はてなキーワード: サターンとは
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 やぶら小路の藪柑子 パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イクルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッターナラーチャタニーブリーロム・ウドンラーチャニウェットマハーサターン・アモーンラピーンアワターンサティット・サッカタットティヤウィサヌカムプラシット・ピカソ
小学校低学年の頃、温泉旅館のゲームコーナーで遊んだゲームと、つい最近再会した。
当時、私の家族は年に一度、伊豆の温泉旅館に2泊3日で旅行をすることになっていた。
毎年行くその温泉旅館のゲームコーナーに、それは置いてあった。
男がどこかの施設の階段を猛烈な勢いで駆け下りる姿、海が干上がって砂漠となった地球の風景、3Dステージで自機にロックオンされて轟音とともに撃ち落とされていく敵。いつも微妙なゲームしかなかったゲームコーナーにあって、一際目立つシューティングだった。
デモを見ていて心を動かされたのは、私ではなくて当時中学生だった兄のようだった。
普段まったくゲームセンターに出入りしない2人にとって、ゲームそのものはとても難しく、兄の力をもってしても2面までしか進むことができなかった。
兄はなにより曲に感動したようだった。後日、サントラを購入して一緒に聴いた。
数年後、それはセガサターンに移植されることになる。かつての感動をもう一度、と始めたゲームは、「覚えゲー」であり、家庭用シューティングはたくさんプレイしていたので、ラスボスにたどり着くまでに時間はかからなかった。
だが、ラストに衝撃的な演出が待ち構えていた。ラスボスの背景は、宇宙の創生から人類の誕生、戦闘機や戦車、ゴミの山とそこに埋もれる日本人形、こちらを見つめる猫、と目まぐるしく変わり、倒すと地球が真っ二つに割れて終わるーー。
2人ともこれを「真のエンディング」とは思えず、ラスボスの倒し方を巡って話し合い、色々と試してみたが、どうしても地球は滅亡した。
結局なにがなんだか分からないまま、ゲームからは離れていった。
やがて自分が中学生になる頃には、兄は大学生になり、一緒にゲームをすることもなくなった。毎年の家族旅行もなくなった。複雑な事情で父親は最後の数年間は一緒に行くこともなかった。
思い出の旅館も、負債を抱え込んだ挙句、事業再生の名のもと、名前も経営者もコンセプトも変わり、跡形もなくなった。
そのまま忘れ去れるはずだったが、高校生になる頃、ゲームの別の側面を知ることになっていく。
あるとき、何気なくネットでゲームの名前を検索してみると、演出が高く評価されており、カルト的な人気があることを知った。2chでは主人公になりきったマニアの書き込みが人気を博していた。
自分も引きずられてのめり込んでいった。兄が買ったのとは別に出たアレンジのサントラを買い、ライナーノーツに書いてあるストーリーを読み込み、曲を聴き込んだ。
絶望的としかいいようのない世界観、それに比して明るい1面の曲。
人類の侵略者を叩く反撃作戦は停戦交渉を前に永久に凍結された。それを拒否して暴走し、一人立ち向かう主人公。
作戦名には「純然たる自由」とあった。主人公を操るプレイヤーが1面で聴く曲は「born to be free」だ。しかし、自由をもぎとろうと行動した結果、最後に地球は割れる。なにが自由で、なにが不自由なのか。
地球が割れるのが実は心象風景なら、そうならないで済む未来は、どうしたら実現できるのだろうか。何が正しくて、何が正しくないのか。
大学受験に失敗したときも、つきあっていた彼女と別れたときも、サントラを聴いた。
社会人になってしばらく離れていたが、一年ほど前から、なんとかしてまた実機をプレイしたいと思うようになっていた。なにぶん古い上にマニアックで、なかなか見つからない。レトロゲームを扱うゲームセンターが、基板を所持していることも知ったが、同じ会社が作った名作シューティングが稼働していても、このゲームが稼働しているのは見たことがなかった。
と思っていたが、先日ついにゲームセンターで稼働しているのを見つけた。温泉旅館で実機に触れてから、28年ぶりの対面だった。
当時のままのゲームがそこにあった。完全にステージと同調するサウンドも、真っ二つに割れる地球も、そのままだった。サターン版では正確に移植できていなかった部分も、当たり前だがちゃんと表現されていた。
サターン版をやり込んでいた記憶が蘇ってきて、2回目にはワンコインでクリアすることができた。
