2008-05-25

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080524/1211593999

HELLSING』5巻における少佐の「さあ!! 諸君!! 殺したり殺されたり死んだり死なせたりしよう」という発言、ある意味では究極の自由主義だよなあと思う。もし吸血鬼化したりして不死者になり、死ぬことが絶対的な損失でなくなるのならば、殺したり殺されたりすることもまた自由の範疇に含まれるようになるのではないだろうか?

「好き勝手に振る舞う」人は、他者から「好き勝手に振る舞われ」ても文句が言えないという不自由を負うことになるので自由ではない。単なる弱肉強食社会を「ある意味では究極の自由主義」というのはおかしいと思う。『動物たちは究極の自由主義者です』と言い換えてみれば、そのおかしさがよく分かると思う。

特に弱者において、『自由』がこの世界ではひどく簡単に踏みにじられたり失われたりするという指摘はとても正しい。だからこそ、弱者においてまず自由が実現していない社会を「自由な社会」だとは思わないし弱者の自由を踏みにじる形で強者の自由を実現させかねない考え方を「自由主義」と呼ぶのは間違っているのではないだろうか。「弱者の権利」を主張して殺された多喜二の死体写真は、僕も見たことがある。

ただし、大元の「もう好き勝手に記事が…」という記事に対して切れるのは、これとは別の意味で賛成だ。なぜなら、元記事は「はいはい、すいませんでしたー」とふて腐れてみせることで読者を脅迫している。つまり『強者』に他ならないからだ。強者がその立場でもって批判を封殺しようとしているだけに過ぎない。一度言論の場で主張をはじめたら、ふて腐れて相手を脅迫するのでなく、論理には論理で立ち向かうべきだ。だから、ああいうふて腐れを批判するには「スネてんじゃねーよ馬鹿」で充分であり、「批判もまた自由だ」という論を立てるべきではないと思う。

どんな批判であれ無制限に許されるとしたら、それは単なる弱肉強食社会にしかならないだろう。常識的に考えて。

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  • 論理には論理でたち迎えというのも弱肉強食では?ディベート力で格差が出るだけ。議論しない自由もあるはず。

    • 「一度言論の場で主張を始めたのなら、」という前提つきの話。

      • 一度はじめたらずっとやらなきゃいけないってのは不自由では? 途中でやめる自由もあるはず。

        • 一度はじめたらずっとやらなきゃいけないってのは不自由では? 途中でやめる自由もあるはず。 そうじゃないと時間的強者しか主張する自由がなくなってしまう。 「最初に殴り始め...

          • 「最初に殴り始めたら、ずっと殴り合わなきゃいけないってのは不自由では? 途中で『もう殴り合いやめようぜ』という自由もあるはず。 じゃないと体力的強者にしか人を殴る自由が...

            • ヒント: 殴り合いする覚悟がないなら、そもそも人を殴るべきではない。 あと、体力があろうがなかろうが、きちんとルールを決めて行えば体力的に劣る人間だって勝てるわけで、体...

              • むしろ、ルール決めた方が体力あるヤツの方が有利だよ。ルールの外側を使えないからね。 てか殴り合いとの類比がそろそろ限界っぽい気がするw

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