はてなキーワード: 生まれたてとは
出産について、里帰り出産が全力で推されるケースを目にするが、
うちはしなくて正解だったと思う。
どんなに努力して、考え抜いてリスクを低くしても残念な結果になることもあるし、
努力なんて毛ほどもせずにノリと勢いのいきあたりばったりでも五体満足で生まれたあげく、
手のかからない子供でそのままスルッと成人できちゃいましたなんてケースもある、
うちも、里帰りしていても結果的には大差なかった可能性もあるのだけれど、
里帰り出産のデメリットについてあまり語られることがないようなので
うちのケースを残しておこうと思った。
里帰り出産をしたくなかった理由は複数あった。
主な理由としては4つ。
私の実家は今の住まいから移動で1日は潰される田舎で、おまけに冬には降雪がある。
父は気分屋で虫の居所が悪い時に目撃されるとあたりちらされる
(虫の居所が悪い時に目撃されるのがまずいだけなので物理的な距離があれば好々爺といっていい)
母はなんというか……愛が重い。
あと、重要なことを「慮って」隠す。
命に係わる事柄を本人含む関係者に伝えない。本人に余命を伝えずにこころ穏やかなまま死なせたがったり
親類が危篤でも、亡くなっても、すぐに縁者に伝えずに数か月情報を寝かせておいたりする…。
ので、産んだ子供がNICU行きになった場合も出来る限り伝えないよう医者にゴリ押しする可能性があるし
私の旦那にも伝えず隠しておく可能性あるなと思った。
旦那の性格的に生まれたてみせといたほうがいいだろうと思った。
きょうだいは作らない予定なので彼が新生児と暮らせるタイミングはここしかない。
本当にすまんが一緒に苦労しようや……
町につづく道が一本しかないため
雪道甘く見てチェーン巻いてない観光客が立ち往生してた場合ほぼ詰み(滅多にないが)
また、免許持ってる人間は全員働いており、最寄りの病院まで歩いていける距離にないので
旦那との産後クライシスも今のところなく、子供は(ひどくつかれることもあるけど)可愛い、
(娘が里帰りしない世間体について愚痴られたりしたけど私は田舎の世間体より私の体と子供の体が大事です)
経膣分娩の予定が緊急帝王切開で産むことになったり
(これはなんとなくそうなる気が私はしていて、里帰りしたくなかった理由のひとつでもあった)
生まれるまではバタバタしたけど生まれてからは発育も問題なく
里帰りしたくない人全員が里帰りしなくてよかったねって結果にはならないと思うんだけど
すべての出産において里帰りが推奨されるわけでもないので
まず里帰りありきじゃなくて
押し付ける側の話をするよ。
が、今の家庭を壊すつもりもないし、その娘にも幸せになって欲しい。
その子が幸せになるために、私がお手伝い出来ることは、社会人一年生としてある種生まれたてのその娘に社会人としてのあり方を教えることだと思い、対応が悪いところや、考え方、メールの書き方などを指摘した。
はじめは真摯に受け止めてくれたけど、徐々にキャパオーバーとなり、コミュニケーションとってもらえなくなった。
やりすぎ(言い過ぎ)かどうかは相手の反応をみながら調整したつもりだが、やりすぎだったらしい。
その娘はメンタルになったわけでもなく、会社に来なくなった訳でも無いが、意図的に私から席を離して、別の上長と何かを会話して私と仕事上も関わらなくなった。
別の上長は優しい。
道筋を示し、困っている時には目先の問題を前後関係を無視して排除してくれる。
文章にするとたったそれだけの話。
趣味があったとか、個人的に何度も飲みに行ったり映画に行ったりしたとか、困っている勉強を個人的に教えたりとか結構仲良くやってるつもりだったけど、結局私はやり過ぎて拒絶された。
恐らく、別の上長のように相手に求められた時だけ、その求めに応じるのが押し付けでない善意。
私は、人はそれでは育たないと思っている。
嫌がられようと、本人に悪いところを自覚してもらい、改善させる行為は嫌われる。
しかも、本人のキャパを超えるほどの負荷を与えるやり方は誰も幸せにならない。
他の人がやらず、私にしか出来ないこと。
その娘のために私だけが出来ることをやりたくて、やった結果、失敗して嫌われたという単純な話。
そうなる事は何度も覚悟していたはずなのに、どうしようもなく悲しい。
好きでそうしているわけではないため、非常にもどかしく業腹。
自分の目の届かないところで見も知らぬ変態に愛すべき艦娘たちが何度も脱がされる恥辱を味わわされることが嫌なだけだ。
生まれたてのひよこちゃんが見知らぬ他人に何度も何度も強制的に脱がされることを是とする鬼畜ではないか。
苦楽を共にしてきた伴侶が見知らぬ他人に何度も何度も強制的に脱がされることを是とする悪魔ではないか。
