日常の裂け目を夏目漱石を引用して表現している。
でもこれって車輪の再発明的にオウムが終わりなき日常として表現した。
ただ、吉本の場合、日常の否定ではなく日常をゲシュタルト崩壊的に気づくことによって再発見すると語っている。
つまり80年台以降の日本の日常はどこかで否定されるべきもの、劇的空間であるべき、というマスメディアの影響が強くなったことを意味する。
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