はてなキーワード: 落語とは
夏休みで初の金沢一人旅。昼間から日本酒真琴の飲み放題(超おすすめ、2,000円で地元の美味い日本酒が文字通り飲み放題) でいい感じになってちょっと寄ってみるか、蓄音器とか知らないけど自称音楽にはうるさいし、てなわけで割引250円で入ってみる。
順路は3Fからというので上がってみるとLP試聴コーナー。さあ本題です。LPって何があるのかな、クラシックと落語って図書館かよ、お、洋楽ポップスとかあるじゃん、、、そこからここが天国であることに気づくまでものの10秒。
日本でCDが発売されたのが確か1988年。ここのLPライブラリにはその前のLPしか聴く手段がなかった時代、80年代前半の作品がピンポイントで充実しまくり。あの小坊中坊時代の音楽聴くのにはレコードに針を落とす手続きが必要だった頃の再現。
と言うわけで聴いたレコード一覧。
The Styx / Kilroy Was Here (遊&愛のヘビーユーザーだったのに初めて2,800円払ったアルバム)
Men at Work / Cargo (Overkillのイントロで涙)
Journey / Frontiers
Billy Joel / An Innocent Man
Paul McCartney / Pipes of Peace (個人的にポールと言えばこれ)
Kenny Loggins / Vox Humana (!!!!!!)
Hall and Oates / Rock ‘N’ Soul Part 1
Queen / The Works
最近だとモグモグとか。ほほえましいはずの場面も食べてる音を感じてしまい台無し。
さっきは一口飲むことにゴクリとつけているのを見た。1ゴクリ20ccだからどうこうと。想像しただけでも気持ち悪い。
クチャラーは即射殺
永谷園は昔やらかしてた。それ以来認識してる範囲では永谷園とはご無沙汰だ。
昔の日本の映画はよく食べるシーンに音をかぶせてた。なんでつけるんだろ?気持ち悪さとセンス無さだけが残ってる。
落語も食べる場面にわざわざ音をつける。時そばなんて最悪でまったく集中できない。それだけ志ん生うまかったんだろうな。
実際に食べるときは多少の音は仕方ないし、そばやラーメンを無音で食べたりするほど不粋ではないと思ってはいるが、やはりわざわざ音をつけるのは嫌悪感しかない。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2018/07/20/142532]
id:turanukimaru です。
まず、「抹消すべきという話ばかりしている」というのは確かに過剰かつ事実に反する表現だったのをお詫びしたい。読解力が無い点も申し訳ない。だが落語の記事は読んだから言及した。
「落語に頻出する"しょうがねえな"ってのは人間正しく振舞えなくてもしょうがねえ当たり前って話で、正しく振舞うべき・しょうがないで済ませてはいけないポリコレとどっちが優しいか。私は落語のが優しいと思うけどな」
で、記事の話だけどまず枕である"いじる話はいたたまれない"という話なら同意した。私も辛いしバラエティ番組は見られない。
だが記事はそこから「2018年の価値観で断罪すべきではない」、これは時代性を考慮しなければ断罪の対象となりえる事、
「外に向けてアピールしている正しさ」と、「内なる正しさ」、正しさが異なるという事つまり落語は結局ポリコレ的には正しくないと書いている。
最終的には「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」、処世術つまりテクニカルな話として悪ではないと書いている。ではテクニカルでない話では悪なのではないか?
これらを合わせると、落語は断罪されるべきだが諸々の事情によりできないという事でいいだろうか?
ここまでは記事を引用しているだけなので読解力の問題ではないということでいいだろうか?
