はてなキーワード: ゲシュタルト崩壊とは
そうかgoogleよ。
まず思うのは"ヴァ"の語感の強さである。そしてそれが二回も続く。
強力だ。超強力な勢いである。
ヴァルカンやヴォルケーノに由来する雄々しさ、猛々しさ、それを髣髴とさせる。
それが二倍だぞ二倍。もう強すぎてどうしようもない。
カトリーヌ、ジャクリーヌ、のように実に嫋やかな響きであり、一転して女性性を主張している。
雄々しく嫋やか。これは一体何なのか。陰陽のオキシデンタル版か。
"陰陽"にルビをふると音もなく浮かび上がってくる言葉がヴァルヴァリーヌなのか。
一体何なのだろうか。
私は今も、この言葉を呟いては、呟くごとに、そこにあるはずだと幽かに予感する意味を求めて、確かめている。
なぜ呟くと、意味の手がかりが得られると予感するのか。
今日、十分条件って文字を見て、ひとつ棒つけたら大分だなと思った
その後、あれ?大分って県あったっけ?って思った ぼーっとしてたからかな
そんなことはないあるだろうと思って調べたらあった 幻想じゃなくて良かった
じゃあどこにあるのかと訊かれてもどこにもしっくり来ない
私と関わりがないから異世界にある感じがする というか存在を忘れていた
抽象的な漢字ⅹ2で構成されているのも異世界感がある 私の中でふわふわ浮いてる
大分って単語を最後に発音したのはいつだったっけ、とふと思った
いま小声で3回言っといた 6回言った
ヘルスケアアプリに大分って項目があったとしたら、今日の記録はディズニーに行った日の歩数よりもずば抜けているはずだ
私は色んな選択をする時に名前できめがちだが、大分って単語はなんか好きだ なにか関わりを持ちたい、大分と
ゲシュタルト崩壊してきた
散々こねくり回されてきたオリンピックだけど、件のIOC批判は内容もさることながら、11週前のこのタイミングで、というのもあって中止される未来がだいぶ具体的に見えてきた人も多いんじゃなかろうかと思う。
そして完全になんとなくでしかないけど、向こう2週間以内にかなり大きな動きが起こるだろうなと思ってる。
で、それを想像したときに一番怖いな~~~となっているのが、オリンピックが中止になってしまった時にあらゆる立場の人を襲う巨大な絶望感。これが現時点から怖くてたまらないので対策を教えてくれ、という話。
最近は頭に血が上りっぱなしの人が多いので先に書いておくと、この不安を解消するためにオリンピック中止の声を止めるべき、という意図ではなくって、かなりの確率で来るであろう未来に対してどう構えておくかみんなの意見が聞きたいです、という内容です。
仮にこの先オリンピック中止が発表されたとして、そこには「結局中止ならこれまでの無駄の山積みはなんだったんだ・・・」という虚無感と、コロナ禍で溜まりまくった不満をぶつける大きな敵がいなくなったことでの絶望感しか残らないんじゃないかと思っている。
前者について、中止が決定された後の次なる批判はきっと「損切りが遅かったからこうなったんだ!責任を取れ!」だと予想してるけど、オリンピックを止めるための批判に比べてかなり後ろ向きだし、もっと大きい虚無感に包まれそう。(次々サンドバッグを殴り続けることが精神安定に繋がるタイプの人はそれでいいんだろうけど)
でももっと怖いのが後者で、そもそもの原因である新型コロナwith山積みの課題という現実をこのタイミングであらためて直視しなきゃいけなくなる、というのに耐えられる人がどれほどいるんだろう・・・という不安がある。
今よく見かける「なんでイベント/ライブ/コミケは中止なのにオリンピックはやるんだ!」的な声は、本意ではなかろうがその何割かに「だったらこっちだってOKだろ!」という自粛で溜まった欲求不満の発散に近い気持ちも含まれている言葉だと思っていて、
もしオリンピックが中止になったら、「まぁオリンピックも中止したしこっちも中止だよね・・・この状況じゃ・・・」としか言えなくなっちゃう。
幸いにもワクチン関連はすごく期待できるニュースがちらほら見え始めているけど、現実的にみんなが接種できるまでには期間も課題も果てしなくて、またしばらく感染の怖さだけを直視させられる絶望感を打ち消すほどには強くないと思う。
そして、きっと感染症そのものについての課題が解決しても、疲弊しきった経済とか、潰れたお店とか、弱りすぎて失われた文化とか、消え去っちゃった青春とか、後れを取りまくった教育とか、返ってこない数年分の負債によるネガティブな空気はしばらく消えなそう。
そういう意味では、複雑すぎるコロナの問題に比べてオリンピックは誰がどう見たって論理的にも道義的にも完全に破綻していて、ひとまず誰でも正当性を持って殴れるお手軽なサンドバッグとしてはかなり優秀だったんじゃないか?とすら思えてくる。
