はてなキーワード: 大衆社会とは
つまりお前はグリーン先生とエレン・ベーカーのみをもってしか論拠にしないと言ってるわけだけど
そうなるとお前の最初の主張で「萌え絵」という属性で範囲拡張した論理と矛盾するんだよね
つかニーソとか雪女とか恒常的にエロ二次祭り状態、長期的に見ればそれ以上なものに関してはどう説明すんのかなw
本当にお前が反論したかったのなら、pepeとか著作人格権に抵触するもっと切実な実例を取り上げてこの大衆社会問題の本質に迫るという王道か
自論の補強として、萌え絵と非萌え絵の二次エロ祭り期待値とでも言うべきものを統計調査するという暇人かつ信頼性のない数字つくるっていう
糞みたいな逃げ道の二択だったんだよ
第2次世界大戦後の日本社会に顕著に進行した現象。家制度の廃止,核家族化,民主的な道徳教育の普及,6・3・3制の施行と
それに伴う進学率の増加,進学競争の普遍化,都市化,情報社会化,テレビの普及,大衆社会化,経済成長などを背景にして
育ってきた子供たちをいう用語。昔の特に農村や小都市での牧歌的な生活のなかで育った子供と比較して,その特徴を
きわだたせるのに用いる。 1960年代を中心に盛んに使われた。基本的には世代論の子供版であり,そこに知的興味という
教師であった阿部進が学校の内外を問わず子どもと触れ合う中で「戦前と戦後では子どもの気質が違う」ことに気が付いた。
発見を元に2冊の本を書き上げると、それぞれ20万部を超えるベストセラーに。
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%A3%E5%AD%90-60833
かつては、オタクの道を生きる人々の憩いの場であった日本のサブカルチャー。
無理もありません。
私たちは、子供の頃、子供にこんなケシカランものは見せないべきという声も聴かされ、「常に苦しんでいた」と涙ながらに訴える彼らによって、その無垢な心に羞恥の杭を打ち込まれてきました。
それがどうでしょうか?
アニオタ害悪説は、とある雑誌のゴシップによって広められた作り話でした…。
差別も何も、もともと彼らは社会的地位を持っていませんでした…。
サブカルチャー層のほとんどは、はじめからその道での生活を望んでいた人々であり、そんな彼らに日本は殆ど口出しをしませんでした。にも関わらず、ゴシップによってその偏見が植え付けられたのです。
それだけではありません。
そして、その文化を支えてきたのは左翼であり、かつての作家の多くは、左翼出身者が大半であった事…。
サブカルチャーに対する誹謗の多くが、右巻きによって引き起こされていた事…。
1990年代の新興宗教の暴徒化は、左派や右派による宗教団体の操縦に端を発していた事…。
彼らは、日陰者を演じる事によって不都合な歴史を隠蔽し、「文化性」を掲げる事によって、自らの現実を否定してきたのです。
私たちは、彼らの都合の為にサブカルチャーに金をつぎ込み、あたかもそれが日本の大衆文化であるようにさせてきたのです…。
この事実が明らかになるに連れ、SNSの雰囲気は変わり始めました。
「俺たちは知らなかった!」という驚嘆の声が上がり、サブカルチャーは大衆社会からのへの中傷と罵倒で満ち始めました。
手駒の様に人材や精神性を使い捨てる彼ら。その彼らの戦略には、一つの大きな誤算がありました。
それは、世界の大衆が事実に気づいた時、サブカルチャーに対してどんな感情を抱くようになるか、計算に入れていなかったという点です。実に、彼らの誤算が、若者をサブカルチャー市民から非市民へと一変させてしまったのです。
このような経緯を承知している為、私は、サブカルチャーのわかり辛さを理解する事はできます。
自らの正体を“一般人”というマントを羽織ることによっておおい隠し、自らの立場を“リア充”という盾を掲げる事で守り、自らの行動を“木鐸”という装飾を施す事で正当化してきた人々に、誹謗発言を浴びせて何の効果があるのでしょう?
