はてなキーワード: Hellsingとは
正義。力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。
正義のない力は 非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。
そのためには、正しいものが 強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。
そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。
なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
調べてみて貰えばすぐに分かるが、あれは正義ではない
以前、自分はVictimGirls3という作品に触れる機会があった
朝凪氏の描いたもので、ROのキャラクターが触手モンスターに媚薬を打たれて快楽墜ちをし、同胞を巻き込んでいくと言う話だ
作中、女の子がおぞましい触手を恍惚の表情で見つめ、キスをし、舌先から針を打ち込まれてしまうシーンがある
そこには尊厳はなく、正義はなく、倫理はなく、道徳も信仰もなかった
それを良く覚えている
朝凪氏はそれから、その世界観を崩さずに現在まで活動を続けている
緑のルーペ氏はどうだったのだろうか
商業的に氏が有名になった作品は、初単行本の表題作である「イマコさんシリーズ」だろうか
氏の作品にも、人が普段は忌避するような倫理観の冒涜が綴られている
作品内での出来事だと分かってはいても、読むことによって何らかの"汚染"が始まってしまうような感覚
それが、氏の作品には匂っていた
ただ、それは今になって思うことなのかもしれない
なにしろ、「イマコシステム」ではその冒涜にも「すべてはイチナの妄想であった」という解放感や救済感があったからだ
まあ、初単行本と言うことで氏本人が自重したか、編集に止められたのかもしれないが
また、次の単行本である「ガーデン」でも基本の傾向は変わらなかった
人の持つ倫理観を侮辱し、柔かく大切に思うものを徹底的に凌辱し、その背徳感で快楽を貪る
前述の朝凪氏の作品もそうだが、赤卵氏の作品にも通ずるものがある
そこが氏のバランスのとれた所だと思うし、作品の巧さに繋がっているのだと思う
どこまで意識しているのかまでは個人の人格の話になってしまうが、"それだけではない"というのが分かっているのだと思うし、センスが良い
きれいはきたない、きたないはきれい。闇と汚れの中を飛ぼう。
ウィリアム・シェイクスピア著「マクベス」より魔女のセリフ
まさに、この言葉の通りだったのだと思う
何も知らない可愛らしい性欲を掻き立てられるような 女の子が
快楽に負け、自分の倫理観や尊厳や未来を無慈悲かつ理不尽に奪われ穢される
その背徳感を描き切っている
怒りや悲しみ、時として性欲を
冒頭の引用を読み返してほしい
人はきっと、綺麗さを信じ込むことはできない
だから人は他人の善行にケチをつけるし、美徳には汚点を加えたくなる
しかし逆に、それは人が完全には堕ち切らない事をも意味するのだ
それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
今回の作品「宇宙人の冬」では、主人公の青沙マコと地球人には救いがないだろう
朝凪氏がVictimGirlsで描くような救いのなさだ
おそらく、だからこそ、氏はこの作品を全力で描かざるを得なかっただろうし、今まで描けなかったのだと思われる
「それを 打ち倒さねば 己になれない」
そのために何もかもを引っくり返して叩き売りだ
そうだ 500年前の俺も! 今のお前も! アンデルセンも!! あの少佐も!!
私と闘いたかったんだろう?
でなけりゃ一歩も前に歩めなくなったんだろう?
進む術も知らんのだろう?
無用者になるのが怖いか!! 老いが怖いか!!
忘れ去られるのが怖いか!!
ジョンブル? ふざけるな!! ふざけているのはお前だ!!
この作品は、間違いなく氏にとっての闘争だったのだ、打ち倒すべき何かだったのだと思われる
そして、氏がこれを描くにあたっては、あるいは年月以外の何が介入していたのだろうか
それが気になる所である
取り消し線の付け方の訂正
引用元の明記
改行の追加
別エントリにて追記
ふと思ったのだが「イマコシステム」におけるイマコが時折"黒以外の装飾"を着けているのは意図的なのだろうか
「クロミツイマコ」には「常に真っ黒の服しか着る事が出来ない」というキャラクター的ペナルティを持つ。
その観点で言えば、商業において「クロイミツイマコ」は登場していない
ぱんつも装飾品に含まれるのだろうか?クロミツイマコの下着絵を確認できないので分からないが、黒ぱんつということなのだろうか、背伸び感が出ていて素晴らしい
「イマコはクロミツイチナと出会わない限り幸福になれない」というキャラクター的ペナルティを持つが
このシステムと、イマコとイチナのキャラクターを流用したのが"イマコシステム"だったのだと思われる
荒巻「さっきから聞いていたが、外部記憶装置無しにはさっぱり付いて行けない会話だな。
ここのエロ本は全て読んだのかね?」
「そこまでは」
とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
本当に色々あって、頭の整理も全然つかないので、まあ脳内整理半分言いたいだけ半分で、書く。
まず、彼女(N)にフラれた。
しかもプロポーズを断られてその流れでふられるという、わりと残念な形だった。
去年だったら喜んでうけた、だって。
そんなモノ、なんだろうなあ。
まあプロポーズの言葉が軽すぎたし、遊びすぎて現時点では貯金も殆ど無かったし、「現実的でない」と言われても、まあ仕方がない。
ていうか僕が悪い。
どうも僕は軽薄らしい。悩みとかを全然話してくれなかったのが寂しかったらしい。Nは行っていた。
そうなのか。そうなんだろう。
そんなモヤモヤを抱えながら、次に久々に昔の彼女(Y)に出会った。
いや、出会ったという表現は少しおかしい。説明するのは難しいのだけれど、まあ同窓会みたいなものであったし、そこに来るのも知ってはいたから、「出会った」みたいな偶然を装うのもアンフェアだろう。
ちなみに、Yにもフラれている。その後はしばらくメールは続いていたのだけれど、新しい彼氏ができた際に、「金輪際会わない」という、割とびっくりするメールが来て、それからは本当に会ってなかった。
多分、3年前くらいだな。
まあ、久々にあって、意外にも向こうから軽く話しかけてくれた。その夜、酒の勢いもあって昔の番号に電話をしてみたら、意外にも繋がった。
そして、久々に会う約束をした。YのPCに家に余ってるOfficeを入れてあげる、というまあ予定だ。
ついでにTwitterのアカウントも見つけたので、フォローをしたりもした。Yは割とオタク度が増していたけれど、生来可愛いので(特に男子ウケする可愛さだ)なんかアイドルっぽいポジションになっていて(歌とか歌っていた)、割とびっくりしたりした。
明日、Yと会う約束をしていたのだけれど、昨日風邪で打っ倒れたのをTwitterで知って、大丈夫かな、と電話したら、途中で切れてそっから連絡取れなくなってしまった。
(後でメールを送ったら一応返事はあった)
ま、そんなに好かれてはいないようだ。ちょっと期待していたけれど、まあ良いカモな感じでOfficeを献上して終わるんだろーなー、という予感はした。
でも、電話に出てくれなくなったときに情けないくらいに悲しくなった。
Nにふられたのでも泣かなかったくせに、このときはちょっと泣いた。
まあ、そんなこんなで、うっすらは気づいていたけれど、分かった。
自分は、なんだかんだでYのことを全然忘れられていないんだなあ、と。
もう、とんでもなく、好きなんだなあ、と。3年会わなくて、ここまで好きでいられている自分に割とビックリする。
そりゃあ、Nに真剣味がないと言われるよ。
心の底に、ずうっと別の人を想っていたんだから。
男ってやつは、まあヒドイもんである。本当に。
名前を付けて保存、なんてもんじゃない。心のなかではずうっと編集権ロックしてるんだから。ガベージコレクトすらできやしない。
ちなみに、Yは初めて付き合った人でもある。
本当に、どうしようもない。足掛け、色々あっても、もう10年好きでいることになる。
まあ、Yには、アッサリと嫌われてしまう予定だけれど、まあ一応気持ちくらいは伝えておこうと思う。
「勝機はいくらだ 千に1つか万に一つか 億か 兆か それとも京か」
「それがたとえ那由他の彼方でも 俺には充分に過ぎる。」
(c)Hellsing
オトナアニメの新しい号が出てたので、流し読みをした。
俺はオッサンなので、感性が枯れてきていて、最近アニメに飽きてきているのだが、惰性で読んでいる。
曰く、とらドラはリア充アニメで、平気でリア充がアニメを見るような時代になった。若手の作り手もリア充になっている。その結果、つまみ食い的に話題作に参加することが目的のような若手が多くなった。一本に情熱を注がないリア充が多くなったことに、アニメの危機を感じる。のような内容。(微妙に違っているかも)
どこかで聞いたことがある話だ~。(奥田民生)
一昔前の、ネットサービスに身を投じる若者などを思い出すね。・・・今は、iPhoneか。
でも、確かに、ヤマカンの危機感も分からなくもないけど、何か違うような感じがするんだな。リア充化というのは、メジャー化であり、TVアニメがリア充になるのは喜ぶべき事だと思う。裾野も広がる。多分、自意識過剰で、暗い情熱を持っている若者は、ひとけのない自分の居場所を自分で作ると思う。例えば、HellsingのOVAのように、無意識的にか、意識的にかは別にして、人が避けて通るような場所を自分の有利な立ち位置として移動してしまう。というか、そういう体質になっていますから。(体験的に)
ヤマカンも高学歴だし、本人が自覚している以上にリア充だったと思うので、その辺に想像力が及ばないのは仕方が無いのかも知れないが。
諸君 私はサイエンスが 好きだ
諸君 私はサイエンスが 大好きだ
帰納法が好きだ 演繹法が好きだ 思考実験が好きだ 実証実験が好きだ
代数学が好きだ 関数解析学が好きだ 集合論が好きだ 統計学が好きだ 情報理論が好きだ
Unixで Linuxで MatLabで Mathematicaで C++で Javaで 紙と鉛筆で 口頭で
