はてなキーワード: ネオテニーとは
精神の成長とは?偉大な科学者であるアインシュタインは増田の基準では大人?そもそも大人とは?
子どもっぽさが賢さのもと?〜日経サイエンス2009年10月号より
http://www.nikkei-science.com/?p=16865
アインシュタインは偉大な科学者だがこんなヤツばかりでは社会は破綻する
書ききれないクズ伝説 (ほかにも盛り沢山)
- 親日家・平和主義者的なイメージがあるが、人種差別的な言動の記録が複数残っている(https://www.bbc.com/japanese/44477861) 「黒人差別はいけない、彼らは優れたアーティストだ」と言った口で人種差別的な言動を繰り返していたフランク・シナトラのような“極めて西洋的な白い寛容”ともいうべき矛盾と欺瞞に満ち満ちたものが実際だったと推測される
「中身の幼さ」という謎フレーズ好きよね
逆に大人とは?偉大な科学者であるアインシュタインは増田の基準では大人?
子どもっぽさが賢さのもと?〜日経サイエンス2009年10月号より
http://www.nikkei-science.com/?p=16865
アインシュタインは偉大な科学者だがこんなヤツばかりでは社会は破綻する
書ききれないクズ伝説 (ほかにも盛り沢山)
- 親日家・平和主義者的なイメージがあるが、人種差別的な言動の記録が複数残っている(https://www.bbc.com/japanese/44477861) 「黒人差別はいけない、彼らは優れたアーティストだ」と言った口で人種差別的な言動を繰り返していたフランク・シナトラのような“極めて西洋的な白い寛容”ともいうべき矛盾と欺瞞に満ち満ちたものが実際だったと推測される
子どもっぽさが賢さのもと?〜日経サイエンス2009年10月号より
http://www.nikkei-science.com/?p=16865
君の名ははテクニック的には最高峰でも気持ち悪いという人がいるのもわかる。
ストーリーもうまく飲み込みやすくしてあるが底の方にある胡散臭さ、信用できなさを嗅ぎ取るやつは嗅ぎ取る。
自分があれを信用に値しないと思うのは口がみ酒だの胸を揉むだのの性フェチ要素のせいではない
彼は延々と「乳繰り合いたい女と思い合いながらもごくわずかしか接点が持てない」という関係を描いてきて最後は分かれるという話が多い。
それを美化した風景の中で美しく見えるように描く。
異性が同じ場で長くガッツリ向き合い関わり合えば避けられない、
そこには、美しい絵の香りで隠している「自分が幻滅するのも傷つくもの泥まみれになるのも耐えられない
自分が傷つくのが嫌という脆弱さ、自己愛と自己中心性」が臭う。
言の葉で傷ついている女教師を修羅場で男が上メセでなぜか責めてきたのも意味不明だった。流されてたいていは気持ちよくスルーできるんだろうけどな。
エヴァシンジが自分の脆弱さを問題だと思ってなんとかしなきゃと悶々としてるのに対して
こっちの監督は自覚があるのかないのか、「繊細なボクの見る夢って美しいでしょう」と
ともすれば相手を傷つける狂気になる脆弱さが問題だとも思わずひたすら現実から逃げた美しさに浸っている。
彼の作品を胡散臭いと思っているが言い出しにくい人にとってそれは、
たとえれば、泥臭い出産劇の間はすっとその場から逃げてきれいな景色でも一人眺めて浸っていて
父親ヅラでしらっとまぎれて写真を撮って感動的なコメントとともにインスタにあげて
いい父親と世間には評価されてしまい本人もそう思い込んでいる夫のような。
子供は苦しめるのにたまにロマンを求めて気まぐれに帰ってくる夫のような。
それでいて周り受けはよくて妻子は苦しみを飲み込みがちというような。
そういうのがうっかりいいと思ってしまう女もいる。