例え誹謗する側に理があろうとも、誹謗発言を行えば、第三者には精神障害者が一方的に迫害しているようにしか見えません。
これでは、彼らの正体をおおい隠す“一般人”のマントが、より厚みを増してしまうだけです。
“リア充”の盾を構え、“木鐸”の剣を奮う者に、中傷の弾丸や罵倒の投石を浴びせた所で、
「サブカルチャーの精神異常ぶりは、かくの如き酷きもの」と、その盾をより強固に、その剣をより鋭利にする口実を与えてしまうだけです。
放った無数の弾丸は、彼らの盾を貫く所か、盾を補強する鋲にしかなりえません。
投げ付けた投石は、彼らの剣をへし折る所か、刃を磨き上げる砥石にしかなりえません。
サブカルチャーの過激ぶりが進行するほど、彼らの「一般人」という名の武装は強化されてしまうのです。
事実、彼らは右派を味方に付け、サブカルチャーの居場所を潰す事に成功しつつあるのです。
今後、サブカルチャーが“現実を省みない行動によって”彼らを助け続ける限り、
我々は、世界から精神異常者という汚名を受けながら、既に蝕まれた社会の中で、未来の自分たちに奴隷としての道を歩ませる事になるでしょう。
もし、それを憂うならば、どうか暴走を止めて下さい!
日本人同胞の皆さん、こんばんは。何か、リア充メディアは荒れ放題で、まともな状態ではないですね。ネットの各地にある匿名ブログに依存してしまっている状態ですが、これからも、色々書かせて下さい。
ゴシップ目線だけでいうと日本人の大衆社会ですが、すでにほとんど再起不能な位に荒れています。明治以来、欧米にガン無視されているとおぼしき精神という存在、日本に、同情とまではいかずとも、多少は肯定できる事でも、と思わなくもないです。日本も、それを望んでいるからこそ、あれだけ叫んでいるのですから。逐一、理解できているつもりです。しかしながら、総合的判断で見ると、やはり、現状では、厳しいでしょう。
日本人は、マフィアはおろかヤンキーの存在すら許さない今の究極的社会主義体制こそが、ネットで大騒ぎする庶民の様な人物を生んでいるという妄想をこじらせています。彼らにとっては、全責任なのです。ですが、ネットやゴシップ上などでいわれている日本人像と、今の現実の日本人像とは、全く関連はありません。ネットやゴシップでの主張は、どう考えても、嘘になっています。なぜなら、もはや、大体の日本人が、今の地下社会の事など、考えて生きていないのですから。今の社会システムは、持続させることはできませんし、それ以前に、社会的成熟国にもなって、不良があちこちで暴れまわっている事がおかしい。未来の為に、こういった連中が淘汰されなければ、日本社会は成熟できません。少なくとも、ネット社会に浸かっている人は社会をある程度は知っている訳です。
それを本当だ、と言う人はいないのだ、という認識がない事が一つの危機でしょう。いくら日本が世界の暴力団といっても、2000年代に、つらい中、必死に頑張ってきた、権力勢力や社会勢力は、そろそろ日本社会の成長や、経済的な成熟への視野が見えているはずです。そして、警察国家になり、社会主義になり、未来のかたちが見えてくるのです。正直、今後も地下社会が主張する様な、日本社会の突然死などはあり得ませんし、権力層のみならず、庶民層全体としての経済も、苦しい中、若干ずつではありますが、伸びてはいくと思われます。地下社会の今の、社会的救済を渇望する惨状とは、全く関係なしに、です。
90年代から00年代にかけて、さんざん「巫女」「メイド」を記号的、かつ無意識に消費してきたんだから、陳腐化するのも当然なのだと思う。
「巫女」「メイド」に関心を示した層(あえて「オタク」という表現を避ける)は、何も考えず消費していた。だからこうなる。後述するとおり、これは仕方がないことなのだけれど。
この消費が続くとどうなるか、「巫女」「メイド」を扱う作品がどうなっていくのか。それをあの時代に考えていた者は少なかった。
