シン・ゴジラは、みんなとにかく観たら何か書きたくなってしょうがなくなる映画なんだなーって心から思う。
これほど人々の「ねえ聞いて聞いて!」を引き出せる作品もそう無い。
あまりにも凡庸で新規性の無い内容だったから、本文ろくに読んで無いけど
願はくは吾れ此の父母所生の身を以つて三寳の願海に回向し
一動一静方式に違せず
生生世世出生入死佛法を離れず
在々所々広く衆生を度して避厭を生ぜず
或は剣樹刀山の上 或は鑊湯炉炭の中
伏して願はくは三寳証明佛祖護念
真田丸、大坂編からこっち、主人公は間違いなく石田治部少輔三成だ。
義と理とはなにか。建前である。
世は利と徳で動く。そこにそれ以上の理屈はない。
あるいは、利と徳に差がない場合のみ、義と理が立つ。
しかし、利を説けず、徳で惹き付けられない者は、
利と徳を愚として義と理にすがる。
勝てない戦い。勝てるわけがない戦い。
我らに勝利の日は来ない。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
この一週間ほど感想記事などをいろいろ巡ってはみたが、いくつかの批判記事もあまり共感できる内容でも無かったので、ひとつ増田にでも吐き出してみる。なお、いろいろと確認の意味も込めて昨夜もう一度シン・ゴジラは再視聴している。
という訳で以降シン・ゴジラへの不満点を列記する。
まず冒頭の10分か20分くらいで気になった部分。主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。この時点では矢口は単なる夢想家レベルである。
演出意図としては「唯一真実にリーチしている主人公」のように見えるのだが、それならもっと巨大生物という予測に納得感が無ければ意味が無いように思う。もし矢口をそうした「夢想家」的キャラクターとして描く意図があったのならば納得がいくのだが、以降は基本的に「有能な政治家」然と描かれるのでそれも考えづらい。
基本的に高いリアリティラインで進む映画のため、このシーンで不自然に映画の先を予測した発言があるのは違和感が大きかった。さらにそれに続く、会議室で尻尾のニュース映像が流れるシーンがその印象を後押ししていて、あの映像だけであれを「巨大生物の尻尾」と判断できるというのもかなり不自然に思う。映画の進行のためにさっさと登場人物全員に対象を「動物」だと認識させたい+ゴジラの全体の姿をここでは見せたくない、という意図からああいったシーンになったのだろうが、やはり不自然は不自然だ。
比較的序盤のこの2シーンで、「映画の都合で登場人物の理解力直感力が劇中で変動する映画では?」という疑念が生まれてしまった。
ゴジラに対する登場人物のリアクションとしては、最終形態が現れたシーンでも、あれだけサイズも形態も変化していれば、別個体の可能性への言及があっても良かったのではないだろうかと思う。ここでも映画の進行のため、そうした選択肢を登場人物に不自然に与えていなかったように感じられた。特に「あらゆる可能性を」と発言していた矢口が最後まで同種の別個体の存在に言及しなかったのが不満として残った。
・人の死の描き方について
ネットでは「死がちゃんと描かれていない」「いやアレでちゃんと描かれている」という論争がいくつかあったようだ。
個人的には全体を通してあくまで被害を俯瞰的に描いていたのは面白かったと思う。「対策ルームに篭って黙々仕事をする政治家」が主人公という映画なので、むしろ現場の被害をことさらクローズアップせずに描いたのは正しい。
が、むしろそれならその描き方を徹底して欲しかったという不満があり、2,3箇所ほど不自然に急に人死にがクローズアップされたシーンがあり、そこが「ちゃんと死を描いていますよ」というアリバイ作りのシーンに見えて正直気持ち悪かった。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
この点はあまり大きな不満という程では無いのだが、どうにもモヤモヤとしてしまった部分だ。「全体としては面白いとは思うのだが、細かい不徹底が気になってガッカリしてしまった」というのはシン・ゴジラ全体に対する不満でもあるので、その意味でも言及しておいた。
これは褒めている人の中でも言及している人がチラホラ散見されたが、カヨコのキャラクターはリアリティラインを高めに設定しているこの映画の中で明らかに一人浮いているように感じられてかなり気持ち悪かった。正直ここまで不自然に浮いたキャラクターをこの映画に投入した作劇意図がよく分からない。
とある感想で、「カヨコの突飛なキャラクターによりリアリティラインが下がったために、その後のヤシオリ作戦が受入れやすくなっている」という説明があったが、ちょっと納得しづらい。ヤシオリ作戦はかなり無茶な内容の作戦ではあるものの、劇中の他の展開で「これしか残された作戦はない」という納得感は十分作れており、カヨコの存在が無くても十分受け入れられたと思う。そもそも、対ゴジラ作戦のリアリティラインと登場人物のドラマのリアリティラインとは(相関してはいるだろうが)別の話であり、突飛なキャラクターがいるからと言って突飛な作戦が受入れやすくなるものだろうか? 単に「不自然に浮いたキャラがいた」というだけに見える。
全体通して極めて「大人」な登場人物で物語が進んでいるだけに「なんでこんなキャラクターを入れて雰囲気ぶち壊すんだろう?」と感じた。
・ヤシオリ作戦について
当のヤシオリ作戦についてであるが、例の無人在来線爆弾など独特のケレン味の魅力は確かに素晴らしいとは思うのだが、最後の決着の味気の無さが気になった。有り体に言うと「ショボい」。