よそのお子さんを相手方の目の届かないところで脱がすなんてとんでもない。
好意でやっている人間を否定するつもりは毛頭ないが、自分は絶対にしないというスタンスで艦これをプレイしているだけだ。
それをあたかもルールであるかのように万人に押し付け、嫌がらせだと自意識過剰になり、なおかつわざわざスクリーンショットをとってアップローダに上げてまで2chに晒す。
迷惑この上ない。
こちらこそ演習を受けない設定ができるのであれば最初からシャットアウトしておきたいくらいだ。
それができないからしぶしぶ嫌がらせ編成にして演習を受けるリスクを減らしているのだ。
そういった苦渋の決断もあるのだということを斟酌できずに、あたかも世紀末状態の族のリーダーかのごとくよそのお子さんを脱がし陵辱し、うまみのない相手に対しては自分にとって不都合だからという理由で大衆の場に引きずり出し晒し者にする外道。
最近恐怖感が酷い。
PTSDだとか騒ぎ立てるつもりもないが、
先日の離婚調停。
僕は元嫁と別れたくなかった。
何より元嫁を愛していたし、
しかし、それは叶わなかった。
それ以降は、協議日の連絡や協議の日の必要書類や事務事項のみをメールしてくるようになった。
本気で別れたいと思っていたのだと思うし、
おそらく、そうであれば彼女の正しい選択だったと思う。
物事なんて、悪く捉えようと思えばいくらでも悪く捉えられる。
彼女にとっては、とにかく僕が悪だったのだろう。
ただ、少なくとも、
僕自身は自分に恥じるような行動を取っていなかったと思う。
要は、暴力だとか、浮気だとか、そういうことは何一つ行っていない。
些細なことが、
僕と一緒にいたくなくさせたのだと思っている。
当時、メールの到着が怖かった。
着信音は常に消していて、バイブが鳴る度、
おかしな動悸が起こってた。
言葉にすると凄く難しいのだけれど、
いわゆる恐怖感が近いと思う。
とにかく怖い。
不本意な通知、
しかし某かの返答をせねば窮地に追いやられる通知。
不本意な行動を強いられる、
その切っ掛けとなるメールの通知が本当に怖かった。
それが原因か、
攻撃的な相手からの通知に、
過剰な恐怖感を得るようになった。
今でもそれが続いている。
相手が誰であっても、
日によっては、メールが届くだけでも動悸がする。
今はただ、
その恐怖感が薄らぐ事を、祈るのみだ。
声優のL先生が、とある専門学校で講演されるという情報を小耳に挟んだのね。
その学校の授業としてなんだけど、外部の人間も自由に参加できる講演会っていう形だった。
通りに面したファザードに入り口の扉があって、外からすぐにひょいと入れちゃう。
くぱぁ(扉を開ける音)
DQN2「うwwけwwるww」
バタン(扉を閉める音)
Nexus買えば良かった。
ええと、目視で確認っと(ウエストバックから会場案内図を取り出す)。
……ん?
やっぱここだぞ……
き、ききき、きっとさっきのDQNは通りすがりのDQNだよ(震え声)。
もう一度「くぱぁ」したあと、膣内、違う、那珂、違う、中に入ったの。
そしたら「通りすがりのDQN」がいっぱいオッパイいるわけ。早くドンキ行ってくれよ。
大学の階段教室みたいな場所なんだけど、DQNたちが後ろの方で騒いでる。
前の方にはパッとしない、スクールカーストの底辺が人のカタチになったみたいな学生たちがおとなしく、互いに微温度的な距離を保ってポツンポツンと座ってる。
僕は最前列で、生まれたての子鹿のようにプルプル震えながら待機。
「L先生がいらっしゃる→騒ぐDQNを叱る→でも静かにならない」っていう展開が、コンマ5秒くらいの演算で予測できて、5分後くらいにはそうなった。
この講演、なぜ外部に公開したし。
コミケのサークルチェックリスト作る時のようなルンルン気分で、前日に書いた。
だから、背後に感じるDQNたちの視線が怖かったけど、勇気出して挙手したわけ。
そしたら、コンマ5秒前までDQNたちの奇声で喧しかった講堂が、水を打ったように静かになった。
普段おとなしい奴がうわずった声だして、クラスのみんなが急に黙りこくる感じ。
僕「声優のランク制についてどう思われますか? ベテランの方になられると、予算の関係で仕事が減り、三石琴乃さんのように自ら事務所を開設する方がいらっしゃいます。後学のために先生のご意見を伺いたい次第です」
僕は大きな声で滑舌よく言ったし、講堂内アホみたいにシンとしてたから、L先生には聞こえたはずなんだけど、先生Windows95みたいにフリーズした。
L先生「……ええ、あとでキミだけに教えてあげるね」
氏にたい。
あと、何も教えてくれなかった。会ってもくれなかった。光速で先生帰った。業界の暗部怖い。
DQN「ほら、涙拭けよ……」
