はてなキーワード: 流行遅れとは
みなさんが街中やネットでよく目にするような、色々な大クライアントの広告制作に関わっています。
世間では作曲家の一人の過去のいじめ(虐待)問題で大騒ぎですが、
その騒ぎが起きる前、メンバー発表直後の私の個人的な落胆はすごいものでした。
きっと同じように落胆した同じ広告業界の人も多いに違いがありません。
アサインされたクリエイターの方たちは、本当にみなさん才能あふれる素晴らしい方たちです。
きっと、厳しい条件のなかで素晴らしい仕事を見せてくれると思います。
(ちなみに本題とちょっとそれますが、映像監督の児玉裕一さんだけ、MIKIKOさんチームが去ったあとも
制作の仕切りが電通なのは変わらないですが、こういうスタッフィングをすること自体が、
やばすぎるのです。
はっきりいうと、今のこのメンバーでアサインするのは、ご時世的にはとても「古い」「流行遅れ」なのです。
10年前は、このクリエイターの方たちを提案することは間違いがないことでした。
「映像監督は小島さんで、音楽はFPMやコーネリアスにオリジナル曲をお願いできます!」
できあがったクオリティの高い制作物には、各種媒体の取材もおのずと集まり、みんな万々歳でした。
でも。
今、このメンバーをクライアントにドヤ顔で提案する広告マンは一人もいません。
もちろん、個別の方たちを個別の案件で提案することはもちろんあります。
でも。
「日本のクリエイタードリームチームを集めよう!」というオリエンに、
このメンバーを提案したら「君10年前で頭止まってんの?」と鼻で笑われるでしょう。
「まあ失敗はしないだろうけど、安牌を取り過ぎだよねえ。随分保守的だねえ、ちゃんとリサーチした?考えた?」
という意見でしょう。
あなたが、10年前の流行りをドヤ顔で提案されたらどう思いますか?
「いやそりゃ美味いし間違いないけどさあ…」って感じじゃないでしょうか。
それでいうと、リオ閉会式チームみたいな
児玉裕一さんが映像演出して、マリオをリスペクトした制作チームは
大規模イベントを制作する実績も充分で、そして確かに最先端だった。
でも。
その最先端チームが、なぜか内部で瓦解していた。
数々の修羅場をくぐり抜けてきたMIKIKOさんのストレス耐性はすごいはずなのですが、
そして。でてきたこのチーム。
もう内部が、麻痺していて、リスクを取ることができず、制作を楽しんでおらず、
という硬直化・保守化がヒシヒシと伝わってくるのです。
俺はまた「食べラー」をありがたがって食わなきゃいけないのか……!
美味いよ、たしかに美味いけども…!
中学高校時代も当時流行ってたブランドを身に着けたオシャレな子としてそこそこ評価され、
大学から20代前半くらいは稼いだ金の大半を服に注ぎ込んできた。
オシャレな自分に自信があった。
大学あたりからは雑誌も読まなくなった。自分のセンスと好きな服だけで生きていけると思った。
自分の手持ちの服が割と質が良くて丈夫だったので、シーズン毎に数枚、ザラや近場の店で好きな感じの服を買い足しながら、あまりにボロボロになった昔の服は捨てるような運用をしていた。
でもこのあたりから本当は何を買って良いのか分からなくなっていた。
昔の服はどんどん古くなって捨てるしかなくなり、ザラの服はワンシーズンで着るのも恥ずかしいくらい流行遅れのデザインになるように感じて、着られる服がクローゼットからなくなってしまった。
そんな状態で30代を迎えた。
いい服を買い足すのは簡単だ。どこで買えばいいか知っているから。
だけど昔のように服にお金を全振りするような無謀なことはできないので、伊勢丹で値札を見て溜息をつく羽目になる。
伊勢丹レベルの価格帯が無理なら、せめて2、3万くらいのスカートを買いたいとたまに代官山なんかに行っても、大学の頃に憧れたようなお店はなくなっている。
当時買っていた店だって潰れたり、リニューアルして雰囲気が変わったりしている。
あんなに通った代官山が、原宿が、渋谷が、自分の知らない街になってしまった。
知らない街の知らない店に入ることが怖くなっている。
このブランドはどこの何だろう。いくらくらいの価格帯なんだろう。いくつくらいの人を対象にした店なんだろう。
無難な服を着たいのではない。
好きな服を着たい。
それがどこにあるのかも分からなければ、
着こなせる体型を維持できるのかも分からない。
好きな服を着るなら、似合わないと意味がない。
2週かけて傑作アニメを2本、ほぼ毎日各1話ずつ見るというのは、十分贅沢に含まれると思うのだがどうだろう。
なんでそんな事になったのかは今でもよくわからないが、とにかくゾンビランドサガとケムリクサを同時並行で見始め、昨日見終わった。
