はてなキーワード: 小室哲哉とは
では、最近の宮崎謙介や山尾志桜里の不倫、「このハゲー!」の豊田真由子のあの週刊誌報道は一体何だったんだよ。
2年前のベッキーの不倫の時は、ベッキーを擁護する声はほとんど聞かれなかったはずなのになあ。
やはりTM NETWORK時代のファンが多いということかな。そういう自分も、ファンの一人なんだけど。
以前ブコメ等で「リベラルは不倫に対して寛容であるべきだ」と書いたことがあります。
このタイミングにおいて、この件についてもう少し書いてみたいと思います。(*追記:できれば文末の追記1〜4まで含めてお読みいただければと思います)
リベラリズムにおける基底的な考え方の1つとして、「善に対する正の優越」という考え方があります。
この考え方は、リベラリズムは特定の「善の構想」(何が善い人生であるか)を前提することなく、それぞれの個人が持つ「善の構想」を各人が自由に追求するための「フェアなルール」を整備することを目指すものである、という考え方です。(*この説明で腑に落ちない方は、「善に対する正の優越」や「善に対する正の優先」で適宜ググってみてください)
例えば、リベラリズムは「結婚すること/結婚しないこと」について特定の善の構想を持ちません。つまり、結婚する人生も、結婚しない人生も、どちらが「善い」ものかということについてリベラリズムは関知しません。リベラリズムが目指すのは、「結婚する人生」が善いと思う人も「結婚しない人生」が善いと思う人も、どちらも”えこひいき”することなくフェアに暮らせるためのルールを整備することになります。
私は、上記の「善に対する正の優越」という意味で「リベラルは不倫に対して寛容であるべきだ」と考えています。
多くの人々の感覚とはズレるかもしれませんが、「不倫は悪いもの」というのも人生における「特定の善の構想」を前提とした考え方になります。人には色々な事情があり、家族には色々な事情があります。色々な事情に応じて、人々には色々な「善の構想」が — 甘いものも苦いものも酸っぱいものも含めて — あるわけです。
もちろん各人の「善の構想」の追求も無制限に許されるものではありません。例えば、他者に危害を与えるような「善の構想」の追求は当然に制限されることになります。その意味で、「不倫」についても不倫行為により危害を受けうる当事者の家族や親しい関係者から非難されたり断罪されるのは正当なことでしょう。どんどん非難されたり断罪されたり(あるいは赦されたり)するとよいと思います。
逆に言うと、不倫行為について非難したり断罪することの正統性があるのは、その当事者の家族や親しい関係者だけだと思います。関係ない第三者が他人の「善の構想」に口をはさむというのは、(その構想が他者の人権の尊重に抵触しない限り)少なくともリベラリズムの立場からは、やるべきではないことだと私は考えます。
また、そもそも、「誰を愛するべきか/誰と一緒にいるべきか」について社会(関係ない第三者)から指図されない、というのは現代において我々が獲得した「自己決定権/人権」の中でもかなり基底的なものなのではないでしょうか?
上記の考えから、私はこれまで報道された有名人の不倫について非難したり断罪したことは一切ありません。
今回、小室哲哉さんが「不倫疑惑」によって 昨今の不倫に対する不寛容な世間的アングルの中で出た、不倫に対する疑義についての報道を契機として(しかも、不倫に類する行為は実際には存在しないであろうことがほぼ明白であるにもかかわらず)(*追記2)、その潜在能力の発揮が妨げられることになったのは、リベラリズムの信奉者として残念としか言いようがありません。
(リベラルが考えるべきなのは、その不倫行為等の帰結により何れかの潜在能力の充足が果たされないような状況 --- 子供の貧困など --- を生じさせないためのルール整備だと私は考えています)
#追記:殺人への第三者からの批判については本文中の"(その構想が他者の人権の尊重に抵触しない限り)"の但し書きの部分に該当すると考えています。「他者の人権の尊重」に抵触する行為については第三者からの批判は当然許容されるべきです。
#追記2:小室さんへの言及が舌足らずだったので変更しました。ブコメでご指摘いただいた方、ありがとうございました。