(中止決定後は政府自体や特定の政治家をサンドバッグにする向きも今より強まるだろうけど、やっぱりサンドバッグとしての殴りやすさはオリンピックほどじゃないよね)
で、先にも書きましたがこの不安を解消するための回避方法をどれだけ考えてみてもまったく思いつかず、苦しいけど正しい選択、として受け入れるしかないのだろうなという結論に至った。
少なくとも向こう5年くらいは心からハッピーになれることは無さそうだな~という、避けられる確率がとても低い現実が目の前にある。
そこで、ほとんどごまかしに近いんだけど、世間に漂う陰鬱な空気が自分の心に流れ込んでくるのを目の前の小さいハッピーで相殺できるくらい小さいハッピーに対する感度を上げておく訓練を今からしておこう、と思った。
(今も自粛中に出来る範囲(美味しいものを食べるとかインドア趣味に没頭するとか)でポジティブになろうと頑張ってるんだけど、どうしても世間の空気に負けてしまう)
ということで、ここはぜひ皆さんの知恵をお借りしまして、上記のハッピー感度を上げるためのコツとか、私はこうやってストレスを乗り切ってるよとか、小ハッピーじゃなくてこんな中ハッピーを試してみたらどう?みたいなのを教えてほしくて書きました。
とある界隈でかなり感想をマメに書いているオタクだ。だからといって私の創作に感想が来るわけではないと気が付いた。
別に見返りを求めてやっている訳ではない、と言いたいが、心のどこかでちょっとだけ期待している自分がいる。感想を書き続ける度にその感情は増幅していくが、だからといって私の創作に感想が来るわけではない。
段々と私の創作は、単純に誰の気を惹くものではないと思い始めた。虚しくなるだけだから、もう感想を書くのをやめよう。何度も思ったが、私の感想に喜んでくれる人を見ていると、感想を書くのをやめるにやめられない。今日も私は誰かの創作に感想を書くが、だからといって私の創作に感想が来るわけではない。いつでも感想を書いてくれる便利な感想屋扱いをされているかもしれないが、私も創作をする側の人間であり、感想をもらって救われたい側の人間だ。だからといって、私の創作に感想が来るわけではない。
テレビを持っていない。理由は必要ないと思うから。アプリで観れる番組も多いし、ニュースもスマホで十分。でも最近、家にテレビがないのってヤバいのかな?と思うことが何個かあったので書き出してみる。世間的に見たらどうなの?
1年くらい前、友達との会話で「うちテレビないよー」って言ったら「やっぱ変わってるねぇ」って言われた。不思議ちゃんってあだ名を付けられているけど、テレビが無い事がこのとき不思議ちゃん要素に加わったっぽい。こんなあだ名が付いてるのも分からないけどそれは置いといて、テレビがないのが要素になるのに驚いた。その後も何人かにテレビ持ってないよ、スマホで間に合ってるよ。って言って、驚かれたり引かれたりした。言うほどおかしいくないでしょと思いつつ気がかりだった。
3ヶ月前に「あざとくて●が悪いの?」で、不思議系女子を扱ってた。その不思議系女子が言った「私テレビ持ってないのー」に対して、スタジオの反応が「確かにこういう子ってテレビ持ってないよね」だった。もうそのまま私じゃん。そうなの?番組で言われるほど不思議なの? 実は、不思議系女子特集を観た理由は、不思議と言われるけど実際は違うだろうと思ったから。なのにまったく同じでびっくりした。もし友達が見てたなら私が頭に浮かんだと思う。それくらい、他のところもそっくりだった。ちなみに番組の不思議系女子は、男の気を引くためにわざと天然をやっているということだった。私は故意では無いから、もし友達がこの番組を観たらわざとって思われるなと思って悲しかった。むしろ直したいのに。とにかくテレビ無いのって変なんだなと思って、また気がかりだった。
今日流れてきたYoutubeのCM。「『私ってぇ、家にテレビないんですぅ』っていう人いない?」「分かる、それがイケてると思ってる人な。 でもT●erで見てるよねww」「『テレビよりSNSが〜』とか言いながら見てるよねww」…… というやつだった。やっぱりテレビ持ってないのっておかしいの?その通りT●erで観てるし、そのことを友達に言ってるけどヤバい人なの?(CMで話されてる人はテレビが無いことをイケてると思ってるらしいけど私はそうではない。)私のいないところで、CMのようにバカにされてたりするかなと思って気になる。
文章書くの苦手で長くなっちゃった。まとめると、私はテレビを持っていないけどそれはおかしいことなの?変なの?持っていない人はやばいの?って言うのが知りたい。