男だってなんで分かってくれないの?とか言って泣きじゃくりたいときはある。
みんないろいろな理由があって、そういうことはしないけど。
でも相手が信頼できる相手ならしてみるといいよ。
えーんって。子供みたいに。
不安なこととか、つらいこととか、今までのトラウマも全部吐き出して。
心の澱みたいなのが涙と一緒にすーって流れて、まるで生まれたてみたいに心が軽くなるよ。
「俺はそんな軟弱な男じゃないわ」って思うマッチョな人ほどやってほしいな。
別にだからいつでも泣ける女っていいよなっていう話ではないよ。
きっと女性でもなんで分かってくれないの?とか言って泣きじゃくりたいけどできない人、多いと思う。
もし彼氏とかに泣かれてしまったら、抱きしめて「そうだね、つらかったね、偉かったね」って分かってあげればそれで充分すぎると思います。
Facebook や Twitter, instagram などの SNS での顔出し写真について思うところがある。
私は 20 代前半なのだが,私と同世代で結婚して子どもがいる人も多くなってきた。
そこに関しては「幸せそうだなぁ」と羨ましく思う程度だから特に問題ないのだが,顔出ししている写真について思うことがある。
子どもがいる夫婦が生まれた子どもの写真を SNS にアップするのを見かけるが,夫婦自信の顔写真にはモザイクを入れたりデコレーションで見えなくしたりしていることが多い。それっておかしなことではないだろうか……。
子どもの顔はそのままにし,親の顔だけ隠すのはどうしてだろう。
生まれたての子どもの顔を SNS にアップしても特定は難しいかもしれないが,2〜3 歳頃になると特定もしやすくなる。
それに応じて犯罪に巻き込まれることも考えられると思うのだが。。
まして子どもにも SNS 上にアップすることに関して選択権があるだろう。
式場ででた料理だけは見栄をはって張り込んだらしく、葬式なのにいいのか、と思うほど旨く、
名古屋から来た祖母の親戚はけたたましくうるさい人ばかりで、初めての葬式は妙な葬式だった。
祖父の親戚は祖母と折り合いが悪く呼ばれなかったらしい。
祖母は祖父がおとなしい分というか、勝気でなんでも自分の意見を通してしまう性分だった。
そもそも結婚も、既に婚約者がいたのに、後から医者の祖父に乗り換えたような人だから、
金目当てであまり愛情がなかったんじゃないか、と思っていたから、特に不思議でもなかった。
式本番では、たぶん泣けないだろう、と思っていたけれど、結局泣いてしまった。
祖父が死んで悲しかったわけではない。
いつもふてぶてしい父が、祖母が、別れの段になって、ぼろぼろ泣くからだった。
背中を小さく丸めて、棺の小さな窓を覗き込んで、人前で泣いたりするから。
祖父の死は自分にとって大切な人の死ではなかったけれど、
もしこれがそうだったらどうだろうと、想像したら、もう、駄目だった。
仲の良い友達、可愛がってくれる先輩や、可愛い後輩、片思いのあの人とか、
例えば、目の前でだだ泣きしている父とか。母とか。姉とか。
いつか自分も、大切な人を見送り、あの小窓を除いて涙する日がくるんだろう。
祖父は大往生と言っていい最期だったけど、唐突に理不尽に、それが訪れることだってあるだろう。
自分だって例外ではなく、いつかわからないいつか、覚悟する暇もなく死は打ちのめすだろう。
そんなにつらいことを、一体何回乗り越えていかなければならないんだろう?自分の番が、くるまで。
そう思うと、泣けて泣けてたまらなかった。
今見送られている祖父ではなく、祖父を見送る父や祖母を、いつか大切なだれかを見送る自分に重ねたのだった。
なんつー自己中。でも俺は生きている人の悲しみを思って泣いた。
人死にはかなしいことだった。
でもそれは、死んだ人にとってじゃない、
残された人のだったんだ。
そういうことも含めて、残酷なことだった。
―――――――――――――――――――――――――
蛇足
祖父の火葬が終わってお骨拾いをしたら、膝に入っていたという金属のボルトが丸々形を残していた。
前線にいたときに怪我をして、帰国してから入れたものだということを初めて聞いた。
当たり前のことだが、戦争に行って、辛い目にだってあっただろう。捕虜にもなっていたんだし。
帰国してからは楽しかったことだけ話したかったんだろう。
その後の思い出話で、自分が生まれた時の祖父の話も聞いた。
祖父は生まれたての自分を抱っこすると、相好を崩してなかなか離そうとしなかったのだそうだ。
考えてみれば、子ども嫌いの人が小児科医になったりするはずもない。
口うるさかった祖母は祖父が死んでからすっかり意気消沈してしまい、家に籠りがちになってしまった。
60年連れ添った夫婦なのに、自分はなぜ祖母は祖父が死んでも平気だなどと考えていたのだろう。
