はてなキーワード: 擬似科学とは
高卒と同時にメンズエステで働く。正直可愛くは無いが、若さゆえモテて稼げるも、付き合ったら要求が高過ぎて3ヶ月ぐらいでことごとくフラれる。20歳ぐらいでMLMに手を出し、メンズエステでの稼ぎが全てなくなる(自爆営業のため)。
25ぐらいで昼職+スナック+パパ活を始める。同時に婚活を始めるも、20歳頃にモテていたため、さらに性格のヤバさ(ワガママ)に磨きがかかり、非モテとなり始める。あと「お金をもらわずにセックスするのが耐えれない」とも言っていた。
アラサーで遠隔レイキなどのスピリチュアルにハマり、民間資格に何十万も払ったり、各地のパワースポット巡りを始める。当然、金も足りなくなり、昼職とパパ活で稼ぐ。風俗は本人のプライドが許さなかったみたい。
その後、30過ぎに擬似科学の「医療機器」を数百万で販売している会社に入社し、スピリチュアル関連の方々に嬉々としてセールスをしている。本人は幸せそうだが、「〇〇が治る」「コロナには自社サプリが効く」的な発言も繰り返しており、色々と薬機法的に綱渡りな状態だと思う。
なんか安倍元首相とか自民党が宗教と密接に関わって、宗教に忠誠誓って操られてるらしいんだけどさ、
ということは、昨今の宗教って科学知識が左翼の知識人よりよっぽど上じゃないか?
反核こじらせて放射能デマからフクシマ差別を引き起こしたり、ゼロコロナ、反ワクチンで馬鹿を露呈したりさ、
ガリレオの故事のように非科学的なことをいうのが宗教の専売特許だと思ってたからビックリだよ
(当時は、フクシマの差別、人権より反核の方が大事なんだと驚いたもんだよ)
宗教以下のくせに、いっちょまえに学術会議にポスト要求すんなよな、笑わせる
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
全然役立った気がしないぞ
確かセンター古文満点だったし、漢文も1ミスくらいだったから、少なくとも「古典が大の苦手」ってことはない あんなんカンで結構読めるしな
俺の「活きた」のハードルはかなり低い
ナショナルジオグラフィックとか見てて、森の中にひらけた場所があるのが映ったとき「あ!ギャップだ!ヤッター!」と思えればもうそれは活きた判定になる
そうすると、かなり色々活きてるんですよ
現代文:評論文を読もうという気になれる 漢字が読める 問題に使われた小説を読もうと思う
科学:科学番組を観てて楽しい 擬似科学を警戒できる ドクターストーン的な作品をより楽しめる
英語:洋楽を聴いて楽しめる 洋画を原語で見ると楽しい 英語圏インターネットを楽しめる
数学:日常のなかでちょっとした確率計算とか測量の真似事みたいなことをして楽しめる お金の計算にも役立つ
ほら、ホントに色々役立ってるんスよ
俺が日本史に興味薄いからそっち系コンテンツに触れることが少ないっていうのももちろんあるけど、それにしたって活かす機会がなさすぎる
「枕草子のパロディでウケられる」みたいな話を古典学習のメリットとして出してくる奴いるけど、枕草子くらいのメジャー作品って逆に古典の時間にあんましっかりやらなかっただろ!
ああいうのはむしろ中学校の初期とかにサラサラっと通すだけなんだよな そのころの教科書にはだいたい結構しっかりした現代語訳も載せられていて、ホントに入り口っぽい感じの運用なんだ
で、そういう体験ツアーみたいな感じで読むメジャー作品の話しか出てこないんだよマジで 古典の話するときはさあ!
とりかえばや物語とか落窪物語とかそういうのもやった記憶はうっすらあるんだけど、ホントにうっすらした記憶なんだよな
「古文ってほとんどカスだな……昔の日本人、ゴミだったのか……」みたいなことを思いながら読んでた記憶しかない
分からないからつまらないとかじゃなくて、文意をしっかり解釈できた上で、「で?」という感想しか残らないんだ
つうか、かきつばたを見て都を思い出すのはいいけどよ、そこで「この気持ちを歌にしよう、そこにかきつばたの頭文字を織り込もう!」ってなるのがホンマに気色悪いねん
ミュージカルじゃねえんだから気持ちをいちいち歌にするな 薄ら寒いねん 俺はもっと自然な感情の発露が見たい
歌が技巧的だと「こいつこんな小手先のテクニック弄してる余裕あるし、実は全然感情動いてねえだろ」ってなる
逆にシンプルな歌だと「クソつまらんヘタクソな歌だ、こんなん読むくらいなら黙ってた方がマシだろ」ってなる
和歌文化、ホントに心から嫌いなんですよ マジで気色悪い 死んで欲しい(もう全員死んどるか!ガハハ!ざまあみろ!!)