ブックマークに登場する記事に「棒」関連が妙に多い、と思ってコピペしてみた。下記は一例。
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「’89 牧瀬里穂のJR東海クリスマスエクスプレスのCMが良すぎて書...」牧瀬里穂の抱いているのが棒
「オリジナルすぎるハンコを作ってみた :: デイリーポータルZ」ハンコの写真は棒
「リコーダーについているあの棒を死ぬ前に正しく使いたい :: デ...」棒
「受肉せよ! サラミスティックロボ :: デイリーポータルZ」スティック=棒
「これから働く人にバトンを渡しに行った :: デイリーポータルZ」バトン=棒
「内部のひみつの音が聞こえる棒、「聴診棒」 :: デイリーポータルZ」棒
「マイクスタンド芸を身につけるために必要な3つのこと :: デイリ...」マイクスタンド=棒
「ヤクルトファンの好きな棒は傘 :: デイリーポータルZ」もはや無理矢理なほど棒
「ドラムスティックのような野菜スティックを作る :: デイリーポ...」スティック=棒
「「ランチやってます」があればランチやってるように見えるか ::...」写真が幟(のぼり)の棒
「「現状品」のフルートを落札しました :: デイリーポータルZ」フルートが棒
「信号の「ロング押ボタン」を集めました :: デイリーポータルZ」信号機から棒のように突き出たボタンを特集
「ボルダリングは木彫りの熊で :: デイリーポータルZ」棒ルダリング
「珍味のヤマクラゲがレタスの茎であることを確認したい :: デイ...」レタスの茎=棒
「ユニクロで「た、高い!」と思ってしまう貧乏感はバブル世代に...」貧乏は「貧棒」とも書く
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こういう状態の奴って俺だけなのかな
年とともに生きてる感覚が薄れていくというか
なんかよく分からなくなっていく
毎秒死にたいし、年収が上がっても仕事が増えても人生が上手くいってる気がゼロ、毎年どんどん最悪になっていってる気がする、自尊心が年々落ちていく
誰かと話していても夢の中で誰かと話しているような感覚、現実感がない
興味も何も持てなくなって、枯れてる感じ
外から見ても変わってなさそう、内部はほんとぼやーっとしたかんじ
健康にもなってるはずだし、そこそこ寝てるはず
ただ妙に愛情に飢えてるけどこれは年齢的なものかな、遺伝子が危機感を煽ってきてる
こういう半分死んでるような寝てるような感覚って70歳くらいでなるかなあと思ってたけど
まさかこの歳でこうなるとは思ってなかった
アルツハイマーでも始まってる?
知能テスト受けようかな
もしくは仕事し過ぎかなあ
お皿の切り取り方=丸の切り取り方ってどういう風に考えたらいいか、自分がたどり着いた答えをこっそり教えたいと思います。
突然ですが、ここでゲシュタルトさん(人名ではない)に登場してもらいます。
ゲシュタルトといえばゲシュタルト崩壊が有名ですが、写真というのはまさにこのゲシュタルトとの戦いといっても過言ではありません。
崩壊ばっかりが有名になってしまっていますが、このゲシュタルト心理学の基本は認知にあります。
例えばそこに☓が書かれているとして、人はこの☓を二本の線が交差していると考えるのが普通ですが、実はこの☓が2本の線なのかどうかは定義されていません。
vが上下に重なっているかもしれないし、くが左右、もしくは短い4本の線が集まっているだけかもしれません。
それを二本の線が重なっていると考えるのは、人間がそういう風にものごとを捉えやすい生き物だからという理由以外にないんです。
お皿の話に戻ります。
目の前に丸いお皿があれば、このお皿は丸いんだと人間は疑うことなく認知します。
例えば片側を切り取ってみたり、上と右の一部を切り取ってみたり。
上下左右全てを切り取ってしまうと流石に丸いお皿だとは認知できなくなってしまいます。
では、どこまで切り取れば、これが丸いお皿だと人間は認知ができるのでしょうか。
そうなんです。
お皿全体を写さなくても丸いと認知できることが、写真で丸を切り取るときに大事な考え方といえるのです。
言い換えれば、写真の外の部分を想像で補完できる余地を作ることが写真の面白みと言えるのかもしれません。
どこまで切り取るか、どんな切り取り方をするか、そんなところに撮り手の個性がでてくると言えます。
写真を撮るということはつまり時間も空間も切り取るということ。
せっかく切り取るのだから、ただ切り取るだけではなく、切り取る前の姿が自然と想像できるような、連続の一部だということがわかる写真が撮れると面白いのかもしれません。