はてなキーワード: 季語とは
最近花火大会の話をよく聞く、忙しいし誘うような相手もいないから行っていないんだけども
毎年一回は行ってるし見るのも屋台もとても楽しいんだけど、それと同時に悲しくて、寂しくて涙が出てしまうからつらい 別にトラウマとかがあるわけじゃなくてなんとなく物悲しいだけ
夏の風物詩のはずなのに夏の楽しい時間の終わり、儚さを感じる たぶん一瞬開いて消える刹那的な感じがなせる業なんだと思う 現実に戻らなきゃいけない虚無感も相俟って
周りに聞いても花火は綺麗なもの、楽しいものという認識しかないみたいで自分がおかしいんじゃないかと
でも連歌とかで秋の季語だったりするらしいし、お盆の送り火を思わせるものもあって 一部なりとも同じ感覚を持っている人もいるのかもね
部屋の中でマフラーする人ってカッコいいわよね。
中尾彬です!
ウソです。
雪凄いわね。
ところでさ、
起動するたびに税率設定をしなければならないその電子計算機は
今更イルカさえもタコをのどを詰まらせるぐらい言わないぐらい大人しさ、
え?じゃ65535かける255の数の電卓がこの中1つ1つに入ってるんですか!!!
って、こんな感じで良いですか先生?
全くイルカよりタチが悪いわ。
マンナンライフばりの注意事項を周知させるべきよね。
タコの丸呑みには気を付けないと。
うふふ。
朝はもうちょっとゆっくりほっとホッツウォーラーを飲みたいわね。
ちなみに
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
(うねめのつえつき)
四日市市の『杖衝坂』のすぐ近くにある和菓子店、菊屋本店が製造する看板商品の最中。
大納言小豆の粒あんがたっぷり、やわらかいお餅(求肥)も入り、食感・食べ応えのある一品です。
銘菓「采女の杖衝」は、そのままでも、お湯をかけてもおいしくいただけます。
常連のお客さんの間で広まったという『お湯かけ』は、最中にお湯をかけ、お塩をひとつまみ。ぜんざい風にいただきます。
東海道でも屈指の難所に数えられた「杖衝坂」は、東征を終えた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が負傷した足を引きずり、
剣を杖の代わりにして坂を登られた故事にもとづいて名付けられたといいます。
ちなみに三重県の由来もこのときの日本武尊が、「吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり(足が三重に曲がるほど
後年、芭蕉もこの難所にて馬の鞍もろともに転落。その折に詠んだ句が、「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」。
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20161206_M1
あたりまえだが、生活している環境とか職種・業種・職位によってその要・不要も変わってくるだろう。
わたしも元々はメールは「簡潔」に「箇条書き」で「結論ははじめ」に書いてきた。
社内や下請け・取引の長いクライアントであればそう困ることも無いだろう。
皇族をはじめ、各国の王族、VIP相手にレターを書くことが多くなった。
メールだけではなく直筆のことも多い。
(メールですますこともあるが、これは侍史宛の実務内容になる)
増田諸氏の中には、所謂「偉い人」相手であっても、すらすらと書ける人もいると思うが、
なかなか書ける人はいないだろう。私は今でも苦手だ。
当然、紙の選択にはじまり、インクはもちろん、封蝋まで気を使っているが、
一番気を使うのは、書き出しである。
平凡な時候の挨拶では、相手も大事にされていないと感じるだろう。
いつも悩んで時間がかかっていたが、先輩から「歳時記」が便利だと教わった。
大型書店や図書館でみかけて、ぺらぺらとめくった人も多いと思う。
これは、事項の挨拶にも使えるし、書き出しにも使える。
初冬の候、いよいよご壮健のこととお喜び申し上げます。
これではつまらない。
やまどりの声を聞くことがなくなり、本格的な冬がやってまいりました。
これだけで、送付した人が平地やマンションではなく、冬に近い山に住んでいることが分かる。
とまぁ、とかく面倒でもあるが、
(外向きの用事であれば)メールも自分で工夫してみるもオモシロイだろう。
ペン先に確度を付けており、文字に強弱が付けやすい工夫がしている。
これからはじめてレターを書く、クリスマスカードや年賀状に使いたい人がいれば、
55度(若竹)を使うといいだろう。
あのさ、初競りのマグロ。
何千万で競り下ろされてるけど、
お店では通常価格で売るらしいわよ。
これって、超大赤字じゃないの?
経営する人分かってるのかしら。
一貫いくらになるのよ?って。
いろいろな、新聞やテレビで大きく取り上げられて報道されてて、
それ見て知って食べに行ったとしても、
そういうニュースを見て、
マグロ食べたくなったね、じゃ今度行こうかって人が大勢出てくるし、
それはそれでお店が忙しく賑わって大変よね。
分からないけど。
私には縁遠い話ね。
マグロだけに。
なんか、お味噌汁は誰がどう作ってもそこそこ美味しいんだけど、
豚汁となると、なんでこうも美味しくないのかしら?
美味しい豚汁は美味しいのよね。
これは、どう見ても失敗かしら。
イマイチでした。
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!
「4コマ漫画」は「コマが4個並んでいる漫画」とは違うんです!