しかし、懐かしいと感じるのは、2面までだった。
2面終盤の難所で撃墜されながら、自分は何を求めてこのゲームをしているのだろうと自問し、答が出ないので、今日もそのゲームセンターに通っている。
いわゆる格ゲー(格闘アクションゲーム)ではなく格闘シミュレーションゲームだが、サターン版メタルファイターMIKUはHPが0になってもずっと動いていられるし、しかも攻撃力が上がっていた。
「30前後ってね、見直しの時期なのよ。勤めてたら自分の仕事これでいいのかな、あの人は転職したのにな、とか思うし、起業や転職したらしたで同じ会社で着実に業績積んでる人もいるのになって焦るし。結婚とか出産とかも考えるじゃない。タイムリミットとかさ。生んだら生んだで今度は子供中心の生活でいいのかって、もっとキャリア積めたんじゃって悩むのよ。何しててもどうあっても周りと比べて気になっちゃうの。節目なのよ。いいのよたくさん考えて今の自分にとっての一番はこれ!ての見つけられれば。この先もずっと道は分かれていくんだから」
…て言ってくださった当時の大先輩今も感謝にたえない。
30年て土星の公転周期とだいたい同じらしく、昔の人は「自分が生まれたときの土星の位置に、改めて土星(=サタン。昔は凶星と思われていた)が重なる時期」でサターンリターンと呼んで何かいろいろ占ったりしてたらしいとぼんやり聞いた(うろ覚え)。
わざわざ占いに組み込むくらいなんだから、よっぽど皆そういう時期を迎えてるんだろうな。
以上、思い出話。
そういうわけで、1975年生まれの俺を「構成した」ゲーム10本を時代順に紹介していく。
それはとりもなおさず、俺自身を紹介することとほぼ同義になるはずだから、長たらしい自己紹介とか前口上はなしで……では、参る。
俺にとっては、ヴィデオゲームの魔法は全て本作に詰まっていると言っても過言ではない。
結局のところ、俺の人生におけるヴィデオゲームは『パックランド』に始まり、『パックランド』に終わるだろう。
今作に出会ったのは俺が8歳の時、駅前にできた『カニヤ』というゲーセンだった。
『カニヤ』は薄暗く、当世風に言うところの「ツッパリ」と「オタク」(という言葉が生まれる前のオタク風大学生たち)でひしめきあい、
当時の彼奴らは『忍者くん』や『ソンソン』や脱衣マージャンに興じていた。
忍び込むようにして入ったこのゲーセンで、俺はこのゲームにひと目で惚れた。
『パックランド』には俺がそれまで見てきたゲームとは全く違った吸引力があった。
キャラクター、BGM、色彩……全てにおいて、ゲームにこれほど「魅せられた」ゲームは生まれて初めてだった。
消火栓を押した時の、水しぶきに押された時の、モンスターの頭上に乗っかた時の、妖精にもらったブーツで空を飛べた時の感動。
それは俺がヴィデオゲームと「契りを交した」瞬間だった。その契約は今なお解消されていない。
もし本作をプレイしてなかったら、初代ドラクエを発売日に購入することもなかっただろうし、
「ADV」というジャンルに注意を払うこともなかっただろうし、
中学生になってから推理小説にどっぷり浸かることもたぶんなかった。つまり、俺は俺でなかった。
推理小説よりもゲームブックよりも面白い「推理もの」をゲームで作り上げてみせたことに大きな意味と意義があった。
シナリオ・堀井雄二/制作・チュンソフト。ゲーム史的に考えても偉大すぎるだろ。
本作がなければドラクエも(おそらく)存在しなかったってことだ。
けどまあ、そんなこともどうでもいい。これまでもこれからも、ポートピアは俺の血であり肉である。
子供ながらに、「堀井雄二で、チュンソフトで、エニックスなら絶対面白いに決まってるや!」みたいなノリで近所のおもちゃ屋に予約した。
初プレイ時は……のっけから震えた。こんなに面白いゲームがあって良いのかと。ゲームにはこんなことができるのか、と。
作者と開発元が同じだけあって、テキスト文体とUIがポートピアと一緒だな……などと子供らしくないことも思ったっけ。
そういえば、ここに挙げたゲームは殆ど全て泣いたな。今となってはゲームで感動して泣くことなんてそうはないけど。
それが年齢によるものだったのか、ここに挙げたゲームの凄さによるものだったのかは知らん。
ある種のゲームが「想像力」を膨らませる最良の媒介であるっていうことはウィズが教えてくれた。
「RPG」というジャンル/概念を意識したことも、ドラクエよりウィズの影響が大きい(というか、ウィズがなければドラクエもおそらくないのだが)。
「?ぶき」を鑑定して、「むらまさ」だった時を上回る驚きと喜びって、もう体験できないんじゃないか?