#追記3:私が勉強不足なのは認めます。皆様のブコメは大変勉強になります。「不倫」ではなく「婚姻外恋愛」としておけばよかったですね。あと色々異論は全然たくさんあると思うので異論をたくさん書いていただければ嬉しいです。(*特にガチプロがガチプロの観点から何か書いてくれれば嬉しいなあ)
#追記4:「現状でリベラルが不倫に不寛容である」とは一言も書いていない(し思ってもいない)のですが。。。以前に「リベラルは不倫に寛容であるべき」とブコメ等で書いたときに、「何言ってんだこのクソ馬鹿野郎」みたいな反応をいくつかいただいたことがあるので、自分としての上記の考えの理路をメモ的にまとめたのが本エントリーです。「リベラリズムの敗北」は道徳主義的人民裁判みたいなもので人の社会的人生を終わらせてもやむなしという世間の流れが定着したことを指したものです。
もう文春砲とか言って持ち上げるのやめよう。不倫報道はなくなるべきだ。
小室哲哉さんの騒動を見ていても、不倫報道に辟易している人はますます増えている。
じゃあどうやって不倫報道をなくすのか。現状として、不倫報道は儲かるらしい。需要があって利益が出るからだ。
単純に考えれば、需要をゼロにすればいい。もしくは不倫を扱うことでマスコミがマイナスな影響を受ければいい。
そのための戦い方はいくつかあると思う。単純だけど、スポンサーへの抗議とか、不視聴運動とか。
でも、本質はそこじゃないと思っている。不倫報道に需要がある理由を考えると。
簡単に言うと、たとえ不倫報道がなくなっても、別の「悪いことをした人」を見つけて、また嬉々として叩き出すんじゃないか?という不安がある。
不倫は悪いことだ→悪いことをした人間には何を言ってもいい、社会的に制裁を加えるべきだ という流れこそ、一連の不倫報道を見ていて特に嫌悪感を覚える部分。
テレビは容疑者を実名報道してコメンテーターが人格を否定。ネットでは住所が晒され、勘違いにより無関係な人・会社にまで誹謗中傷の声が届く。
必要以上に他者を攻撃し、社会的制裁を加えようとする現代に、そして自分もまたそうした世間の一人であることに、本当に嫌気が差す。
前置きが長くなったが、「悪いことをした人を叩く行為」をなくす効果的な方法が思いつかなくて悩んでいる。
ネット私刑はここ数年ずっと問題に挙げられているトピックだ。しかし、それを批判しようとすると、「悪いことをした人を叩く行為を叩く行為」になってしまう。
現状では、不倫報道を倒してもまた次の倒すべき相手が生まれるだけだ。そもそも、何かを倒したいわけじゃない。息苦しさや嫌悪感をなくしたいだけ。
華原朋美を捨てて付き合った女
小室ってもともとすげープレーボーイだったから、女はとっかえひっかえだった
そんな男がやっと結婚ってのをしたのはいいが、まさかの妻の病気
小室がなぜケイコを選んだのかといえば、やっぱり彼女が歌手だったからだと思う
夫婦寄り添ってっていってももう完全に介護するだけで、意思の疎通もほぼ無理
こんなん外に癒しを求めても責められねえよ
アスカもそうだけど、クリエイティブな仕事する人って、才能の枯渇との闘いなんだよな
昔下手に売れた人ほど、その当時を求められるプレッシャーと戦い続けないといけない
この前カヌー選手がライバルに薬を持っていたけど、あれだって、地元の人たちに頑張れがんばれ、とプレッシャーをかけ続けられてしまったそのなれの果て
押しつぶされて、覚醒剤使ったり、不倫したり、薬持ったりしちゃう
辛かったろうなあ
一般人は無自覚に「君ならできる」とか「がんばれ」とか「信じてる」なんていうけど、その言葉は相手にプレッシャーを与えるだけだよな
小室哲哉が不倫報道で引退するってなって「不倫なんて本人たちの問題」とか言い出す人が多くなってきて草生える。
はてなでは元からこういう言説よく見かけてたけど、ヤフコメとかツイッターだと不倫が発覚したら叩く人が大多数だったのに。今になって文春こそがゲス!社会悪!って言う人ほどベッキーとか宮迫とかを積極的に叩いてたんだろうなーと思いながら見ている。
そもそも「文春こそがゲス」って、そりゃ文春側だって自分が卑しい仕事であることを自覚してるだろ。文春からしたら何あたり前のこと言ってんだよってかんじじゃないのかな?