友蔵心の俳句と本質が同じなんですよね オッサンが事あるごとにヘッタクソな俳句を詠んで聞かせてきたらマジでぶち殺したろかと思うが、古文読んでると常時その気持ちになる 常時
あと、なんかムダに引用みたいなのを会話に織り込んでた記憶もある 内輪ネタへのリファレンス=賢さみたいなノリ本当にキモい 淫夢ネタでゲラゲラ笑ってるのと何が違うのか
そんで漢文だよ
漢文、さすがにバカでけえ中国産なだけあって内容はやや面白いことが多い そこは認めよう
でもこう、なんつうか、儒教的?すぎるんだよな
基本的にオチというか教訓が読めるんだ この展開ならこういう教訓を引き出す方向に行くだろうっていうのが容易に読めてしまう こぢんまりと纏まってるんですよね サプライズがない
そんで、あの形式をわざわざ読めるようになる意味がマジでまったく感じられない
返り点とか漢文の授業以外で一切見たことねえもん 最初から書き下して出してくれればいいじゃん
古文にも共通する話だけど、漢文ってもう増えないじゃん いや、増やそうと思えば増やせるだろうけども、増やす意味がない
中国語をそのまま読むわけでもなく、かといって日本語でもなく、なんなんだ?マジで
というか、機械的に書き下せるものをワザワザあの若干読みにく形で出してくる意味がマジで分からない
漢文、自転車でいうところの補助輪みたいなもんだと思ってるんだけど、補助輪つき自転車でトラックをビュンビュン走らされてるような違和感がある
ガッツリやりたいなら補助輪をとれ 軽くやりたいならそれなりの軽さにしろ 半端やねん全てが
つか、内容、古文よりマシとはいえ意味わからんのも多いしな なんか突然神仙要素が出てきて、昔の中国ってこんなノリなんだ〜…ホーン…と思いつつ終わることが多かった
とにかく、古文漢文、文法からガッツリやるようなものではないんだよな
それよりスペイン語でもやったほうがいいですよマジで スペイン語やったらイタリア語・ポルトガル語あたりもうっすら分かるようになるし、英語への理解もより多角的になる感じあるもん
¡Que mueran los hatenars! ¡Os odio!
ホラかっこいいじゃんスペイン語
マジでこんなクオリティの和歌ときどき出てきてたからな 問題用紙破り捨てたくなるもん
古文、いくら読んでも軽蔑の念しか出てこないんだよな 垣間見文化とかもキモいし、とにかく全体的にキモすぎる
あと平安あたりだと都なんかに住んでる貴族しか出てこないのも腹立つ 所詮金持ちのボンボンどもが暇にあかせて遊んでるだけやんけ
本当に嫌いなんだ俺は
結局これに尽きるんだよね。
擬似科学って科学には反してるけど政治的正しさには反していない。
擬似科学がヘイトスピーチや歴史修正主義に加担した?してないよね?
反擬似科学の人達はわかっていないけど正しさって一つじゃないんだよ。
科学的正しさと政治的正しさのどちらに重きを置くか、ってこと。
そもそもさ擬似科学批判って被害者へのセカンドレイプでマンスプレイニングでトーンポリシングなんですよ。
お前たちは科学リテラシーのない知的弱者だから騙されるんだ、って間接的に言ってるわけ。
あなた方にそのつもりはなくても被害者はそう受け取るの。これって政治的に正しい?正しくないよね?