そんなネオテニー男の欲望を充足するラノベもアニメもいくらでもあるが
それをあそこまで美しいものと堂々と美化できるナルシシズムはさすがに変態じゃないとアニメ監督はつとまらんなと感嘆さえするし
それがど真ん中まっとうな青春ものとして通る日本は、まだまだこれから少子で苦しむね。
これはガチ。
あどけないってまたネオテニーか・・
横だけど、調べるなら「ネオテニー」とかのあたりがとっかかりになるかと思うです
欧米でピンクって、女性全般と言うより子ども向けの色なんだよね。
そもそもピンク=女性のステレオタイプ、と考える日本人が少女趣味過ぎるってだけ。
そうなるのは日本人(男性)が女性により幼くある事を求める風潮が強いからというのもあるし、
洋服なんかだとネオテニーな日本人は大人になっても白人黒人より幼い容姿なので
白人黒人の大人ならまず似合わないような幼い色・デザインでも似合う(少女の服と大人の女性の服の違いが少ない)ってのもある。
もっともダサピンク問題云々の時も、ステレオタイプだからと言うより子供扱いすんなというニュアンスも込めていたと思ったけども。
(それに対して「プリキュアの主人公はピンクだから女性向け=ピンクで良いのだ」とかまさしく女性全般を子供扱いする反論が多かったのも頭の痛い所だが)
それ生物学的にも間違ってるから。きちんと性淘汰に関する本を読んだ方がいいと思うよ。
生物全般にとって性淘汰がオスにかかる、メスがオスを選ぶというのは傾向的にはそう。この傾向は繁殖速度の差に由来している。
つまり卵子を作る速度と精子を作る速度に圧倒的な差があるから、精子に対して卵子が供給量が少ないため需要と供給の法則でメス側が選ぶ立場にたつから。
ただし中には性淘汰がメスにかかる種もあって、これもまた繁殖速度の差に由来している。
つまり卵子と精子の製造以外に、繁殖に関わる要素があって、それがオスに対して負荷を与えて、全体としてはオスの負担がメスの負担を上回る場合には繁殖市場においてオスの供給量の方が減る。
具体的には、繁殖に際して自分の身を削って精嚢をメスに栄養源として渡すコオロギとかはそう。メスが卵子を作るよりもオスが精嚢を作る速度の方が遅いので、オスがメスを選ぶことになる。
魚類で割合広範囲に見られるのは、オスが子育て行動をするので、オスの方がより長く繁殖に拘束され、繁殖市場においてオス不足が生じ、メスが性淘汰を受ける側に立つこと。
理論的に性淘汰が生じない場合もあって、それは一夫一婦制を採用している場合。夫婦共同で繁殖→夫婦共同で子育て、をする場合は、子育てが終わるまでが繁殖ターンなので、オスとメスに繁殖速度の差が生じない。この場合は、両性に対して性淘汰が生じない、双方が双方をお互いに選ぶんだけど、実際には鳥類で一夫一婦制なんだけど明らかに見た目がオスの方が派手、つまりオスに性淘汰がかかっている場合も多い。これは、繁殖において不倫行動がけっこう多いから。不倫行動が生じる、つまりオスが生まれた子の育児に関与しない状況が生じると、卵子と精子の繁殖速度の差が意味を持ってしまうから、オスに対して性淘汰がかかるわけ。
で、哺乳類の場合は、メスは必ず育児行動をとるわけ。メスが育児行動を取るからオスはとらないでいい、とらない場合が多く、必然的に一夫多妻制になりやすく(一夫多妻制ってのはオスが子の面倒を全くみないから可能なんだからね)、オスに対して強い性淘汰がかかるの。オスだけに牙がある、ツノがある、鬣があるなんてのが多いのは哺乳類が一夫多妻制を原理原則にしているからです。
これは社会学的にというだけじゃなくて生物学的にも基本、一夫一婦制になっている。なんでかと言うと、要はヒトの場合は幼児期間が長くて、育児コストが膨大なんですね。メスだけでは賄いきれんわけです。メスだけでは賄いきれんのでもしメスだけで子育てをするとたいていの場合は子供は死ぬわけです。
