が実際に会った奴がそうであったかどうかは確認とれなくても、論理として成立していると考える。
MIT Media Labからシリコンバレーのスタートアップ投資機関まで 「リクルート2週間アメリカ横断インターン」で得たものを参加学生たちに聞く - はてなニュース
アメリカ横断インターンシップを実施したという記事。この会社は、見せかたを大事にするというか、メディア戦略に力を入れているというか、ご丁寧に動画まで製作してて、「スゴいことやってる感じ」を出すのがうまい。(余談だが、メディアが外に発信しようとしているイメージと現場の社員がもっている意識のギャップは大きい。『「エンジニアならリクルートには入るな」のイメージが変わった』というイメージは、リクルートで働き始めたらまた変わると思う)
ここ数年で、IT系のインターンが増えている。Web系の企業は早い時期からインターンを実施してきたし、他にも、広告系(アドテク)や、データ分析に関する募集もよく見るようになった。私自身も、学生のときにいくつかインターンに参加してきたし、社員としてもインターン生と付き合う機会があった。その体験も含めてIT系のインターンと参加する学生に対して思っていることを書いてみる。
先の記事に戻ると、はてブのコメントにもあるように、ちょっと違和感を覚えるひとが多いんじゃないかと思う。優秀そうな学生がアメリカを横断する途中で、様々なスタートアップや観光地の前で記念撮影をしてるだけのように見える。「...が良かった」とか「...がすごい」とか、中学校の修学旅行じゃないんだから。インターン中にグローサソン(そんな言葉があったのか!!)を実施したらしいが、学生が製作したものには、ほとんど触れられていないので、インターンの成果は彼らの「感想」でしか語られていない。おそらく、彼らはインターン生として優秀であることは間違いないと思う。面接をうまく切り抜けた頭の回転の速さとそこそこのエンジニアリングの能力は持っているだろう。しかし、「インターンで優秀」≠「実務で優秀」だ。
実は、参加者のひとりに見覚えのある顔があったが、以前、某WEB系のインターンで、私がお手伝いしたプログラムに参加していた学生だった。直接面倒を見たわけではないけど、ちょっとコミュニケーションに問題があるとそのチームのメンターが嘆いていた。コードが書けない学生より、そういう学生のほうが、印象に残るものだ。Androidアプリを作成するプログラムだったが、その学生はバイト先でフロントエンドの開発経験があり、他のスキルがなかったので、フロントを担当したらしいが、自作ライブラリを利用する事に固執してしまって、最後の最後まで、フロントの実装がボトルネックになったそうだ。(インターン中、自作ライブラリを利用する事の意義をメンターに説いていたらしい)。インターンに参加するには、面接を数回行うだけ、コーディング試験等はなかったので、研究やバイトでそこそこ経験があるっていうだけで、参加できちゃう学生もいるんだなと当時は思った。
ちなみに、そのプログラムは複数会場で90人程度が参加していた。終了後に、優秀者へのご褒美として、とあるニューヨークの企業でのインターンの機会が与えられた。10日間くらいの開発の貢献度や、実際に製作したアプリの完成度を評価するので、ある程度開発できる学生が優秀者に選ばれたが、その学生はもちろん選ばれなかった。ニューヨークでのインターンの目的は、その年の、そして次年度以降のインターンのための広告塔だったわけだが、わざわざ海外へ行かなくても学べること、作れるものばかりだった。(アメリカ横断インターンの記事を見て、ああ、あの学生でも参加できるものなんだと思ったことと、私自身がニューヨークでのインターンに参加していたことが今回書く動機でもある)
おそらく、アメリカ横断インターン生の中には、参加前に想定していたこととのギャップに気づいている人もいたと思う。「なんだ座学だけか、自分の研究やバイトを休んでまでやることじゃないな。まぁタダで旅行できるし、今後の就活でアピールにはなるかな。」という感じで。とはいえ、お金をかけて企画した採用担当としては、「ぼちぼちでした!」なんて感想をメディアに載せるわけにはいかないし、そんなこと考えてる学生が、のこのこ顔出しのインタービューに参加するわけもない。
私は数学科出身なので、インターンの場でしか情報系の学生と関わる機会がなかったのだが、口で言っていることに技術が追いついていない学生は多い。もちろん本当に技術があって、(プロマネ的な観点で)気配りが上手な学生もたくさんいる。そういう学生は、数学や統計学、物理学などのバックボーンがあり、「Railsが使えるだけ」とか「スマホアプリ作ったことあるだけ」という、なんちゃって学生プログラマとは違い、意識の高さもだいぶ抑えられている。プログラミングはただの手段だよねっていう認識をもっていた思う。