逆に擬似科学は弱者に擦り寄っている寄り添っている。科学的に正しくないので問題は解決しないけどその分不安感を軽減している。
世間にはそう言った類のものが溢れており、それなりに体系化されているし
漢方だったりインド薬学だったり、嘘とまでは言い切れないものだってたくさんあるわけだしね
整体の流派だったりツボだったりも、まるで関係ないわけでもないだろう
けどそういったものを読みかじり聞きかじりした知識から、勝手にアレンジして適当なことを言うのはやめてほしい
適当に思いつきで言ってる話というのは、言い方話し方でなんとなく分かるもんなんだ
(江原啓之の話し方もそんな感じだったけど、似たような感じ)
一気に白けて、そのクラスの全てが胡散臭いものに感じられてしまう
ストレッチなんかの人体に関する知識は間違ってないんだろうし、そこだけちゃんとやってほしい
「ストレッチのクラスのインストラクターが、たまにオカルト的な話題をする」じゃなく
アヤシゲな話に騙されない為にも、何が擬似科学で何がそうじゃないかを見分ける能力を身につけるのは
重要な事だと思うのだが、擬似科学を扱ったサイトを見てみても、そういった事を書いたのは少ないし、
あったとしても「科学リテラシをつける」みたいな感じの「そんなのできたら苦労しないよ」ってなのが多い。
そこで私がいつも使ってる、とても簡単な擬似科学判別方法を紹介する。
といってもかなり荒っぽいものだから、後述するようにうまく当てはまらない場合もあるけど、
擬似科学を疑う最初のステップとしては非常によい方法だと自負している。
その方法は、「これまでの研究をくつがえした」と言ったら、とりあえず眉に唾をつけるというものだ。
で、なぜこの方法がうまくいくか。それはそもそも科学がどういうものかを考えてみればわかる。
科学、とくに物理学の素晴らしさは、物理学のいろんな分野が膨大な現象を説明し、数百年もの間に膨大な工業製品に応用されているにも関わらず、
定説となった科学理論はどれも、世界中で行われた膨大な数の実験と、膨大な整合性確認という強烈な淘汰で勝ち抜いたものだ。
だからこそこうした驚嘆すべき整合性があり、その整合性こそが科学の根本的価値の一つである。
であるのだから、「これまでの研究をくつがえす」などという事は基本的に起こらない。
だって過去の理論がくつがえったのだとしたら、それってそれを実証した膨大な実験が全て実験ミスだったって事でしょ?
そんな事ありえるはずがないのだ。
…こんな事を書くと、「相対性理論はそれまでの理論をくつがえしたじゃん」って指摘が入りそうだけど、これは認識が間違っている。
(本論とは関係ないので興味の無い人は「話を戻そう」の行まで飛ばしてください。)
これはちょっと説明を要する。まず相対性理論以前の理論ってのは、物体が「常識的なスピード」で動いているケースを扱ったものだ。
ここで「常識的」ってのがどの程度なのかは略すが、時速1000キロくらいでも何ら問題ない。
それに対し、相対性理論ってのはさらにずっと速く秒速30万キロ(=光の速度)程度のものを扱った理論だ。
ってなわけで相対性理論はそれまでの理論と適応範囲が違うので、決して前者が後者を「くつがえした」わけではないし、
過去の実験も全て物体が常識的なスピードで動いているケースのものなので、尋常でない速度を扱った相対性理論とは矛盾しない。
(相対性理論が示したのは、それまでの理論が適応できる範囲には近似の点から見て限界があるという事。)
むしろ相対性理論が作られた時求められたのは、それまでの理論や過去の実験結果との整合性だ。
前にも言ったように、整合性が取れてなければ、過去の成果が全て実験ミスだったという無茶な結論になるからだ。
…話を戻そう。
ってなわけで、科学の理論は基本的にはくつがえされないし、「これまでの理論をくつがえした」と称するものは大抵単なる大嘘だ。
だから前述の方法は大抵の場合、擬似科学のよい判断基準となる。
しかしこの判断基準も絶対ではなく、うまく擬似科学を判別できないケースもある。
最後にそれを指摘して本稿を終わろうと思う。
この場合はまだ科学の側が準備不足なので、「これまでの理論がくつがえる」事もありうる。
しかしこうしたケースではそもそも正しい理論がなんなのか誰も知らない状態なのだから、
いずれにせよ眉に唾つけてかからねばならない事には変わりが無い。
もう一つのケースは何らかの理由で実験がしづらかったりデータがとりづらかったりする分野の理論の場合。
(例えば医学では倫理的理由で実験ができない場合があるし、深海の奥底のように人類が到達できなくてデータが取れない場合。)
前述のように科学の信頼性は実験とそれを支えるデータにより担保されているので、
こうしたケースで完璧な信頼性を保証するのは難しく、「これまでの理論がくつがえる」事もありうる。
しかしこうしたケースであっても前述の擬似科学判定法はある程度よい基準になる。
なぜなら、科学の進歩は普通の人が考えるよりもずっと遅く、10年かかってやっと一歩進むか進まないか、
残念ながらテレビを見ていると自称・科学者達が「これまでの理論がくつがした」と称して
怪しげな自説を言っているのを頻繁に見かけるが、
科学の進歩が数十年単位である事を考えれば、こうした自説の大半は間違いなのだ。
だから「これまでの理論がくつがした」ものにはいずれにせよ眉に唾をつけ、
はじめて新説をちょっと真面目に調べてみる、というくらいの距離の取りかたでも十分では無いかと思うのだ。
追記:
いうまでもない事だが、本稿がいいたいのは、「「これまでの理論がくつがした」といったら大抵は擬似科学」というものであり、
「「これまでの理論がくつがした」と言わなかったものは擬似科学ではない」というものではないので、その点は注意。
さらなる追記:
本稿はあくまで「科学にあまり詳しくない人が努力せずに疑似科学を見分ける」という視点で書かれているので
論を簡単にする為細かいところで色々とごまかしたのだが、その辺を的確に指摘してくれた方(http://anond.hatelabo.jp/20130821065224)がいるので
興味のある方はそちらも参照ください。また同じ方の指摘により、誤解されそうな部分を微修正した。指摘してくれた方、感謝。
そんなのでは萎えないか?感情移入できないんじゃないか?」という問題指摘が
>http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1719416.html
>主人公が戦いの中で強くなる、強さを見せるというのはアニメや漫画における
>爽快なシーンですが、その強さの理由に「キャラクターの血統」といった背景が関係することも
>多いかと思います。中国オタクの中には「強い理由が血統」ということについてちょっと
>考えてしまうこともあるらしく、中国のネットで話題になっていました。
>考えてみると日本の作品の主人公の強さって、結局は血統で決まってない?
