はてなキーワード: ユダヤ教とは
金で英米の協力取付けて中東が把握してないうちにいきなりイスラエルって国を立ち上げて元々住んでたパレスチナの住民追い出したり隔離して生殺しにしたりしてんだぜ
なんでそんなことしたのかっていうとシオニズムっていうユダヤ人の故郷にいつか帰るって宗教上の目的を達成するためだよ
ユダヤ人はかなり変わってて民族上の混血が進んでも一族の宗教を変えないで、いつか約束の地に我々は帰ると信じ続けた
普通は民族上の混血が進んだらその国で流行ってる宗教と馴染んで一体化すると思うんだが、ユダヤ人はしつこくユダヤ教を1800年以上も信じて守り続けた
元々のきっかけとしてユダヤ人が流浪の民族になったのは古代ローマ帝国に戦争で負けて国がなくなったからだ
本来ならユダヤ人にとって一番憎い相手は古代ローマ帝国の末裔になるのだが、現在やっていることは元々いたパレスチナの人々迫害して追い出す、絶滅させることだ
最近、いくつかの作品・書籍を視聴したり読んだりして「自分らしくあれ」という助言があるのだけど、自分らしさってなんだろう?
子供の頃の素の状態が自分らしさだとするとキチガイだし、かといって今の自分らしさと言ってもわからないし。
ただ自分の癖としてすぐに誰かを真似してしまうというのがあるかもしれない。ヤングシェルドンのシーンを借りるなら「偉大な科学者の真似をして、ユダヤ教に入信しようとする」みたいなこと。
自分自身の精神や人格の根源はなにか。あるいは祖父母や両親が教えてくれた事を覚えているだろうか。
「楽しいことを考えて生きる」が最近の母の口癖だ。母が俺に言ったことの中で最も印象に残っているのは「あんたの身の回りに起こる出来事はあんた自身が起こしているんだよ」と。
この母の助言は、俺が学生の時覚醒状態にあって眠れず、その状態で友人のBBQパーティに行って錯乱して喧嘩したときのことだ。
グッドオーメンズでアダムがその強大なオーラを纏っていることを自覚せず、でたらめな陰謀論を単に実在すると信じるだけで現実にしたようなものだろうか。
なぜ世界は、精神薄弱や錯乱状態を俺の中に生み出しておいて、その中で「自己」について助言するのだろう。
覚醒して全く睡眠ができずてんかん発作で気絶したとき、一体誰が俺の苦しみについて理解できたというのだろう。
リーナス・トーバルズが「Just For Fun」といってLinuxを開発していたように、俺も楽しむことを人生の中心にしたほうがいいだろうか。
時々、本当にマトリックスの世界があるのではないかと疑ってしまうことがある。たくさんエネルギーを使わせて、電池として消耗しているわけだ。
しかしエネルギーを使わなければ楽しむことはできない。自分を変えなければ、怠け者から抜け出すことはできない。
「努力」に対する俺のトラウマは「教育」「習い事」などに対する発狂的なヒステリーとして記憶されている。それは邪悪な悪霊のごとく、子どもたちの笑顔を奪ってきた。
だから俺は成長してから、ストールマンの言うようなハッカー観、好きなことに熱中して習熟するという価値観を大切にしてきた。
しかし肝心の「好きなこと」が好きではなくなる感覚が最近は感じられる。
プログラミングが好きだ。しかし仕事としてそれをやり続けると義務感に押しつぶされそうになり、趣味からは遠い存在になっていくのを感じる。
結局、物事はシンプルに説明がつく。つまり自分を見失っているのは、仕事で疲れているからだ。強制労働させられていた歴史上の奴隷は生きていく上で「自分らしさ」を感じただろうか。
旅に行く勇気はないが、ちょっとした散歩をして、その範囲を広げてみるといいかもしれないな。そのぐらいの気晴らしが俺には必要だ。
簡単に言うと、「悪魔」といった考え方はユダヤ教には存在しません。
サタン (שטן - これはもともとヘブライ語) の概念はタナハ (ユダヤ教の聖書) やさまざまなユダヤ教の資料に存在しますが、サタンは肩書きであり、役割であり、人格ではありません。
サタンは破壊をもたらす使命を与えられた天使であり、G_dの前で特定の人物またはユダヤ人全体に対して検察官としての役割を果たし、場合によっては誰かを誘惑したりして悪を犯すこともあります。
しかし、彼らはG_dと戦っているのではなく、命令に従っているのです。
ユダヤ教の神学のほとんどは、キリスト教の悪魔と同一視できる特定の天使や悪魔については語っていません。
