はてなキーワード: 学問とは
「どっかの学会なりキャンパス乗り込んで「アリストテレスを読んでないで学問ができるか!」」wwwwwwwww。←まともな大学行ってたらこんな言葉出てこないぞ。お前高卒かFランやろ?
という話だったことに向き合おう。
態度だけはアグレッシブなようで、相手の言ってることとうっかり噛み合わないようにディティール全部すっ飛ばして遠巻きに吠えてるだけ。
「なんでもいいからオデの勝ちってことでいいだろ!」と相手に泣きついてるだけ。
とりあえず、どっかの学会なりキャンパス乗り込んで「アリストテレスを読んでないで学問ができるか!」ってお歴々にかみついてみな。みんなやさしくしてくれるよ。
本を手にとって読めば良いんだったら旧約新約聖書だって論語だって饗宴だって読んではいるさ。それをもって「読んだ」とふんぞり返る無意味を知ってるだけでね。
障害者の方がヘイトスピーチに対抗しようとしたことは、勇気があると思います。
しかし、そのようなサイトに関わることは、自分の心にも悪影響を及ぼす可能性が高いと思います。
ヘイトスピーチをする人たちは、自分の不満や劣等感を他人にぶつけるだけで、理性的な議論には応じません。
そのため、彼らに対して論理的に反論しても、無駄な労力になるだけでなく、自分の感情や価値観にも傷をつけられるかもしれません。
日記の最後に書かれた引用語録は、このサイトで見かけた発言だと思いますが、その中には非常に差別的で攻撃的な言葉が多く含まれています。
これらの言葉は、知性や学歴や社会的地位などを基準にして、他人を見下したり侮辱したりするもので、発言者の偏見や無知や傲慢さを表しており、発言者自身の人格や品位を低下させていると思います。
自分の尊厳や自信を傷つけるだけでなく、人間性や多様性への理解や尊重を失う危険性があります。
例えば、知識や学問があっても、それを正しく使えない人もいれば、教養があっても、それを他人に押し付ける人もいます。
また、社会的に有利な立場にいても、それを悪用する人もいれば、不利な立場にいても、それを乗り越える人もいます。
インテリという言葉は、他人と自分を比べたり区別したりするための便利なレッテルであって、本質的な価値や能力を測るものではないと思います。
このサイトから離れることを決めたようですが、正しい選択だと思います。
このサイトは、自分の心や人生に良い影響を与えるものではなく、逆に悪化させる可能性が高いと思います。
自分の障害や環境に負けずに、自分の幸せや目標を追求することを応援します。自分の価値や能力を他人の言葉やレッテルで決められないことを願います。自分の感情や価値観を大切にすることを勧めます。人間性や多様性への理解や尊重を持ち続けることを期待します。
経済学部に数学?wwwwwwwwいらないいらないwwwwww数学は実学のための道具wwwwww似非学問に数学は不要wwwwww経済学が本当の学問ならwwwwww経済学の学位持ちはみんな億万長者だよね?wwwwwwwでもwwwそうじゃないwwwww億万長者はwwwwみんなwwwwコンピュータサイエンスwwwww或いは中退wwwwwwその時点でwwww経済学はwwww似非学問wwww
政治学ってよく知らないから適当なこと言うけど、政治学って「世界の謎を解き明かす」学問というよりも、日本(政府)のシンクタンクとしての役割を求められているわけだから、国際論文誌に投稿とかよく考えたら意味わかんないよな。
「建築学は日本が最先端なので、日本の論文誌に日本語で載れば評価される」みたいな話は有名だと思うけど、「文系学問の場合、大ベテランの研究者が引退後にようやくもらえるのが博士号、という領域も少なくない」って話は俺も大学来てから聞いたな。(俺は理系だけど)
ノーベル経済学賞受賞者の主張が日本のX界におけるいわゆる”アンチフェミ”の主張と整合的であるということでアンチフェミ界隈が沸き立っているが、そもそもゴールディン氏の主張自体を額面通り受け取っていいのかという問題がある。
