はてなキーワード: バイキンマンとは
本来ならばバイキンマンを言葉で説得するか、あるいは彼を拘束したのち裁判によって量刑を決めるべきであって、アンパンマンの独断で暴力を振るってもバイキンマンの肉体的精神的自由を損なうだけで、更生をうながす効果がないのは明らかだ。
鉄拳制裁ののちに、バイキンマンが反省して悪事を控えたなどという話は聞いたことがない。
分別が未熟な成長過程にある子どもの観るアニメなのだから、親たちが「本当は暴力で解決するのはいけないんだよ」と教育することで修正しているのだろうが、果たして本当に私たちはそういう教育を受けてきたか…? 反暴力の教育は、一体いつ施された?
実は大人になった今でも、「バイキンマンは鉄拳制裁を受けて当然だ」と密かに思っているのではないか。
いつかバイキンマンがあなたを訪れて、ほおに出来たアザを見せてアンパンチの被害を告白してきたときに、あなたはバイキンマンに寄り添えるか。
「まずそもそもバイキンマンも悪いよね」と口を滑らしてしまうのではないか——…
コラム・ “殴っちゃダメ” は反暴力の教育ではない
暴れまわる幼稚園児を、先生や親は「殴っちゃダメ」と叱る。幼児は一旦それで大人しくなる。
でもそれだけでは反暴力の十分な教育にはならない。それは応急処置に過ぎない。
「殴っちゃダメ」の丸暗記では、のちの人生で直面する複雑な局面に応用が効かないんだ。
暴力への理解レベルが初期値のままに知性だけがレベルアップすると、迂回のために高度な理屈が発明されることになる。
- 殴っちゃダメというけれど、殴るとは己の欲望に身を任せて無辜の他人を傷つけることであって、アンパンマンは「殴って」などいない
- バイキンマンの横暴もある意味、暴力だ。バイキンマンこそが先に「殴った」
- 「殴っちゃダメ」だからこそ、それをあえてすることでバイキンマンの悪事の酷さを思い知らせることができる
- アンパンチを受けてなければ、バイキンマンはいずれ厳しい社会的制裁にさらされる羽目になるので、バイキンマンにとっても殴られたことは良かった
私はこんな感じの意見をみるたび、暴力が働いているのでは、と疑う。
暴力の主要な効果、内面化——… 暴力を目の当たりにして心がひるんでしまい、対抗を諦めて暴力側を受容するために自分を説得する説明を積極的に作り出してしまうこと。変形した心の殻に沿うように成長した精神は、暴力を正当化する理屈を、本当に自分の自由意志で作り出したのだと錯覚する。歳を重ねる過程で、暴力側が正しくて間違ってるのは自分だ、という考えに矛盾しない論理だけを無意識のうちに選択して摂取するようになる。ある日、暴力に侵された彼が自分がされた行為をコピーするように他の誰かに手を上げてしまったときに、彼の中にはもはや暴力を否定する理屈は残っていない。暴力を客観的に認識できない。自分の暴力が見えない。
子供向けアニメと特撮を、四十路ババアになっても息子と一緒に今日も全力で鑑賞しています。ひとつぶで二度おいしい人生ってすばらしい。
息子は男女の違いを理解し、ピンクを嫌がる年頃になりまして、見るのはもっぱら男児向けなんですが、友人の娘にあわせプリキュアとか見る機会があり。
あー女児向けの魔法少女かーなつかしいなー自分も子供のころミンキーモモやマジカルエミとかみたっけなぁーとか呟きながら鑑賞して、その趣の違いに驚いたので。
まずプリキュアの「変身」について。
いやこれ、「変身」じゃなくて「変装」じゃないの? コスプレだよね?