夫婦の老後のためにと折角ため込んだ金の使い道がないらしく、会う度に小遣いをくれすぎるので困っている。
思えば節約や資産運用には熱心だったが、あまり消費欲のない人なのだった。
自分はというと、よく知りもしない人のことを決めつけるのはやめておこうと二十歳を過ぎてようやく決めたところだ。
何ヶ月も「ご自由に編集してください」状態で、たぶん、いろんな人が編集してきた。
今更アフィリエイト張りまくって、管理者以外編集禁止はないだろ。
連絡先もしらない同じ趣味のみんなは、この生まれたてのwikiにまた集まってくれるだろうか。
せめて別に掲示板でも作っておくべきだった。
アフィリエイトしたいならすればいい。リンク踏むくらいなら、たいしたことじゃない。
だけど、他人のデメリットを考えないアフィリエイターは糞だ。うんこだ。
あと、最初からアフィリエイト宣言していればいいかといえば、それも違うような気がした。
だけど、アフィリエイトそのものが嫌いな人も多い。
彼らは見てて楽しくないだろうし、何より編集する気など起こすはずもない。無意味だ。
やっぱりwikiはみんなのもの。
フォローする人増やそうと思って地元のフォロワーのリストだかフォローを巡ってたら見つけた
アカウント名が名字もじってて名前以外の全部を垂れ流してたら嫌でも分かるっつーの
しかもtwitcastingでゲーム動画配信ですかそうですかこのご時世にキャプじゃなくてTVの前にiPhone仁王立ちさせるとは男気恐れ入ります
んで、俺ですよ
別れ方がテキトー(なんかもう一方的に,そのときは流れで別れたけど)だったのと
おっぱいしか揉めなかった(1ヶ月で振られました(^p^))ってのはあまり関係ないけどw
思い出したら、向こうが何考えてたのか最後に聞きたくて電話してみた。
・・・(^p^)
留守電。
仕方ないから話したいってことを留守電に入れたんだけど
これが生まれたての子鹿にアテレコしてんのかってくらい声が震えるのねw一人で話すのってこんなに難しいんだw
んで、電話は結局かかってきませんでした。期待してなかったけど
そこでtwitterですよ
そもそもこれ無かったら電話する気にもなんないし
( ^ω^)・・・
ファファファファーストおっぱい揉ませてもらった人ですけどーーーーw
ズギュゥゥゥゥウゥゥゥゥゥゥンwww
やっと本音が聞けたっス。ありがとうtwitter
今度twitterで知り合った人と会うみたいでうまく行くといいですね
ネトゲやってたのは知りませんでした。地味っ子だったからtwitterとかネトゲとかのオフから出会って結婚とかするんですかね〜
とりあえずどこかに吐き出したかったから書いてみた。うぇーいおっぱいおっぱい
今思ったけどこの環境って一昔前のstkなら狂喜乱舞でごはん3杯余裕でいけるんじゃね?
ばいばいき〜ん☆
http://anond.hatelabo.jp/20100624234636
元のhttp://anond.hatelabo.jp/20100624140030です。
母親もわりと学校にいってなかったらしくて「中学とかほんとつまんないよね。いらない授業多すぎるんだよ」とか言って、私を強制的に学校に行かせようとはしなかった。
この強制的に行かせようとしないっていうのがポイントかも。
うちでは、たまたま学校に行かなくなり始めた頃、他県で教員をやっている友人にそれを知られた。
「このままにしておいたら、完全に行けなくなっちゃうよ。無理にでも行かせなきゃダメ」
と叱咤されて焦ったが、無理やりに行かせようとしていいことはなかったな。
どっちにしろ、完全に行けなくなったし。
ほんと、無理に行かせようとしてた日々は親子ともに消耗するだけで徒労だったね。
父親が文系で母親が理系だから、父親に英語と社会を教わって、母親に数学と理科を教わって、それで地元ではそこそこの高校に入った。
だから勉強さえどうにかなればどうにでもなるんじゃないかなーなんて思っちゃう。
いいなあ、両親に分担して教えてもらえたなんて。うちは両方理系だよ。
親よりも塾の先生に教えてもらう方が好きらしいんで、今はそれでぼちぼち。
ちょいちょいさぼりながら通えるような適当な高校に行けたらいいなと思う。
てきとーな両親から生まれたてきとーな小娘の戯言ですけども。参考にならなそ。
いやいや、ご両親、いろいろと工夫して、後押しをしてくれていたんだね。
見習ってゆるゆる行きたいと思うよ。
母親もわりと学校にいってなかったらしくて「中学とかほんとつまんないよね。いらない授業多すぎるんだよ」とか言って、私を強制的に学校に行かせようとはしなかった。
むしろ年のはなれた弟がいるから「面倒みてやってね!」とか言い出すくらい。