脳の肥大化、ヒトのネオテニー化、幼児期の長期化に伴う学習期間の長さ、学習期間の長さに伴う知識のアウトソーシング化(非遺伝化)、一夫一婦制、ヒトの社会性の獲得、すべてつながっているわけです。そのどれが欠けてもヒトはヒト集団を維持できないわけです。
で、一夫一婦制においては、性淘汰がかからない、かかりにくい、両性が双方を選ぶことが生じるわけです。結果的にオスとメスの形態に限りなく差がなくなってくる。実際、類人猿の中ではヒトは一番、男女の性差が無い種です。そうなんですが、形態的に言えばヒトはむしろ例外的にメスの方に異形化が強く生じているんですわ。肥大化した臀部と胸がそうですね。これ、性淘汰の結果ですから。
これはヒトが単に一夫一婦制を採用しただけではなく、社会化した結果であって、社会化っていうのは、血縁関係にないオス同士が共存するホモソーシャルな共同体を作ることによってのみ可能なんです。つまりオスがメスを管理する、メスを通貨として扱う、メスをやり取りすることによってオスが結束を強め、本来共存できないオス同士の共存を可能にして強力な集団、生産性が非常に高い集団を作り上げその中で子育てを行う、そういう方向で進んできたのがヒトなんです。
だから男社会なんてものはない。正確に言えば社会と言うものは男社会しかありません。
これっていうまでもなくフェミの理念からは真っ向からぶつかるので、フェミが力を持てば、この自然な人間社会は崩壊します。少子化はまさしくその一例です。でもその方向に向けてヒトが進んだのも、「進化」の結果であるので、「自然に帰る」ってこと自体、自然な進化運動からの逸脱であるわけです。
まあある意味、ヒトとその社会は進化してきた結果、生物的な土台から逃れるステージにようやく到達しつつあるとも言えるわけで、それは問題を生物学的にではなくて、社会学的な手段で解決する、乗り越える力がヒトに備わってきているとも言えるのです。
だからこういう話になると、必ず生物学的にはーって言いたがる人がいますが、それって参考程度の話であって、それに拘泥しなければならない必要はまったくないんですよ。ヒトはすでに生物学上の限界をある程度は超越した種なんですから。
過去の輝かしい実績についてはこちら参照。
そのかっこいいigiさん、最近はてなについての言及が多いんだけど
https://twitter.com/igi/status/328537144320749568
最近ちょいちょい出てきてたからなんとなく今後のはてな界隈について予想として新たに思うことが出来て。限界集落的になって団塊Jr.世代の再生産限界地点に到達しているのが今なワケだけど(だから増田がああなる)、数年後は中年化として何かに対するエネルギーの出力が下がるだろうなとは読んでる
https://twitter.com/igi/status/305125534726225920
ブコメとか文章の中に「ネオテニー」って単語があるかなーと思って待ってたんだけど、待てど暮らせど出てこず。お前ら不勉強すぎだ。他にも「ニューエイジ思想」とかはてな村大好きそうなのにあんま出てこねーし(ブツブツ
https://twitter.com/igi/statuses/317620213560512512
増田はいい線いってるけど、75点止まりなんで、分析は出来ても解法にまでたどり着けてないから、また同じ事を繰り返すんだろうなってのは容易に予想出来るんであって。オタク的なナルシズムとエゴでいけばそりゃそのあたりがおそらく限界だろうと。
一部取り上げたけど、まあいっつもはてながどうのとか増田がどうのみたいなこと言ってる。
site:twitter.com/igi はてな - Google 検索
はてなで言えばいいのに。
怖いの?
