はてなキーワード: 飲食業とは
全然勝てなくて、こりゃもう駄目だなって思った。
どうやら俺にはマノンが合っていたらしい。
キャラを変えただけでここまで勝率が変わるとは…と驚きつつ、ふと気づいたことがある。
これって、人生も一緒かもしれない。
でも違ってた。
他の同期より上手くいかないし、全然うまく立ち回れず、最後には燃え尽きたように辞職した。
自分は不器用な人間だと思ったし、他の人より劣っているんだと思った。
名前も聞いたことのないような小さな会社で、SEとして働き始めた。
未経験からの入社だったが、前に働いていた時のように怒られることもなければ、きついと思うことも少なかった。
単純な話だ。
ただそれだけの話。
でも、昔の自分を含めて、こんな単純なことに気づいていない人も多いんじゃないかって思う。
だから今、何か上手くいっていない人は、それはあなたが劣っているからじゃない。
ただ、”向いていない”という、それだけの話。二十代のときに、もっと早くに知りたかったこと。
そんなことをスト6を通して、改めて気づかされた。
スト6,面白いよね!!
卵の値段がここ5年で倍になってることからも分かるように最近はとにかく物価が高い。
一方給料は据え置きだ。
全然上がってない。
コロナが終わって会社の経営が回復してきてボーナスは出るようになったが、単にコロナ前に戻っただけで物価上昇には追いつけるはずがない。
おおむね1割程度だがこれでも十分しんどい。
元々の食生活がリッチだった人間ならともかく、元々普通のものを食べていた層にとっての打撃は甚大だ。
大雑把に言えば、食費を今までと同じ水準に保つためにはトップバリュを食べなければいけないという状態に突入している。
トップバリュは知っての通り他の加工食品と比べて値段が1割ほど下がり、その代わり味が5割下がるという貧民食だ。
我々はそれを食べるか、貯蓄の予定を修正するかを迫られている。
パン売り場においても近所のパン屋から降ろしてきたパンではなく片親パンを手に取る必要に迫られている。
メロンパンは高級品なので我慢してチョコスティックパンを食べるのだ。
それも厳しくなったら安物の食パンを買ってきてバターをつけずに食べる。
牛丼屋で豚汁に変更していたのは辞めなければいけないし、飲み会の回数も減らす必要がある。
薄利多売を繰り返すうちに会社の競争力は衰退し、新商品開発の意欲も失われ最後には外国からやってきた商品に駆逐される未来が待っている。
恐ろしいことだ。
トップバリュは本当に不味い。
これを書きながらウィスキーを飲んでいるが信じられない味がする。
ここ数年、15年前に離別した父親に連絡を取るべきかどうか定期的に悩んでいる。
両親の離婚に絡んだ話で周囲の人には話すのもはばかられ、誰にも相談できないのでよかったら聞いてほしい。
ここへ投稿するのは初めてなので、読みにくいところがあったらごめんなさい。
※昼頃に投稿したんですが間違えて消してしまい、迷ったのですがせっかく書いたので上げ直しました。すみません。
・父:70歳。生死含め現在は何をしているか不明。離婚当時は大手企業部長。激務で平日はほぼ顔を合わせることはなかったが、私は割と父に懐いていた。おとなしいオタクタイプだが時々激昂することがあった。
・母:65歳。飲食業正社員。離婚当時は専業主婦。父がほとんど家にいないため、家のことは全て母が仕切っていた。普段は天然でのほほんとしているが、かなりの気分屋。教育ママで過保護だったが、私が社会人になってからの関係は良好。
・私:アラサー女。私大卒業後、社会人をしている。昨年結婚。離婚当時は高校生。
両親は15年前に離婚した。
父は仕事が忙しく、物心ついてから一緒に家族旅行に出かけた記憶もない。大手企業で出世していたため、比較的裕福な生活は送らせてもらっていた。
夫婦仲はあまり良くなかったようで、表立って喧嘩するところはほとんど見たことがなかったが仲が良さそうに見えることもなく、父がいない時に母から父の陰口を聞かされることも時々あった。