でも仕事を夜勤を多めにしてくれて、昼間は勉強みてくれたり、一緒に料理したり。
夜は父親が勉強みてくれた。
父親が文系で母親が理系だから、父親に英語と社会を教わって、母親に数学と理科を教わって、それで地元ではそこそこの高校に入った。
だから勉強さえどうにかなればどうにでもなるんじゃないかなーなんて思っちゃう。
てきとーな両親から生まれたてきとーな小娘の戯言ですけども。参考にならなそ。
関係ないけど、ちょっと前にテレビで放送されてた保健のCMで、生まれたての赤ちゃんが会話をするヤツがあった。
それが、すごい嫌いだった。見ててムカついた。
一方の赤ちゃんが「これからの人生いろいろな事を自分で取り組んで、政治をも変えたい!」と野望を語るんだが、もう一方の赤ちゃんは「そういうのは政治家にまかせようよ・・・プロにまかせとけばいいって」みたいな冷めた意見をいって野望を語る赤ちゃんをバカにする。最後「保健の事は保健のプロにまかせましょう」みたいなCMなんだけど、すごい危険だと思った。
なにが危険って、国という単位が、いかに脆いかを認識できていない現代の日本人をまさに描いたようなCMだったから。
このCMにおける、オーディエンスというか、多数派として支えられてる、もしくは支持されるだろうと想定されてる意見の姿ってのは「キバって夢をかたるより、政治とかはプロの人に全部まかせて、ボクらは地道に生きていければそれでいいじゃん」という、なんとも投げやりで他力本願なもの。
国、政治に働きかけたり、なにかを自ら変えようっていう意志を嘲笑う、野望を持って暑苦しく語る事そのものを毛嫌いするCM内容だった。
でも、そういう事をあざ笑って見下す態度をとるのって、非常に危険。
危機意識をまるで持たず、プロなんだからって肩書に全てをまかせてればそれでいいじゃん、自分は関係ない。みたいなスタンスがわけわからん。自分が関係なくないから。確実にそういうスタンスで見過ごされてきた政治的な悪行で国が傾いてる。
でも、それは政治的なレベルだけじゃなくて、家を建てる時でも、髪の毛を切る時でも「相手がプロなんだから」って全部を投げ出してまかせるわけがない。自分で細部まで確認しないと信用おけないよ?ってのは、学ばないといけない基本なんじゃないの。人を疑うって事。
年金だって、明らかに破綻してるのに、いわば「国に詐欺をされた」って認識を政党に持っている人間がどのくらいいるかっていうと、かなり居ないと思う。
キレイな社会を目指すけど、こころの中では社会を疑ってるのが本来あるべき姿で、今定着してる汚い社会を認知してるけど、心の中では社会を信じてるようなスタンスは非常に危険。
Explorer | Science of Babies | National Geographic Channel
http://channel.nationalgeographic.com/series/explorer/3090/Overview
ヒトは他の動物と比べて、遥かに無防備で無力な状態で産まれてくる。それにも関わらず、そこから最初の一歩を踏み出すまでに、赤ちゃんは劇的な成長を遂げる。産まれる瞬間から二本足で立って歩き出すまでの約一年間、赤ちゃんに起きる様々な変化を、発達の経過に沿って検証した番組。
ヒトは一生の間におよそ6億回(一分間に10回として、一日で1440回。100歳まで約36,000日として計算した物と推測)の呼吸をする。その中で最も重要で、しかし最も危険な、初めての呼吸。母親のお腹の中に居たときには母体から酸素が供給されていたけれども、一度産まれてしまったら、そこから先は自分で酸素を供給しなければならない。ほんの数分酸素が断たれただけでも、ヒトの身体は回復不能な障害を受ける。産まれた瞬間の赤ちゃんの肺は、羊水で満たされ溺れている状態。だから、産まれて初めての呼吸は、通常の呼吸の10倍から15倍の労力が必要となる。肺胞の隅々まで空気をみたしてやらなければならないのだ。この最初の呼吸によって、肺の中の水は血流に吸収されていく。
産まれるまでは母親の体温で暖められていた身体も、自分のカロリーを消費して体温を保つように切り替えなければならない。その体制が整うまでの期間、充分に体が熱を作れるように、新生児は熱に変換しやすい褐色脂肪を豊富に蓄えて産まれてくる。冬眠中の熊のように。
赤ちゃんが、今現在の成熟度と大きさで生まれてくるようになったのは、今から約800万年ほど前。他の動物と比べると、ヒトの新生児の頭は(身体との対比で相対的に)大きい。赤ちゃんが産まれてくるタイミングは、母親の骨盤の広さと新生児の頭部の成長との兼ね合いで、ぎりぎりくぐりぬけられる大きさになったときである。真っ直ぐには出て来れず、一度頭を90度回転して骨盤をくぐり、さらにまた90度回転して出口の骨を避けるようにして生まれてくる。