てか、リアルタイムで話題になる程度に人気だった両作を、1~2シーズン遅れで見ることになった理由の一端は、半年前にこれまたふと始めたアズールレーンに、通勤時間と家で起きている時間の多くを取られたことにあるのは間違いない。
現代人のオフタイムはアニメ・ゲームがごたまぜになって、ユーザ時間の取り合いでしのぎを削るという現実の証左かも知れない。
ちなみにアズレンもずいぶん遅れて始めたあたり、自分が筋金入りの流行遅れなのは確かである。
ともかく、熱心にやりこんでいて気がつけば寒さも緩み、お陰様でゲームも9章まで行って個人的に一段落したタイミングで、魔が差したかのように上述のアニメに見入った次第。
その感想を一言で言い表すなら、とにかくすげー疲れたに尽きる。
出遅れて見始めたアニメを一気見する人は多いと思うが、傑作の理由の1つである密度の濃い作品を、しかも全くジャンルが違う作品を2つ立て続けに見るのは、相当にエネルギーが要ることを思い知らされた。
もちろん、仕事の疲れや駄作につきあわされる徒労に比べたら、遥かに心地よい疲れだったが。
むしろめったに出来ない贅沢な経験という意味で、ここまで素晴らしく心地よい疲れを提供してくれてありがとうと言うべきかも。
なんでゾンビランドサガを見ることになったのかは、今以てよくわからない。
わからないが、当初は物凄い事故に遭ったかのような衝撃、いや笑撃だった。主人公もいきなり衝撃を受けて死んだわけだし。
マジで冒頭の軽トラ、あれ初見で笑わない人なんているのだろうか。
興味はあれど全く楽しむ気ゼロの状態で見て、それでも初っ端から声を上げて笑った作品なんて、もしかすると、ハルヒのみっくるんるん以来かも知れない。
ちなみに2周目もう1回あのシーンを見たら、今度はしっかり悲しかったので一安心である。本来人が死ぬのは悲しいことだし。
さすがは傑作。
ただし、じゃあ2018年のアニメとして、宇宙よりも遠い場所やゆるキャン△、はたらく細胞より凄いかといえば、そこは微妙。
気になったのはラスト3話。ラブライブ!第1期でやらかしたことまんまじゃねーか。
ラブライブ!でもラスト3話は当時から評価が微妙だったのに、また繰り返すってどういうこと?
問題は、あの話を描くことで主人公さくらのファンが増えるのか?という疑問。
この展開の先行者たるラブライブ!で主人公の高坂穂乃果は、件の展開が原因かはわからないが、特に女性ファンからの人気がワーストだったと聞く。
ゾンビランドサガの源さくらは、そこら辺どうなるんでしょうね?
でも、それ以外は本当に面白かった。
1話からどんどん盛り上がるその勢いは、間違いなく2018年アニメでは最高のアツさだったと思う。
そして一番の山場が中盤の6話7話。アイドル経験者の純子と愛、pixivでは純愛コンビと言われている2人のエピソード、まさかアイドルアニメで「尊い」気持ちにさせられるなんて思ってもみなかった。
特に純子の可憐なルックスにお淑やかな喋りと、低くパワフルな歌声のギャップにはやられた。
対する愛の、今となっては懐かしいゼロ年代JKなルックスとキャラに、種田梨沙氏のキャスティングは本当に見事。
無理矢理まとめるなら、これは正しくラブライブ!2.0になるかもと思った(サンシャイン何それ美味しいの?)。別にそれが一番言いたいことじゃないけど。
ともかく2期は見逃せない。今から楽しみにしておこう。
けもフレという「他人の褌」から決別し、ケムリクサを作ったたつき監督はまさしく天才現るという形容が相応しい。
たつき監督の作風の根幹は優しさであるとは各所で言われてきたが、その真骨頂は会話劇だろう。
どうやったらこんなに、不快なキツさのない会話が展開できるんだ?と思わずにいられない。もはや異能という他ない。
赤い木の発端も、その根っこには真剣な想いが流れていることを、誰の言動にも怒りを感じることなく見進められたのは、今振り返るととんでもない完成度と言わざるを得ない。
てか、個人的にはこういう展開を途中で白けず、逆にかなり真剣に見入ってしまったのは、実は色々アニメを見てきて初めてかも知れない。ちゃんと作られてれば面白いんだね。
もちろん、絵も素晴らしい。
物凄いディストピア感溢れる世界なのに、不思議と見ていて退屈だったり辛かったりというのがない。
これまた逆に「ここって、元々こういう場所かな?」と思いを巡らせたのだが、これも個人的には滅多にないことである。
そこに来てラストのあの光景、まさに「驚きの白さ」であり、絵だけで喜びと安らぎが余すことなく表現されていたと思う。