>強いキャラはみんな「良い血統」という背景がある。主流な少年漫画を見てみれば、
>ルフィもナルトもゴンも一護もリクオもハッキリと血統による強さとなっているし、
>コナンなんかでも同じ分野で優秀な親の才能を受け継いでいる。
>優秀なキャラには、優秀な血統が背景としてあることが多いね。ここまで多いと、
>この設定が日本人の感覚独自の強い説得力を持っているのではないかと考えてしまう。
>血統か……特に印象的なのは「NARUTO」かな。ロック・リーはどうすればいいんだ……
>ジャンプ系だと、「るろうに剣心」が血統による強いキャラってのが出てないね。
>ただ、あれは時代設定的に明治維新というそれまでの封建体制が崩壊した時代と関係するから
>血統重視のキャラが出ていないのかも。(続く)
>http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0629&f=column_0629_029.shtml
>少年漫画の範疇ではないけど「ベルセルク」のガッツは血統とか全く無いキャラだね。
>言われてみればああいうのは珍しいかも。日本のアニメは昔からそうだぞ。
>お前ら「一休さん」が単なる片親しかいない子供だと思っているのか?
>一休は南朝系天皇の私生児で、出家しなければ大きな問題になっていた。
>それと単なる寡婦だと思われていることの多い母親も藤原氏の血統だから、
>全てが血統によるものではなくても、本人の努力や師匠的存在、育った環境、過去の
>経験と同じかそれ以上に重要なものだったりすることは多いかも。
>それから血統と背景があると話が作り易いのかもね。伏線にもできるし。
>正直、修行で強くなったりはするけど強くなれた理由が結局は血統による能力ってことだと、
>なんとなく冷める時がある。
>http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0629&f=column_0629_029.shtml
成る程、と思ってよくよく考えると、もっと根の深い話が日本の少年コミックには
あるような気がした。
「スポーツモノ・学園モノ・ギャグコミックが少ない」ということもあるのではないか?
30年以上前、自分が小学生の頃の「ジャンプ」「サンデー」「マガジン」などは、
もうちょっと「スポーツモノ・学園モノ・ギャグコミック」が多かった気がする。
特に学園モノ・ギャグモノとかは、主人公の血統を問わない設定が大半だし
(有閑倶楽部あたりは違うな、少女漫画だが)、スポーツモノも、
なので、自分が小学生の頃は、それなりに少年マンガを読んでいたと思う。
しかしその後、少年マンガを暫く読まないまま大人になり、たまに散髪屋とかで
こういうマンガでは、そりゃ血統の設定が重要視、当然視される。
自分は元々が「オカルト・擬似科学嫌いな理系チック人間」なので、
「主人公が超能力で対決する」という設定のストーリー、と分かった時点で
「次の頁を一切見たくなくなる、興味が萎える」。
ジャンプ辺りで「安心して読める」のは、せいぜい「こち亀」くらいか?
(あれもハチャメチャなマンガではあるが、一応現代科学の法則を逸脱はしていない)
それ以外は全て超能力系だったりして、腰抜かした。
まあ自分が「今の小学生」だったら、これら3誌は絶対買わないなあ。
「ジャンプ・サンデー・マガジンでこんなに非科学的マンガが横行して、
日本の科学リテラシーは大丈夫か?オカルトに嵌る若者を産みだす下地を作ってないか?」と
心配になる反面、
「少年マンガの売れ行きが減少しているのは、オカルト流行りの連載ばかり
厚遇されている誌面作りに、小学生中学生が飽き飽きしているから、
彼等もバカじゃない」という側面もあるのでは?と思うので、少し安心する。
せめて成人コミック程度に、