全てのプラットフォームで行われる ありとあらゆる論証行為が 大好きだ
数列をならべた 並行スレッドの一斉実行が ファン音と共に他のプロセスを reniceるのが好きだ
ふと思いついて計算してみたモデルが 想定していた通りの結果をはじき出した時など 心がおどる
Athlonの64bit(フィア・ウンド・ゼヒツィヒ)でフェドラ7を使うのが好きだ
某M木先生さー、何でもかんでも「脳科学で説明出来ます」って擬似科学入ってるよねー、と言われた時は 我が意を得た様な気持ちだった
ラグランジュの未定乗数で ハミルトンの原理の拘束が表現されるのを知るのは 楽しい
リゾラッティの ミラーニューロンに関する基調講演を聞いた時など 感動すら覚えた
還元主義のfMRI万能論者達の発表が 質問攻めと共に叩きのめされる様などはもう たまらない
居並ぶフックス型微分方程式が 私の押したEnterキーとともに
金切り声を上げるCPUに あっという間に計算されるのも最高だ
哀れなM$オフィスユーザー達が 雑な数式エディタで 健気にもフィッツヒュー・南雲モデルの方程式を書こうとしている時に
PCがフリーズして ドキュメントが過去5時間分のテキストごと木端微塵にされるのを見ると TeX使いは ちょっと優越感を覚える
露助の教授に「あなたの理論は間違ってる事が(ロシアで)20年以上前に証明されていてねぇ」と指摘されるのが好きだ(ラボ内だったからな)
必死に守るはずだった仮説が反証され 実験の不備が指摘され 論文がリジェクトされるのは とてもとても 悲しいものだ
米国の物量(研究資金的な意味で)にものを言わせた研究所に 自分と同じ研究内容を先にPLoSに発表されるのだけは 勘弁だ
締切り(近々だと1月に1こ)に追いかけられ 太平洋標準時だからこっちの朝4時まで大丈夫!と徹夜するのは 体力的にそろそろ無理だ
君達は 一体 何を 望んでいる?
情け容赦のない 鬼の様なピアレビューを 望むか?
並列処理の限りを尽くし 三千世界のCPUを焼き尽くす 嵐の様なシミュレーションを 望むか?
「D論(クリーク)!! D論(カフェイン)!! D論(メンタルヘルス)!!」
よろしい
我々は満身の 力をこめて 今まさに スライドを指し示さんとする レーザーポインタだ
だが この暗い研究室の中で 3年もの間 堪え続けて来た 我々に
大論争を!!
一心不乱の大論争を!!
。。。。えー、
「男が出来る気がしない」と、 http://anond.hatelabo.jp/20081127063438 を書いた増田ですが、
どーせ釣りだろと言われた/予想以上にHELLSINGに反応してくれた人がいた/NIPSに持ってかなきゃ行けないスライドがいつまでたっても終わんない/ので、ついカッとなってやった。反省はしている。
『HELLSING』5巻における少佐の「さあ!! 諸君!! 殺したり殺されたり死んだり死なせたりしよう」という発言、ある意味では究極の自由主義だよなあと思う。もし吸血鬼化したりして不死者になり、死ぬことが絶対的な損失でなくなるのならば、殺したり殺されたりすることもまた自由の範疇に含まれるようになるのではないだろうか?
「好き勝手に振る舞う」人は、他者から「好き勝手に振る舞われ」ても文句が言えないという不自由を負うことになるので自由ではない。単なる弱肉強食の社会を「ある意味では究極の自由主義」というのはおかしいと思う。『動物たちは究極の自由主義者です』と言い換えてみれば、そのおかしさがよく分かると思う。
特に弱者において、『自由』がこの世界ではひどく簡単に踏みにじられたり失われたりするという指摘はとても正しい。だからこそ、弱者においてまず自由が実現していない社会を「自由な社会」だとは思わないし弱者の自由を踏みにじる形で強者の自由を実現させかねない考え方を「自由主義」と呼ぶのは間違っているのではないだろうか。「弱者の権利」を主張して殺された多喜二の死体写真は、僕も見たことがある。
ただし、大元の「もう好き勝手に記事が…」という記事に対して切れるのは、これとは別の意味で賛成だ。なぜなら、元記事は「はいはい、すいませんでしたー」とふて腐れてみせることで読者を脅迫している。つまり『強者』に他ならないからだ。強者がその立場でもって批判を封殺しようとしているだけに過ぎない。一度言論の場で主張をはじめたら、ふて腐れて相手を脅迫するのでなく、論理には論理で立ち向かうべきだ。だから、ああいうふて腐れを批判するには「スネてんじゃねーよ馬鹿」で充分であり、「批判もまた自由だ」という論を立てるべきではないと思う。
読んでるよ。その歴もエロのほうも。
「HELLSING」で有名な平野耕太さんを足して2で割ったような感じ、ってのは
今回改めて知った。
http://www.mars.dti.ne.jp/~taimatsu/common/book/ginga.htm
>今の時代の精神の切ない部分をうまく表現した・・・
http://picnic.to/~ohp/review/1997_10/tenkirin.htm
>描線やストーリーなどについて自分に妥協を許さず、つねに自分を責め苛んでいるかのような作風は・・・
って感じ。