ちなみに最終回といえば最後の歌、エモかった。あんなに歌が神々しく聞こえちゃっていいの?みたいな。
というわけで、たつき監督が未来の宮崎富野押井レベルに到達するまで、頑張って生きてみようと決意した次第。
宮野真守氏・野島健児氏ともに、あんなに難しい人物を完璧に演じていた。
どちらも一歩間違えれば、かなりサムい、イタいキャラになりかねないし、そうなったら作品としておしまいと言っていいくらい、物語上重要なポジションである。
こういうタイミングになると、親父のこの話を思い出す。
うちの親父は、2児の父になってもゲームが好きで、子供にねだられる前に人気のタイトルを買ってくるような人だった。
そんな人だったから、当然ながらドラクエもやり込んでいて、ドラクエ3もやる気まんまんだった。
発売日の1週間前。
当時、デパートのおもちゃ売り場に知り合いがいたらしく。そいつに頼めば並ばずに買えるだろと、取り置きの電話をかけた。
どんな関係かは知らんけど、この人に頼みを断られたことがないとかで、OKしてもらう前提での連絡だった。
しかし、返事は予想に反してNO。
「いくら増田さんの頼みでも、今回ばかりは用意ができません……」
聞けば、ドラクエ3の当日発売分の数が少なく。その全部をお客様に売るため、社員には購入禁止令まで出たらしい。
上司に「たとえ店長が来ても売るな!」と厳命されたとかで、絶対無理ですって断られてしまった。
あー、予約しておけばよかったって後悔したけど、もうどこも予約なんて締め切ってる。
で、当日。
朝起きてテレビつけたら、世間はドラクエフィーバーの真っ只中。
ニュースを見て、親父も完全に出遅れたのを悟ったらしいが、休みまで取ってるから諦め切れず。朝飯もそこそこに大急ぎで支度して、東京のおもちゃ売り場を巡りまくった。
だけど、やっぱり遅かった。
どの店も売り切れで、あんなに伸びていた行列すら、もうどこにもなかった。
それでもないから、さすがに諦めて家に帰ることにした。
疲れ切ってたのがいけなかったのか。
それとも、凹んでたのが悪かったのか。
親父は、なぜか帰りに乗るバスを間違えた。
うわ、最悪だと思いながら、とりあえず家に一番近いバス停で降りて、はたと近くにあるハローマックの存在を思い出した。
最後の賭けで行ってみるか……?
一瞬悩んだけど、やっぱり諦めて家に帰ることにした。
行かなくても、絶対に売り切れてるっていう確信があったんだとか。
すっかり日が暮れた道を、トボトボ歩いてたら、帰り道にさびれたおもちゃ屋さんがあった。
ここは通学路だったから自分も覚えてるけど、流行遅れのおもちゃが、ほこりまみれになって置かれてるような店だった。
そんな店のガラス戸に、朝入ったチラシを裏返して書きましたって感じの張り紙がしてあった。
は、嘘だろ?
こんなちっこい店にドラクエあったの?
……まあ、あったとしても、もうとっくに売り切れてるだろ。
そうは思うものの、親父の気持ち的には、まったく諦めがついていなかった。
で、いっそ介錯してもらうつもりで、その店に飛び込んだらしい。
「あのー、ドラクエ3があるって……」
本当ですか? と聞く前に、じいさん店長が答えた。
「あるよ」
「え、本当に!?」
「あるよ。うちね、1個だけ仕入れたんだ」
「それ残ってます?」
「うん、ここに。お兄さん、これ買う?」
親父は速攻で「買う!」と宣言して、ほとんど引ったくるように袋を受け取ったらしい。
この話はもう30回は聞いてるけど、他のどうでもいい昔話と違って、何度聞いてもおもしろくて好きなんだ。
とっくに還暦過ぎたジジイが、「あの店にドラクエがあったって知ってるのは、近所でも俺くらいなもんだw」って言ってるのがおかしくて、ちょっとうらやましい。
いいなあって思うんだよ。
欲しくて欲しくてたまらなかったゲームを、偶然見かけて手に入れるってさ、きっと最高だと思うんだ。
絶対にダメだって言われただろうけど、連れてってって言ってみればよかった。
そんで、あっちっこっちの店巡ってさ、2人で凹みながら帰ってきて、バス間違えてあの店に入るんだ。
あーもう、なんで親父と一緒に行かなかったんだろ。
権力を持ったキモオタほど有害なものはない。自らの価値観を普遍的なものだと盲信し、横暴と言うべき強引さで、世間にその価値観を押し付ける。なまじ権力がある分、世間も疑問をいだきづらい。横柄な暴君がのうのうと権力の椅子に座り続けるのである。
何の話をしているのかというと、ファッションオタクの話である。もっと言ってしまえば、ファッションキモオタの話である。
オシャレを盲信する連中にとって、服装の流行は一年で終わる。そして連中にとって、流行の寿命は服装の寿命だ。つまり連中からすれば、服装の寿命は一年なのである。そして寿命をすぎた服装は――実用性の有無にかかわらず――無価値とみなされる。