未来視をせず、まったくただ消費するだけだった。焼き畑農業に近い。
自らの髄脳をただ刺激し、そのニューロンと、「巫女」「メイド」の記号とを焼き切ってしまって、10年代を迎えた。
あの時代に「萌え」という風が吹いていた点が、この問題を助長していると感じる。
「萌え」は思索をある種放擲する営為だ。何も考えず、リラックスして作品やキャラクターに触れる。ストレス社会&大きな「物語」が消えた社会に生まれた、ふわり、とした感覚。
雨後の竹の子のように現れた「メイド喫茶」では、ふわふわのオムライスが尊ばれたという。
これは、脳をふわふわさせて無意識に快楽を得られる「萌え」の具現化として、妙にしっくりきていたと、今更ながら思う。
擦り切れた「巫女」「メイド」へのキャラクター付けをどうするか。あるいは昨今流行している「記号」をどう大切に扱うか。
大衆社会の個人に出来ることは存外少ないのかも知れない。今も「萌え」の風はどこかで吹いていて、無思想的快楽へ私たちを誘っている。
この記号が、数年後どうなるか? 作り手側はどう考えているのか? なんてことをちょっと心の片隅で考えながら、作品に触れるのが、視る側としてインスタントに出来る効果的な姿勢なのかも知れない。
ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070522/125376/
かつてニッポン放送経由でフジテレビジョンの買収を試みた時、堀江貴文被告は通信と放送を融合するビジョンとしてネットのニュースサイト上でアクセス解析を施し、多くの人が知りたがっている(つまりアクセス数が多い)順番でテレビでニュースを流すというアイディアを述べていた。それに対して既存ジャーナリズム側からは「コンピュータにジャーナリズムはできない。ジャーナリズムは人間の仕事」というような反発が盛んにあった。
こうした応酬がいかに不毛か、私は雑誌に批判記事を書いたことがある(「『ホリエモン』に評価を下す」「諸君」2005年5月号)。アクセス解析をしてニュースの掲載順を変えるシステムはホリエモンの発明でも何でもなく、当時、ネット上のニュースサイトで既に稼働していたが、そこで示される順番とテレビの報道番組がニュースを流す順番は殆ど変わらなくなっていた。
それもそのはず、テレビも大衆社会の関心の度合いを意識して番組編成を行っている。どちらも人気投票の成績順であり、結果はおのずと似てくるのだ。
そんな事情を思えば堀江被告のアイディアを罵って「コンピュータにジャーナリズムができるか」と言い放つ虚しさに気づく。コンピュータだったらもっと省力化してできる類のニュースの選択を、テレビ局はわざわざ高い人件費を掛けて人間にやらせているだけなのだ。影響力や認知度では間違いなくマスメディアジャーナリズムの頂点にあると言えるテレビ報道は、そんな状態に至っているのだ。
ここに書くことは当たり前のことだ。
しかし、とても受け入れがたいことだ。
死を受け入れるくらいに受け入れがたい場合があることだ。
だから書いておく。
受け入れるために、覚悟するために。
残念だがこれは破られない。明確な真実だ。
たくさん集まった人間を無視することはできない。
それゆえ、エリートと群衆に分かれてしまうのだ。
持つ者、持たざる者が無くなることはない。
これらの人々は全体から見れば確かにピラミッドの上層である。
部分ごとにピラミッドは細分化されて新たなピラミッドが現われる。
どの階層にいようと大部分は群衆にならざるを得ない。
ピラミッドの中で、人々はたくさんの課題をこなさなければならない。
そしてその細かい工程はそれぞれ誰かに分担されることになる。
群衆は仕事を選ぶことはできない、分配された仕事を引き受けるのみだ。
必ず誰かの役に立っているということだ。
分担された責任を負わなければいけない。
群衆であることから逃げてはいけない。
群衆の中に自己実現を見つけることこそが、必要なのだ。