もろ鳥山明なドラクエとは違って、おどろおどろしくリアルな姿/形状のモンスター(末弥純デザイン)たちに慄いた。
寺院に駆け込んでも、死者が蘇生するとは限らない——人も物も永久に失われてしまうというリアリティに泣いた。
ウィズは俺に「隣り合わせの灰と青春」を理屈ではなく、ゲーム体験として叩きこんでくれた。
おおっと、故羽田健太郎氏の作ったBGMの素晴らしさについても触れないわけにはいかない。
あらゆるクラシック音楽から「いいとこどり」の手法で極上の音楽を作り上げるすぎやまこういち氏に対して、
バッハ以前のバロック音楽へのストイックな愛がびしびし伝わってくる荘厳な旋律は羽田氏ならでは。
タイトル画面、カント寺院、キャンプBGMは永遠ものだろう。もし未聴ならyoutubeで聴いてほしい。
当時、プレステ派とサターン派でゲーオタ勢は真っぷたつに割れたが、俺は迷わずサターンを選んだ。本作をプレイするためだ。
当時は震えるほど高価だった(44800円)不格好きわまりない鼠色のハードをファミマでバイトして購入した。
膨らみ過ぎて破裂しそうになっていた、こちらの勝手な期待ははたして外れなかった。ポートピア以降のADV観はこの1本で刷新された。
トラベルの中でトリップし続けているような、唯一無二のゲーム。それが『MYST』。
インターネットなき時代に本作を自力でクリアできた時の感動は筆舌に尽くしがたい(泣いた)。
ゲーム史的に言っても、その後の国内外RPGやウォーキングシミュレーターというジャンルへの如実な影響が……や、ゲーム史云々の話はよそう。
ここに挙げたどのゲームも、俺にとっては「自分を作ったゲーム」であり、それ以上でもそれ以下でもないからな。
つい最近まで「自分はローグライクなゲームが好きなのだ」と思いこみ、それっぽいゲームには積極的に手を出し続けてきた。
当時、俺は浪人生だったが、心は勉強にも恋愛にも向かわず、文字通り、寝ても覚めても今作とともに過ごした。
タクティクスオウガもドラクエⅥもテイルズオブファンタジアも素晴らしいゲームだったけど、
朝晩取り憑かれたようにプレイしていた今作のせいで、この時期に出たゲームは自分の中で必要以上に印象が薄くなってしまっている。
後期SFCらしい完璧なドット絵も、和風すぎやまこういち傑作BGMも、チュンらしい快適操作とUIも、寡黙なシレンも小生意気なコッパも、
ガイバラもペケジも※アスカも、どのモンスターより恐ろしい店主も、全てが愛おしかった。
手持ちのROMカセットは内部電池が切れてしまってたから、数年前、Amazonで新品を再購入。
「フェイの最終問題」をどうにかこうにかクリアし、地球の裏側に再び出でた。
中年になった今でも、俺の腕と勘は(少なくとも初代シレンにおいては)まだ衰えていないようだな……。※訂正 アスカ→お竜
「昨年ついにSwitchで配信されたし、もうすぐパッケ版も出るから、絶対やっとけ!!!」
それで終わらせてしまいたいところだが、どうも気が済まない。
数多の熱狂的ファンや批評家たちによってすっかり語り尽くされている感のある今作。
俺にとっては、世界の見え方をがらりと変えてしまった哲学書のような作品である。
あるいはクラブカルチャー、サブカル、世紀末感……90年代後半、自分にとって全てだった世界をそのまま封じ込めたCD-ROM。
本作はゲームでありながら、「ゲームを超えた何か」という感じがしてならない。
人生をすっかり変えてしまうかもしれない、それまで夢中になってきた「ゲーム」をやめさせてしまいかねない、超危険物。
もはやゲームから素直に感動を得られなくなっていた、すれっからしの俺をもう一度「ゲーム」に住まわせてくれた、まったき「ゲーム自体」。
世代的にゼルダはディスクシステム時代からやってるが、正直、ドラクエと比べるとゼルダにそこまでの思い入れはない。
『神々のトライフォース』も『風のタクト』も確かにめっちゃ良くできてると思ったが、「自分を作った」とは言い難い。