俳句が、ただ五七五のフォーマットに従っているだけでは駄目で、季語を伴っていないと俳句と呼べないように、4コマ漫画も「起承転結」を土台に組み上げられることではじめて「4コマ漫画」と呼べるというのが私の考えです!
じゃあそもそも「起承転結」って何なのよ、と言われそうなので、私の考える「起承転結」を説明したいと思います。
例えば
{1, 2, 3, 4, 5}
という数列があったとします。皆さんはこの後に 6 が続くだろうと予想しますよね?
そこで
{1, 2, 3, 4, 5, 8, 9, 15 ...}
と続きを見せることで、読者に「あれ?予想と違うぞ?」と思わせます。これが「転」です。
事前のストーリーの流れで何らかのパターンを作っておいて、そのパターンをがらっと変えるのが「転」の役割です。
「承」で「{1, 2, 3, 4, 5} と来れば次は 6 だろう」と思わせておき、「転」で 8, 9, 15 と流れを変えて「あれ、おかしいな?」と思わせて、最後に
「実はこの数列は、A(n) = n ではありません。正解は
『n および n + 1 の約数がすべて 5 以下となるような自然数 n を小さいものから順に並べたもの』
でした!」
という種明かしをして「なるほど!(スッキリ)」とさせる、これが「結」の役割です。
和音進行で例えると、ドミナントコードの不安定な状態から、トニックに推移して解決するという構造に似ています。
もしも「転」で「あれ、おかしいな?」と思わせなければ「結」の種明かしのオチが活きてきませんよね。
「転」が充分に機能することで、はじめて「結」の面白さが出てくるのです。
もしも初めに見せられた部分数列が {4, 5} の二つだけだったら、
{4, 5, 8, 9} ... と続きの数列を見せても、あまり「あれ?」という感じにはならないですよね。頭の中でパターンが出来ていないためです。
はじめに {1, 2, 3, 4, 5 ...} というまとまった長さの数列を見せることで、はじめて読者に「次は 6 が来そうだな」と思わせることが出来て、「転」に繋げることが出来るのです。
このように、読者の頭の中に何らかのパターンを想起させるのが「承」の役割となります。
「承」が充分な力を持っていないと「転」が死んでしまいます。当然、それにつられて「結」も死ぬことになります。
なお、一番シンプルで分かりやすい「承」の作り方は、「似たような場面のコマを2つ連続させる」などが挙げられます。(サザエさんによくある)
既に「承」「転」「結」で言いたいことをほとんど言ってしまったので、「起」について特筆すべきことはないのですが、敢えて役割を定義すると
と言えます。さきほど、与えられた部分数列が {4, 5} だけだと「承」が活きてこないということを説明しましたが、「承」を活かすための情報({1, 2, 3})を渡してやるという重要な役割を担っています。
以上で起承転結それぞれの役割について解説しましたが、これらの要素がそれぞれ独立して生きているわけではなく、相互作用をすることではじめて全体として意味をなすこと、どれか一つでも欠けるとその他の要素がすべて死んでしまうことがお分かりになるでしょうか。
この考え方を意識しながら、あらためてサザエさんやコボちゃん等を読んでみてください。話そのものが面白いかどうかは別として、構成がきちんと「起承転結」を意識して練られていることが分かるのではないかと思います。
このエントリで言いたいのは「もっと起承転結を意識して4コマ漫画を構成してほしい」ということであって
ということでは決してありません。
また、起承転結のいろはを充分に理解した上で、敢えてそれを崩す(守破離)という手法も全然ありです。
例えば1コマだけでストーリーのコンテキストを読者に存分に伝えられる能力を持つ漫画家であれば、「起・承」を一つにまとめた3コマ漫画というフォーマットを確立することも出来るでしょう。
最終的には面白ければ何でもありなのですが、少なくとも基本的な型はマスターしていて欲しいです!
クラシックでは、ハイドンやモーツァルトが交響曲の型(ソナタ形式・緩徐楽章・メヌエット・ソナタ形式からなる四楽章構成)を作り、ベートーヴェンなどがその形式を追従しつつ声楽など新しい要素を取り入れ、マーラーが交響曲の体裁を保ちつつフォーマットを大胆に崩す、といった歴史がありますが、それは交響曲というフォーマットが充分に確立されていたからこそ出来たことなのです。
総理 花見で一句 「賃上げの花が舞い散る春の風」を、某番組になぞらえて解説してみましょう。
まずは季語。
次に、意味の重複ですが、舞い散るのは花にきまっているので重複、同じく風がなくては舞い散らないのでここも重複です。
花に賃上げを無理やり例える比喩も、あまりキレイとはいえません。
こうした点から、安倍首相の評価は才能なしに認定(政治能力ではなく俳句についてです)されるのが妥当と言えます。
それでは手直しをしてみましょう。
風が吹いて花が散っていったのですから、”花吹雪”が順当ではないでしょうか。
そして最後にこの句を読んだ意味を伝える必要がありますので、その理由を付け加えると以下のようになります。
安部首相の隠し切れない真意が春風に誘われ思わずほころびだしてしまうような躍動感を生み出すことが出来ました。
おそまつさまでした。