口ばっかりの学生は、いわゆる「意識高い系」が多い。インターンに参加しない学生をdisることで、おれは行動している(だから将来成功する)ってことを主張したがる。あと、ジョブズやザッカーバーグの話をするのが好きだ。彼らに哀愁があるのは、バイト先など、小さなコミュニティで頭ひとつ抜ける程度には優秀であるが、ジョブズにはなれないこと、それにはまだ気づいていないけど、いつか絶対に気づくことだ。そして「(学生にしては)優秀だねぇ」という言葉をもらいながら、どんどん意識が高くなっていく。こういった「優秀な」学生が、実際の業務でも優秀かというとちょっと怪しい(弱い相関はあるかもしれない。ブログの更新が多い学生は要注意)。私が一番苦手なのが「分からないから教えてください」ではなく、「専門じゃないです」と言う学生(新卒)だ。専門という言葉は、知らないことの免罪符にはならないと思うのだが、これまでの輝かしい「インターンの実績」がそう言わせるんだろう。
「プログラミングで世界を変えたい」とか「新規事業をバンバン作りたい」という志があること自体はいいことだと思う。しかし、実際の現場では、プロジェクトが既に回っていることがほとんどだ。安定した運用を続けることや作り手にしか変化が分からないような改修作業をすることだって多い。学生に夢をもたせるインターンは、やはり人気があるのだが、夢や志を入社前に与えすぎると、業務の地味さとのギャップが大きすぎて、「これじゃない」という気持ちから数ヶ月で辞めてしまうことだってある。本来のインターン(就業体験)ではなく、人集めのパフォーマンスになってしまうと、学生にとっても、現場の社員にとっても、時間と機会の無駄になってしまうのではないか。
人前で善を為すことをなぜ問題視するのかといえば、こういう風に人の行動を裁こうとする人に煩われないようにという意味もあるのだろうな。たとえゴミ拾いの人々が偽善者だとしても、偽善をなそうとする人は注目されることに価値を感じているのだから、それをいたずらに批判することは逆効果だと思う。偽善の告発は、結果的により巧妙な偽善を生み出すことに加担している。本当に偽善が問題だと感じているのなら、そういう人々からは離れて、自らの善行に専心するのが偽善をなくす近道でしょう。
乱文失礼。
大学に入ってからというもの、全てがうまく行かなくなってしまった。
地方の大したことない高校から東京の名門大学に入ることができた。高校の時から付き合ってる彼女もいた。趣味もたくさんあった。勉強も好きだった。サークルも気に入ったところに3つほど入った。
だけど、入学から一ヶ月も経つと、まず授業についていけなくなった。努力がたりなかったのかもしれない。教授が何を言ってるのかさっぱりわからない。あんなに高校の時は大学で勉強するのが夢だった物理学や化学や経済学に全く興味が持てなくなった。学者になりたいという漠然とした夢はあっという間に潰えてしまった。
そこで劣等感を感じていたのかもしれない。サークルの人間関係がうまくいかなくなった。というか、こちらが一方的に一緒にいた人たちのことが気に食わなくなってしまった。こうして大好きだった趣味からも離れてしまった。道具は今も大切に持っているが、趣味を楽しむような気持ちには到底なれない。
不可だらけの成績通知をもらって夏休みに入ると、今度は浪人していた彼女と別れた。彼女は僕になにもしてあげられないのに気ばかり使わせて申し訳ないから、と言っていた。そうなのかもしれない。だけど本当のところ、僕がもうどうにもならないところに来つつあることを遠距離で会えなくとも薄々感じていたのだろう。
実家に里帰りしたときもほとんど家にこもっていた。親には単位が取れなかったことと、このままでは留年してしまいそうだということだけを話した。怒られはしなかった。ただ、いくら無理だと思っても頑張って何とかするしかないだろう、とだけ言われた。
東京にもどってからは本格的に家から出ないでテレビもない一人の世界にこもっていた。今度は自分の癖や欠点がとても目立って来た。止められない爪を噛む癖。いくら頑張っても朝起きられないこと。反対に夜寝られないこと。三日坊主。物忘れ。あとは物をどこに置いたか忘れること、これは一番辛い。一日二回以上スマホをどこにおいたか忘れる。たった六畳のワンルームの中でそれを10分以上探している間中、自分はなんてダメなんだ、こんな簡単なことができないなんてという考えがずっとのしかかってくる。こんな人間、社会に出たってどうやってうまくやっていけるんだと考えたら目の前が真っ暗になる。これまでの人生、それなりにうまくこうした欠点と付き合ってきたのにそのバランスが一気に崩れてしまったようだった。自分のすること、自分の考えてること全てが自分をじわじわと殺さんとしている。死ぬ勇気はない。ただ心だけがどんどんすり減っていく。本当に参ってしまった。