はてなキーワード: マイノリティとは
「LGBT」がいくら流行っていて、どこもかしこも「LGBT」を持て囃していたとしても、当事者としてのLGBTがマジョリティになったことなど一度もないわけで。
「オタク」がいくら流行ろうが、マイノリティはマイノリティで、だからこそ「オタク」を差別してきた歴史を反省するならば、行政の態度としてはむしろ積極的に「受け入れる」姿勢を見せる必要もあるわな。
ガイドラインというのは原則としては守った方がいいものであるはずなんだけど、それが反社会的なものであるなら、個々人の良心に従って、守ってはいけないものとしなければならない。
しかしもちろん議論がそれだけで終わっていいはずはなく、「どうしてそのようになってしまったのか?」をきちんと反省し、守った方がいいと堂々と言えるガイドラインに改定する必要もある。
これってすごく難しい問題で、つまり「説明できるなら守らなくていい」ということ。
一見すると妥当に思えるかもしれないけど、マイノリティを語る言葉が圧倒的に不足する一方、マジョリティによるレッテル貼りは豊富な語彙を持っているという非対称性にも目を向けて欲しいんだよな……
個人という単位で見ると、たとえば、安倍晋三は元内閣総理大臣であり衆議院議員であり有力な政治家という強者の側面と、同時に潰瘍性大腸炎の患者であり子供がいないという弱者の側面がある。
集団という単位で見ると、たとえば、男性の外国人は、男性と言うマジョリティという側面と、同時に外国人であるというマイノリティの側面がある。
表象という単位で見ると、たとえば、7枝の燭台は、パレスチナを強権的に支配するユダヤの象徴と言う側面と、同時にヨーロッパの反ユダヤ主義に迫害されたユダヤの象徴という側面がある。
今話題の大阪府のガイドラインについて考えた時に、問題になるのは、このインターセクショナリティである。
萌えキャラという表象は、文化的なマイノリティであるオタクの象徴という側面と、同時に女性のステロタイプ表現という側面があり、これが一体不可分であるがゆえに、これほど問題になるのである。
もともと、漫画やイラストの表現、あるいは萌え表現と言うのは、記号的な表現であり、記号とはステロタイプ表現である以上、イラストや萌え表現はステロタイプ的な要素を無くすことは不可能である。また、一枚のイラストで多様な人格を描くこともほぼ不可能だろう。仮に、裏で設定したところで、そんなのはぱっと見どうでもいい話である。
id:tikani_nemuru_M 公共広告は好き嫌いのわかれる演出をしちゃあかんだろ。公共性の高い情報伝達というものは、原則的に全員にとって必要な情報であり、つまりはnot for meが許されない世界なんだから。
軋轢を生まないために、"not for meが許されない"ということになると、サントリーが水原希子を起用したことに、ネトウヨが激怒した件を批判できなくなる。
水原希子は人であって、表現様式やキャラクターではないというならば、チマチョゴリのような民族衣装だったらどうだろうか。民族の表象を好まない人がいるからと言って予め排除することができないならば、同じように文化集団の表象も好まない人がいるからといって予め排除することは妥当ではないということになるだろう。
本当は気付いていると思うけど、ああいう異常者はそんな吹けば飛ぶようなマイノリティじゃないんだよ。
面白カルト宗教をゲラゲラ笑って観察するような余裕はないってこと、本当は理解しているはず。
フェミニズムを旗印にしたら批判対象のことをロクに知らなくても批判していいと思ってるような雑さがトランスへの差別を許容してきたんじゃないのか
フェミニストがトランスに限らずマイノリティへの抑圧的な言動を繰り返していて、その中には多くの女が含まれていることをどうして認めようとしないのか
自分たちが少数派の女の足を踏んでいることをまず認めろ
マイノリティ差別と経済的差別には密接な繋がりがある、と言った方が正確でしたね。
とはいえ、「生殖」がどのようにセクシュアル・マジョリティの特権化に奉仕してきたか、という問題意識は流石に広く浸透していると思うので、あまり深く突っ込まなくても伝わるのではないか、と楽観視してはいます。
「女性表象を批判することが問題」だと思われているのではなく、「その表象は、ある意味では、"女性"表象ではない(部分がある)、ということを理解していないのが問題」なんですよ。これは「フィクションだから現実じゃない」というだけの話ではないんです。その表現自体は現実ではないけれども、表現者は現実に存在しているんですよ。そして、表現というものは、表現者自身の投影でもあるんですよ。