ヒトの赤ちゃんはとても無防備な、無力な状態で産まれてくる。他の動物、例えばサルと比べても、自立するまでに長い時間がかかる。ヒトに最も近縁のチンパンジーでも六ヶ月くらいで歩き始めている。そのようにかなり未熟な状態で産まれてくるにも関わらず、ヒトの新生児も生まれながらにある種の動物的な本能を備えている。それは生存の為に重要な反射運動であり、またある種、進化を裏付けるような原始的な反応でもある。
まだ歩くこともできない生まれたての新生児は、抱き上げて支えながらかかとを地面につけてやると、両足を交互に繰り出し、まるで歩き方を知っているような反応を示す。でも、その反射は六週間後には消えてしまっている。ところが、不思議なことに、水の中ではその反応が蘇り、そうして反応を誘導してやると、それ以降は消えることがなくなる(番組では、透明な浴槽の中に赤ちゃんを抱きかかえて下半身をつけてやっていた)。
他によく知られている生まれながらの反射運動には、次のような反応がある。
これらは、どれも動物の生存本能に共通する原始的な反応といえる。
赤ちゃんの考えていることを知るのは難しい。しかし、赤ちゃんの認知力の一端を覗く、いくつかの方法がある。ある研究者は、赤ちゃんが何か違和感を覚えた時に、対象物を凝視する時間が長くなるという現象に目をつけた。この時間を計測することで、赤ちゃんが何に気付き何を認識しているのかを探ることができる。その研究者は、新生児が数を認識する(簡単な足し算引き算の)能力を持っていると考えている。行われた実験はこうだ。まず、一つだけ置かれている人形を赤ちゃんに見せる。そこをついたてで隠して人形を見えなくしてから、そのついたての裏にもう一体の人形が入っていく様子を見せる。そして、見えない位置からこっそりその人形を取り去った後で、ついたてをおろす。赤ちゃんから見れば、そこには二つ人形があるはずなのに、一つしか無いという状況。そのような矛盾がある場合、なにもトリックを使わない場合と比べて、人形を凝視する時間が長くなる。二つの人形を見せて、そのうちの一体がついたての後ろから出て行くところをみせたのに、ついたてをよけてみると人形が二体に残っているという引き算の矛盾にも、その反応が観察されることから、赤ちゃんは生まれながらに数の認識を持っているに違いないという話。
まだ自分で動くことのできない赤ちゃんにとって、飛び込んでくる外界の刺激はもっぱら光と音ということになる。聴覚は視覚よりも先に発達していて、お腹の中に居ても母親の声を聞き分けられるけれど、視覚は産まれてから外部の刺激を受けながら、徐々に発達していくもので、この段階ではまだぼんやりと対象物を捉えているにすぎない。
とはいえ、母体の中と比べて外界は刺激に溢れている。流れ込んでくる大量の情報を処理していく体勢を整えていく必要がある。ヒトの体には、約10億の脳細胞、神経細胞、ニューロンと呼ばれる情報処理に携わる細胞が存在する。これらが、外部から飛び込んでくる刺激を情報として捉え、ネットワークを構築していく。一つ一つのニューロンは、個別の電話機のようなもの。細胞間の情報は、シナプスと呼ばれるリンクを介してやりとりされる。最初は外界のあらゆる刺激がネットワークをフルに刺激していて、あちこちの電話機が絶え間なくなり続けているような混線状態。その中から、必要な連絡網だけが残るように、ニューロン同士が互いにリンクし合う相手を求めて競合している。この過程を可視化して映像に捉えた研究が紹介された。最初は筋繊維に複数のニューロンが繋がっているが、黄色と青色、色違いで染められた二つのニューロンがある筋繊維に連結しようとしている。最初はどちらも繋がっているように見えるが、この二つのニューロンは互いに競合し合って、最終的に一方の色に染められたニューロンだけが残るまでの過程が観察される。ニューロンネットワークが形成される様子が見て取れる。
未完成ながらも、ニューロンネットワークが成熟するに伴って、運動神経がやや発達してくる。頭を持ち上げたり、寝返りを打ったり、ものを掴んだりすることができるようになる。
野生の動物や鳥、昆虫などは、生まれながらに餌の捕まえ方や身の守り方を知っている。数を数えることさえ生得の本能だ。それが発揮できず、他者のケアが無ければ生きられない、ヒトの新生児は非常に未熟な状態と言える。そのような状態で産まれてくることは不利なことなのか、いやそうではない。生まれついての本能はそれ以上発展することがない。しかし、未完成な状態で産まれてくるヒトは、環境や経験から、より高次元の習性を構築することができる。これが学習する能力の特徴である。