意図自体は分かる。派手な秘密兵器などを使うのでなく、人々の地道な対策奔走による勝利を描きたかったのだろう。だが、結局それと特撮的な絵の盛り上がりとバッティングしてしまっているのは悪手だったのではないか。もっと同じ演出意図を満たしながらも、絵的に迫力あって盛り上がる「決着」を描く方法が何か無かったのだろうか、というのがどうしても不満。
注入量を読み上げる緊迫感あるシーンで、「放水した分を全て飲んだ計算して大丈夫なのか?」「そもそもあの生物「口からモノを飲む」という習性自体あるのか?」などの疑問が脳裏をよぎってしまったが、そうした疑問ももっと絵的な盛り上がりがあれば勢いで誤魔化されていたのにな、と思うので、ここも「悪くは無いんだけど、もう一歩足りないなあ」と感じた部分。
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。せめて矢口本人が言うように「自分が現場にいる事で出来た微妙な判断」が描かれていればスッキリはしたかも知れない。まあそれをやると矢口がヒーローっぽくなりすぎるきらいがあるのでまた違うんだろうなとは思うのだが。
・「国」のアピール
別に「国威掲揚だ」とか「日本スゴイきめー」だとか言うつもりは無いが、そうでなくても妙に「国」や「日本」のセリフに唐突さというか、無理やり挿入した感があって首を捻った。矢口の「皆休まず熱心に仕事してくれる」から「この国はまだまだやれる」のセリフに繋がるのに飛躍を感じる。前段階として「政治家としてこの国に失望しかけていた矢口」という描写でもあればドラマとして納得しやすくはあったのだが、そういう個人ドラマをフォーカスする映画では無かった。「ニッポン対ゴジラ」というテーマのために無理に接続した感がある。
また、これも同意見を多少ネットで見られたが、総体としての「日本」とゴジラとの戦いを描くのがテーマであるのであれば、あそこまで「東京」のみの話に終始したというのはどうなのだろうと思う。劇中でモブのセリフに地方軽視へのエクスキューズ台詞があったが、正直言い訳程度にしか感じられず、物語として組み入れられてはいなかった。話を2時間にまとめることを考えれば、そこまで舞台を拡散させるのは難しいというのは分かるが、映画全体で「日本」や「国」を強くアピールしていた事との整合性がとれていなかったように思う。
他、細かい部分は置いといて、強く気になったのは以上の点だ。
「細かい事を気にしすぎ」と言われるかも知れない(というか知人に話したらそう言われた)が、気になってしまったのだから仕方ない。面白かったは面白かったが、改善できそうな部分、徹底されていない部分がチラついてしまった、というのは何度も繰り返す通り。「大傑作」の評に期待して見に行ったため、「ここがクリアされてないのか…」というガッカリが先行してしまったきらいはある。
リアルの知人と言い合いになっても後味悪いので、増田で一通り吐き出させてもらった。以上。
<追記>
続きと種明かし
スパルタ的(まさに2名が代表を辞退したらしいが。)な教育も、方法論の一つだと思うし、一時的な結果には結びつくと思う。
ただ、何のためにスポーツをしているのか?結果だけのため?国民にメダルを届けるため?
その為には、選手の意思を奪い、強権的にふるまうことが正当化されるのか?
たんなる金銭的な貧困詐欺だけでなく、文化資本的な意味でも貧困詐欺だよなあ。
このJKってマイルドヤンキー的な文化圏の人間で、その中では貧困というほどではないのかもしれん。
NHKとかはてな界隈から見ればマイルドヤンキー文化圏なんて貧困の象徴なんだろうけど当人たちに危機意識がない限りどうにもならんよな。
河内音頭が近所の小学校から聞こえてくる盆踊り。俺が子供の頃でさえ「古臭いなー」と思ったそのフレーズが2016年でも現役であることになんか感じたのだが、よくわからない。年取ったな。
男性向けの二次創作同人サイトって「エロパロ」って名乗って○で作品タイトルの文字を何文字か伏字する文化が昔あったよね
女性側の同人サイトがindexページを扉として、公式と無関係ですよってわざわざ名乗って、エロは裏サイトにしてパスワード申請で…って面倒くさい免罪符やってた代わりに、エロ絵をindexに上げつつもそのあたりを紳士協定としていたり逆に伏字で隠すことでのエロさとしていた印象があったんだけどいつなくなったんだろうアレ
同じタグ付け強制された結果でも、棲み分けも兼ねた独自の伏せタグをぽこぽこ生み出し始めた女性向けと違って男性向け側はザックリと伏字文化が消滅したように見えるけどまだ何かで伏字文化って残ってるんだろうか
増田作家であれば、ブコメが伸びるようのツッコミスペースを開けてあげるのは常識である。そこに全力でハマるのは大抵 b:id:nekora b:id:feita あたりが見事。
そこにハマらないが、的はずれで大してものも知らないにも関わらず勇敢なブコメを入れていく常連も多いが、それは自分で探してくれたまへ。
i7-2700なんてまだまだ現役だろ。HD6000シリーズはアイドル消費電力が最近のと比べるとちょっと高いけど
やってるゲームに限界感じないならまだまだ使えるレベル。ただその時代のグラボは動画みるときにクロックを
車に乗っているのだが、見てきた事故や、危険なケースの殆どがこのパターンな気がする。
あぶねーな-と思う危険な追い越しは男性がほとんど。不注意のケースは女性ばかり。
性差でもあるのだろうか。