もちろん、「一年前の服など絶対着ない」という筋金入りのファッションキモオタは少数派である。また成長期の子どもなど、服を買い替えざるを得ないような例外もあるだろう。しかし冷静に考えてみてほしい。多くの成人が、一年に一度以上は(下着や靴下のような消耗の早い衣類を除いた)服を買っているのではないだろうか。
まだ着られる服だけれど、なんとなく流行遅れな気がして、なんとなく恥ずかしくて、いつの間にか着なくなってしまう。
私たちの社会では、このような現象が頻繁に生じている。これは明らかに異常な事態である。端的に言って、相当キモイ社会である。ごくごく少数のファッションキモオタが、あたかも己の価値観を正統なものとして吹聴し、ファッションに人生を賭けていない人々の精神を不当に追いつめているのである。しかも被害を受けているのは精神だけではない。不必要な出費を強要し、私たちの生活をも逼迫させているのである。
とはいえ、私は決してオシャレしたい人を否定したいわけではない。少数のファッションオタクが、世間の価値観に干渉せず、ただ気ままにおのれの嗜好を満たすのであれば、私はなんとも思わない。そのような人々に対してまで、「キモオタ」という蔑称をぶつけるつもりはない。単に自分の趣味を追求するだけオタクに対しては、なんら「キモイ」と思わないから。
だが自分の趣味を世間へ押し付けてくるのであれば、それは端的に害悪である。しかもファッションキモオタは、自身の価値観を押し付け"ようとしている"のではない。現に圧力をもって押し付けているのだ。現に私たち一般人の価値観を侵食し、精神を追いつめ、生活を蝕んでいるのだ。「キモイ」という罵倒語を以ってもまだ罵倒し足りないほどである。
大抵の服は、五年は着続けられる。もちろん素材や品質や着かたにもよるが、現に私はデニムのシャツなどを五年以上着続けている。冬用の厚手のズボンにいたっては、もう十年以上の付き合いになる。現実問題として、世間が思っているよりも服は長く着られる。世間全体が、ファッションキモオタに毒されているのだ。
私たちは、戦わなければならない。
自分の財布を守るため。
自分の服を守るため。
新品同然の服を一年で見限るばかりか、そんな所業をグローバル・スタンダードであるかのごとく吹聴する。視野の狭い、横暴な、そのうえ権力を持った、有害なキモオタ。連中を社会のスタンダードから引きずりおろすために戦わなければならないのだ。
にもかかわらず、これまで「キモオタ」という言葉で攻撃されてきたのは、むしろ権力のない側だった。彼らはようやく存在を許されるようになったものの、せいぜいネットの限られたコミュニティ内で吠える程度の犬だった。最近ようやく権力に対して噛みつける程度の立場になってきたようだが、あいかわらずネット外への圧力は微弱である。
ファッションキモオタは、自身のキモオタっぷりを棚上げして、権力のないオタクを「キモオタ」として排撃してきた。しかし真にキモオタとして指弾されるべきは、ファッションキモオタである。オシャレを普遍的魅力と盲信し、世間にその価値観を強要する連中である。
私は、横暴で強権的ではないオタクを「キモオタ」とは呼ばない。繰り返すが、ファッションキモオタが自らの価値観を世間へ押し付けるのを止めさえすれば、ファッションは大いに結構である。しかし、オシャレという基準に従わない者を差別する思想をばら撒き続ける限り、私はファッションキモオタという罵倒語を使い続けるつもりである。
世の女性フォーマル服にはビジネスとも結婚式・葬式とも違うママスーツ(子供の入学式・卒業式などでママが着る服)というジャンルがある。
これがまた色々ルールが決まっていてめんどくさい。
「お祝いの場だからビジネスのように地味過ぎるのは不可」「でもあくまで子供が主役なので目立ちすぎるのも不可」と言う思想が根底にある。
んで世の常識から外れると入学初日からあそこのママは常識がないとヒソヒソされてレッテル貼られるわけ。
普段全身ユニクロな為に手持ちで着れるものなど何もなかったので
スーツバッグ靴コートと買い揃えたら16万かかった。1日しか着ない服の為に。
特別高級品という訳ではなく、デパートの普通の売り場にあるようなものだけど。
(正確にはスーツ以外は入卒以外でも「小奇麗な服装」が必要な場なら着れるようなものにしたけど、今の所そんな場に行く予定はない)
アホくさい。物凄くアホくさい。
アメリカの入学式に出た事があるけど、親は皆適当な恰好(それこそジーンズとか)だったよ。
日本死ね。