学習して能力を獲得するのには適切な時期があり、その時期にきちんとした情報の入力とニューロンへの連結が行われないと、その能力は形成されない。使われない機能は失われていく。三ヶ月くらいの新生児は、各国の言語で微妙に異なるトーンを聞き分ける能力を持っているが、その後六ヶ月を過ぎてしまうと、一番身近な言語の発音を聞き取る能力だけが大きく発達していく(マルチリンガルに育てるためには、六ヶ月までにいろいろな言語を聞かせておけという理論の根拠はここにあるようだ)。
需要のない能力が失われていく話題に関連して。三ヶ月あたりで、目のレンズと視神経との連絡が完成する。この時期に、適度な情報が目を通して与えられることで視神経を構築する。ある赤ちゃんが片方の目のレンズに問題があることがわかった。このままだとその眼球からの情報入力がないために、ニューロンの連結に不備が生じてしまうということで、レンズの機能回復手術を行った。手術そのものは一時間ほどで無事に終わったが、その後の検査で、もう一方の健常な側の目に眼帯をした、なぜか。回復させた眼球を強制的に機能させ、視神経を発達させるため。
運動機能はさらに発達して、座ることができるようになる。つかまり立ちや、立ち上がるまでには至らなくても、ハイハイをして動き回れるようになり、行動範囲が広がる。ハイハイのスタイルには個性がでる。これは新生児それぞれの運動機能の発達状況は環境に依存するもので、成長に関してあまり重要ではない。この時期に最も重要な発達は、学習したことの再構築ができる柔軟性を得ること。自分から動き回れるようになって、取り巻く環境が劇的に変化する。外界からの刺激もさらに複雑なものになる。遭遇する危険も増える。座れるということは、バランスを崩して転ぶことができるということ。自分で動けるということは、溝に落ちたり、何かにぶつかったりできるということ。それなのに赤ちゃんには、届く/届かない、バランスが崩れる/保てるといった認識がまだ無いので、無鉄砲で失敗を繰り返すことになる。目標物以外に注意を払うことや、体バランスの取り方など、失敗の経験から、環境に適応していく脳の柔軟さが求められる。この時期の赤ちゃんの運動機能の発達を研究している様子の映像。何かを見つけてそれを取りにいくという動機で動き回るようになる。その間に溝などの障害があっても殆ど認知されていないで突き進む赤ちゃん。その過程で失敗を繰り返し、危険を回避するという学習の過程が認められる。
ニューロンネットワーク発達中の情報処理の取捨選択の別の例として、顔や表情の認識がある。ヒトやサルの顔写真を見せ、新生児の脳波の変化を測定することで、どのような違いを認識しているかを観察した。二ヶ月くらいまでは、人の顔のパーツの配置が乱れていても識別できない、三ヶ月くらいで、顔を顔として認識するようになる。この段階では、サルの顔写真一つ一つの個体の違いを区別している。しかし、六ヶ月くらいになると、サルの個体を区別しなくなっている。必要の無い情報処理の能力が失われている。代わりに、ヒトの表情の違い(喜怒哀楽)に敏感に反応するようになっている。
この時期の発達過程は、自閉症と関連づけて注目される。孤児をケアする施設で研究されている内容。一般的な家庭環境と比べて、この時期に人の表情に接する機会が少ないと、表情を識別する能力の発達に影響が出る。他者の感情を表情から読み取ることが難しいという自閉症の特徴に関わっているかもしれない。
運動機能の成熟、ニューロンネットワークの成熟、言語の獲得とそれに伴って起きる変化。
言語の獲得には多大なリソースを割くので、使われない能力はより顕著に消失していく。生後十二ヶ月で約40個の言葉を認識し、さらにその一ヶ月後には100個まで増えている。
ある新生児の言語獲得の記録。全ての部屋にマイクと天井から見下ろす魚眼カメラを設置して、起きている間の赤ちゃんの行動と言葉を発していくまでの過程を観察した映像。馴染みのあるモノや身近な者を通して、言葉やフレーズと対象物やイベントとをリンクさせようとする。新生児がある対象物を認識してBa、 buh、Dahといった発声をするようになる。それに対して親がDad、Ballなど、はっきりとした言葉でリピートしたり、Blue ballという形で発展させたり、あるいは動作や行動と組み合わせてフレーズで返したりする。フィジカルなイベントとソーシャルなイベントの関連づけが、言葉を学習していくプロセスである。
新生児が言葉を学習する過程を分析して、学習するロボットの開発に取り組む人たちの紹介。ロボットに「赤色」の「ボール」を取ってと指示するがロボットには対応できない。絶えず変化する状況にも対応できる学習する能力の柔軟性をいかに獲得させるかが鍵。