バイキンマンの方がまだ中身を隠す努力しているんじゃないかというガバガバっぷり。いや、大人の汚い心がそう見せているのだろうと必死に自分を納得させて、なるたけ幼女の気持ちを思い出しながら見続けて、違和感を感じました。
その違和感を以下モモと比較しながらつらつら書きたいと思います。
(すみません、モモを知らない世代の方の方が多いでしょうが、80年代に制作された魔法少女アニメです。魔法の国のプリンセスであるモモは、魔法の国を救う為の使命を帯び人間界に降り立ち、プロフェッショナルな大人に変身する魔法を使って夢を忘れた人間に再び夢を見る事を思い出させる仕事にあけくれる物語です)
大人の目線からみたら十二分に子供ですが、低学年の目線では「大人」です。
え? って思われるかもしれませんが、胸もふくらみ手足も長くなり幼女とは明らかに違う生き物になっている少女達は、「小さい大人」なんです。
「だからなに?」と思われるでしょうか。
大人のお姉さん達が、素敵な可愛い洋服を身に纏い、悪いやつらをやっつけてくれる。そりゃあもちろん応援します。でも それは大人の世界の話で、自分たちの世界の話ではないのです。プリキュアたちが学校でするような当意即妙な会話など、身の回りには存在しませんし。
それと共に「悪いやつらを腕力でやっつける」という展開。
むしろ、その爽快感を捨ててしまったらストーリーはひどく退屈なものになるでしょうし、男児向けはそれでいいと思っています。
男の子たちは「自分も努力をすれば仮面ライダーやウルトラマンになれる」と考え問題を腕力で解決しようとするからです。腕力は努力すれば手に入ると思うことができる力です。(実際、うちの息子は毎日修行に励んで、いつかウルトラマンになるのだと宣言しています。男児向けストーリーでも修行や努力を推奨するものが多い。)
これは努力でなんとかなるものではありません。選ばれし勇者だからという、自分の努力や才能とは一切関係のないものです。たなぼたです。
モモが変身するのは「プロフェッショナルな技術と知識をつけた大人」です。
いつか、(そのために努力すれば)手に入れることができるもの。
「魔法で変身する」
ミンキーモモで一番好きだったのが、変身のシーンです。
子供から大人へ。今の自分とは全く違う、でもいつかきっとなれるモノへ変身する。
胸をどきどきさせながら、大人になったモモががんばる姿を応援していた自分。
そこには、自分の、いつか私がとびこんでいく未来の世界の物語がありました。
プリキュアには、素敵な、子供を励まし力づける物語や示唆がたくさんちりばめられています。 歴代監督が商業的にどれだけ魅力でも「大きいお友達」向けにならない様に努力されている事も。
なぜなら、成長した自分は、もう子供の頃に見た物語の細部や台詞は残念ながら覚えていなかったからです。
けれど、子供の頃に見たモモという物語の核になるメッセージは忘れてませんでした。
この点が、自分の(※イタコ中)物語ではないと感じた理由です。
浅い理解と罵られそうですが、幼女は浅い理解で生きる生き物ですのでご容赦を。
モモをつくった大人たちは、現実の世界で悪戦苦闘しながら、それでも、大人になることへの希望を届けようとしてくれたのではないでしょうか。
今までの人生二十年と少し、ひとつも虫歯を作ったことがなかった。親が定期的に歯医者に連れて行ってくれてたからか、自分が甘いものが苦手で煎餅とスルメイカが好きなかわいくねえ子供だったからか、歯磨きを朝晩ちゃんとやる勤勉な人間だからかはわからないが、とにかく虫歯をひとつも作らずここまで生きてきた。いや生きてきてしまった。
一週間前から奥歯が痛くて嫌な予感がしつつもついに今日歯医者に行った。虫歯だってさ!!!!!!!!!!!!!初期だから抜いたりはしないけど削りはするかもだって!!!!!!!!!!!!!!
病気を宣告された瞬間目の前が真っ暗になるって本当にあるんだな。自分の場合虫歯だけれども。
小さい頃はバイキンマンにある程度大きくなってからは友人の虫歯や治療が痛いエピソードを聞いては虫歯に怯えて大人になっても毎日歯磨きちゃんとしてたのにこれだよ。なんで?自分なんかした?削るの?口の中?麻酔付けてくれんの?でも麻酔って治るまで永遠にしてくれるわけじゃないよな、手術終わったら切れるんだよな、てことは痛い思いすんの?それにたぶん歯医者の麻酔って意識飛ばしてくれるやつじゃないよな、口の中削られてんのを感じないといけないの?
控えめに言って無理だ。さっき帰宅して虫歯の事実を噛み締めたら改めて怖くなってきてちょっと泣きそうになった。こんなことなら泣き喚いても親に手を握ってもらってても許される子供のうちに虫歯治療を経験して慣れておくべきだった。経験がないからとにかく虫歯について無知なので、手術台に四肢を拘束された自分に馬鹿でかいドリルを持って迫ってくる歯医者のイメージしか想像できない。怖い。死ぬ。誰か助けてくれ。今から神社に通ったら治らないか?虫歯すぐ治る教みたいなのないかなと思って一応調べてみたけどなかった。当たり前だ。
虫歯が自然治癒することはないのは知ってるので、どんなに怖かろうが次に予約した日に歯医者に大人しく行って治療を受けるのが正解なのはわかってるんだが、このままだと大人にもなって歯医者から逃げるというクソムーブを選びかねない。どうしたらいいんだ。助けてくれ。
人権太郎の名字は「聖(ひじり)」という。「人権」が名字で「太郎」が名前だと度々勘違いされるが、「人権太郎」が名前であり、「聖・人権太郎」でフルネームである。
名付けの親である彼の父は若い頃に裁判官を目指していた。人一倍正義感が強く、幼い頃から裁判官になる夢を周囲に語っていた。高校を卒業すると毎日のように裁判所の前で裁判官を出待ちして「弟子にして欲しい」と頼み込んでいたが、周囲の話では司法試験は一度も受けたことが無いという。そのような制度の存在自体知らなかったらしい。
そんな親に育てられた人権太郎は、とても正義感の強いピュアな人間に育った。TVアニメ『アンパンマン』に登場する敵役のバイキンマンに憤るあまり家のテレビを破壊したことは一度や二度ではないし、中学の修学旅行では旅館のテレビを破壊して強制的に帰宅させられたこともあった。
人権太郎にとってこの社会がとても生きづらい社会であったことは想像に難くない。しかし人権太郎は決して挫けるようなことはなかった。むしろ周りから浮いた存在になることで、彼はますます自分の正しさに確信を深めていった。