正直、世界中で大絶賛されたBotWもそこまでとは思えなかった。
あれがオープンワールドの傑作なら、俺はこれからもクローズドワールドで結構。
なぜか? 「広がる世界」を生まれて初めて感じたゲームだから。
BotWと比べれば全くオープンワールドではないのだろうが、俺にとっては本作のハイラルこそ、生まれて初めて感じたゲーム内に広がる「世界」だった。
エポナを手に入れ、高原を走り回っている時以上に「世界」を感じたことは、今のところ、まだない。
夕暮れ時、ロンロン牧場でマロンちゃんとオカリナ演奏しながら過ごした時間よりも麗しい青春を感じたことは、今のところ、まだない。
『moon』ディレクターである西健一氏が数少ないスタッフと生み出した傑作。
『moon』が作り出したうずたかい第四の壁をよじ登り、ついに超えてみせた作品は今なお本作のみと感じる。
エンディングではいい歳して号泣した(物心ついてから号泣した最後のゲーム)。
坂本教授がBGMを作ったにもかかわらず、本作はろくすっぽ売れてない。
内容も恐ろしいほど過小評価されているように思う。
(ドリキャスという幸薄いハードで発売したことと、高めの難易度設定に拠るところが大きいだろう)
おまけにリメイクもアーカイブもないから、『moon』と違って「やってくれ」と気軽に言うこともできない。
だけどもし、ここまで読んでくれて、「こいつとはゲームの趣味近そうだな」と感じてくれたなら、どうか本作をプレイしてみてほしい。
とくに『moon』に強く打たれたゲーマー諸氏! 本作は『moon』の唯一の精神的続編と思ってほしい。やれば、わかる。
しつこく。再発売(配信)をせつに、せつに、せつに、望む。
本作発売時、75年生まれの俺はとっくに「中年」と呼ばれる年齢にたっしていた。
本作はそんな「まさか」という頃にやってきた、俺のラスト・オブ・アオハルだった。
それまでスタンドアローンでしかゲームしなかった俺に、本作はオンライン/共闘でしか味わえないゲームの楽しさと厳しさを骨の髄まで叩き込んだ。
その体験は視界を塗り替え、時間感覚を刷新し、現実を異化した。
これほど夢中になってプレイしたオンラインゲームは本作と『ARMS』しか思い当たらない(やっぱ俺は任天堂シンパなのだな……)。
『PUBG』も『Overwatch』も『Fortnite』も面白かったけど、初代スプラから受け取ったJOYには届かない。
汗を流しながらでかいゲームパッドを握りしめていたあの2年間を死ぬまで忘れることはできないはずだ。
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俺を作ったゲーム10本は以上です。暑苦しい長文を最後まで(途中まででも)読んでくれて心から感謝。
何年生まれか知らんが、そちらの「俺を作ったゲーム」もぜひ教えてほしい。何本でもいい。マジ知りたいから頼む。
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【追記】
ブコメ全部読みました。
こういう「○本」みたいな括りって、そこからこぼれ落ちた大事なゲームの思い出とか括りでは語れない気持ちを排除するみたいで、
あんま良くなかったか……って書いた後はちょっと落ちこんだけど、
リメイクで盛り上がってるから、今まで気になりつつもプレイせずスルーしてきたFF7をiphoneにダウンロードしたよ。
1作目はかの名作クロノ・トリガー。バトルの時にカーソル合わせるのがちょっと難しかったけど、長押ししてからスライドすればうまくできることに気づいて、ストレスなくエンディングまで突っ走れたんだ。
クロノをプレイするのは小学生のとき以来だったけど、めちゃくちゃ面白かったよ。
ゲームの余韻もあって、鳥山明の画集がめちゃくちゃ欲しくなったんだけど、クロノ・トリガーの絵がまとまってる画集ってあるのかな?