しかし、(特にカバラでは)特定の天使サマエルについての話があり、サマエルはすべての有害な天使を統括し、人間を誘惑する者として描かれています。
G_d から独立した力や、G_d に反抗し、彼の意志に反する力という概念はありません。
世界で互いに戦う善の勢力と独立した悪の勢力について語るようなこの種の二元論は、ユダヤ教では完全な異端として広く考えられています。
G_d は 1 つだけであり、反 G_d は存在しません。G_d は争ったり闘争したりすることはなく、完全かつ絶対的な存在です。
ユダヤ教では、人間だけが悪と戦いますが、それは人間の行為であり、主に人間の内部で行われます(カバラでは、悪い行為は有害な天使を生み出し、悪を増大させるものであり、善行を行うことでそれらに対抗します)。
そしてもう一度言いますが、形而上学的悪と「戦う」という観点から宗教を議論するのは、ユダヤ教の一部の派閥だけです。
天使が悪魔と戦うという概念は、異世界でもこの世でもありません。
もちろん、ユダヤ神学には、悪魔や邪悪な天使についてすべて書き、善の傾向と並んで人間の中にある悪の傾向についてのみ語る伝統全体があり、悪の傾向とは、人間がそれを克服することによってG_dの奉仕者になることを可能にするものである。
タルムードの賢者たちは反対である悪がなければ善の概念は存在しないとも捉えています。
天上の戦い、反G_d悪魔、G_dの意志に反して行われる世界の災いなどの概念は、歴史の中に存在するとしても、教えとしてあるわけではないのです。
週休3日制にする以前に1週間を6日制にして4日働いて2日休みサイクルにしたらいいのに
俺なら月曜日をなくして、火水木金土日にするね
ファッキン週7日制、ファッキン古代メソポタミア文明、ファッキンユダヤ教、ファッキンキリスト教って感じ(キリスト教は世に定着させたという罪)
週休3日制にする以前に1週間を6日制にして4日働いて2日休みサイクルにしたらいいのに
俺なら月曜日をなくして、火水木金土日にするね
ファッキン週7日制、ファッキン古代メソポタミア文明、ファッキンユダヤ教、ファッキンキリスト教って感じ(キリスト教は世に定着させたという罪)
その謎を解明するため調査隊はインターネットの奥地へと向かった
その結果、英語圏の歴史解説YouTubeチャンネルを発見した
Why Do We Throw Coins in Fountains?
動画の字幕の書き起こしをChatGPTに翻訳&要約してもらった
毎年、世界中で私たちは噴水から井戸、さらにはテーマパークの乗り物まで、コインであらゆるものを飾ります。私たちは幸運を求めて、願いが叶うことを望んでいます。場合によっては、ローマで誰かと結婚するためにもコインを投げます。この伝統は時代を超えて広まり、その起源は古代ローマにまでさかのぼります。ローマの公務員であるガイウス・カエキリウス(別名:プリニウス・ユニオル)が書いた手紙によれば、人々は清潔な泉に感謝の意を表す形で贈り物を投げ込むようになりました。当時、清潔な水は非常に貴重であり、神々への感謝の印としてコインを投げる習慣が広まりました。この伝統は今でも続いており、ローマのトレヴィ噴水が特に有名です。また、映画「Three Coins in the Fountain」でもこの伝統が取り上げられ、ロマンティックコメディの要素として広まりました。噴水に投げられるコインは、都市や観光地の収益の一部として寄付されることもあります。
要約の結果、元動画が言っている内容とちょっと違う文意になっている箇所があるな……
しかし歴史解説YouTubeチャンネルの内容をを鵜呑みにするのはちょっと気が進まない
調べるとっかかりとしては役に立つんだけどね
あと、この解説はアジア圏のコイン投げについての観点がまるっと抜けている
中国人が願掛けとして飛行機のジェットエンジンに向かってコインを投げ入れようとした、というニュースがあるくらいだ
すなわち、現代の池へのコイン投げの風習は二つの源流があるはずだ
ひとつは西洋起源、小プリニウスが書き記したそれであり、コインを投げ入れて願い事をするヨーロッパの民間伝承「Wishing well(「願いの井戸」と訳すべきか)」を経由してトレヴィの泉に辿り着くルート
もうひとつはアジア圏のいわゆる願掛け目的のいわゆる「賽銭」を辿るルート
二つに分ける意味はあるのか……?