けれど、オタクタイプの父と私は気が合うところもあり、一緒に海外ドラマのDVDを深夜まで見たり、カメラを買いに連れて行ってもらったりと、私個人は父に懐いていたし父のことは割と好きだった。
逆に、教育熱心で過保護でわがままで時々ヒステリックな母に対しては委縮してしまうことも多く、学生の頃は母の言いなりになっていた私はむしろ母のほうが苦手だった。
母は度々熟年離婚するつもりと言っていたが、当時の私はまさか本当に離婚するとは思っていなかった。
事が起こったのは私が高校1年生だった頃のように思う。
夜中に両親が大声で言い争うことが増え、母が父の陰口を言うことが増えた。
ある日、「お父さん不倫してるみたい」と母が言い出した。
父の車にあった口紅のついたペットボトルを見せられたり、母が突き止めた不倫相手の職業などを聞かされたり、不倫相手の家を見に行くという母に一緒に車で連れて行かれたり、「2人のことはお母さんが守るからね」と母に泣かれたりした。
結局、母いわく「早く離婚しないと共有財産を使い込むと脅された。早く離婚したかったから不倫の話は出さなかった」とのことで、詳細は分からないがとにかく離婚となった。
正直、当時は母がいちいちこういったことを話してくるのでそのたびに傷ついていたし、不倫して私たちを捨てる父を心底憎んでいたし、辛い現実から逃げたかったのであまり関わらないようにしていた。
父が出て行った日のことも全く覚えていない。
父がいなくなってからは、私は受験で荒れていたし、弟は不登校になるしで大変だった。
父が出て行ってからは、3度だけ連絡があった。
1度目は、父が出て行った年の私の誕生日に誕生日カードと図書券が届いた。私を捨てたくせに今さら何なんだと思い、特にお礼は言わなかった。
2度目は、私が大学に合格したときに、おめでとうとメールが来た。その時も、父を殺したいくらい憎んでいたので無視した。
3度目は、大学3年生のときに母と大喧嘩をしたときに私からメールをした。実家を出たいからお金が欲しいと連絡して、父は心配する返信をしてくれた。結局母とは和解して、父には特に連絡しなかったように思う。
その後、いつ頃か忘れたが父から母あてに間違いメールがあり、どうやら再婚したようだった。
母から見せられたそれは再婚相手の連れ子あてのメールだったようで「父の日のプレゼントをありがとう」という内容だった。
それで本当に、父はもう私の父ではなくなったのだなと思った。
父のことは関わりが少ないながらも好きだった。
けれど、母の言うことを鵜呑みにして「父は私たちを捨てた」と思っていたし、好きだったからこそ裏切られて辛いし自分がかわいそうだと思っていた。
精一杯育ててくれた母には勿論感謝しているが、自分が大人になってから、夫婦としての母は未熟だったのだろうなと感じることも増えたし、離婚したくなる気持ちも分かるようになった。
そして、母の一方的な言い分だけを信じ、父からの精一杯の連絡もことごとく無視していた自分はなんて愚かだったのだろうと後悔するようになった。
正直、父のことを思うと未だに複雑な感情がわき上がってきて泣きそうになる。
母との関係は現在良好ではあるけれど、調停の内容も離婚の条件も一切知らないし、私のなかでは未だに離婚の話題はタブーなので聞くこともためらわれる。(母はあっけらかんとしており、私も気にしていないと思っているようだが…)
母からは、私が父に連絡を取るのは私の自由だと以前から言われている。
昨年に結婚もしたので、その報告もしたい。
その一方で、母の言っていたことが本当だったらどうしようと思いや、父は私のことなどもう忘れてしまっていて、連絡などしたら逆に迷惑なのではないかという思いもある。
自分に冷たくしてきた実子より、新しい家庭の方が大切なのは当然だと思うので。
連絡は取ろうと思えば取れる。Facebokで検索したら本人が出てきたし、それで連絡が取れなくても戸籍を辿ればいいだけだ。
このまま父が死んだら後悔すると思う一方で、もう傷つきたくない。
ここ数年ずっと悩み続けている。