知ってるひとがいたら教えてください。
それで本題はこちらなんだけど、クロノがめっちゃ操作しやすかったから、おんなじスクエニが作ってるんだしFF7もまあ大丈夫だよねって思ってダウンロードしたんだ。
なんで? なんでなんで?
色々ぐぐってみたんだけど、セーブデータはファイル10のスロット15に保存されるって公式サイトにも書いてあるんだ。でも全然保存されてないんだよ。
アプリをバックグラウンドに入れてSafariとか開くとすぐ落ちるし。
クロノ・トリガーはアプリがおちても「ちゅうだん」扱いになって、ダンジョンの入り口とか、きりがいいところからまた始められるからすごくよかったのに、FF7はなんでこんな仕様なの?
家庭の事情でサターン派だったから、発売当時はFF7になかなか手が出せなくってごめんね。FF6が大好きでした。
セガサターン派はプレステ派にいつも馬鹿にされてたけど、カプコンの格闘ゲームがめっちゃやれたし、グランディアと魔法騎士レイアースとか街みたいな傑作もあったし、エネミーゼロとかリアルサウンド風のリグレットとかへんなゲームもいっぱいあって楽しかったよ。ときめもで詩織ちゃんも落とせたし。後悔してないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20200211202529
さて、続きだ。ゲーム業界の流通において初心会がやってきたこととその最後を述べてきたが、今回は初心会を葬った旧SCE、ソニー流通を中心に街のゲーム屋的な小売店視点で色々語ろうと思う。しかしこの期間は非常に起きた出来事が多くかつ入り組んでいるので、あえて細かな要素をオミットして正確さよりもわかりやすさを重視することにする。それにデジキューブの銃撃事件の真相なんざわからないからな。
時代はプレイステーション参入前。任天堂エンタテインメントが行き止まりに行きつつある頃だ。そのことについては前回語ったが、さて、任天堂以外の、NEC(PCエンジン)やセガ(メガドライブ)あたりはどうだったのだろうか? 初心会が横暴なら、こちらのほうに注力するという手段もあったのでは?
ぶっちゃけこっちはもっと酷かった。ソフトが売れないというわけではない。10万本売れるソフトはあった。あったのだが問題はプラットフォーマーが用意した他の大量のソフトだ。
当時、任天堂に対抗するためにNECやセガは自社プラットフォームの発売カレンダーの空白をなんとか埋めようと躍起になっていた。サードが自主的にソフトを作ってくれるのならそれに越したことはないが、そうではない場合は自分たちで用意する必要もあった。自分たちがパブリッシャーとなり開発会社に委託してゲームを作らせる。さらにはサードに対しても「ウチの流通に乗せますので○万本は絶対に売れますだから作ってください」みたいなアプローチも行った。そうして「とりあえず」カレンダーを埋めることができたソフトは、「とりあえず」問屋が頑張って小売に売った。在庫になっても不良在庫になるだけなのがわかっているので大バーゲンで売った。小売はもともとの卸値が安いため、最初から値引きして売る。売れ残ったら損だから博打みたいなものだ。そうしたソフトが並ぶと小売価格そのままのソフトは見向きもされなくなるのであわせて値引きされる。PCエンジン末期、餓狼伝説2(クソゲーではないのだけど)が100円で棚に50本くらい並んでいるのを見たことがあったが、あれは問屋の不良在庫を捨て値で小売が拾ってきたんだな。
どこかで見た状況と思わないか? そう、アタリショックだ。ゲームの在庫が問屋にも小売にも溢れわけがわからない状態になっていた。価格が崩壊し定価が意味をなさなくなっていた。
任天堂は初心会が横暴、セガとNECは頼りにならない。こんな状況の市場に次世代機の波と共に救世主がやってきた。ソニーだ。ソニーが直接小売店と契約するというのだ。
衝撃は大きかった。CD流通の流用で、「リピートを早く」「小売価格の大幅な値下げと小売店に対するマージンの確保」「掛け率は大量に取ろうが少量だろうが同じ」という特徴をもち、かつ「中古売買の禁止」「値引き販売の禁止」という成約があったが、それでも多数の小売店からは好意的な反応を得た。そもそも初心会でも値引き販売は原則としては禁止だったのだから。