小室哲哉は積もり積もったものがあって文春の報道でダムが決壊したようなものだろうけれど、今まで芸能人の不倫ごときでワーワー言ってたヤツも同罪な^ ^文春だけが悪いと思ってんじゃねーぞ^ ^
みんなもっと自分が正しいのではなく自分自身が如何に下世話で卑しい人間かっていうのを自覚しながら生きてほしいわ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180117-00005887-bunshun-ent
高次脳機能障害を抱えた妻をよくこの何年も、面倒み続けながら楽曲提供までやってこれたと思う。
曲がヒットしないことも、誰が言わなくとも本人が一番悩み苦しんできたことだろう。
過去にあれだけのヒットを飛ばした中で、それを上回るものなんて、絞りきった才能の残りとあの年齢で、そう出せるわけがない。
音楽に専念したってそう出せないのに、奥さんがあの状態じゃ、心病むよ。
心病んだら、グチ聞いて励ましてくれて体のケアしてくれる人が、心の拠り所になるのは自然なことじゃなかろうか。
男性としての機能はもう失ってると言っていた。肝炎を患い、介護疲れで心も疲弊して、加齢もあり、そりゃあそうだろう。
あの年齢にもなれば、肉体的な欲求じゃなくて、心の安らぐ相手とゆっくり話して心を委ねたいのは当たり前だろう。
昨年末からいつかすっぱ抜かれる予感がしていたというのも小室さんらしい。
それだけのカンの鋭さがあっても、人間らしい心の動きに振り回されてしまう感受性は、芸術家らしいとしか思えない。
一般のサラリーマンですら、働きながら妻の介護するのは並大抵のことではない。
天才は、天才らしく、自分の才能に没頭して介護は人に任せればよかったのに、そんなことをせずにここまで寄り添ってきたのは、小室さんの優しさあってのことだと思う。
どうか、逃げなどという世間の声に負けず、一旦心の充足を取り戻して欲しい。
タレントとしては、DJ KOOがSAMよりもテレビでの露出が多くてあれだな。
野々村真とか、山田隆夫とかも、長寿番組で、そんな高田純次みたいな個性や才能があるようには思えないおじさんでも20年ぐらいずーっと同じ番組で生きのこり続けるって凄い才能というか胆力というのか。
ヤフコメ民すら「いけない事だけど同情する」と言っているけど「同情するけどいけない事」だとも思う。世の中の介護中な男性がオイタをするのが当たり前ではないし。
曲が良ければいいとか介護中で辛いとか、文春を叩いてみたり今回の件を茶化したり、さらにそんなファンをメンタル強いと言い張ったり、どのファンもメンタルの弱さや痛々しさしか感じない。
痛々しい人ほど騒ぐから目立っているのかもしれないしけど。逆に黙り混む発言見ると、それはそれでそんなに悪い事したの?って気もするけど。
不倫報道の是非とか不倫が良いことか悪いことかなんて問題はこの際どうでもいい。今回の小室哲哉の不倫報道にはただただ不愉快な気分にさせられた。
ベッキーの不倫報道は笑えた。テレビで見せる健全なキャラクターとのギャップや「センテンススプリング!」という迷言、ゲスの極み乙女というバンド名、どう料理しても笑いになる要素ばかりだった。万人の下卑た好奇心を十二分に満たしてくれる、きわめて週刊誌的なゴシップだった。
ひるがえって今回の小室哲哉の不倫報道はどうか。元から特に健全なイメージがあるわけでもない小室哲哉、障害を抱える妻と6年にわたる介護、妻の実母への突撃取材。どの要素もまったく笑えない。ベッキーのときのように下品な娯楽として消費しようとしたのに、自分の親のセックスを目撃してしまったかのような、他人の恥部を見ているはずなのに自分の恥部を見せつけられているような、そんな気分にさせられる。きわめて後味の悪いゴシップだった。
週刊文春が正義のためにゴシップ報道をしているわけではないのは誰もが知っている。彼らがゴシップを報道するのは金儲けのためだ。そして、なぜ人々が週刊文春のゴシップに金を払うのかといえば、それはどんなに下品なものであってもゴシップ記事を読むのが楽しいからだ。この基本的な原則にそって考えると、今回の小室哲哉の不倫報道が週刊文春にとっても最悪なのは、読んでもまったく楽しくないという点に尽きる。先日の三森すずこの交際報道についても言えるのだが、最近の週刊文春によるゴシップ報道は単純に読者を楽しませる力が弱いという点で質が低い。いい気になって「文春砲」などと自称しているようだが、そのうちネット上でもはちまや刃と同じような扱いになっていくのだろう。
Twitterのフォロワーの人で、自分は不細工でモテないからもうモテは諦めて実力で仕事のポジション獲得して承認欲求満たす、という主旨のネガティブなんだかポジティブなんだかわからない呟きを頻繁にする人が、素顔公開してたんだけど、むしろイケメンの部類だった。方向性としては小室哲哉とか有村悠とかみたいな感じだ。
小室とありむーがどうかは別として、私の日常感覚ではそういう系の男が顔は良いわりにモテないというのはわかる気がする。
思うんだけど、目がパッチリしてる人って案外モテないんじゃないかと。これは女でもそうな気がする。
目が細い人の方が、ちょっとくらいイモい顔をしていてもモテるし、顔が全体的に整ってれば最強。そんな気がする。
なお、私の好みが細目という訳ではない。