運動機能だけでなく、骨格も充分に発達して、肩幅も広がり、足も伸びて、筋力もついてくる時期。ここに至って、頭を持ち上げての二足歩行、つまり歩き始める準備が整う。
四本足で歩く動物はその移動の為にカロリー(消費カロリー全体の?/摂取カロリーの?)の約50%を消費する。その観点でみると、二足歩行は移動に関して非常にエネルギー効率が良い。さらに、両手をフリーにすること、より大きな容量の脳を支えることができるという利点もある。このような点に二足歩行の意味がある。
赤ちゃんすげえ。という完全に私的な興奮から、自分が理解した内容の備忘録としてここを利用させていただきました。理解のあやふやな箇所がたくさんあるので、誤った記述が含まれている可能性はかなり高いです。特に言語獲得のプロセスに関する部分は未消化だという自覚があります。何ヶ月〜何ヶ月というのは、整理のための大凡の目安として個人的に捕捉したもので、これを一般化して赤ちゃんの成長を評価するものではないです。水中で歩行する話だとか、数を数えられるよという映像は、ちょっと観察手法の正当性に注意が必要な気がしました。赤ちゃんのリアクションが周囲の観察者の期待に影響を受けていたりはしないだろうかと(昔、計算が出来る馬の話のトリックについて聞いたことがあるので)。
ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP 赤ちゃんの不思議
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甘いな。
出産の現場に100%立ち会えるのは、母親だけなんだよ。コレがどういう事か分かるか?
生まれたての赤ん坊に何をするかは、原始的には女が全て握ってるんだ。命の生殺与奪の権限が女にはあるんだ。
原始的な社会ほど、間引きには寛容、というより母が行う出産の儀式の中の当然の一部と見なされている場合が多い。
最近だと戦闘ばっかりやってる地区で、男の子を全て間引いている部族とかいたな。
つまりだ、女がその気になれば、あらゆる男の子を、生まれた時点で手足切り落として育てることも可能だし、制御可能な範囲内に男だけ間引くことも簡単だ。
レイプされたくないが、生殖のために男が必要なら、そりゃ手足切り落として育てる方法も選べない訳じゃない。
でもさ、そうじゃないだろう。
その野蛮さから抜け出すために、倫理観だとか社会観だと法律だとかルールだとか、そういうものを人類は作ってきたんじゃないか。
(実際初期の法律で、女性の権限を制限する男尊女卑的なものが多いのは、母権社会から抜け出しすことで、発達しようとした名残だと言う説もある)
ルールは野蛮から抜け出すためにあるんだよ。
そして、母権社会から抜け出して、父権社会へ移行した人類は、今度はそもそも男女の違いの要らない世界へ発展しようとしている。
そのために、まず人権だとか、男女平等だとか、ま、そういうお花畑が最初に唱えられるんだな。
どんなことをするにせよ、最初はお花畑を唱えるモンだ。それがお花畑でなければ、そもそも唱える意味がない。
「キャリア」っていうとまぁちょっと仰々しいけど、社会における「肩書き」とか「やりがい」とかそんな感じなんじゃないかなぁ。○○ちゃんのママとか奥さんとかじゃなくて、自分の名前の保険証や名刺を持ってるかどうか。とか。
うちは兼業なので子供の居る会社員だけど、育児休暇中、平日の天気の良いまっ昼間に生まれたての何を要求してるんだかわからない泣きっぱなしの子と毎日2人っきりで同じような暮らしをしてたら、頭おかしくなりそうな時があったよ。どこにも属さない誰とも関わらないみたいな。うちは旦那が仕事で毎日帰り遅かったからかもだけど。人と関わったり人と話をするのってとても大事なのね、と初めて思ったもんさ。
生活のため働いてる私から見るとうらやましいから不思議だけど、専業主婦の友人はけっこうな割合で働きたがっている。働きたくないと思ってるのは不妊治療の末やっとできた子が可愛くてしょうがない30代後半の人くらいだなぁ。
元増田です。
そんな理由づくで生きてるわけがないです。
いや、ですから。
生まれたから生きている、というのが理由づくと言えますか?
限りなくトートロジーに近いと思うのですが。
「生まれた」っていうのと「生きてる」っていうのは
全然別のものだと思いますよ。
だからその前提を最初に貴方が『死因』だの何だのを挙げて崩したんでしょうが!
それを今から混ぜっ返さないで下さい。
とりあえず哲学的見地からの『表象の発現』を生と見なして下さい。
社会がどうのではありません。
人は皆一人であり、全ては夢です。
思いこんだ世界が全てです。