(そもそもゴールディン氏の主張は”アンチフェミ”的なのか?という点については、彼女の著書を普通に読めば、解釈に多少の幅はあれ概ねそのような内容であることは明らかだと思う。すなわち、同じ仕事や同じポジションに付く男女について差別に基づく賃金の差は既に存在せず、実現している男女の賃金格差は家計における合理的なキャリア選択の結果として現れているものであるという趣旨であり、労働条件における系統的な女性差別の存在を主張する人々の考え方とは対立する)
自分は経済学の学位を持っており、大半の人よりは経済学に詳しいという自負があるが、それ故に経済学的なものの見方の限界について思うところがある。経済学とはそもそも「定量的に観察された社会事象」を「人々の合理的な意思決定を前提」として解釈する学問である。こうしたアプローチは、以下の様な点で、男女差別の様な問題を考える際に色々な問題があると思われる。
まず「人々の合理的な意思決定を前提」とする考え方の問題点とは、そもそも差別とは経済的な観点からは基本的に非合理的なので、経済学の理論で世の中を解釈するとそもそも差別など存在しないという結論に偏るバイアスがある。例えば以下は経済学的な考え方の例である。「もし男性と同じ能力を持つ女性に対して差別的に賃金を低く設定している企業が存在しているなら、他の企業はその女性に対して今より少し高い賃金をオファーして彼女を雇うことで男性と同等なのに少し安い労働力を確保できて得をする。これが女性が男性と同じ賃金になるまで繰り返されて、男性と女性の賃金は同水準に収束する。もしそうなってないならば、何か別の経済的なインセンティブが働いているはずである」この様に、経済学の理論は首尾一貫して経済的な合理性のみで物事を説明することを試みるため、文化的要因や社会心理学的な要因が入り込む余地はない。差別という経済非合理的な事象は、そもそも経済学の理論のスコープから排されているのである。
また、「定量的に観察された社会事象」のみを分析対象とする点も問題である。こうした経済学のスタンスは、証言なども含めたテクストに対して丹念な分析を行う歴史学・社会学・ジェンダー学といった人文科学的アプローチとは対照的である。数量データに現れない出来事が世の中に存在しない訳ではないのである。例えばナチス政権下でのユダヤの人々の苦しみは、数字のみによって語られるべきではないのと同じである。彼らには統計的事実に現れない日常的苦しみも確実にあったわけで、それは例えばアンネ・フランクの日記などの記録から定性的に読み取ることで明らかとなる。これはフェミニズムの文脈でも同様である。現代の日本において多くの女性が進路選択やキャリア形成に際して有形・無形の差別の存在を感じ、声を上げているということが事実として存在しているわけで(例えば進学に際して親から「あまり高学歴だと結婚できない」と言われるなど)、それが例え統計データとして現れないとしても、その苦しみが存在しないということにはならない。
ノーベル経済学賞というのはあくまでも経済学という学問世界の中での権威が認められたというだけの話である。上記の様に、経済学そのものが、社会事象の一側面を切り取って分析を行う学問である以上、経済学的なものの見方が男女格差という複合的な社会事象の全ての側面を明らかにした訳では全く無い。ゴールディン氏の分析結果は、もちろんそれはそれとして有益な考察の材料としつつ、あくまでこの問題を扱う本流である歴史学・社会学・ジェンダー学の考え方と合わせて、この問題に関する理解を深めていくというのが正しい知的態度だろう。
でも当のジェンダー論の先生たちは、自分たちの分野のことを恥じてるよ。
こんな役にも立たない、高収入にも自立にもつながらないような、文学部や社会学部の専攻にばかり女の子が増えても仕方ないって。
よく理系学者がTwitterで社会学者に絡んできて、ジェンダー論の主張をボロカスに罵ってくることもあるけど、それでも理系の学問の価値が高いとは感じるって言ってる。
芝浦工大ような特別枠を作ってでも、理学部や工学部に女の子が増えた方が、自分たちのところに入ってくるより本当に嬉しいんだよ。