うーん
どうだろう
ないかも
あるということにして調べよう
映画「Three Coins in the Fountain」がもしも存在しなければ、西欧圏でコイン投げの風習は廃れていたかもしれない
しかしその映画があろうとなかろうとアジア圏の人々はコインを投げて願掛けする風習を続けていたであろう……気がする
あとで二つに分けて考える意味は無かった時点で考えを改めればいい、ということにしておこう
RedditやQuoraでも「なんで中国人って池や川にコイン投げるの?」みたいなトピックが立てられいるのを確認した
(そしてそれに対する回答は「コイン投げの風習は世界中にありますよ」というもの、質問者が知りたい内容とはちょっとずれている気もする)
「キリスト教の教会に併設されている池にコインが投げ入れられて困った」みたいなスレもたっていた
というわけでイスラム教とユダヤ教でコイン投げによる願掛けがどう認識されているかもぐぐりましょうね
ユダヤ教はなんか出てきた
ラビに「願いを込めて願いの井戸にコインを投げることは何か悪いことですか?」とユダヤ教の教義に反していないか質問する内容のサイトが引っ掛かった
解釈によってはセーフだけどあんまり推奨しない、みたいな空気感の回答だな
コイン……つまり金属製の硬貨のみが投げ入れられるのか?という疑問もある
貝製の通貨、貝貨を池に投げ入れるみたいな文化がある地域ないかな~
パプアニューギニアは現在も貝貨を使っている人々がいるみたいだが、願掛けとして貝貨を投げるみたいな記述は見つけることが出来なかった
パプアニューギニアのなんかでっかい噴水のストリートビューを探して金属コインの他に貝貨が沈んでないか探してみてもいいかもしれない
まあおそらく無さそう
お葬式で貝貨を精霊に扮した人に向かって投げるみたいなことはやるらしいんだけど……
そもそも何で調べ始めたかって「海外……例えばアメリカでは合格祈願の願掛けとかするのかな?」と思って
ぐぐった結果は「願掛けしない」というもの、まじかー
教会でお祈りとかする人もいるにはいるけど、願掛けするくらいなら勉強しましょうねみたいな考えをするってなんかのブログに書いてあった
例えばかつ丼みたいな勝負飯食べたりお守りを買ったりみたいな風習もないっぽい
いやー……そうはいっても欧米人だって水にコイン投げて願い事するじゃん?池にコイン投げて合格祈願とかしないの?
そこらじゅうに願掛けスポットが大量にある日本が特異、ということだろうか
まあまあ、結論を急ぐことはない
もうちょっと調べましょうね
賽銭とトレヴィの泉を一括りにして包括的に投げ銭文化について論じた論文をまだ見つけることが出来ていない
投げ銭に限らず「迷信」というテーマで調べてもいいかもしれないな
……といった感じで調べた内容を一旦メモ
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太宰府天満宮の菅原道真公のような受験、学問を司る守護聖人にお祈りするみたいな風習があるかどうかを調べること
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すぐに思いつくのは、イスラム教国。イスラム法を適用している国では自殺は違法で罰せられるね。
自殺した人間は火葬になる。火葬にされることはイスラム教で死者に対する罰として強烈なやつ。犯罪者扱いなので有形無形の遺族に対する罰もあるね。
自殺者数は宗教的に自殺禁止とされている国で少ないと言われているんだが、これは、宗教戒律で自殺を思いとどまらせている、と言うわけではなく、宗教的にタブーだから自殺であっても事故として処理されているのではないかと言う指摘もある。
また、安楽死を合法としたいというのも、こういった宗教的タブーが関わっているから。自殺は駄目だと言われていたが安楽死はOKとなったことで、潜在的な自殺願望者が一気に自殺に走ったのではと言う話もある。何しろ安楽死を合法化した一部の国では日本の自殺率なんて目じゃないくらい安楽死が行われているとかかなりキツい状況。