ていうかこんなの見つけた
https://twitter.com/igi/status/322142425898430464
増田に書こうかと思ったが週末事務所ぶっこまれると多分めんどっちくなってやんねー気がする。というかそもそも宣言するとやらない率が跳ね上がるのでエッセンスだけ抜くか。
増田に書こっかなー|д゚)チラッ|д゚)チラッ
何がしたいの
また言ってる
現在の人類はただ一種だけだが、人種の違いが、亜種レベルでの変化、そして種レベルでの変化の過程にあるのは間違いない(ただ、今後は融合圧力の方が強くなると考えられる)。犬種(品種レベル)によって性格や知能が大きく違うように、知能や性格において遺伝が果たす役割は一般に考えられているよりも大きいし、その変異の蓄積は数世代で生じ得る。
人種によってポテンシャルの平均が大きく違うとしてもなんら不思議はない。
むしろ「違わない」と仮定することが、実態とかけ離れた結果をもたらすだろう。
ただしここで言う人種とは、必ずしも三大人種のようなステロタイプなものであるとは限らない。皮膚の色はメラニン色素の量であるに過ぎず、知能とは直結しない。
白人なら白人、黒人なら黒人の中で、知能の適用能力の差異が生存や繁殖に致命的に作用する淘汰圧があるならば、当然、「白人であっても」「黒人であっても」知能が高い集団が出現することは合理的な推論である。
しかしここで言う、知能が高いとはいったいどういうことを意味しているのかという問題も生じる。
野生種を家畜化するにつれ、家畜の脳は縮小・単純化することが知られている。これは比較的知能が高いと言われている家畜、犬や豚などでも同じことである。イノシシがブタよりも知能が高いだろうと推論することは解剖学的には妥当な推論だが、比較実験は難しい。イノシシが人間とコミュニケートする機能において著しい欠落があるためである。
手段であるコミュニケーション能力が欠けていれば、知能を計測することは難しく、結果として知能があったとしても「意味」がない。
知能とは所与の条件におけるコミュニケーション能力をあらかじめ含んでいるのである。
非常に危険が多い場所で比較的孤立した生活を送っているヒトはあらゆる事態に自力で対処する必要に迫られ、結果、知能による淘汰圧がかかる可能性が大きい。
一方都市化された地域では比較的脆弱な個体も繁殖することが出来るため、知能による淘汰がかかる可能性は低い。しかし、コミュニケーション能力を知能に含めて考えれば、より複雑で矛盾した情報を同時に処理する能力や、人間関係を調整する能力は孤立した集団の中で生きるよりも、必要の度合いは高くなると考えられる。
つまり知能を問う時に「文明に適合した」ことを所与の条件とした場合、必要とされる知能はイノシシよりもブタの方が高いとも言えるのであり、人種の知能の問題を問う時は、この文明への適応能力を前提にしているのだから、自己家畜化もまた所与の条件に加えておくべきである。
人種の研究において、現代に通用するようなデータは非常に少ないがラシュトンの研究はその数少ないもののうちのひとつであり、解剖学的に、性行動において、人種間に知能の大きな差異が存在することが示唆されている。
代表的な事例は、ネオテニー傾向の差異であり、幼児と成人との間の肉体的な相違の相対的な程度として示され得る。
また、性的機能の早熟さ、初体験年齢の早さ/遅さや、ペニスの平均値の大小などでも知能による淘汰の度合いを推測することは出来る。
こうした研究(ラシュトンはこの研究のために大学を追われている)に対する推論的な反駁の代表的なものは、個人間の遺伝的変異の方が人種間の遺伝的変異よりも多いと言うものである。
つまり、同じ黄色人種の特定の、異なるふたりの個人の間の遺伝的差異の方が、無作為に選んだ異なる人種間の遺伝的差異よりも大きいことがしばしばあると言うものだ。
ただしこれは、人種とは個人ではなく集団であるのだから集団的な傾向を計測する時にそもそも個人を抽出すること自体、不適当だと言うことも出来る。いずれにせよ、実際的なデータの裏づけが不足しているため、推論を戦わせているに過ぎない。
比較的まとまったデータを今日提出しているのはラシュトンの研究だけであり、反駁するのであればデータに基づいたものでなければならないが、むろんこうした研究自体が、現在の政治状況では不適当だといえるし、それをしたところで何の役に立つのかと言う意見の生じるだろう。
学問は必ずしも役に立つ/立たないでなされるものではないが、仮に人種間の「文明的な意味での」知能にポテンシャルの違いがあるとすれば、仮にそれをないと仮定した時に生じるだろう不都合があることは考えられる。
これは基本的に、生理や出産という女性に特有に生じる生物的な所与条件を無視して男性と同じ労働市場に送り出した場合、何が生じるかという問題と同じことである。
「人種の平等」の概念は、文明的かつ生物的なポテンシャルにおいて、より脆弱な人種に対して非常に強力なプレッシャーを与えている可能性が大きい。それはむしろ彼らが社会的な地位を向上させる上で、マイナスに働いている可能性を考慮する必要はあるだろう。