これは結論としては「抹消すべき」となっていないのでこれは私の明確な間違いであり謝罪したい。
断罪とは逆の読み方=いかなる事情が有ろうと落語は断罪されるべきではない、と言う風には私には読めなかった。
どこをとっても断罪できないという話ばかりであり、例えば「古典芸能にまで、現代のポリティカル・コレクトネスを適用するのは、傲慢な気もします。」
というのはとても断罪に反対するようには読めない。せいぜいやりすぎな気もする程度だ。
「それが悪い、というわけではなくて、それこそが処世術」なんてのはどう読んでも褒めてない。世間的に許容されるべき位には読めるが。
もし私の解釈が間違っているというのなら、積極的に断罪を否定しているところを教えて欲しい。横からでも教えてもらえるとありがたい。
で、今回の記事では実際に断罪してしまっているわけで、今回の記事については引用しなくてもいいよね?
私の乏しい読解力では困惑しているのを断罪することで安心しようとしてるようにしか読めなかったし、
ひょっとして落語の件もいたたまれなさをポリコレ的に正しいかという話にすり替えようとしたんじゃないかとも思った。
だけど私は乏しい読解力で人の思いや人間性に触れたくないから、読解力が必要となると思われるところには触れずにああコメントした。
具体的には「ブログ主は正義をもって何かを抹消したがっている。なぜなら~」と書くのは流石に失礼だと思った。
私としては正義を持ち出して何かを抹消すべきかどうかと言う話そのものが好きではないとコメントしたかったのだが
繰り返しになるけど「抹消すべきという話ばかりしている」というのは誤りだった。本当に申し訳ない。
「この記事と落語の記事は正義をもって何かを抹消できるかどうかと言う話をしているが、私はたとえ可能だとしても正義をもって何かを抹消することには反対だ」なら問題ないだろうか?
あと読解力を使うと私は人を傷つけるようなことしか書けないのでそちらは勘弁してやって欲しい。
いや、そんなたいした意味はない。
江戸時代とか明治とか、落語と講談ってのがあって、落語よりもむしろ講談のほうが流行っていたと聞いたような気がする。
しかし、ラジオはともかくテレビの時代になると、講談はもうすっかり衰退した。
講談で聞いていた勇ましい戦の話は、これはもうテレビや映画の時代劇にはまったく対抗できない。
時代劇に限らず、講談でやっていたような話は、現代の映像と音楽のシステムの前に歯が立たない。
(ラノベと漫画は残っているので、それはテレビに対抗できているすごいシステムだ)
一方、落語はほとんど声で一部動きや音もあるけれど、いまでもテレビの映像システムに対抗できている。これはどういうことか。
落語以上に動きの入った漫才やら、音楽の強いリズム芸人やら、まあそれなりに頑張ってはいるけれど、落語を滅ぼすほどの力はない。
企業はともかくとして、未だに世界観が固定されたメディアってのはあるっちゃある。
能とか歌舞伎とか落語とか相撲とか伝統芸能とか呼ばれるジャンルのソレだな。
それらのメディアは基本新規コンテンツの流入を拒み、既存顧客とその連れだけで成り立つように市場規模を調整し、同じようなコンテンツを使い回ししてメディアを維持している。
そこになろうとかみたいな突飛な設定は入って来ないし、ゴム人間みたいな日本人ではあり得ない変なキャラなんかは取り入れられもしない。
ウマ娘は競馬っていう比較的保守的なジャンルを勝負場所に選んでいるのだから、そこら辺も保守的に成らざるを得ないのはまあ仕方ないんじゃないか。
はるかむかしの5月に先輩に「自分が空を飛ぶのを想像できる?」と聞かれた。すこし想像してから「じゃあ、それを教えて」といわれたので「両手を翼のように動かして飛んでました」と答えた。
そのあと先輩が「それを絵で伝えるのなら絵描きに、漫画なら漫画家、音楽なら作曲家、歌うのなら歌手、ひとりでしゃべれるなら落語、ふたりなら漫才、それ以上なら劇団、文章なら小説家に勝手に進むんだよなー」と言われた。
なんとなく5月になるとこの話を思い出す。
その職業のひとたちだけで社会は成り立たない、維持できないと今ならわかるけど、そのときはなんとなく悲しかったのも思い出す。そのときはふたりともなにかを信じていたのか、信じたかったのだ。