大衆娯楽というものが、単に「商品として製造され、消費者が購入する」というだけのシステムであれば、批判の余地がある部分を試験的かつ一方的に批判すればそれで済んだかもしれません。しかし実際にはそうではなく、そこには作者や観客のアイデンティティが投影されていたり、作者と観客のコミュニケーションが成立しているということが、次第に発見されてきたわけです。コミケのような場が受け入れられたり、インターネットの普及によって、素人が誰で創作に携われるようになり、「作者と観客」の集まりはもはや独自のコミュニティとなりつつあります。Vtuberという文化もまた、そうした文脈の延長にあると言っていいでしょう。求められているのは、「あなた達」とは異なる価値観、異なる文化圏に対する、敬意ではないのでしょうか。
「この程度のどこがエロいんですか?」というのは、「1でエロいと思う人もいれば、10でエロいと思わない人もいる」という話ではないんです。「程度の問題」ではないんです。「Aをエロいと思い、Bをエロいと思わない人もいる。Aをエロいと思わず、Bをエロいと思う人もいる」という、価値観の相違の問題なんです。
フィクション表現の場合、対象が「現実ではない」ことから、それ自体が時に女性の解放に繋がる場面もあります。これは「巨乳キャラを批判するのは巨乳女性に対する差別」とか、そういう話ではないのです。一般的には「エロい」とされるような様子を描写していたとしても、そこに「フィクション(人為的な作り物)」のフィルターを通すことにより、「いやらしさ」が漂白されます。だからこそ批判の対象にしたい人々というのもいるのかもしれませんが、私たちの文化圏ではむしろ、だからこそそれが「性の抑圧」からの解放に一役買っていると評価されています。誰も被害者がいないから、安心して消費できるし、肉体的繋がりを持たないから、安心して交流できる。生きた人間と対面して、手探りで交流して行くよりも、遥かに安全で誰も傷つけません。
フィクトセクシュアル(アセクシュアル)の私からすれば、対人異性愛そのものの方が、よっぽど女性を抑圧しているし、差別や性犯罪を助長していると思います。対人異性愛の欲望の実現が、社会に対してどのような悪影響を与えるのか?「個人の自由」で済むのか?本当に被害者はいないのか?という問いを、是非とも心の内に常に留めておいてもらいたいと思います。しかし、対人異性愛がそのような議論に巻き込まれることはありません。「痴情のもつれ」でどれだけ人命が失われようとも、それが「対人異性愛にはやはり悪影響があるのでは?」という問いに繋がることはありません。問題提起そのものが行われないのです。ただ文化的マジョリティであると言うだけの理由で。
「批判するな」とは言いません。しかし、まずはマイノリティに対する敬意を持つことから始めませんか?そして、そのような批判の眼差しは、まずは自分たち自身へと向けてみてはどうですか?そういうことが問われているのではないでしょうか。
女性差別は現実としてあるわけですから、ある程度の乱暴さは許容しなければトーンポリシングになるとは思うけれども、その暴力性が他のマイノリティに向くのであれば、恥ずべき行為としてきちんと批判されるべきですよね。TERFのような問題は、フェミニズムの抱える不名誉として、きちんと向き合うべき問題だと思いますよ。
むしろ、あのような公開質問状を出されて、この期に及んで「でもオタクも悪い」と"しか"言及しないのは、それこそトーンポリシングだと思いますね。(「オタク」側の論理に一切の不備がないとも、批判されるべきでないとも言ってないことに注意してください。)
「負の性欲」という概念はちゃんちゃらおかしいと思うしそれを言い出した奴等は叩かれて当然だと思っているが
でも「アセクシャル」や「アロマンティック」って、意味不明さという点では「負の性欲」と同じだよなあと思う。
「負の性欲」は駄目で、アセクシャルやアロマンティックは持ち上げるというのが謎過ぎる。
恋愛感情が「ある」事の証明は出来ても、「ない」事の証明はできないよ。
アセクシャルやアロマンティックって単に人間のデフォルトの状態であってそれに特別に名前を付ける必要性を全く感じないんだよね。
人間は皆アセクシャルやアロマンティックの状態で生まれ、そのうち誰かを好きになる人もいれば一生誰も好きにならない人もいるだけという話。