そして何よりプレイステーションが小売店に好まれたのは、ゲーム機本体の卸値が安く、プレイステーション1本体だけを売っていても結構な利幅があったこともあげられる。これはかなり珍しいことで、通常は卸値と小売価格はほとんど変わらない。Xbox360の発売当初は二次問屋の都合一部の小売店において卸値が小売価格を超えたという珍事すらあったという。プレイステーションとサターンは発売時期がほとんど一緒で、スタート時点ではサターンのほうが優勢だった。しかしこれがじわじわと小売店をプレイステーション派に偏らせていった。プレイステーションは小売店にハードでもソフトでも確かな利益を確立してくれた。
そうしてFF7が、DQ7がプレイステーションで出るという流れが生まれ一気にプレイステーションが圧倒的な優勢を保持するようになるわけだが、この流れのなかでゲーム屋は何かが違うと確信した。プレイステーションが救世主になってくれたはずだった。しかしFF7を発売するスクウェア(当時はエニックスとの合併前だった)が打ち出したデジキューブは、既存のゲーム屋にツバを吐きかけるようなものだった。なにせ目玉タイトルのFF7の出荷本数の半分をコンビニに任せるというのだから。これではゲーム屋はやっていけない。いくら本体を売れば儲けになるといっても一人にせいぜいが一台が限界だ。ソフトをたくさん売れなければしかたない。
そしてソニーの態度もなにかおかしくなりはじめていく。元々の小売店への説明会では「返品はNG」ということになっていた。なっていたのだが、個別の対応としてソニーの担当者が返品を受け付ける旨を話していた。そのため小売店のなかでは安心して在庫を抱える店もあったわけだが、返品したいと言い出すと担当者の態度がころりと変わる。前に言っていたことと違うことを言い出す。ようやく返品受付をしてもらうも半額返金……。そのような事例が発生した。結局ソニーとしては二度返品を「特例」として受け入れるのみにおわり、いよいよもって「返品NG」が周知徹底されることになった。
頼りにするミリオンソフトは入荷しない、個別対応で約束していた返品制度はなくなった。このような状況下でもなおソニーは「中古取り扱い禁止」「値引き販売禁止」を打ち出していた。中古を取り扱った店や値引き販売した店は、不思議なことに”配送事故”が発生してソフトの入荷が遅れるようになった。
FF7発売の頃にはすでに任天堂は初心会を解散させていた。ニンテンドウ64を発売し、ポケモンを大ブームにさせた任天堂ならこの頃のゲーム屋の救世主なり得ただろうか? 残念ながらこの頃の任天堂(正確には任天堂系列の問屋だが)は「小売価格を下げつつ小売店への卸値を上げる」という暴挙に及んでいる。それでもポケモンが死ぬほど売れたのだから恐ろしい。
ソニーが信用できず、任天堂はあてにならない。そうした状況で頼りになるのはセガ……ではなかった。セガはメガドライブの反省を活かしおもちゃ卸問屋をまとめてセガ・ユナイテッドという流通会社を立ち上げる。大手のゲーム屋には直接卸し、小さな街のゲーム屋には二次問屋を使って卸す、ちょうど初心会とソニー流通の間のようなハイブリット流通機構を作り上げた。在庫管理とコストダウン両方の面でなかなか上手くいったはずだが、いかんせんプレイステーションの圧倒的ソフトラインナップには敵わなかった。自社でなんとかできる力はあるのだが、セガにはポケモンがなかった。しかしメガドライブ末期の状況からここまで着実に改革を進められたのは称賛に値する。NECは途中で死んだのに。
そしてついに中古裁判が勃発する。1998年1月には公正取引委員会がソニー流通の「値引き販売禁止」「中古売買禁止」が問題視され排除勧告を受けた。しかしこれで下がらずソニーは他メーカーを巻き込んで中古禁止裁判を起こす。ゲームメーカーvs小売の裁判だ。その一方で株式会社上昇(ようするにカメレオンクラブだ)がエニックスを訴える。「新作ソフトは扱わない」「ロイヤリティとして中古売上の7%を支払う」といった提案を出したものの実際にエニックスからソフトの出荷停止を食らってしまったがゆえの反撃だ。なおこの頃にはソニーがスクウェア(デジキューブ)だけを優遇することが問題視されて、各社サードメーカーも自社流通で小売店に卸すようになっている。
2つの裁判が同時に起きて別々の判決が生まれて、ここらへんは非常にややこしい。ややこしいが小売店は公然と中古を売るようになった。値引きもするようになった。自社流通に切り替わった各社ゲームメーカーも忌々しく思っていたが裁判と流通とは別との判断だったのか、おおっぴらに”配送事故”が起きることはなくなっていく。
ちなみにこの頃、セガはドリームキャストに向けさらなる流通改革を行い、セガユナイテッドをセガミューズへと編成しなおす。これは老舗おもちゃ問屋ムーミンがセガユナイテッドに合流した形だ。ムーミンはメガドライブ(もしかしたらもっと前?)の頃からセガと共闘しているお得意様だった。なお、ソニーを学んだのか「値引き販売禁止」「中古売買禁止」を小売店に押し付け、同じく公正取引委員会より立ち入り審査を受けるはめになる(もっともこれは後日小売店と契約しなおしをすることによって審査は打ち切られた)。小売店の救世主はなかなかいない。
中古裁判は最高裁にまでもつれ込んだが、ようやく結論は出た。中古販売は合法だった。小売店は大手を振って中古売買ができるようになった。値引き販売をしてもお咎めはなくなった。小売の完全勝利だ。「ファミコンショップ」はPS2の時代にまでいたりようやく安心できるようになったかのようにみえた。
そうではなかった。むしろゲーム屋地獄はここからが本番だった。
まず大店法の改正があった。巨大店舗の小売店が各地に出来上がる。そして家電屋の店舗の巨大化がどんどんと進む。巨大化した店舗で何を扱うか。ゲームも扱うようになった。ゲームは美味しい商材だと思われた。そして今までグレーゾーンだった中古に合法判決が出た。取り扱わない理由がなくなった。
そのため大手販売店は客寄せのために新作ソフトを大きく値引きする。これが卸値と同価でも構わない。とりあえず客が来て、他の家電もついでに買ってくれれば儲けものだからだ。そして中古も多数取り扱う。ゲームの利益の確保はこっちだ。そこそこの価格で引取りそこそこの価格で販売する。これも回転が早ければ利益が稼げる。ビデオレンタルのゲオとツタヤが入ってきたのも大きかった。街のゲーム屋さんにできることは限られていた。大手資本に真正面から戦って敵うわけはなかった。中古販売という最高の武器を手に入れたかわりに、同じ武器をもった最強の敵が現れたのだ。多数のプレイヤーがそちらに流れた。売っているものが同一なら、安いところで買うのが当たり前だからだ。
その後まったく救いがなかったわけではない。DSの大フィーバーがこの後起きた。ゲームに触れたことがない新規層でも直感的なタッチパネルを備えたデバイスはゲーム市場を一気に活性化させた。誰もがみなDLライトを買い求めてゲーム屋と家電屋を往復した。飛ぶようにDSライト本体と脳トレとどうぶつの森が売れた
しかしここでも任天堂流通が小売の前に立ちふさがる。任天堂は小売店から受けた仕打ちを忘れていなかった。64よりもPS1,ゲームキューブよりもPS2を優先させた街のゲーム屋に、引く手あまたのDLライトを多く卸す理由がなかった。DSライトは任天堂流通のお得意様、デパートのゲームコーナー、おもちゃ系統の販路を優先して入荷していった。今まで子供向けのプレゼント用途にゲームキューブ、ポケモン関連をしっかり取っていた「実績」のおかげだった。街のゲーム屋が本当に一息ついたのはおそらくさらに後のモンハンポータブルの大ヒットあたりからだろう。
こんな流れがあり、地方から今現在ほとんどの「ファミコンショップ」が姿を消している。初心会を中心とした問屋は、成熟したゲーム業界がメーカーの自主流通を実現させたことでその役目を終えて消えていった。となれば、地方のゲーム屋もまた、成熟したゲーム業界によって役目を終えた存在としてみなされてしまったのだろうか? おそらくはそうだろう。そして将来的にはゲームを販売する大型店舗すらいなくなるかもしれない。ダウンロード販売をメーカーは推進しているからだ。
そんな流れのなか、この令和の時代に意地でも自前の店舗でゲームを販売している「ゲーム屋」を見かけることがある。業界の厳しい荒波に揉まれそれでも生き延びている人たちだ。私は彼らに尊敬の念を抱かずにはいられない。
彼らに幸あらんことを。